[A.I.] Daphne Kollerの自由

Daphne Koller wins ACM/Infosys Awardネタ。記憶の忘れ物で再度取り上げたばかりのDaphne Kollerの記事。

確率の蜘蛛の巣として世界を見ることによって、人工知能の進歩をリードする彼女の夫は、彼女が最初にGoogleの勢いのある動きに飛び乗らなかったことをいまだに責めるらしい。しかし、彼女は自分の関心のあることを探検する自由が好きで、学問の場に残ったことを悔やんでいない。

それはともかく、彼女の後を追いかければ、人工知能の最先端に触れることができるかもしれない。えーっ、それじゃだめ、その先を走れだって^^;)

[アート] 池田満寿夫

池田満寿夫 エロスと般若心経の間|新日曜美術館で、久しぶりに池田満寿夫の画業に触れた。いや、そうでもないか、京都国立近代美術館でも少し見た。千葉市美術館で5/18から開催される「池田満寿夫 知られざる全貌展」の紹介でもあった。広島市現代美術館に8/23-9/28に巡回するので楽しみ。

上の書棚から「思考する魚」(番町書房、1974年)を取り出して開くと、シンプルな線版画と西脇順三郎、吉田秀和、澁澤龍彦の書評のようなものが並んでいる、そっけない四つに折り畳まれた紙が挟まれている。西脇順三郎は「この本は若い芸術家の自伝として大切な記録だ」と書いている。確かに率直にすべてを曝け出して書いてくれているので、創作の秘密を覗き見る驚きと楽しさがある。少し引用して、記憶の表面をスクラッチしておこう。

・・・セザンヌは私を必ず動揺させる。いつかはセザンヌまでもどることになるかもしれないという動揺である。表現が様式を持たなければならないことは、あきらかに現代芸術の不幸である。様式が自分をしばる。それは現代ではもはや不思議ではなくなっている。様式が表現を圧倒的に隠蔽してしまっているのだ。表現をとりもどしたい!

(私の芸術論 ---「<現代版画>池田満寿夫集」・70年5月、196ページ)

[本] 記憶の忘れ物

思索の場に帰還(現実からの帰還)して以来、ここ数年、自分自身の歴史を遡り、過去関心のあった事柄を掘り起こし、現在の視点で再点検する作業を延々と続けている。それを可能にしたのはインターネットである。様々な学術文献がWeb上で入手できるのは大変素晴らしいし、検索すれば必ずといってよいほど、関連した何らかの情報を得ることができる。大学の研究室や研究者個人のページ、Wikipedia、千夜千冊、青空文庫、図書館の蔵書データベースや情報を公開している個人のサイトなど、インターネットはまさに汲めども尽きない百科事典である。

ソシュールやロラン・バルト、ミシェル・フーコー、チョムスキーなど、言語学や哲学に関連するものは、既に「言葉と物」シリーズのなかで、文学、ポストモダンなどとの関連において、ある程度の理解、新しい認識を形成しつつある。フーコーやチョムスキーの初期の重要な仕事は1960年代になされている。プログラミングの関連においては最近のオブジェクト指向についての探索も遡ればやはり1960年代ぐらいまでの歴史を辿ることになる。様々な領域の歴史を辿ると、領域間の相互作用が気になる。僕の思いは、未だに、20世紀のノイマン型コンピュータの登場や科学の進歩、そして、20世紀前半の世界大戦と、「言葉と物」の舞台である18、19世紀のつながりを廻っている。

京都、伊勢、大阪を巡る旅程、二日目の京都のふたば書房大丸京都店の小さな店舗で、ふと目に入った本、「養老訓」の上のほうに・・・トム・ジーグフリード著、「もっとも美しい数学 ゲーム理論」(文藝春秋、2008年)が遠い記憶を呼び覚ました。ハリ・セルダンの歴史心理学と結びつけてゲーム理論を説明するのには多少驚いたが、ゲーム理論という言葉はかなり昔からある。経済学と結びついて、本が出ていたはずだし、ブルーバックスにもあったはず(モートン・D・デービス著、「ゲームの理論入門」、講談社、1973年)だと思う。当然、情報理論の一種であるはずだし、統計力学、美しい数学という言葉から目を離せなくなり、結局、かばんの中に納まった。本日記でこれまで取り上げていない、残された唯一のテーマかもしれない。おそらく、またどこかで取り上げるだろう。

Unit Packageの文献(Stefik,1979)のINHERITANCE ROLEの項に出てくる「criteriality」やゲーム理論をしばらく調べていると、4年前に取り上げたDaphne Koller (2004/02/08)に再会。Bayesian Networkだけでなく、ゲーム理論の領域でも成果を上げているようだ。Bayesian Networkとフレーム理論を統合した文献もある。フレーム理論も意味ネットワークだから、ネットワーク理論と相性がよいのかもしれない。


更新: 2008-05-17T10:23:18+09:00

[本] 宇宙をプログラムする

先週の金曜日は、朝、羽田から広島に飛んだので、帰宅はJR広島駅経由となった。2階の駅ビル連絡通路の改札を通り、4階の廣文館書店に上がると、明るい照明のせいか、様々な本が眩しく感じられる。僕が来るのを待っていたように、白い背表紙に銀色の横文字が輝く。セス・ロイド(Seth Lloyd)著、『宇宙をプログラミングする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を作ったか?』(早川書房、2007年)。

