「地の底から湧きあがる力~灼熱の画家・桜井浜江~」完成しない進化し続ける絵。凄いエネルギーのある絵だね。展覧会を広島でやってくれないかな。
樹の絵や絶筆の富嶽を見ていると、具象の中に形態に対する強い抽象性を感じさせる。色彩との関係はそこにある感情を浮び上がらせる。以前に描いた絵が元になり、さらに新しい絵が積み重ねられる。さて、どのように形態や色彩の思考からカンバスの上に絵を生み出していくのか。創造の秘密を知りたいものである。
太宰治の「饗応夫人」は桜井浜江がモデルとの話だった。
ココログの「脳髄の日記」に久しぶりに記事「脳髄の日記: 地震のあとで」を書いてみた。もうログインIDやパスワードをすっかり忘れていた。いろいろと記憶を試した後、結局@niftyにログインして確認することになった。
ポストモダン、すなわち現代を読み解くとは何をすることになるのかだが、もちろん、スクリプティング言語の動向やプログラミングの変化について考えるのも一つの物の見方ではある。しかし、それは「オブジェクトを廻る日記」で試みたが、少し新し過ぎて戦前まで遡るのは難しい。これについてはもっと別の見方で取り上げることになるだろう。日本文学の戦前戦後の変化について見るのはそれなりに価値があることだろう。小林秀雄だけではサンプルが少な過ぎるので、何に手を拡げるべきか考えてきた。読みたいと思うものでなければ苦痛になるし、誰も興味を抱かないものについて読んでも仕方がない。僅かだけれどもライトノベルかそれに類するものも本日記でも実験的に読んできたが、まだ他に読むべきものがあるだろうとの思いから逃れることはできない。
村上春樹の世界性について、なぜ内田先生がそれほど言われるのかを考えてみよう。荒川先生は、「文芸時評という感想」(四月社、2005年)のなかで、文中に話者を明確に書き込むのは村上春樹の文体の特徴の一つで、翻訳しやすくなることを指摘されている。現代を代表するものの一つとして「村上春樹」を探索してみるのも無駄ではないだろう。
『「死者からのメッセージ」を聴き取る能力(または聴き取らねばならないという有責感)が村上文学の主人公を特徴づけている。』という村上春樹の世界性獲得理論に加えて、もう一つの理論を引用しておこう。例によってブログからの引用なので、適当に段落を設定させていただいていることをお断りしておく。
ドメスティックな文学の本道は「父」との確執を描くことである。
.....(略).....
人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく「知らない」こと、「できないこと」において深く結ばれているのである。
人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。けれども、人間は決して現実の世界で「父」には出会えない。「父」は私たちの無能の様態を決定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「反動的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。「父抜き」では「私」がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを鳥瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」することが出来ない。
地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない(はずである)。でも、地図がなくても何とかなるんじゃないか・・・という考え方をする人がまれにいる。村上春樹は(フランツ・カフカと同じく)、この地図もなく、自分の位置をしるてがかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、ランダムに拾い上げた道具をブリコラージュ的に使い、偶然出会った人々から自分のポジションと役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。
その歩みは足跡を残したごく狭いエリアについての「手描き地図」のようなものを作り上げるだけで終わる。ささやかだけれど、たいせつな仕事だと私は思う。私と同じように思っている人がきっと世界中にたくさんいるのだろう。
「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」これが村上文学に伏流する「問い」である。
「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。それが絶望的に困難な仕事であるかは誰にもわかる。けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。
(「内田樹の研究室: 村上文学の世界性について」より最後の部分)
「父」の定義は日本人にはおそらくわかりにくいのではないかと、僕は思っているのだが、精神分析学でもまじめに勉強すればわかるのかもしれない。上記引用の後半部分は村上春樹の小説の構造を解説している。物語に自分を投影して読むことができるかどうかはその本を読みたいと感じるかどうかと関係がある。感情移入ができるかどうかという表現でこれまで僕が書いてきたことと同じことだろう。
小説のリアリティはどのようにして構築されるのだろう。感情移入がしやすいとはどういうことだろう。「神の子どもたちはみな踊る」の「かえるくん、東京を救う」の書き出しはカフカの「変身」を思わせるが、タイトルから感じられるような少しコミカルな感じが一貫していて、救いのないカフカ的な世界ではない。しかし、当面の危機は回避されたらしいが、何かが本当に救われたかどうかも定かではないし、何が起こったのかもよくわからない物語なのだ。読みやすくわかりやすいが、哲学的な部分もあり、思弁的でもある。ジョセフ・コンラッド、「アンナ・カレーニナ」、アーネスト・ヘミングウェイ、フョードル・ドストエフスキー、「白夜」が会話に散りばめられる。一種夢のような話なので、展開は予想しがたいから短くても単純ではない。場面は、幻想と夢と現実が混淆していて、ご都合主義といえばそれまでだが、予想を裏切るように転換されていく。軽薄さもないし、嫌味もないので、感情移入はしやすかった。奇妙なおもしろさとなぜかこれからもがんばれよ片桐さんと思わせるような読後感が残る。物語として必要な様々な要素を備えている作品なのだろう。
小林秀雄の「モオツァルト」は批評作品なので、構成している要素はある程度知識の集積として表現できる。主となる自らの思索を含む経験の表明や感想を引き出す批評の対象は知識として示される。小説は知識をどのように使うのだろう。一度、小説の持っている構成・構造について具体的に読解してみるとよいかもしれない。
