「Appleタブレット」:標的は音楽と書籍市場か | WIRED VISIONネタ。
うーむ。なかなか説得力のある記事だ。実現すればiPod/iTunesを超えた新しいメディアをもたらすかもしれない。もし本当なら、「やられた」と思うね^^;)
書籍ねえ。もちろん電子書籍なんだろうけど。デジタルと紙は半々かと思っていたけど、紙がどこまで残れるかな。Appleが登場するとなんとも言い難い気持ちになる。Appleがどのように本を見せるのか。期待は高まる。
広島市現代美術館。Martin Creedの展覧会。ちょっと期待して出かけたのだが、サボテンの展示ぐらいかな、広告にもなっているけど、ちょっと感心したのは。地下の大きな展示室はからっぽの空間と化していた。少なくとも展示品が少なすぎる感じもした。
最後に少し感心したのは、「マーティン・クリードの言葉から」という作品や作品作りの解説。これは展示しているだけでなく、1枚のバンフが置かれているので、あなたが展覧会に行くつもりなら貰って帰ること。これにもっとも意味がある。それとコレクション展の受付で展覧会のパンフも貰うこと。これがもっとも美的である。このような美術をコンセプチュアル・アートに分類するのだろう。
次の写真は入場券。長さの違う釘が白壁に並べて打たれているだけ。もっともらしい写真になっているが、物としての実体はたいそう貧弱なものである。実際に展示があるので、比較してみると良い。このような芸術は写真とセットでみせなければならない。
Martin Creed展入場券今日、たまたま調べていたエコノミスト(毎日新聞社、2009.7.7)の海外出版事情に毎日新聞ニューヨーク支局からの記事が出ていた。J.D.カリフォルニアなる作者が書いた「ライ麦畑でつかまえて」の続編、60 Years Later: Coming Through the Ryeについて、サリンジャーが出版差し止めの訴訟を起こしたそうだ。
「ライ麦畑でつかまえて」(1951年)は累計5,000万部、現在でも年間25万部売れているのだそうだ。Wikipediaでは累計6,000万部、年間50万部売れているとなっている。いずれにしても、すごいもんだね。90才か。元旦生まれなんだ。おめでたい。
大昔にJ.D.サリンジャーの本を探して、「九つの物語」と「フラニーとゾーイー」ぐらいしか手に入らなくて、隠遁生活に入ったと何かで読んで残念に思った記憶がある。仕方がないねと。
週刊朝日、7/10増大号、マイケル・ジャクソン死の真相の総力特集の109ページ、荒川洋治先生の「新しい読書」(連載最終回 50)は『「1954」の読書』。タイトルどおり、「1Q84」の向うを張っている。
「1Q84」(2009年)そのものにはなんのコメントもない。55年前の日本人は小説(「1Q84」)ではなく小説論と文学史にすいよせられ、1954年は伊藤整の『文学入門」がまたたくまに10万部突破し、当時では大ベストセラーになったと書いてある。
この「文学入門」は伊藤整の「小説の方法」(河出書房、1948年;河出文庫、1951年;新潮文庫、1957年;第11刷、1968年を持っている)と続篇の「小説の認識」を合わせて、やさしく啓蒙書、入門書として書かれたものと瀬沼茂樹氏が「小説の方法」の解説に書いている。「小説の方法」自体も著者の後書きに河出文庫に入ってから6,7年の間に10万部売れたと書かれている。
伊藤整「小説の方法」(新潮文庫、1957年)この本の38ページにチボオデの小説の歴史に書かれている「ドン・キホーテ」に関連して記述があるのだが、フーコーの「言葉と物」の「第三章 表象すること 一 ドン・キホーテ」を思い出した。
「小説の方法」の「理論と実作との距離」の最後(新潮文庫、41ページ)から引用しておこう。古い漢字は新しい漢字に置き換えている。