「もっとも美しい数学 ゲーム理論」ではこれまで言及しなかったが、ゲーム理論に密接に関係する物理学には、統計力学のほかに、量子力学がある。『第十章 デイヴィッド・マイヤーのコイン 量子力学とゲーム理論』がそれである。情報理論と量子力学には関係があるのだ。ホログラフィック宇宙 (2003/10/09)に書いて、次のように何度か引用した。

物理学は、超弦理論かM理論などの万物理論を追い求めてきているが、究極理論は実は場や時空に関係したものではなく、物理過程の間で交換される情報に関する理論になるだろうと考えられるようになってきている。

(J.D.ベッケンスタイン、「ホログラフィック宇宙」、日経サイエンス2003年11月号、56ページ)

主題の本に戻ろう。この本は量子情報理論そのものに関する本である。宇宙は一つの巨大な量子コンピュータであるということなんだが・・・

量子力学における不確定性原理など確率的な現象は自然の本性の発現であるのだろう。しかし、それが意味の領域にまで及ぶのだろうか・・・


更新: 2008-05-18T21:44:22+09:00

[本] 言葉と物 CXXX - デカルトの秘密のノート

首都圏から北日本は台風で大荒れの様子。5月に3個の台風の接近は観測史上初めてという。赤道から北上するマッデン・ジュリアン振動の影響とのこと。ミャンマーの台風と同じ原因。今朝は新幹線で西に向かう。こちらは湿度も低く、快適なよい天気だった。広島駅でこだまに乗ると中学生らしき子が眠りこけている。車内のアナウンスで飛び起き、慌ててここがどこかを確認して照れくさそうに飛び出していった。帰りはやはり足が廣文館書店に向く。アミール・D・アクセル著、「デカルトの暗号手稿」(早川書房、2006年)を買う。この本屋は僕の趣味に合う。

「言葉と物」を巡る旅もデカルトに戻っていくのではと予感している。その予感の前に現われた本だ。タイトルは既に刊行された頃に知っていたかもしれないが・・・「言葉と物」にはデカルトは多くの箇所に登場する。デカルトは17世紀の前半に古典主義時代の思考をもたらした。

古典主義時代において、記号(シーニュ)(=しるし)とは何であろうか? というのは、十七世紀前半に変化し、きわめてながいあいだ---おそらく今日まで---そのままつづいてきたものこそ、記号(シーニュ)の体制全体、記号(シーニュ)がその奇妙な機能をはたす際の条件、人が知りあるいは見るおびただしい物のなかから記号(シーニュ)を突然記号(シーニュ)として立たしめるところのもの、記号(シーニュ)の存在そのものにほかならぬからである。古典主義時代のはじまろうとするところで、記号(シーニュ)は世界の一形象であることをやめ、それが標識として示しているものに、類似もしくは類縁関係の強固な秘密の紐帯でつながれたものではなくなるのだ。

(「言葉と物」、第三章「表象すること」、三「記号(シーニュ)の表象作用」、83ページ)

科学こそが世界を変えてきて、近代もポストモダンもその延長線上にあるように思えるのだ。最近の文献、読書はそれを告げている。フーコーが1984年に亡くなったのは残念と言わざるを得ない。フーコーは「言葉と物」において、古典主義時代を挟む16-17世紀と18-19世紀の境目の2回、謎めいた大きな断絶を生じたとしているわけだが、謎めいているが故に原因が不明であり、批判もあるらしい。本当にこのようなことが起ったと言うだけでしかなかったのか。

「デカルトの暗号手稿」にはデカルトの復活の話が書いてある。デカルトの著作は1663年に禁書目録に掲げられ、1685年にフランスではデカルト哲学を教えることは禁じられた。それが、1824年になってデカルト著作集が再刊され、再評価されるという経過に至っている。これはフーコーが言説の変化に読み取った二つの不連続は、デカルトの登場と失墜、再評価に対応しているとも考えられる。少なくとも時期的には・・・

デカルトはなぜ秘密のノートを書かねばならなかったのか。デカルトの秘密についてはネタバレになるので言及しないが、本書の最後にある図版は本日記でも紹介したこともあるものだ。宇宙の形-ポアンカレ12面体空間 (2003/10/18)を参照のこと。表示ソフトウェアのバージョンが上がっているので、もう一度、載せておこう。

jpg/poincar_octahedral_space2.jpgCurved Spaces 3.0.3

「言葉と物」シリーズも130回目にして、少し進展したかなと思う。ようやく「言葉と物」を問題意識を持って読めるようになったということができるだろう。しっかり、読め・・・

類似にたいするデカルトの批判は、別のタイプのものである。それはもはや、自分自身をまえにして不安に駆られ、自分のもっとも見慣れた形象を捨てさろうとしはじめた十六世紀の思考ではない。知の基本的経験かつ本源的形態としての類似をしりぞけ、類似のうちに、同一性と相違性、計量と秩序の用語で分析すべき雑然たる混合物を摘発する、古典主義時代の思考なのだ。デカルトは、類似を忌避するといっても、合理的思考から比較という行為を排除しようというのでも、それを制限しようというのでもなく、逆に、それを普遍化し、そうすることをつうじて、それにもっとも純粋な形態をあたえようとする。じじつ、われわれが「形、延長、運動その他」---すなわち単純な諸性質---を、それらを含みうるすべての主体のなかに見いだすのは、まさに比較によるのである。・・・

(「言葉と物」、第三章「表象すること」、二「秩序」、77ページ)