リードテック、高性能画像処理チップ「SpursEngine」搭載の画像処理カード | パソコン | マイコミジャーナルには、SpursEngineの仕様が決まるまでの経過に言及されており、興味深い。元々はCellをPCに載せるのが目的だったのが、消費電力が高すぎて載せられなかったらしい。
スラッシュドット・ジャパン | ニコン、ヘッドフォン一体型HMD「UP」を発表経由、ニコン、ヘッドフォン一体型ディスプレイ「UP」を発売ネタ。
HMD型メディアプレーヤーということなんだが、無線LAN経由でWebブラウザが動く。詳細は、Nikon | ニュース(報道資料):メディア ポート「UP300x」、「UP300」の発売についてにある。/.JにOSはWindows CE 5.0と書いてあるが、出所はどこだろう。・・・これか。正確には、Windows CE 5.0 Pro。ここが一番詳しい。両手が自由に使える“スカウター”風のメディア・プレーヤ,ニコンが発表《動画追加》 - デジタル家電 - Tech-On!。
09/27/2008: [Web Development] 世界カメラで散歩!?に書いたようなことがもう一歩で現実になりそうだ。ニコンが作っているのだから、カメラ、GPSやコンパスを内蔵する機種もすぐでてきそうだが。単なるメディアプレーヤーでは使い道は限定される。モバイル時にHMD型のメディアプレーヤーを使う必然性もそんなに高いとは思えない。モバイルなら撮影・録音などを含めてデータ収集に使わないと・・・是非キーボードも欲しいね。思考の道具として使いたい^^)v
後、残るのはファッション性だが・・・これは障害が大きいかも。山歩きなんかだと問題ないけど、街中を歩くにはどうかな・・・ヘッドフォンはオープンエア式の耳を被わないタイプの方がいいんじゃないかと思う。モバイルの場合、回りの音が聞こえた方が安全だ。コンピュータ部をどう処理するのかという問題もある。385gとはいえ、あまり重たいのを頭に載せておくのもつらいかもしれない(ずしっとくるPSP-1000が280g、軽いとはいえない)。でも大きな一歩だ。その意欲と勇気を買いたい。
iriver、3.3型タッチスクリーン有機EL搭載の携帯オーディオプレーヤー「SPINN」を発売:ニュース - CNET Japanネタ経由、iPod nanoと再び正面対決する新型ウォークマン - 日経トレンディネットネタ。しかし、・・・
様々なデバイスが登場するが、どのデバイスも今一つと感じてしまうことも確かである。WalkmanはSPINNと同様にFMを聴けるし、録音も可能である。しかし、結局、PSPに戻ってくる。なぜか。もっともコンピュータに近いからである。もっと!PSPを見るとやはりこれしかないという感じがするね。コンピュータは万能でなければならない。
ぬいぐるみのような万能端末 好きなコンテンツ取り込み機能を追加 | ひと・話題 | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉も興味深いツールだ。
一昨日は台風が温帯低気圧に変わってしまって、朝から窓に陽光が溢れていた。と、過去の話から始める。9月は毎年調子が悪い。暑さ疲れだろう。体調には明らかに年周期がある。ようやく気温が下がってきたと思ったらまた上昇傾向にある。帰宅時の気温が昨日22℃、今日は24℃。ただいまWeatherBugは22℃を示している。体調はやっと回復してきたが、体がだるい。身体に芯が通っていない感じ。内田先生もダウンしているぐらいだものね。
一昨日、新大阪のdanで購入した本が二点。
外山 滋比古著「「読み」の整理学 (ちくま文庫 と 1-3)」(筑摩書房, 2007年)。外山先生の最近の本はめずらしいと手に取った。予想通り、他の本の改装である。元本は、「読書の方法」(講談社現代新書、1981年)だが、序章、エピローグが加わり、かなり書き直されているらしい。本格的改装というわけである。あとがきには2007年盛夏とある。
この本は、わかりやすい言葉で書かれているが、言葉の持つ本質的な問題が取り上げられている。元のタイトルが「読書の方法」なのだが、未知を読む読書の方法について書かれている。帯には「既知を読むアルファー読みから未知を読むベーター読みへ リーディングの新しい地平をひらく」とある。アルファー読みというのは、バルト流に言えば、メタランガージュ読みかな。関連する知識で意味を説明していく感じかな。ベーター読みはコノテーション的で、意味が変わってしまう。新しい意味を生み出す創造的読みと言えるかもしれない。
コンピュータでできるのはアルファー読みだろうね。ベーター読みは人間でも難しいだろうが、一種の連想というか、他の概念とのぶつかり合いのようなものが契機となるのかもしれない。
木田 元著「現象学 (岩波新書 青版 763)」(岩波書店, 1970年)手にしたのは、2004年第34刷。1970年第1刷だから、大体、平均してほぼ毎年1回増刷されていることになる。フッサールの現象学は、生誕100年の1959年に「現象学ルネッサンス」というものが盛り上がったらしいのだが、その影響でこの本も書かれたらしい。僕がフッサールを知ったのもその残り火の最中かもしれない。この本は一度は買ったことはあるかもしれないが、既に手元にはないし、記憶にもない。この本は名著だろう。現象学の本として末永く読み継がれるべき本である。と僕が言わなくてもみんなが買っている。
デカルトだのパスカルだのと考えてきたのだが、どうもアプリオリとか先験的とかという言葉が、認識の問題の空間に漂っているようなので、なんだいそれはという感じで、前提となっている部分に遡ろうとしている。おそらくカントまでは遡る必要がありそうだが・・・
フーコーに次のような記述がある。
・・・われわれの近代性の発端は、人々が人間の研究に客観的諸方法を適用しようと欲したときではなく、《人間》とよばれる経験的=先験的二重体がつくりだされた日に位置づけられるからである。・・・
(「言葉と物」、第九章 人間とその分身、四 経験的なものと先験的なもの、新潮社、338ページ)
この引用部分の訳注に「ここでフーコーが念頭に置いているのは、カントの哲学のことである」(339ページ)とある。
少し過ごしやすくなったと思ったら、また気温が上昇。なかなか見通しの付かない仕事にほっとくわけにもいかず昨日は土曜出勤。なんとか先が見えてきたので、早めに帰宅。帰宅時のアテンザの示す外気温は28℃を示していた。今朝はFirefox用のCSSを点検していると、WeatherBugの広島西の指示温度はあっという間に16℃から24℃まで上昇。室温は28℃。
昨年の日記を振り返ると、10月の夏日が記録されている。確実に冬が短くなっている。温暖化の傾向が顕著に現われてきた。よいことなのか・・・
検索結果を見ると、4月の夏日が2003年から記録されている。今や、4月から10月は夏!?