また彼は、小説は初めは騎士と女性の物語りという細い流れであったが、現在においては、文学のあらゆる流れを集めた海洋のような巨大な際限のないものになったと言っている。そして、そういうチボオデの小説の性格の色々な面の考察は、やっぱり生と密接に流動する海洋のようなものとしての小説の実体に向かって行っているのを知ることができる。そして、そういう意見が暗示している小説の次の段階として、批評や劇や詩やルポルタージュに分け持たれている文学の機能が、やがては小説という広いものに総合されて行くのではないか。そして、それはもはや「小説」という範疇で考えられるものではなく、「文学」という別個なジャンルの発生を促しているのではないか、という空想も可能であると私には考えられるのである。
ドン・キホーテに言及する最初の部分(同上、38ページ)も引用しておこう。
チボオデの描いている小説の歴史では、西ヨーロッパのフランス、イタリアなどで、学識ある男性の読物であったラテン語の書物とは別に、民間に俗語で朗誦された物語りがあり、その記憶の便のために書き記されたものが室内で読まれるようになったものを小説の起源だとしている。家の中にいる女性の興味を中心として恋愛物語りが生まれ、聖地巡礼の宿で読まれるものとして騎士物語りが生まれた。それが小説の二つの脈である。それが印刷術と結びついた。その最初の高峰は「ドン・キホーテ」であったが、なぜこの作品が重要であるかというと、それはドン・キホーテなる人物が当時流行の騎士と恋愛の物語りの興味に取りつかれ、小説の世界と現実の世界との誤差に戸惑うさまを描き、小説の小説を作ったこと、又はそれまでの小説の批評を小説の中で行ったことにある、とチボオデは言っている。・・・
フーコーよりはだいぶわかりやすい(^^;)
マシュー・スケルトン著、大久保寛訳『エンデュミオンと叡智の書』(「エンデュミオン・スプリング」、新潮社、2006年;新潮文庫、2008年)。昨日、夢タウンで購入。めずらしく翌日完読。
Endymion Spring小説の主要な舞台となるボドリアン図書館は、オックスフォード大学の107ある図書館に含まれる。ヨーロッパで最古の図書館のうちの一つ。規模としてはBritish Library - Wikipedia, the free encyclopediaに継ぎ、600万冊を所蔵する。
グーテンベルクの物語りが現代につながるお話なんだが、つなげるキーは何かというと、それが「最後の書」ということになる。児童文学という分類みたいだけど、大人でも十分楽しめる。ハリー・ポッターのように。ハリー・ポッターでも生きている本が出てくるね^^;)狂犬のようだけど・・・
午後6時帰宅時の外気温が35℃。猛暑日。しばらく走ると33℃まで下がったが、暑い。スイッチを入れるとエアコンはフル稼働する。関東・甲信越地方は梅雨明け。いよいよ本格的な夏だ。日曜日に夢タウンで購入。前も一度見たけどやはり欲しくなった。分析哲学や科学哲学という用語を見ると懐かしい。ネルソン・グッドマン著、菅野盾樹訳、『世界制作の方法』(ちくま学芸文庫、2008年;原著: みすず書房、1987年)。
世界制作の方法・・・ここに現われるものは、こう言ってよければ、厳格な制限にゆだねられた根本的相対主義であると述べることができよう。それは、結果的には、非実在論に似たものになるのである。
にもかかわらず、わたしは本書が近代哲学の主流に属すると考えている。この流れは、カントが世界の構造に代えるに心の構造をもってしたときに始まり、C・I・ルイスが心の構造を概念の構造に代えたとき継承された。そして今、この流れは、概念の構造を科学、哲学、藝術、知覚、そして日常談話といったいくつもの記号系(記号システム)の構造に置き換える仕事にあたっている。この動きは、唯一の真理と、不易で単に発見されるにすぎない世界を後にして、制作されつつある、多数の、正しい、衝突さえするヴァージョンないし世界へと向かうのである。
(まえがき、15ページ)
文藝春秋8月号、文藝春秋BOOK倶楽部に評者、佐倉統氏による「村上春樹 社会現象になった七年ぶりの長編 1Q84」の応援書評が出た。新潮社と文藝春秋は仲が良い。夢タウンの奇異国屋書店には四箇所に山のように積まれている。
呂坊人・・・・・
主人君、どうかね。