ソシュールを含めて、記号の二元的性格に着目したのは確かに重要なことなのだろうが、記号の性質が原初から変化するとは考えにくい。記号とは情報を担うものであり、情報そのものでもある。世界は比較により二つに分けられた。分けられた部分は更に比較され、さらに分割された。それは永遠に続き、類似した部分は集まり、場合によっては拡散し、反発するものは分離し、あるいは異なる部分と部分は集合して構造を成すようになる。古典主義時代とそれ以前を隔てるもの、それは具体的には何だったのだろうか。科学的思考なのだろうか・・・

更新: 2008-05-25T10:22:16+09:00

[サイバースペースカウボーイズ] 電脳空間その後

PCの前で、ゆっくりと聴くという余裕がなくなってきた。我が日記の内容も大きく変貌しつつあるからかもしれない。今年はニュースネタは姿を消している。

今は、番組をすべて車で聴いている。検索してみると、電脳社会評論は一昨年だったか、年の経つのは早い。これは衝撃だったね。

昨年に続いて、第弐回天下一カウボーイ大会公式サイトがアナウンスされた。Podcast自体は既に特番を除いて223回を数える。息長く続けて欲しいものだ。サイバーパンクストーリー企画には期待している。東浩紀氏もギートステイト (2006/12/29)は停滞したようだが、立ち読み| 新潮 |新潮社にあるように「ファントム、クォンタム―序章―」で挽回しようとしている。とうとう小説家として登場したのだ。

jpg/SA360004-1s.JPGPSPでサイバースペースカウボーイズを聴く

FMトランスミッターの問題は混信だ。今朝も特定の車に近づくと混信してしまう。87.9MHzを使っているのだが、変更しようか。

87.9,88.1,88.3,88.5,88.7,88.9MHzが二つのスライドスイッチの組合せで選択できる。88.9MHzを先ず試すが、まったくだめ。次は88.5MHz、だめ。88.7MHz、うーむ、完璧ではないが、まあよしとしよう。



更新: 2008-05-31T19:35:59+09:00

[Firefox] Firefox 3 - Download Day 2008

Firefox 3を既にインストールしている。確かに速い。ただ、我がサイトに必須のルビ表示に問題を残している。ルビのある部分とない部分の表示が大きくずれてしまう。ルビのある部分が一段下の行に表示されてしまう。前もそんな感じだったと思うから正式版に期待している。

わたなべさんの記事から、Download Day 2008を知ったので、バナーをセットしてみた。

[ゲーム理論] 最大無知

トム・ジーグフリードの「もっとも美しい数学 ゲーム理論」(文藝春秋、2008年)の最後の第十一章、『ブレーズ・パスカルの「賭け」 確率論、統計力学とゲーム理論』は、本書が書かれる動機となったウォルパートが再登場する。ゲーム理論は行動科学だけでなく、物理学とも密接に結びついていて、すべての科学の統一理論となる可能性があると著者が思い始めるきっかけとなったのが、ウォルパート(David H. Wolpert)の論文である(「情報理論 - 合理的ゲーム理論と統計力学を結びつけ橋渡しをするもの」、" Information Theory - The Bridge Connecting Bounded Rational Game Theory and Statistical Physics ")。この論文は、Probability Collectivesで読むことができる。そして、ウォルパートの出発点となっているのが、物理学者のエドウィン・ジェインズ(Edwin T. Jaynes)で、統計力学と情報理論を結びつける最大エントロピーという概念を生み出した。関係する論文は、Probability Theory As Extended Logicで読める。

しかし、この年になって、1957年のThe Physical Reviewの記事を読むとはねえ・・・ジェインズ(E.T. Jaynes)の「情報理論と統計力学」(Information Theory and statistical Mechanics, THE PHYSICAL REVIEW, Vol.106, No.4, 620-630, May 15, 1957)の要約の部分を訳出引用してみよう。

情報理論は、部分的知識(partial knowledge)に基づいて確率分布を設定するための構成的尺度をもたらし、最大エントロピー推定と呼ばれる統計的推論の一つの型に導く。それは任意の情報について可能な最小偏移推定(the least biased estimate)である。すなわち、欠落した情報に関しては最大限にあいまい(uncommittal)である。物理理論よりむしろ統計的推論の一つの形式として統計力学を考える時、通常の計算規則は、部分関数(partial function)の決定で始めるのだが、最大エントロピー原理の直接的な結果である。結果として生じた「主観的統計力学」においては、通常の規則は、いかなる物理的独立変数からも、特に実験的証明に独立して正当化される。すなわち、結果が実験と一致するかどうかに関わらず、それらは依然として、利用できる情報に基づいてなされる最良の推定を表している。

統計力学は、力学の法則(エルゴード性、計量的他動性(metric transitivity)、先験的確率と同等のもの)に含まれない付加的な仮定が真理であるという正当性が依存する物理理論として見做される必要がないことが結論される。その上、物理的側面と統計的側面を明確に区別することが可能である。前者は、システムと属性の状態の正確な一覧表(enumeration)のみからなり、後者は、統計的推論の直接的な例である。

昔、FAI(人工知能フォーラム)の村田さんから最小二乗法も一種の推論だというコメントをもらったことを思い出している。

metric transitivityを検索すると、Prof. Cosma Shalizi36-754, second-semester advanced probability (i.e., stochastic processes)にある講義「Chapter 25 Ergodicity and Metric Transitivity」のPDFファイルがヒットする。

更新: 2008-05-18T22:50:52+09:00

[OpenOffice] URLエンコーディング文字列を含むハイパーリンクのPDFエクスポート

OpenOffice.org: faq/4/1005: URLエンコーディングを含むURLによるハイパーリンクの問題ネタ。

「TSNETスクリプト通信」の編集が大詰めを迎えている。最後に残った問題。OOo Writerで編集して、PDFでエクスポートすると、Wikiの日本語ページのリンクが死んでしまう。