Zed 0.34 リリース:晴れときどき更新中(掲示板):@niftyレンタル掲示板:@niftyネタ。とうとうスクリプトを自在に編集に使えるようになった。
いろいろと要望事項が溢れてきてしまう^^;)サブウインドウが編集のコマンドライン操作用となっているのが、スクリプタにとっては大変興味深い。
05/30/2008: [Firefox] Firefox 3 - Download Day 2008、09/20/2008: [Webブラウザ] Google Chromeのバランスなどに書いていたルビ表示がずれる問題を調査。
よく考えると元々FirefoxではGoogle ChromeやSafari同様に日本語的なルビ表示はできない。Firefox用のCSSをどこかで調べて使わせてもらっていた(06/17/2006: [Firefox] Firefoxのルビ表示)。それを調整することで以前のように表示できるようになった。調整したCSSを載せておこう。
ルビ表示行が大きくずれた原因は、rubyのvertical-alignが以前(Firefox2)から「-20%」に設定されていることだった。これを「65%」に設定すると、Firefox3で行をずらさずに表示できるようになった。ルビのfont-sizeも60%から50%に小さくしている。
ruby { display:inline-table; text-align:center; white-space:nowrap; text-indent:0; margin:0; vertical-align:65%; } /* ルビベース */ ruby>rb,ruby>rbc { display:table-row-group; line-height:90%; } /* 前側ルビテキスト */ ruby>rt,ruby>rbc+rtc { display:table-header-group; font-size:50%; line-height:45%; letter-spacing:0; } /* 後側ルビテキスト */ ruby>rbc+rtc+rtc { display:table-footer-group; font-size:50%; line-height:45%; letter-spacing:0; } /* 複雑ルビテキスト */ rbc>rb,rtc>rt { display:table-cell; letter-spacing:0; } rtc>rt[rbspan] { display:table-caption; } /* ルビ括弧 */ rp { display:none; } /* Mozillaでルビ表示3 - 徒書・2001年10月のCSSのパラメータ値を変更 */
ルビの
最近のGoogle ChromeやSafariについても応用が利くはずと試してみると、rubyのvertical-alignの設定を-10%に変更すると最適とわかった。Firefox2の-20%とほぼ同じ値だ。やはり、Firefox3のCSS(vertical-align)の動作はおかしいのじゃないかと思う。今月分からブラウザ毎にvertical-alignの値を変更したルビ表示用のスタイルシートを次のように使い分けることにした。
<script type="text/javascript"> <!-- if(navigator.userAgent.indexOf("Firefox/3") != -1){ document.write("<link rel='stylesheet' type='text/css' href='firefox.css' />"); }else if(navigator.userAgent.indexOf("Firefox/2") != -1){ document.write("<link rel='stylesheet' type='text/css' href='firefox2.css' />"); }else if(navigator.userAgent.indexOf("Chrome") != -1){ document.write("<link rel='stylesheet' type='text/css' href='chrome.css' />"); }else if(navigator.userAgent.indexOf("AppleWebKit") != -1){ document.write("<link rel='stylesheet' type='text/css' href='safari.css' />"); } --> </script>
W3Cの最新のRuby Annotation勧告には、次のようなサンプルがあるが、IEでもFirefoxで上記のCSSを使っても、W3C勧告のようには表示できない。
<ruby xml:lang="ja"> <rbc> <rb>斎</rb> <rb>藤</rb> <rb>信</rb> <rb>男</rb> </rbc> <rtc class="reading"> <rt>さい</rt> <rt>とう</rt> <rt>のぶ</rt> <rt>お</rt> </rtc> <rtc class="annotation"> <rt rbspan="4" xml:lang="en">W3C Associate Chairman</rt> </rtc> </ruby>
次のように表示される。
次のように書き換えよう。
<ruby xml:lang="ja"> <rbc> <rb>斎藤信男</rb> </rbc> <rtc class="reading"> <rt>さいとうのぶお</rt> </rtc> <rtc class="annotation"> <rt rbspan="4" xml:lang="en">W3C Associate Chairman</rt> </rtc> </ruby>
次のようになる。IEでは、annotationを下側に表示できない。Firefoxではこれで妥協しなくてはならない!?
スラッシュドット・ジャパン | FSF、「優先度が高いフリーソフトウェアプロジェクト」を発表ネタ。
11項目のうちさっぱりわからないのは、OpenDWGだけだが、調べるとCADの話。なるほど、実用的なニーズは高いのだろうね。
「T-Mobile G1」は中身で勝負--初の「Android」携帯が持つ可能性:モバイルチャンネル - CNET Japanネタ。
iPhoneが登場し、Androidが遂に登場した。もっともAndroidケータイは日本にはまだないのだろうけど。新しいケータイが登場しても、既にケータイは持っているので、それを新たなものに切替えるのには必然性が必要だ。Webの閲覧性が高まる。これが今のところ売り文句なのだろう。ケータイ小説なるものが登場し、瀬戸内寂聴がケータイ小説に挑戦なんていうことが話題になる時代である。
ただ、モバイル時にWebをゆっくり見ている暇があるだろうか。見たいと思うだろうか。無論、見たくなるときもあるだろうし、見る必要がある場合もあるだろう。しかし、それは例外的な場合であるような気がする。ただ、誰も彼もがケータイを覗き込んでいる時代であることも確かである。スムースにWebを見ることができれば見るかもしれない。それはケータイ経由でのWebへのアクセスの増大をもたらすかもしれない。
僕としては、グーグルのワイヤレス構想--特許申請で判明したその「オープン度」:モバイルチャンネル - CNET JapanのようにWi-Fi(Wikipedia)が普及して通信コストが下がることを期待している。自宅とモバイルを合わせてのサービス価格を提示して欲しいものだと思う。今の光ケーブルのコストに加えてモバイル時の常時接続費用負担は大きすぎると感じてしまう。モバイル時利用をそれほど想定できないから、特にそう感じるのである。車で移動時のWeb利用も今後出てくるのが楽しみではあり、その時のことを想定して費用低減に期待している。