呂坊人・・・・・
主人おい。君、どうかね。
呂坊人学習中です。・・・・・
無名犬仏、仏、
なぜ、新潮社と文藝春秋社が仲が良いと思うのかというと、新潮社からのダイレクトメールに文藝春秋の定期購読の勧めがあったからである。Wikipediaによると、文藝春秋というタイトルは、文藝春秋を創刊した菊池寛が、新潮で連載していた文芸時評のタイトルだったのだそうだ。
今晩、芥川賞と直木賞の決定がニュースになっていたが・・・昔のように大きな話題にはなりにくくなった。
5/27付中国新聞の「文学の羅針盤」、田中和生氏の評を読んで以来、僕が興味があったのは、文学界新人賞を受賞したイラン人の若い女性、シリン・ネザマフィが書いた「白い紙」なんだが、読んだわけではない。これは「日本語が亡びるとき」との関連で、日本語が亡びるどころか、外国人が日本語を駆使して小説を書く時代が到来したようだが、どのようなものだろうという好奇心からだ。楊逸の「すき・やき」もそうである。
調べてみると、文藝春秋|雑誌|文學界_090601で、「白い紙」の最初の4ページが立ち読みできる。日本語で書かれたイランの現代の物語。日本語として、それほど不自然ではない。ちょっと新しい日本語かもしれない。「白い紙」とはいわばまだ若い人の履歴書のようなものだ。
artonさんの日記は「日々の破片」(L'éclat des jours)というタイトルなんだけど、éclatという単語には「破片」という意味のほかに「破裂すること」、「噂」、「閃光」、「輝き」のような意味がある。単なる破片ではないなあといつも思う。今朝、RubyKaigi2009で初めてプレゼンを拝見した。-xスイッチのWindowsバッチにおける利用法が印象に残った。繰り返し作業に役立てようということは、もともとのスクリプティング言語の存在価値だったから当然とは言え、スクレーピングが主となった現在では逆に新鮮な感じを与えたかもしれない。
「日曜プログラマのひとりごと」は、「日々の破片」、関心のある事柄をできるだけ記録として残しておこうという試みであり、関心事は繰り返し主題として現われる。最近では、繰り返し現われる主題をどう総合していくか、まとめていくかということが関心事となりつつある。
ここで週刊朝日2009.7.24号ネタをもうひとつ。「作家・阿刀田高が読み解く 松本清張の取材ノート」から。松本清張生誕100年。
・・・清張さんは講演のなかでも「今やっている仕事のためではなく、とにかく思いついたときに1行でも2行でも書いておかないと、後で思い出せない。その1行がないと思い出せないことがことがあるんだ」と仰っています。
(36ページ)
思い出すためのメモというものが片方にあり、もう一方には「とにかく書いてみる」ということがある。ここで、文藝春秋8月号ネタをもうひとつ(無名犬: しつこいなあ)。外山滋比古先生の「読者現象」(83ページ)という短文。外山先生の「知的創造のヒント」(講談社現代新書、1977年)は梅棹先生の「知的生産の技術」(岩波新書、1969年)とともに親しんだ本である。知的生産・知的創造の基本的な要素はこれらの本に既にあると思う。
「読者現象」には、3月に休刊となったそうなのだが、僕にとっても懐かしい「英語青年」の読者が求めているものを追求した編集の苦労話、読者論(読書論ではない、「近代読者論」のことかな)に読者が現れなかったという話、そして、最後に二年前から「思考の整理学」(ちくま文庫、1986年;原著: 筑摩書房、「ちくまセミナー1」、1983年)が売れ始めたという話が出ている。僕も2002年の第二十七刷を持っている。ここで、「思考の整理学」で検索してみる。
何度か既に取り上げているねえ・・・^^;) そうか、緑井天満屋の書店で買ったのか・・・まだ、毘沙門台にいた頃だ。もう6年以上が経過している。記憶は既に書き換えられていて、奇異国屋書店でわりと最近購入したように思い出だしていた。それにしては最近過ぎる感じがして検索してみると案の定だった。そうかと思い出してみると、書店の書棚から取り出した場面が走馬灯のようにカラーで思い浮かべられる。これもその時点の記憶かどうかは疑わしいが・・・「とにかく書いてみる」から少し引用しておこう。