すぐに回答をいただいた(5/5)。既に報告のあった問題で、2.2.1で修正済みとなっているのだが、2.0.4と2.4.0で同じ現象、はて・・・確認していただけるとのこと。

2.3.1では問題ないとの迅速な回答を得て、2.3.1をインストール。インストールするためには、新しいバージョン(2.4.0)はアンインストールする必要がある。2.3.1でエクスポートしたPDFは問題なくリンクを開けた。問題解決。迅速な対応に感謝。1日で解決してしまった。

更新: 2008-05-05T22:03:56+09:00

[オブジェクト指向] 言葉と物 CXXXI - オブジェクト指向の起源

五月連休に補充した1000枚のA4PPC用紙がすべて印刷物となって消えたので、散歩を兼ねて、補充にイオン宇品店に出掛けた。最近はA4用紙、500枚が298円也。レジの人員が少なくて、列が伸びている。見かねた男の店員がレジに入って、お待たせしましたという新しい流れに乗りそこなって、前の客の大量の買い物に平静を装いつつ耐えた後、あっという間に自分の支払いを済ませた。超薄いポリ袋としばらく格闘してやっとこさ広げて、重い紙の束を放り込むとさっさと帰宅。Carl Hewittの"What is Commitment? Physical,Organizational,and Social"(2006)の印刷を再開。Commitmentとか、Participatory Semanticsという言葉が踊っている。

オブジェクト指向プログラミングの起源は、SIMURA(1966年、<Simula - Wikipedia)まで辿るのが通説となっているが、Rational Programming(2003)を書いたYoav Shoham氏は、オブジェクト指向プログラミングの例として、1977年のHewitt's Actorsを上げている。Hewitt's Actorsは、"Viewing control structures as patterns of passing messages"(Carl Hewitt, MIT AI Labo, A. I. MEMO 410, 1976)のAIジャーナル版を参照している。Hewittの作ったPlannerという言語では、知識を手続きとして埋め込むという方法論になっているらしい。手続きというのはオブジェクト指向の用語ではメソッドということになるから、Shoham氏はオブジェクト指向プログラミングとして分類したのだろう。「機械の上の意味論」(渕一博、1988)の手続き的意味論で言及されたウィノグラード(Terry Winograd)のSHRDLUは、PlannerのサブセットのMicro Plannerで作られている。オブジェクト指向が最初はユーザーインターフェースとして考えられたという話は、Hewitt's Actorsのことを指していると思われる。Rationalityとは「合理性」のことであり、Rational Programmingは西欧合理主義の推し進めてきた一つの頂点を成すものかもしれない。オブジェクト指向プログラミングもRational Programmingの一種の形態なのである。

古典主義時代において、記号(シーニュ)を用いることは、もはやそれ以前の世紀におけるように、永遠に語られ語りなおされる言説(ディスクール)の原初的テクストを記号(シーニュ)のしたに再発見しようとこころみることではなく、自然をみずからの空間で展開させることを可能にする恣意的言語(ランガージュ)、自然の分析における最終的な項、そして自然の合成法則を、発見しようとつとめることである。知はもはや、古い<言葉(パロール)>を、それがかくされているかもしれぬ未知の場所から掘りおこすのではない。知はいまやひとつの言語(ラング)を創りださねばならないのであって、その言語(ラング)はよくできたもの---すなわち、分析と組みあわせとをおこなう、まことの計算言語(ラング)であることが必要なのだ。

(「言葉と物」、第三章「表象すること」、三「記号(シーニュ)の表象作用」、87-88ページ)

オブジェクト指向の起源は、合理主義の起源であり、構造主義の起源でもあるのだろう。しかし、それが、真の意味で、17世紀初頭であったのかについてはすべての霧が晴れているとはいえないかもしれない。科学の進展には、情報量・知識量の増大が必要であったのではとは思われる。それは印刷技術がもたらしたものであり、15世紀の活版印刷、16-17世紀の図書館の普及などがその発端となったはずである。いまやインターネットがそれを急加速している。情報量増大の人間の思考に及ぼす最初の影響が17世紀の初頭に現われたことは確かかもしれぬ。

更新: 2008-05-25T17:20:18+09:00

[プログラミング言語] Probabilistic Rational Programming Language - IBAL

Daphne Koller氏のゲーム理論関係の文献を調べていると、Game Description LanguageのGALA(1995)という言語(Prologで作られている)が出てくる。これの実体を見つけようとするうちにYoav Shoham氏のRational Programming(Original: 1999, Revised: 2003)が見つかる。この文献はプログラミング言語の歴史を概観する上でも有用だが、最先端のプログラミングの方向性が示されているようだ。Rational Programmingという用語はまだ確立していないせいか、Wikipediaには出てこない。訳せば、合理プログラミングとか、有理プログラミングということになるだろう。GALAの文献のもう一人の著者であるPfeffer氏がIBAL(eyeballと発音する)という言語を作っている。IBAL(2001)は「Rational Programming」でもっとも新しい言語で、Webに公開されている。情報もチュートリアル、マニュアルと関連文献4件と豊富である。一冊IBAL本が作れた。

IBALはソースをObjective Camlでコンパイルして、Windows上ではibal.exeという実行形式が得られる。Objective CAMLはCygwinにインストールされているので試してみた。確かに、Cygwinにはなんでもある。インストールには、global.mlというファイルのibal_dirという変数にインストールディレクトリを指定するだけでよい。例えば、次のように。