ケータイは既に電話ではなくコンピュータである。コンピュータに電話機能がくっついた感じ。そして、iPhoneにしてもAndroidにしてもプログラマブルである。プログラマとの親和性が高まる。日曜プログラマにとって好ましい時代が到来したことも確かである。スクリプト言語が動くようになれば天国であろう。
フィーチャーに、hardware dependantとの但し書きはあるが、Camera、GPS、compass、accelermeterが示されており、これらの機能を使ったアプリケーションが書けるということになる(10/01/2008: [Web Development] 加速度センサー・地磁気センサー搭載ケータイ)。
Firefox用拡張機能「Greasemonkey」、Google Chromeに対応:ニュース - CNET Japan経由、Google Chrome to Add Greasemonkey Supportネタ。
早く、Google Chromeにプラグイン機能が付かないかなと思っているんだが、まずGreasemonkeyが動くようになった。次はextension APIもリリースされるらしい。それはそうとGreasemonkeyスクリプトはデスクトップにもアクセスできるのだろうか。
Webブラウザの今後の発展はいかにOSとして進化するかにあると思う。
おととい、帰宅してから家内が新聞を見せながら聞いた。僕の興味・関心を知っているからだ。
「グーグルがG1というのを出したという記事が出ているけど知ってる」
「もちろん」
おもむろに10月4日のAndroidの記事を見せる。
中国新聞夕刊 2008-10-24(金)「これこれ」
「ふーん、今日の新聞記事なのに・・・そんなに早くぅ」
「だけど、どんな記事か読みたいから持ってきといて。」
「T-Mobile」の名はどこにもなく、「グーグルOS搭載の携帯 初機種『G1』、米国で発売」となっている。179ドルなら欲しいね。ハードウェアのスペックはどうなんだろう。分解記事がないかな。
[Androidケータイ分解その5]トラックボールはBlackBerryと同様:ITproには、コンパス用磁気モジュールが搭載されていることが示されている。Androidで議論していたことが、Googleケータイで現実になっていたわけだ。それもGoogle street viewで連動するというおまけ付きで。ハードウェアスペックはNEの2008年11月3日号を読めということになりそうだ。うまい売り方だ。もう出ているかな・・・
起動は2秒、ATOK、パンタグラフキー搭載--キングジム、デジタルメモ「ポメラ」発表:ニュース - CNET Japanネタ。
いい狙いなんだが、PSPに付けたいキーボードだね。単なる鉛筆代わりでは、鉛筆に勝てない。ミニPC代わりにならないとね。
昨日、今日と東へ西に。昨日は新幹線のプラットフォームにあるキオスクで気になったニューズウィーク日本版の「資本主義の未来 レーガン主義の終焉とグローバル経済の明日」(2008-10-29号)を買う。今日は日経を買って、27面、岩井克人氏の経済教室「自由放任主義の第二の終焉」を読んだ。
不謹慎と言われるかもしれないが、おもしろかったのは、ポール・ケドロスキー(カウフマン財団上級研究員)の「インターネット時代の最初の惨事 ネットの擁護者グリーンスパンが危機を生んだ」の記事だ(ニューズウィーク日本版、2008.10.29、18ページ)。金融関連の情報はインターネットを通じて誰もが平等に入手できるようになったが、それらは分散しており、かつ情報過多であり、金融商品の仕組みが複雑で、しかも急速に変化する。一般的な投資家は統合的に理解することができず、思考停止に陥る。マーケットの動きに翻弄されて、変化を増幅する。逆に、仕組みに精通した金融のプロは的確な判断をもとに、多くの規制外取引をIM(インスタント・メッセージング)を介して行っているのだそうだ。こちらはこちらで取引が簡単になったことにより、危険な行動に踏み込みやすい状況が生まれた。これが、「インターネット時代の最初の惨事」というタイトルが付いた理由である。一つ一つの取引のリスク評価はできるのだろうが、全体としてどのような事態を引き起こすのかまでは予測できない。
コンピュータによる金融市場の情報処理はさらに進化するだろう。全体としての合理性を充分確保できるようになるまで進化するとして、市場は安定化するのだろうか。それが意味のあることかどうかはよくわからないが・・・株式市場は、企業の資金調達という本来の機能さえ果たせればそれで充分と考えられる。投機は混乱をもたらすだけだ。
ニコンの画期的モバイル機器『Media Port UP』 | WIRED VISIONネタ。Wiredに記事が出たのでピックアップ。
最後の部分を引用。
私が思うに、日本でまず販売するのは、奇妙なサイボーグが街に出てきたように見られるのに、人々がどの程度抵抗を覚えるかという、現代の社会的通念の境界を実地にテストしようということではないだろうか。
ニコン、ヘッドフォン一体型ディスプレイ「UP」を発売には、まずは5000台販売とある。なんでも物好きは5000人ぐらいはいるというのが目安なんだろう。日本では、実験は5000人を想定して行うのだ。
街中で徒歩で移動中に、メディアプレーヤーとしてiPodやiPhoneの代わりにUPを使おうとする人がどれくらいいるかだが。いると大変おもしろいね。そういう人が存在するとは考えにくい中で。月並みな考えだが、車や新幹線、飛行機のなかで使う可能性はありそうな気もする。車の中では密閉式のヘッドフォンは少し危険な感じはするけど、使ってみたいなと思わせる。
【レポート】「UNIQLOCK」誕生秘話をクリエイターが語る -「.Fes 2008 TOKYO」イベント | クリエイティブ | マイコミジャーナルネタ。
思わず何だろうと思って記事を読んだ。Webのインフラが整った今、何を載せるかというアイデアの時代だ。方法よりは中味の時代。
ミシェル・フーコー著、中山元訳、「わたしは花火師です フーコーは語る」(筑摩書房、ちくま学芸文庫、2008年)ネタ。artificierは「花火製造者」とか、軍隊用語では「火工手」、「花火製造術・弾薬関係の専門家」と訳されている(大修館書店、スタンダード佛和辞典、1968年、16版)。なんともこなれていない訳語だが、フーコーが花火師というのも異様である。むしろ「発破師」あるいは「発破職人」とでも訳したほうがよいかもしれない。知の考古学的地層に発破を仕掛けて、地層の構造を露にするというのが目的であるならば。花火師では、打ち上げ花火に終わって、一時的には華やかだが、燃えカスを地上にばら撒くぐらいの効果しかない。とは言え、この本はクリーンヒットである。フーコーはなぜ「言葉と物」を書き、「監獄の誕生」や「知の考古学」を書いたのか。
対談や講演は話し言葉になるので、わかりやすく読みやすい。訳者あとがきによると、フーコーの1974,1975,1978年の対話と講演の記録である。これまで知ることができなかったフーコーの肉声を聞くことができる。フーコーがどのような経験をして、どのような問題意識を持っていたのかがよくわかる。戦前生まれのフーコーが戦争に言及するのもはじめて読むことができた。
「危機」と「わたしは花火師です」同時代のほとんどすべての人々と同じように、わたしはマルクス主義者であり、現象学者でもありました。もっともサルトルやメルロ=ポンティのように、一九三八年のフッサールの著作『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(わたしはたんに『危機』と呼んでいましたが)に示された現象学の方法を熟知して、使っていたわけではありませんが。フッサールがこの著作で問題にしたのは、ヨーロッパがその<中心>となり、原則となり、原動力となっていた知の体系でした。ヨーロッパはこの知の体系から解放されると同時に、これに囚われていたのでした。わたしたちにとっては、戦後の数年間とそこで起こったすべてのことから、この問いが生々しいほどに再登場したのでした。