まだまだ書けないと思っているときでも、もう書けると、自分に言いきかす。とにかく書き出すと、書くことはあるものだ。おもしろいのは、書いているうちに、頭の中に筋道が立ってくる。頭の中は立体的な世界になっているらしい。あちらにもこちらにもたくさんのことが同時に自己主張している。収拾すべからざる状態という感じは、そこから生じるのであろう。
書くのは線状である。一時にはひとつの線しか引くことができない。「AとBとは同時に存在する」、と考えたとしても、AとBとを完全に同時に表現することは不可能で、かならず、どちらかを先に、他をあとにしないではいられない。
裏から言うと、書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。なれるまでは多少の抵抗があるのはしかたがない。ただ、あまり構えないで、とにかく書いてみる。そうすると、もつれた糸のかたまりを、一本の糸をいと口にして、すこしずつ解きほぐして行くように、だんだん考えていることがはっきりする。
(136ページ)
今日は大雨。朝、蝉も鳴かなかった。明日も降るらしい。アキバ系!電脳空間カウボーイズ: 第二百八十一回 もっとGoogle化しろ!、アキバ系!電脳空間カウボーイズ: 第二百八十二回 Chrome襲撃 前編 、そしてアキバ系!電脳空間カウボーイズ: 第二百八十三回 Chrome襲撃 後編 ネタ。
久し振りのサイバースペースカウボーイズネタ。ケイス氏がしゃべりまくるホットな3回。Google訪問記。グーグル社員のだれもかもがAndroidでなくiPhoneを使っているので、もっとグーグル化(googlize)せよと言って受けたのだそうだ。
暑かった、ぼくらがクロームを焼き付けた夜。モールやプラザの外では、蛾たちがネオンに身体を打ちつけては死んでいたが、ボビーのロフトから漏れてくるのはモニタースクリーンとマトリックスシミュレータの表面の緑と赤のLEDの光だけだった。・・・
(William Gibson, Burning Chrome, Arbor House Publishing Company, 1987; Original: 1986; translated by jscripter)
クローム襲撃の冒頭だが、浅倉久志訳(ハヤカワ文庫、1987年)で読むべきだろう。それはともかく、カウボーイズのクローム襲撃はChrome OSにキブスンを引っ掛けたタイトルだ。もち、GoogleもChromeに引っ掛けているはずだ。解説に山岸真氏は「ギブスンの短篇にはクロームという単語がやたら目につくような気がするのだが」と書かれているが、クローム襲撃以外の短篇でクロームが出てくるのはクロムめっきの意味でしかない。「クローム襲撃」を除くと2回弱/話といったところだろう。
話はだいぶ忘れてしまったけど、おもしろかった。今や、オフラインではPCも使えない時代になったわけで、Chromeの時代なわけだ。クロームはクロームでもGoogleのクロームだけど・・・
Burning Chrome山々の頂まで低く垂れ込めた雲を見ながら帰宅。梅雨らしい日が三日続いた。水害が起きている。恵みの雨とばかりも言えないのが残念。水不足の四国まで前線が南下したのはよかったねえ。
梅雨明けが遅れて雨が続く。典型的な梅雨前線が日本列島を東西に横断している。なんだか、心配事ばかり、疲れ気味で気勢が上がらない。なぜか、誰の詩だったか「わが心にも雨が降る」という言葉が浮かぶ。外気温は23℃。昨日の帰宅時も24℃だった。気温が低いせいか、昨年よりは寝苦しさは少ないか。
ヴェルレーヌの詩で、実際はこうだ。
忘れた小曲
その三
雨はしとしと市(まち)にふる。
アルチュゥル・ランボー
雨の巷(ちまた)に降る如く
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲みは何やらん?
・・・
(堀口大學訳、「ヴェルレーヌ詩集」、新潮文庫、1950年)
雨が降るんじゃなくて、涙が降る。このほうがもっと詩的か。
堀口大學訳「ヴェルレーヌ詩集」22日の朝は橋の上に靄がかかっていて、見通しが悪く徐行したぐらいで、日食が見れるかと危ぶみながら車を走らせた。曇りの状態が続いたので今日は無理かなと思っていたまではよかったのだが、うっかりしていて、気が付いたのは11時半近く。11時半過ぎに部分日食の終わりのほうを薄い雲のフィルターを介して確認しただけだった。ケータイで一応撮影を試みた。光が滲んで境界がよくわからない。4倍に拡大して少し明るさを落としてみる。左横下が欠けているのが辛うじて認められる。肉眼では鮮明に見えたのだが。
終わりかけの日食 11:41:16塩野七生著、「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 2」(新潮文庫、2009年;原著: 中央公論社、1980年)を完読。塩野七生の関心は広範で、ヴェネツィアの海の都としての建築的構造から交易に使われる船の構造、航海術の革新まで言及しているが、いくつか政治・経済関係で引用してみたいところを並べてみよう。
・・・貴族の権利を守る委員会はなかったが、市民の権利を貴族の横暴から守るための委員会はあった。市民は誰でも、この委員会に告訴できたのである。「貴族には正義を、国民にはパンを」のモットーのとおりに。
(135ページ)・・・ヴェネツィアの貴族は、他の国々の同僚とはちがって、国政に参与できるというたったひとつの特権を得、貴族階級に属するという栄誉を与えられる代わりとして、率先して法を守り、率先して税金を納め、率先して戦いの第一線に立たねばならないという義務を課されていたのである。
(136ページ)ヴェネツィアの支配階級は、一度の飢饉さえも、十万から十五万しか人口を持たない国にとって、致命的であることを知っていた。国営の小麦倉庫を管理する役人には、一ヶ月に一度ずつ、正確な在庫量と、それで全人口を養える日数を報告するだけでなく、政府の委員会が必要最小限と認めた量の小麦を、いかなる方法でも確保しておく任務があった。このヴェネツィアに、飢饉は一度も起っていない。
ヴェネツィア共和国は、資源に恵まれない海洋都市国家としては例外的に、一応の国力を維持し続けながら長命を保つのに成功する。・・・
人間の良識を信ずることを基盤としていたフィレンツェの共和政体が一五三〇年に崩壊した後も、それからさらに三百年近く、人間の良識を信じないことを基盤にしていたヴェネツィアの共和政体は、存続することができたのであった。
(168-169ページ)
現在の戦後の日本の歴史も60年を超えたところだが、ヴェネツィアと比較するにはあまりにも状況が違うかもしれない。しかし、ヴェネツィアの歴史に学ぶことは多そうだなと思う。今の時代はだいぶまえから、「隣は何をする人ぞ」の世界になっている。地域的な住民の連携も少ない。政治も身近にはまったく見えない。政治家らしいものを直に見るのは選挙の時だけだ。それも選挙カーから手を振るのが本人かどうかも定かではないというレヴェルに過ぎない。国民があまりにも政治を放置しすぎたのかもしれないというよりは、元々政治に関わる方法・ノウハウもない。政治(立法・行政)と国民・住民との距離がありすぎる。政治家あるいは官僚組織が何にどのように貢献しているのか見せて欲しい。最近、マニフェストばかりがクローズアップしているが、そういう評価の仕組みが必要なのではないか。マニフェストも問題点は何と何と何で、どういう優先順位で取り組み、それを誰がどのようにして、いつまでにやるつもりなのか。それが知りたい。地方政治も同様である。
海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 2広島 花火 | 広島みなと 夢 花火大会 ~花火ミュージアム~ネタ。昼から雨が止んで、蝉が鳴き始めたが、天気予報は雨、雲行きが怪しい中、雨天決行。今年は個人協賛者になって芝生席から見た。