(* Home directory of IBAL *)
let ibal_dir = "/cygdrive/c/Scripts/IBAL/"

後は、ソースを展開したMakefileのあるディレクトリで、makeするだけだ。インストールディレクトリにはソースを展開したディレクトリを指定して試した。

チュートリアルから最初のパラグラフを引用しておこう。

IBALは汎用の確率的モデリング言語である。確率的モデルを書くことがシミュレータを書くのと同じぐらい容易になるべきというシンプルなアイデアのもとに構築されている。もし、あなたの領域の確率的シミュレーションを書くことができるなら、IBALは確率的推論技術を応用して、シミュレーションの結果に渡って確率的分布を計算することができるだろう。IBALモデルは確率的分岐を持つコンピュータプログラムのように見える。プログラムは出力を生成することによって、シミュレーション過程を定義する。特別な出力を生成するためにシミュレーションを単に走らせるよりむしろ、IBALはプログラムの出力に渡って確率的分布を計算することを可能にする。

・・・「純粋に合理的で、常に最善のことをしようとする人は「冷たい人だ」というのは、文字通り真実なんだ---そういう人たちは、まさに凍っている。一方、ありとあらゆるところであらゆることをしてみる人、あれこれ可能性を探って試す人たちは、文字通り『熱い』。これは数学から得られることであって、比喩でもなんでもない。実際に考慮すべきものなんだ。」

・・・

・・・「ゲーム理論には、必ず確率論が含まれている、人間は、混合戦略をとるものだからね。それでいて、これまで一度として、ゲームそのものに確率論が適用されたことはなかった。これは、従来のゲーム理論にあいた穴なんだ。」

(トム・ジーグフリード著、「もっとも美しい数学 ゲーム理論」、文藝春秋、2008年、333-334ページ、Wolpert氏へのインタビュー)

問題は、確率を含む現実のモデルを考えることだ。「もっとも美しい数学 ゲーム理論」にも歴史的ないろいろな考え方が紹介されていて、確率についてなにもわからないモデルについて考える場合には、エントロピーが最大になるような確率分布を選ぶとよいということらしい。なぜなら、エントロピーが最大になるということはそのモデルについて無知だということを意味しているからである。エントロピーが最大だとランダムになるということか。

更新: 2008-05-11T21:09:17+09:00

[PlayStation] FMデジタルトランスミッター+充電用USBケーブル

PSPをどう活用するか。ちょっとショットEditを購入して、デジタルカメラとしても使えるようにしたのだが、130万画素でしかないし、ケータイとくらべてそれほど特徴があるわけではない。UMDベースのアプリケーションは起動が遅いので、ただ単に撮影するためだけなら、最近のバージョンアップで追加されたカメラ機能を使うほうが便利だ。しかし、PSPで撮影するのは、ものめずらしさで注目されるぐらいの話でしかない。伊勢神宮で歩きながら撮影していると、インド人?の一団が僕のPSPに注目してなにやら話しながら通り過ぎていった。そして撮影のたびにカメラを接続したり、はずしたりでは機動性にも欠けるのだ。

車のCDプレーヤーでPodcastを聴くのに、これまではiTunesからCD-Rに焼いていたのだが、どうも無駄な感じがしていた。PSPを車に載せて音楽再生するなら、手軽なのはやはりFMトランスミッターだろう。調べてみるとPrincetonのPCK-FMNWとUSB充電ケーブルのPMB-CBWの組合せがよさそうだ。

jpg/SA360006s2.JPGアテンザの奥まったシガーライターソケットに取り付ける

なかなか現実は甘くない。アテンザのシガーライターソケットは蓋に覆われていて、奥まった部分にある。これは取り付けは無理かなと思ったが、なんとか押し込めた。シガーライターのソケット位置はチェックポイント。ソケットの上が十分に広がっていて邪魔なものがないことを確認しておくこと。



jpg/SA360007s3.JPG3.5mmステレオ・ケーブルと充電用USBケーブルでPSPとFMデジタルトランスミッターを繋ぐ

充電用USBケーブルはコネクタ部を除いて30cmしかないので、購入前にPSPを置く場所を確保できるかどうか検討しておくべきだ。ステレオケーブルは1m程度はある。



jpg/sony_media_manager_for_PSP.jpgSony Media Player for PSPでサイバースペースカウボーイズを転送する

このソフトがあるので、PSPをMP3プレーヤーとして使おうと考えたのだが、動作が遅いのが難点。今後の改良に期待したい。



更新: 2008-05-24T08:28:51+09:00

[千夜千冊] 言葉と物 CXXXII - 意味が壊れる

1241夜『デカルトからベイトソンへ』モリス・バーマンネタ。うーむ、ちょっと読んでみないとね。ソレルスやアラン・ロブ=グリエなどの文学は無意味に向かったと思うのだが、意味が壊れるという意味はどういう意味だろう。

「バカにならない読書術」(朝日新書、2007年)の「バカの壁」を越える読書の最初にデカルトの「方法序説」が取り上げられていて、白水uブックスの「方法叙説」(2005年)に養老先生が解説を書いた話が出てくる。実は、デカルトの「幾何学」をAmazonで探しているうちに、両方とも見つけて養老つながりで同時に購入してしまったのだ。もう一冊、養老孟司・宮崎駿著「虫眼とアニ眼」(岩波文庫、2008年)も手に入れた。ものが作られるということは混沌とした無意味から意味が生まれでるのではと思わせた。大きな見通しと枠組みみたいなものはあるのだが、少なくとも整理整頓された計算ではない・・・確率で表現できるか・・・いやとんでもない^^;)そこで、確率とは何かということになる。これからゲーム理論やAgent-based Modelに赴こうとしているのだ。