『危機』というテクストは、普遍的な記述を目指すものだったにもかかわらず、わたしたちにとってはきわめて高度で、きわめて学問的で、それ自体においてきわめて閉じられた哲学のうちに、まったく現代的な歴史が突発的に姿を現した書物でした。フッサールの周囲で、ドイツの大学において長年にわたって全力を尽くして展開されてきた議論の周囲で、何かがはじけようとしていたのです。このはじけ、割れる音が、フッサールという哲学者の議論のうちで突然聞こえたのでした。そこでわたしたちはこの知とは、この合理性とは、どのようなものであるかを自問したものです。わたしたちの運命と深いところで結ばれ、多くの権力と深いところで結ばれ、「歴史」の前ではこれほどまでに無力であったこの知と合理性は、いったいどのようなものだろうか、と。
人間科学というものもこの方法によって議論されるべきものであるのは明らかでした。わたしが最初に呟いたのは、次のような問いでした。人間科学とはそもそもどのようなものなのだろうか。人間科学はどのようなものにもとづいて、可能になったのだろうか。どのようにしてこうした議論を構築し、こうした対象を作りあげることができたのだろうか、と。わたしはこうした問いかけを繰り返したのですが、その際にフッサールの哲学的な枠組みは投げ捨てようと試みたのです。
(「わたしは花火師です----方法について」、「人間科学をめぐる問い」、31-32ページ)
E.フッサール(エトムント・フッサール - Wikipedia)著、細谷恒夫/木田元訳「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」(中公文庫、1995年、原訳: 中央公論社、1974年、原著: 1938年)
フーコーは哲学の枠組みでは社会あるいは歴史に実質的に影響を与えることができないと考えて、それを捨てようとしたのだろうか。フーコーの試みている方法と方向性は社会学に近い感じがする。帯に「哲学者でもなく歴史家でもなく」とあるのは、それを指している。爆薬を仕掛けて吹き飛ばすような書を書く。それはすなわち社会を揺るがすような影響を与えるということである。
戦争一覧 - Wikipediaを参照すると、第二次大戦後は世界大戦は起っていないが、戦前対比で戦争が少なくなったとは言えないぐらい世界中で戦争がおきている。世界を平和にするために新たな枠組みも無力だということか・・・
宮崎駿監督、堀田善衞を語る 「乱世」に不動の指標 文化 : ジブリをいっぱい : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)ネタ。
Media Manager for PSP 3.0が出ていたので、ポッドキャストの「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」を調べると、「2008/10/19 乱世の羅針盤…堀田善衞を敬愛する宮崎駿のことば」鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫が見つかった。予想通り、講演が収録されていた。
人は他人の影響を受けるものだということ。宮崎駿の作品も堀田善衛や司馬遼太郎の影響を受けて作られている。
[「出発点 1979~1996」の「僕の宿題」(294ページ、1993年)に堀田善衛の「方丈記私記」のアニメーション化について書かれており、宿題が完成すればと思う。]
松岡正剛の千夜千冊『定家明月記私抄』正・続 堀田善衛があることを記録しておこう。(2008-11-03)
UP300まとめサイト - 小宮日記から検索経由、メディアポートUP300x / UP300 リンク集(報道) - MobileHackerz経由、色々スゴいHMD ニコンが「UP300」発表ネタ。UPからニコニコ動画やYouTubeは視聴できるか。
UPのFlash Playerのバージョンは7である。ニコニコ動画はバージョン9を必要とするので見ることができない。YouTubeはバージョン7があれば見れるはずだか、Windows CE 5.0搭載のマシンではCPUパワーが足りずに正常に再生できないこともあるらしい。訂正が入ったのはそのようなことが背景にあるのだろう。
もう少しUPの基本的なスペックについて公開して欲しい。ニコン公式情報は以下のリンクから。
マリア・ジョアン・ピレシュのピアノ演奏をおそらく初めて聴くが、この曲(モーツァルト、ピアノ協奏曲|Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation経由、Maria João Pires! | Worldwide Artist Support | Artists with Yamaha | YAMAHAネタ。
「スーパーピアノレッスン - 巨匠ピレシュのワークショップ」を視聴して、ピレシュを調べた。
吉田 秀和著「世界のピアニスト」(筑摩書房, 2008年)では、ピリス(370ページ)として、マリア・ジョアオ・ピリス[Pirés, Maria João]を紹介されている。Amazonでもピレシュとして検索すると1件しかヒットしない。名前の表示が様々に混乱しているようだが、Wikipediaから新聞記事など、各国での名前の表示を確認すると、Maria João Piresが正しい表示のようである。
家内の持っているピレスのCDを3枚聞いてみた。「世界のピアニスト」ではイ短調ソナタ(K310)、イ長調ソナタ(K331)、ハ長調ソナタ(K330)、ニ長調ソナタ(K576)の4曲について言及があるのだが、ニ長調ソナタ(K576)だけが含まれている。ピリス(マリア=ジョアオ) モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集4(コロムビアミュージックエンタテインメント、2004)、ピリス(マリア=ジョアオ) モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集5(コロムビアミュージックエンタテインメント、2004)とピリス(マリア=ジョアオ) モーツァルト:ピアノ・ソナタ第6番&第14番他(ダブリューイーエー・ジャパン、1999)。
ピアノ・ソナタ全集4、5は、Wikipediaのページに記載されているデンオンのピアノ・ソナタ全集の2枚である。1974年、東京、イイノホールの録音。「世界のピアニスト」にはこの録音のテープを聴いたときの所感が書かれている。小林秀雄の「モオツァルト」の第10節の最初から二つ目の文には「彼のピアノ曲の様な単純で純粋な音の持続に於いては、演奏者の腕の不正確さは直ぐ露見せざるを得ない」とあるのだが、ピリスのピアノは明瞭であり力強い。そのような不正確さはどこにもない。素晴らしい演奏がモーツァルトらしく淡々と続いていく。
3枚目は、ERATOの1984年、パリ、サル・アディアールの録音。こちらはデンオンの録音の10年後の演奏なのだが、印象がまったく異なり、情熱的とさえ言えるものだ。モーツァルト的ではないかもしれない。
本田雅一の「週刊モバイル通信」第427回 所有欲、使用感を重視した新MacBookネタ。PCネタというよりはMacネタとすべきかもしれないが^^;)
GPU重視の設計となって、GPUのパフォーマンスは先代機対比5倍という。PCの進化の方向は当然3Dだ。最終的には、4D、すなわちタイムマシーンPCということになる。これ以上の進化は人間が使う限りあまり現実的ではないだろう。むろん、マルチタスクの究極のようなことはあるにしても・・・そこでは、マルチコアでメモリの増大は必然。一般的にどこまで要求されるかということはある。コストと消費電力との相談になるだろう。しかし、そのようなことを前提としながらも進化は続くはずだ。
表現されるものが重要であることも間違いないが、表現を生み出すツールの進化も合わせて必要なはずだ。そろそろそのような表現ツールを使いこなす腕を磨く時かもしれない。
・・・なんて記事を書いていると、画面と連動して「動く3D画像が飛び出す」本:拡張現実技術の動画 | WIRED VISIONが出ていたね。必見!!!.....進化は続く・・・
こんなのもあるね。【PDC 2008基調講演レポート】「Microsoft Researchの試み」。
ついでに、ASIN(Amazon Standard Identification Number)を使ってAmazon Webサービスを使う方法も載せておこう。書籍はISBNを使うが、CD/DVDにはASINを使う。
前のISBN用スクリプトと同様に入力は標準入力行の行頭に「asin: xxxxxxxxxxx」と10桁の番号を記述しておくことを想定している。出力はとりあえずSJISとしている。
おそらく、モジュール化して、Wemoの機能として組み込むことになるだろう。
use Net::Amazon; use Net::Amazon::Request::ASIN; use utf8; binmode STDOUT, ':encoding(cp932)'; my $asin = ""; while(<>){ chomp; ($asin = $_) =~ s/^asin: (.+)$/$1/i; } my $ua = Net::Amazon->new( token => '--- your subscription ID---', locale => 'jp' ); my $req = Net::Amazon::Request::ASIN->new( asin => $asin ); # Response is of type Net::Amazon::Response::ASIN my $resp = $ua->request($req); if($resp->is_success()) { for ($resp->properties) { print "<img src=\"", $_->ImageUrlMedium(),"\" align="left" hspace="20>"," join("/", $_->artists()), " ", $_->album(), " ", $_->label(), " ", $_->year(), " ", $_->media(), "\n<ol>\n"; foreach my $tracktitle ($_->tracks()){ print " <li>", $tracktitle, "\n"; } print "</ol>\n<br clear="all>";" } } if($resp->is_error()) { print $resp->message(); }
問題点が二つあった。問題点1、10桁のISBN番号の末尾が"X"の場合にマッチしない。問題点2、10桁を13桁に変換する場合のチェック数字を求めるために、10から引く計算値が0の場合は、そのままチェック数字を0にするというルールが抜けていた。
改訂版を載せておこう。
use Net::Amazon; use utf8; binmode STDOUT, ':encoding(cp932)'; my $isbn = ""; while(<>){ chomp; ($isbn = $_) =~ s/^i*s*bn: (.+)$/$1/i; } my($isbn13, $localenum) = &isbn10to13($isbn); my $locale = ""; if($localenum == 0){ $locale = 'us'; }elsif($localenum == 1){ $locale = 'uk'; }elsif($localenum == 2){ $locale = 'fr'; }elsif($localenum == 3){ $locale = 'de'; }elsif($localenum == 4){ $locale = 'jp'; } my $ua = Net::Amazon->new(token => '--- your subscription ID ---', locale => $locale); # Get a request object my $response = $ua->search(isbn => $isbn13); if($response->is_success()) { for ($response->properties){ print "<img src=\"", $_->ImageUrlMedium(),"\" align="left" hspace="20>"," join("/", $_->authors), "著「", $_->title(), "」(", $_->publisher(), ", ", $_->year(), "年)<br clear="all>";" } } else { print "Error: ", $response->message(), "\n"; } sub isbn10to13{ my($isbn10) = @_; my $isbn13 = ""; my $localenum = 0; $isbn10 =~ s/-//g; if($isbn10 =~ /^(\d{9}).$/){ $isbn13 = "978" . $1; $isbn13 =~ /^(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)$/; $localenum = $4; $e = $2 + $4 + $6 + $8 + $10 + $12; $o = $1 + $3 + $5 + $7 + $9 + $11; ($f = $e * 3 + $o) =~ s/^\d*(\d)$/$1/; if($f == 0){ $isbn13 .= "0"; }else{ $isbn13 .= 10 - $f; } }else{ $isbn13 = $isbn10; $localenum = (split(//, $isbn13))[3]; } return $isbn13, $localenum; }
ただ、このような方法で取得したデータの使用については、Amazon AWSのカスタマー契約の条件を満たす必要があるのだろう。データを取得し、表示するだけで問題があるのかどうかはよくわからないし、何かビジネスに使うのでもなければ使うのは止めておいた方がよいのかもしれない。先に進んで書き直すのも大変なので本日記からはデータは削除しよう。データ的にもこの方法には限界があって、例えば著者の情報は取得できても編者の情報は得られないようだ。必要なデータは他人は当てにならないということなのである。データは自前で作れ!!!
昔々、レンズマンシリーズの作者のE.E.スミスだったか、「
今は政治が現実をどう把握し、理解し、解決策を見出すのかというプロセスが見えにくい。さて、見えているのか、見えていないのか。テレビを眺めているとアジア欧州会議(ASEM)の首脳会議では欧州からようやく複雑な金融商品に対する規制をすべきという意見が出たようだが・・・もっと早く手を打つべきだったのだろうに(インターネット時代の最初の惨事)。
こういった問題は人間の存在の本質とどのように関わっているのか。それを考えることが内宇宙への旅になるはずだが、実際のところそういう問題が省みられるとは思われない。喉もと過ぎれば熱さを忘るということになる。
敢えて避けていた政治・経済・社会のような問題に次第に踏み込みつつある。現実からは逃れられない。しかし、これらの問題も知識表現に関わるものである。経済学については、ゲーム理論から近づく道も既にあるが、政治や社会についてはプログラミングとの関わりは薄いかもしれない。フーコーの目指したものは、哲学というよりは、歴史学であり、社会学であるという気がする。[本]言葉と物 ⅩⅩⅩⅩⅣ - 人間は進歩してきたのか (2007/08/05)のような問題意識から逃れることは難しい。プログラミングは手段なんだが、それが目的と化している。これはニヒリズムなんだそうだ^^;)佐伯啓思先生はやはり注目しておかなくてはならない。