近現代社会の特徴は、すべての価値観を「量」にできると豪語するところにある。これに対して中世までの世界では、「質」がさまざまな部分に染み出していた。詩人のジョン・ダンやブレーズ・パスカル(762夜)ウィリアム・ブレイク(742夜)までは、そのへんのことはよくわかっていた。

(1241夜『デカルトからベイトソンへ』モリス・バーマン)

762夜『パンセ』ブレーズ・ パスカルの最初の方でパスカルの確率の話が出ている。ニーチェはパスカルを引用しているらしい。「言葉と物」には一度も出てこないのだが・・・


更新: 2008-05-28T23:43:58+09:00

[千夜千冊] 在点

1240夜『ポスト・メディア論』デリック・ドゥ・ケルコフネタ。今日も電脳空間カウボーイズを聴きながら帰宅したのだが、Web2.0の次はWebtopiaだというような冗談話が出ていた。ちょっと前にはWeb20.0という番組もあった。Web2.0とWeb1.0の違いはそれほど本質的なものではない。表現力の違い、見掛けの違いでしかないだろう。見掛けであろうとなんだろうと、それでも違うといえば違うわけだが・・・

Web = HTTP + URL + HTMLという本質は変わらない。変わってきているのは、サーバーであり、ブラウザであり、HTMLに埋め込まれるJavaScriptである。もちろん、他にもJava、ActiveX、Flash、XUL、Silverlight、PHP、CGIなど、クライアントサイドで動くものもあれば、サーバーサイドで動くものもある。いずれもWebに豊富で高機能な表現力をもたらすものである。これらの表現力はいずれHTMLの一部として吸収されていくものであろう(HTML 5)。僕にとっては、当初から予想されている変化の過程に過ぎない。言ってみれば、Webのデスクトップ化なのである。

「ポスト・メディア論」は、おそらく、TV以後のITメディアを論じたものらしいのだが、新しいメディアの持つべき様々な新しい要素が示されている。いずれも興味深いものだが、六つ目に示された「在点」(point of being)がもっとも理解しにくいものだろう。メディアで存在そのものを示す。それには内臓感覚で捉えられるレベルの表現力を獲得する必要があるのかもしれない。表現力の向上という意味では現在のWebもその方向に進化していると言えるのかもしれぬ。しかし、結局は、表現はすべてではない。内容が問題なのだ。

メディアとは、表現だけの問題ではない。発信側に対して、受け取る側に生ずる共時性のようなもの、受容したものから発現する感覚そのものが大切である。最近、MITのA.I. MEMOを読む機会が増えている。メモを目にして読み始めると、一瞬空間が揺らぎ、そのメモが書かれた時空に入りこんだような錯覚に捉われた。それを使い古された言葉で言えば、感動と呼ぶのかもしれない。他の言葉で言えば、意味なのである。意味が身体感覚を引き起こす。

HTML 5の記事にリンクを張ったので、確認してみるとタイミングよく、昨日、HTML 5 A vocabulary and associated APIs for HTML and XHTML W3C Working Draft 29 May 2008が出ていた。やはり編集機能の向上とローカルのデータベース機能が、ユーザーインターフェースの観点からは目を引くのだが、リンクのタイプが分類されているのがおもしろい。

更新: 2008-06-01T09:00:39+09:00

[旅行] 金閣寺、伊勢参り、秋野不矩展、司馬遼太郎記念館

五月連休恒例のミニ旅行ネタ。今年は二泊三日の拡大版。4/29から5/1の三日間。

4/29、4名旅団は京都を目指してのぞみで出発。京都駅の田毎(たごと)で蕎麦の食事を済ませると、タクシーでまず金閣寺拝観。二度目かな。大丸まで戻って、錦市場を少しウロウロすると早々と切り上げて阪急で大阪に取って返す。「せき戸」に弟夫婦と娘も集合して7名で会食。大阪泊。

jpg/SA360018s.JPG金閣寺

4/30、近鉄難波から宇治山田へ。臨時バスで内宮前まで。参拝後、おはらい町通りの中井屋で伊勢うどん、赤福本店ででき立ての赤福を食し、おかげ横丁の豚捨(ぶたすて)のコロッケ(1ケ80円、大変美味)をいただく。二名を新大阪まで見送り。JR京都線でまた京都へ向かう。娘と大丸京都店にて待ち合わせ。高島屋まで移動して3人で三島亭で焼肉を食べる。娘の1DKマンションに宿泊。

jpg/DSC00037v.JPG伊勢神宮

5/1、内環が切れていた蛍光灯のカバーも割れていたので、ジャスコで開店直後に新しいセットを購入、全面取替え。昼前に地下鉄東西線の太秦天神川駅から京都国立近代美術館に向けて出発。東山駅下車。東山駅から近代美術館までの川沿いの道は風情がある。帰りに川の流れの中を鷺のような鳥が悠然と歩いていた。ケータイを向けて近づいても逃げない。水の中なので安全だと思っているのだろう。

jpg/PA0_0050t.JPG東山駅から近代美術館までの川沿いの道にて

jpg/PA0_0063.JPG水際の水芭蕉のような白い花

jpg/PA0_0061.JPG悠然と歩く鳥

ケータイの広角レンズで撮影しているので、離れているように見えるが、実際には随分近くまで寄っていた。



jpg/PA0_0052.JPG京都国立近代美術館

展覧会はかなり充実していて大変よかった。家内が最近新聞記事を見て、見に行きたいと言ったとき、僕は秋野不矩が女性だとは気が付いていなかった。絵は異空間のようで、絵の中に入っていけそうな錯覚を覚える。54歳の時にインドへ行き、インドが主題となる。オリッサの寺院(1998年)を見ていると、インドは別世界、パラレル・ワールドのようだ。そんな世界があるのか・・・