今朝、髭を剃りに洗面室に入ると、家内が洗濯機から浴室へ伸びたホースを跳んでくれと言う。その連想から、最近、縄跳びとかゴム跳びとかいう遊びを見たことがないねという話になった。住宅街では舗装していない地面は公園か自宅内の庭にしかない。子どもが道端で遊ぶ姿を見ることはない。「遊び」をググる。遊び - Wikipediaや遊びの大図鑑などが出てくる。
遊びと人間を結びつけた書としては、ヨハン・ホイジンガ - Wikipediaの「ホモ・ルーデンス」が有名だが、僕はまだ読んだことはない。一度日本でも話題になった時があった。それは「遊」の創刊時(1971年)だったのかもしれないが、さすがに、千夜千冊には取り上げられている。松岡正剛の千夜千冊『ホモ・ルーデンス』ヨハン・ホイジンガ。遊びとは存在の編集である。ここでも我田引水が認められるが、まさにそうかもしれない。
松岡正剛の千夜千冊『斜線』ロジェ・カイヨワがその次のターゲットかな。「遊びと人間」という著書がある。ロジェ・カイヨワ - Wikipedia。
「プログラミングと遊び」という観点から考えてみるとおもしろいかもね。なぜプログラミングをするか。何ができるかを考えるのがおもしろいから。そして、自分の考えを実現できるから。そのプロセスも楽しいし、実現できたことを元にさらに考えることができる。プログラミングは情報を編集・加工する一つの方法である。それはセンサーと連動すれば、世界で起きている現象を表現することができる。そんなことが既に単なる夢ではなくなっている。これは「遊び」かな。
スラッシュドット・ジャパン | PS3システムソフトウェアVer.2.50&PSPシステムソフトウェアVer.5.00公開ネタ。
PSPのソフトウェアキーボードがフルキーボードになるというので喜んだのだが、かな文字には使えない。残念。しかし、英数字の選択は簡単になったと思う。少しずつでも進歩すればうれしいね。
スラッシュドット・ジャパン | コクヨデザインアワード2007グランプリ「紙キレ」が製品化ネタ。
うーん。おもしろいような・・・なーんだというような。それなら、本当の紙切れで充分という感じ。でも、製品としてはともかく「紙切れ」に着目したのはグッドかな。
もっともメモ用途でないなら、それなりに意味があるのかもしれない。メモ以外の具体的な使い方をビジュアルに示して欲しい。
テキスト情報なら時系列情報として、まずは日記に載せておくのが便利だろう。そこから、必要なものをWebSliceして再編集する。切り出すのは一定の形式であれば簡単にできるわけで、別になんでもよいわけだが・・・そこで便利なツールがスクリプティング言語、我田引水とはこのこと^^)v
しかし、/コクヨデザインアワード2007 | コクヨを調べると、実際の紙キレそのものの物としての感触・感覚は興味深いものらしい。使い方が問題だね。ついでに仕事の達人 | コクヨのヨコク | コクヨを眺めていると、本の中に埋もれそうな部屋を見回してしまった。なかなか参考になるかもしれない。
科学研究から生まれた美:読者が選んだ画像10選(1) | WIRED VISIONネタ。
言語ネタには、科学研究から生まれた美:読者が選んだ画像10選(2) | WIRED VISIONにある『聖書の視覚化』。各章の節数の棒グラフに相互参照の円弧が組み合わされ、円弧の色が章間の距離の大小を表している。
つらつらぐさ: ニューウェーブSFネタ。久しぶりに取り上げてもらった^^)
E.E.スミスはかなり古い作家のはずだ。僕が読んでいたのはなにしろ40年以上前のこと。E・E・スミス - Wikipediaを調べてみると、生没年は、1890年5月2日 - 1965年8月31日となっている。レンズマンシリーズは真鍋博のイラストレーションのカラー表紙が斬新だった。イラストレーションという言葉は真鍋博から一般に知られるようになったぐらいで、朝日新聞の正月特別紙面を飾ったのを憶えている。シリーズ6冊から10年ぐらい経って、忘れた頃に「渦動破壊者」(1977年)が刊行されて驚いた。それだけが手元に残っている。「銀河パトロール隊」の日本語訳が出たのが、1966年なのである。古いねえ。前近代という感じがする。
渦動破壊者当時は、フレドリック・ブラウン、レイ・ブラッドベリ、アイザック・アシモフ、E.R.バロースなどと一緒に愛読していたわけで、SFというよりは空想小説だった。とりわけ、フレドリック・ブラウンは探偵小説もよくて、「シカゴ・ブルース」は傑作だった。なんて、もう内容は忘れているのだが・・・
J・G・バラードは大学生になった頃登場した作家で、「沈んだ世界」(創元推理文庫、1968年、原著: 1962年)は衝撃だった。初期の作品は全部読んだ。そのあと、次第にポストモダン的に意味不明になってしまった。ちょうどポストモダンの時代だったし、その素質があったのだと思う。僕はヌーヴォー・ロマンのSF版の様に捉えていた。「時間の墓標」(東京創元社、1970年、原著: 1964年)の最後に収録されている「終着の浜辺」からタイトルのついた断章を並べていく斬新なスタイルが現われた。断章の長さがより短くなった作品が集められている「残虐行為展覧会」(工作舎、1980年、原著: 1969年)には「鉱物的光景の告示」という松岡正剛氏との対談が掲載されている。インナースペースの話はここに出ているが、E.E.スミスの話はもっと昔のこと。アウタースペースというスペースオペラの舞台と対比させたインナースペース、レンズを通してコントロールする精神世界というようなこと。ここらでバラードを追いかけなくなったのだが、最近、といっても2年前に「コカイン・ナイト」(新潮文庫、2005年、原著: 1996年)を購入した。普通の小説のスタイルに戻っているように見えるが、しかし、まだ読んでいない。いや、その間に、「ハイ-ライズ」(ハヤカワ文庫、1980年、原著: 1975年)があるなあ。J・G・バラード - Wikipedia。とりとめのない、記憶を辿る独白。
沈んだ世界同じようなことを繰り返し繰り返しくどくど毎年言っている。あきれたね。人間なんてそんなものだという記録。
「事実を見る」という複雑な過程:望遠鏡誕生から400年 | WIRED VISIONネタ。
Wiredはいいなあと思う記事が出る。ほっとする。望遠鏡は思考の道具だと言う。なるほど、僕も思考の道具が欲しい。今はインターネット、本、コンピュータ・・・。感覚を拡大させるだけでなく、精神を拡大させるようなものがおもしろい。
「言葉と物」シリーズは既に何を目的としていたのか定かではない。しかし、戦後日本の最近まで、すなわち現代を読み解くための思索をしようということだけは確かであった。そして、それはフーコーの「言葉と物」という書物、書かれたものの読解を通してである。
人間の歴史を遡るのはおそらく、印刷技術が発展するまでは主に社会システムや文化、技術の伝承や言い伝えか筆写による記録によっていたはずだから、当時そんなものがあったかどうかは知らぬが、物理的に残っている様々な物質的証拠をもとに推理する正に考古学こそが、歴史を読み解く唯一の手段であったろう。しかし、書物が社会に流布するまでは、一般の人間は歴史なんて考えられなかったに違いない。今では、印刷技術の恩恵を受け始めた時代にまで遡ることはそれほど困難ではない。市井の思索者ができることといえば、ほぼそのような書物に頼った覚束ない思索の繰り返しをさらに反芻していくしかないのである。
西欧社会に大きく影響を受けてきた日本の現代を読み解くには、その独自の文化と西欧の影響を強く受け始めた明治以降の近代について知らねばならない。また、西欧そのものの源を知らねばならない。ということは、すべてを知る必要があるということだ。
西欧については、内田先生に付いて、レヴィナスとラカンを少し勉強しよう。サルトルはレヴィナスのフッサールについての本を読んで現象学を勉強したらしい。ラカンは自ら著作することは少ない人だったらしいので、内田先生の解説でも(失礼)よかろうとも思ってみたり。少し触ってみて進め方は考えよう。日本の近代については、小林秀雄をさらに追及してもよいかもしれない。小林秀雄の戦前戦後の思考を対比して追うことには意味がありそうだ。「モオツァルト」は終戦直後の作品である。そんなことを取り留めなく思っている。「本居宣長」も日本独自の文化を知るためにも、さらに読むことに価値がある。戦後は内田先生の後を追ってもよいし、僕自身でもよいわけだけど・・・そういうサンプルならいくらでもある。
しかし、書かれたものが社会のすべてではないことも忘れてはいけない。
外気温は18.9℃の夜、思いがけない友人からのケータイメールに気が付く。PCメールは自宅でしかチェックしていないので、返事は帰宅してからになってしまった。夜のお誘いには副えなかった。疲れ気味の状態が続く。先週は高血圧の薬の副作用で脈が低下し、義母が入院したり、その見舞いに弟夫婦が帰ってきたり。ご苦労様。薬の調整で対症的には問題がなくなり、普段の調子に戻る。昨晩は広亭タナカで笑顔で会食。疲れの中で、だいぶ前から考えていることを書き付けようとしているが、記憶の襞から零れ落ちそうな拙い思考である。連想はあるのだが、意味があるのかどうかは定かでない。
少し前に紀伊国屋でエマニュエル・レヴィナスの「時間と他者」を購入。「時間」という言葉にハイデガーの「存在と時間」に思いを馳せ、哲学になぜそれほど「時間」が出てくるのだろうと不思議に思う。「先験的」とか、「経験」とかの概念は時間に深く関わるのかもしれない。頭の中には福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」の「時間という名の解けない折り紙」という言葉が纏わり付いている。
生命は時間という名の解けない折り紙であり、言ってみれば進化という合理性の産物というよりは偶然の産物という意味である。偶然という言葉には確率論が絡み付いており、時間の経過は経験を生み出し、それは偶然であり、生物個体毎に異なる経験が蓄積されていく。しかし、経験を構成する要素に分解すれば、共通要素が多くを占めることも間違いないだろう。そうして、経験は先験的という概念に結びつくのかもしれない。
とめどない連想ゲームが続いていく。疲れた頭から少し零れ落ちた思索の記録、書き付けるまではどのようなことになるのかわからない・・・
ノーベル文学賞の日経由、ノーベル文学賞 - Wikipedia検索経由、asahi.com(朝日新聞社):ノーベル文学賞に仏のル・クレジオさん - 文化ネタ。
内田先生のブログのAtom配信のノーベル文学賞の日を読んで、Wikipediaのノーベル文学賞を見ると、2008年の受賞者にル・クレジオが載っている。今年は2008年だよね。さらに検索すると、今日の日本時間午後8時発表、もう結果は出ているはずとさらに検索結果を見ると朝日新聞がル・クレジオの受賞を報じている。残念ながら、村上春樹を無視している批評家にインタビューする構想は消えてしまった・・・
ル・クレジオの昔の愛読者としては、1980年以降、最近の作品を読んでみたいねと思わせる受賞なのだが・・・まあ、村上さんはル・クレジオよりはだいぶ若い^^;)が、うーむ、何か宿題を思い出してしまったね。
内田先生のノーベル文学賞の日に「追記」が出て、幻となった予定稿が公開された。最後の二段落を引用しよう。
では、村上春樹が書く「本質的な物語」とは何か。このような重大な論件について、与えられた字数で意を尽くすことは不可能であるが、ひとことだけ言えば、それは「死者とのコミュニケーション」である。村上文学の主人公たちはほとんど全員が「そこにいない人」(しばしば死者たち)を尋ねる仕事を主務とし、「死者」からの聞こえるはずのないメッセージにひたすら耳を澄ませ、「死者」からの言葉をおのれの行動の規矩としようとする。「死者からのメッセージ」を聴き取る能力(または聴き取らねばならないという有責感)が村上文学の主人公を特徴づけている。この能力(あるいは有責感)を軸に生きることをかつて孔子は端的に「礼」と呼んだ。「霊的な生き方」と呼ぶこともできるだろう。
死者からのメッセージをただしく受信することこそが人間の本務であるという信念は世界中のすべての社会集団に共有されている。村上春樹が世界中で読まれているのは、その前衛性によってでも、先端性によってでもない。おそらくはその太古性においてである。
大変興味深い見解だ。もっとも僕は今はほとんど日本の小説は読まないので、村上春樹も同様な一人でしかない。僕が日本の小説を読んでいたのは1960-1970年代で、その頃は中央公論社の日本の文学は一通り読んでいた。作家として最も熱心に読んだのは三島由紀夫だろう。ほぼ並行して、フランス現代文学やサリンジャーやアップダイクなどの米国文学を読んだ。その後は、翻訳物のSF、スリラー・サスペンス類が中心になっていく。アシモフ、ホーガンとベンフォード、フォーサイスとクランシーというわけだ。もちろん、村上龍や田中康夫ぐらいは追いかけたが・・・一般的な小説はぼくにとってはリアリティーが欠けているように思えた。科学的な知識・情報に基づいたSFやクランシーのシミュレーション小説に魅力を感じたのだ。
少し哲学が滲みた今の脳なら少し違った気分で小説も読むこともできる。しばらく前から、村上春樹にもアプローチしている。荒川洋治氏の「文芸時評という感想」で取り上げられた「神の子どもたちはみな踊る」は少し読んでみて、なるほどと思った。{09/18/2006: [日記] 書店にて (2006/09/18)}そして、「ねじまき鳥クロニクル」の3部作も手に入れているが、少し読みかけて停まっている。内田先生の話をきっかけに読むかもしれない。
内田先生が死者の話をするのを最初に読んだのは、J.=M.ドムナック編「構造主義とは何か」の「解説---死者が許さない」においてだが、これは僕が知る唯一の、構造主義が第二次大戦後なぜ現われたのかの説明である。そして、それは思いがけない説明であったように思う。{08/30/2008: [日記] 言葉と物 CXXXVIII - 構造主義とは何か (2008/08/30)}
なぜ、内田先生がこのような認識に至ったのか、これは私が追い求めているものである。どうも「内田樹」を追いかけるべきなのだろう。
うむ、既に追いかけているじゃないか・・・続けよう。
KDDI、「実空間透視ケータイ」の新技術を披露 - @ITネタ。
世界カメラとは違うが、加速度センサー・地磁気センサーとGPSを組み合わせれば、実空間とケータイを結びつけることができる(iPhoneを「世界カメラ」にする件)。
「愚かな考え」--R・ストールマン氏、クラウドコンピューティングを一蹴 - 企業情報 - ZDNet Japanネタ。
人の作ったアプリケーションを使うのは、はなはだ失礼ながらどんな仕掛けが潜んでいるかも知れず、普通は信用して使っているわけだけど、まったく知らないところから入手した場合には最初は気持ちが悪いということはある。スクリプトの場合は誰でも中味を確認できるから、安全度は高い。いずれはそのようにオープンで検証されているものが使われるようになるのかもしれない。
【レビュー】IE8のWebSliceを実現するFirefox 3のアドオン「WebChunks」 (1) WebChunksの概要とインストール | パソコン | マイコミジャーナルネタ。
今ではニュースも放っておくとすぐ見えなくなる。記憶の片隅に残しておくためにメモっておこう。WebSliceはMicroformatのhAtomの拡張である。hAtomについてはhatom - Microformatsを参照。PyBlosxomをhAtomに対応 | 3.14とか、RRR: hAtom対応にしましたとかが参考になるだろう。Greasemonkeyスクリプトのsilog - script/LDRizeなども。
メタタグをHTMLに埋め込んで、RSSやAtomを発行する必要もなくなるという仕組みだが、RSS/Atomを拡張するのも一つの方法だし、いかようにでもできるのがテキスト処理の世界である。RSS/Atomの拡張やMicroformatなど複数の類似しているか、あるいは異なるが関係のあるフォーマットをデータとしていかに統合的に取り扱うかということはWebにおける大きな一つの課題であろう。現時点ではオープンなメタデータベースは登場していない。必要性を感じるところまで事態が進展していないこともあるが、そのうち登場するだろう。