近代美術館から、京都駅まで戻って、食事を済ませる。近鉄奈良線に乗り換え、八戸ノ里の司馬遼太郎記念館を訪れるためだ。特急で大和西大寺まで行き、難波行きの普通に乗り換える。記念館まで徒歩8分。予定通り3時半前に到着。

jpg/SA360028s.JPG司馬遼太郎記念館入り口

入って左側に進むと司馬邸の庭からサンルーム付きの書斎が見ることができる。その先に回廊があり、展示館のロビーの入り口に通じている。


入館して地下に降り、吹き抜けの2万冊の所蔵本を見始めると、16分のビデオを見てくれとの案内。地下ホールでNHKの番組を編集したらしいビデオ「時空の旅人」を鑑賞。司馬遼太郎が日本の歴史に興味を持ったのは、第二次大戦の沖縄戦の経験から、日本人とは何かと思い、もっとよい日本が昔、江戸時代、明治にはあったのではないかという思いからなのだそうだ。歴史を辿った作品としては、1971年から1996年までの25年間、死去するまで週刊朝日に連載された「街道をゆく」の重要性を認識。絶筆は「街道をゆく43 濃尾参州記」。出発点の「湖西のみち」ではじまる「街道をゆく 1 甲州街道、長州路ほか」と一緒に朝日文庫で購入。

ロビーの喫茶コーナーでコーヒーを飲みながら、パンフレットの「自宅には6万冊の本が収まっている」との記述になるほどと納得。展示館の2万冊の所蔵では少ないと感じていたからである。しおりなどが付いている本は自宅から移動しない方針だったそうだ。展示館で特におもしろかったのは、推敲している自筆原稿である。推敲用の色鉛筆も並べられている。削除部分は黄緑の色鉛筆で塗りつぶしてあった。万年筆の種類はよくわからなかったが、インクはパーカーのものを使っていたので、同じだろう。

河内小阪16:32発の難波行きに間に合うように記念館を出る。雨が降っている。傘がありますよという声が掛かるが、家内の日傘で代用。間に合う。

jpg/SA360029s.JPG新大阪駅に、帰り便になるRailStarが入ってくる

更新: 2008-05-03T22:44:11+09:00

[TS Network] TSNETスクリプト通信創刊

TSNETのメーリングリストで、昨年末に提案した「TSNET通信」を「TSNETスクリプト通信」として創刊した。スクリプティング言語などによるプログラミングに関する総合誌として考えている。当面は^^;)、無償配布なのでご愛読いただければと思う。詳細はTSNETWikiTSNETスクリプト通信のページから本誌をダウンロードしてチェックください。関連スクリプト類もWikiページに添付している。

「TSNETスクリプト通信」をGoogleで検索してみると既に捕捉されていてWikiページがトップに出てくる。検索結果の2ページまで見てみると、実践実用Perl: 紀伊國屋書店BookWebが引っ掛かっている。開いてみると、「品切れ(重版未定)の為、入手不能です」と出てくる。おーっ、売り切れだ、よかったなあと、ご購入いただいた方々に感謝_(__)_することしきり。まだまだ、日本語Windows上のSJIS環境におけるテキスト処理には重宝するjperlである。ご活用いただきたい。Perl初心者の方にもお勧めである。なぜなら、Perl 5.8を使おうとすれば、日本語ユーザー?であれば、文字コードの問題にいやでも向き合わざるを得ないからである。下手をするとそこで挫折しかねない。初心者にとっては、jperlで正規表現の使い方や文字コードの取り扱いに慣れてから、Perl 5.8やPerl 5.10に移行するのがベストだろう。もっともプロになるのが目的なら、そういうわけにもいかないだろうけど。

「TSNETスクリプト通信」そっちのけで、jperlネタ。「TSNETスクリプト通信」に書いた「オブジェクトを廻る日記」にあるMooseは残念ながら、jperlでは動作しない。Perlのオブジェクト指向を調べていて、実はClass-Prototypedというモジュールを見つけていたのだが、これは、5.005_03をサポートしているから、jperlでも動く^^)v Selfというオブジェクト指向言語の仕様を参考にしたモジュールで、最近も更新されている。reflectやslotの概念とかも勉強できるし、ドキュメントは英語だが詳しく書かれており、オブジェクト指向の本質を理解するのに役立ちそうだ。READMEにActivePerl for Win32へのインストールの方法も書いてあるので、have a fun ;-)


更新: 2008-05-08T21:57:00+09:00

[TS Network] TSNETスクリプト通信に書評が出る^^)/~

つらつらぐさ: TSNETスクリプト通信 創刊ネタ。ムムリクさんのといっても、FGALTSに居られたらしいのだが・・・スナフキンさんか、懐かしい。うれしい^^)

少しずつ、TSNETスクリプト通信のページに関連情報も集積している。Yささんのthe100.awkの実行画面を追加したり、僕のWalking World Project Google Maps API v2 版の地図マーカー表示用データや地域切り替え用データを添付したりしている。関連Wikiページへのリンクも作っている。ご利用いただきたい。Mooseのページも作って、YAPC::Asia 2008のセッションのビデオなどへのリンクも貼った。

第2号に向けて、ただいま模索中。次は、「ゲーム理論を廻る日記」として、Agent-based programming(Agent-based model)を取り上げようかとも思っているが、まだ意味のあるレベルに到達できるかどうかはわからない。やはり本日記の展開しだいということになるだろう。

更新: 2008-05-29T22:53:43+09:00

[TS Network] the100.awkは無敵か

Yささんのthe100.awkは強すぎるなあと思っていたのだが・・・(TSNETスクリプト通信 - 創刊号)

jpg/win_the100.jpgI won!

[内田樹] 身体的知能とゲーム理論

御影駅からリッツカールトンにゆく途中で考えたことネタ。

僕もそうだと思う。脳だけで考えるなんてことはできないんじゃないかというのは実感だろう。脳で考えるというのは幻想に過ぎない。脳は身体の一部だ。故に、当然、物を考えるのは身体なのである。・・・なあんて^^;)といつも強引・・・

勘違いの短い奇妙な物語

「月本」という著者名と「日本語」と「主語はいらない」が入ったタイトルと「講談社選書メチエ」であることだけが記憶に残っていた。ゆめタウンの紀伊國屋書店で文庫の書棚群を隈なく探したが、講談社選書メチエがない。ようやく探す方針を切替えて、書棚の分類をチェックして歩く。「選書」の分類がある。「あーあった、あるはず」と声にならぬ声を発して、講談社選書メチエの段に並んだタイトルをチェックしていく。あった。金谷武洋著、「日本語に主語はいらない―百年の誤謬を正す」、これだ。うーん、しかし、著者が月本じゃないなあ。おかしい。内田先生のブログの読み違えかな。そんなはずはない。同じ著者で「英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ」もある。これはこれでおもしろい。日本語に主語がないというのは、山崎紀美子著、「日本語基礎講座 - 三上文法入門」(ちくま新書、2003年)にあった話と同じだ。実は、その連想で本屋に出掛けてきたのではあるが。

本の蜘蛛糸に絡め取られそうになるのを必死に振り解いて帰宅し、ブログを確認すると、タイトルは「日本人の脳に主語はいらない」だった。この本は見当たらなかったので、一番近い形と意味を持つ「日本語に主語はいらない」が目に留まったのだ。Amazonで書名を確認していると、金谷武洋氏の著書に「主語を抹殺した男/評伝三上章」もあることがわかった。日本語を書いていると、確かに主語があるのは不自然だと感じることが多い。自然な日本語の文章に主語はないのである。「英語にも主語はなかった」という本の中身は、古英語には主語がないという話だった。言語の問題は複雑だ。見方によっていかようにでも解釈できないことはないからだ。脳科学が言語活動について何を証明できるかである。

最近は神経経済学という分野があって、脳の活動を計測しながら、様々な実験をするという方法がはやっているらしい。MRI(Magnetic Resonance Imaging: 核磁気共鳴画像法 - Wikipedia)で脳の血流が増大した部位のパターンの変化を見るのである。脳の経済では、経済効果は貨幣の量の代わりにドーパミンの分泌量で計られると考えられている。加えられた刺激と脳の活動の状態と人間行動の関係は、ゲーム理論で説明できるということらしいのだが・・・「日本人の脳に主語はいらない」はおそらく、その種の研究に関するものだろう。

結局、Amazonから、月本洋著「日本人の脳に主語はいらない」(講談社、2008年)を取り寄せて読んでみた。日本人が母音を左脳で聴く、西欧人は右脳で聴くらしいのだが、子音については日本人はやはり左脳で、西欧人は日本人と同じように左脳で聴く。しかも音節/ga/については西欧人は左脳で聴くと書いてある。母音といっても/a/についての話があるだけである。問題は意味のある言葉を左脳と右脳のどちらで聴いているかが問題なのではと素人ながら思ってみたり・・・ゲーム理論とは直接には関係なかった^^;)


更新: 2008-05-10T20:28:56+09:00

[養老孟司] タケシ君虫日記その後

「養老孟司先生のタケシくん虫日記」の全記事ネタでもあり、養老孟司・池田清彦・吉岡忍著「バカにならない読書術」(朝日新書、2007年)ネタでもあり。後者から前者を辿ったというか、最近、日経BPのRSSに養老先生の記事が引っ掛からないような気がしていたのだが、「バカにならない読書術」に「タケシ君虫日記」をWebに書いているが、どんどん内容がマニアックになり、詳細になっていって呆れられている、そして、それが許されるのがWebであるという話が出ていて、検索してみた。我が日記が二番目にヒットするのにはそれこそあきれたが・・・短い記事に過ぎないのに^^;)残念ながらアンカーまではURLが取得されていないので記事が直接に表示されない。

やはりかなりの記事を読み損ねている。虫は関節を擦り合わせた音でコミュニケーションしているという仮説の検証がどうなったかが、最大の関心事である。この仮説については「バカにならない読書術」にも書かれている。未読記事をざっと読み通した。残念ながら、この仮説の検証に関する記事はない。簡単ではないよねとは思う。

電子出版はディスプレイ上で読む限りは、極端でなければ、書く分量に関わらずコストは一定である。書けば書くだけ、単位ページあたりのコストは下がってくる。レーザープリンタでモノクロ印刷をすると、紙と消耗品(トナーと感光ドラム)だけで、3円/ページ程度のコストが掛かる。「TSNETスクリプト通信」は70ページ程度なので、200円強といったところだ。400ページで1200円か・・・なんとかならない話ではないけど、紙媒体はやはり高いね。