時折、雨がポツポツと落ちてきたが、終了まで奇跡的に傘を差さずに済んだ。帰り道でズボンの裾の後ろが濡れるほど降り始めた。10,000発というが、例年と比べると少し少ない感じ。
過去の日記を調べると一昨年が15,000発、60万人の人出、昨年が10,000発、42万人。今年は38万人の人出と発表された。
開始30分前の芝生席にて雲行きの怪しい空、開始直前に雨が落ちてきた。
オリンパスμ1060のビデオ録画機能を初めて使った。QVGAのサイズで15フレーム/秒で録画。Picasa上で再生しながら、スクリーンショットを取得。320x240ピクセル。後で、μ1060のマニュアルを調べると、VGA(640x480ピクセル)のサイズで30フレーム/秒の録画も選択できる。
翌日の雨の中、広島プリンスホテルよりズームで望む
朝は快晴で、梅雨明けかと思わせたが、梅雨前線は南下したはずなので、そう簡単には梅雨は明けないはずだ。帰宅時には、分厚い雲が戻ってきていた。しかし、しばらく曇りで雨は降らない予報だ。今日は、若い友人とだべりながら帰ってきた。
最近元気なものは世界ではAmazon、Apple、Googleだけど、日本では何があるかなという話をした。まずはユニクロ、任天堂。そして教えてくれたのは、マックはマックでもマクドナルド。夏休みは子どもさんを連れて入り浸りになりそうだという話。DSのソフトをダウンロードして遊べるらしい。これを「マックでDS」という。それからディズニーランド。今年はどうか知らないけど、去年はよかったらしい。
どこかの昨年対比の数字を見るとAmazonもいいらしいので、Apple、Googleに加えたのだが。最近、Kindleという電子ブックリーダーが話題になっている。ジョブス氏は最近はみんな本を読まないんだとどこかで貶していたが。AppleのタブレットMacのターゲットは書籍市場でもあるという。雑誌などは記事単位の販売ということも考えられるねと思う。安く売れる。曲をアルバム単位でなく、曲単位で販売するのと同じだ。読者も読みたいものだけ購入することができるようになる。電子媒体だからこそ可能になる話である。本当にそのようなことになるかどうかしらないけど、そうなるとおもしろい。同様に新聞も記事単位の販売も有り得るね。
Appleの切り口は切れ味が良い。iPod/iTunesに驚いたが、またメディアに革新をもたらすかも。
【笠原一輝のユビキタス情報局】 Wintel帝国崩壊の第一歩となるか、Google Chrome OSの衝撃ネタ。グーグルの「Chrome OS」計画--「OSの再考」はテクノロジ業界を変えるか:スペシャルレポート - page3 - CNET Japanやマイクロソフトの新ブラウザ「Gazelle」の可能性--ブラウザはOSに近づけるか:スペシャルレポート - CNET Japanも参考になるかもしれない。
Linuxを使って、ローカルApache+スクリプティング言語+Firefoxなどでも既に十分なのでと思っているのだが、そして、もちろん、OpenOfiice.orgやGimpなどを付け加えても良い。ブラウザですべてを賄おうとするのが合理的かどうかはもう少し様子を見てから結論を出してもよいだろうが、できてもおかしくない時代に入っているのだろう。従って、衝撃というよりは、今ここにある未来というべきか。
Google Chrome OSは、そういった可能性をわかりやすくまとめて提示することになるのだろうと思われる。どこかの記事で日本語の場合はかな漢字変換などのローカライズにコストが掛かるだろうと予測していたが、そうかもしれない。全世界の言葉を自由自在に使えるようになるとおもしろいのだが・・・
予測。Google Chrome OSはエディタ機能を持つだろう。最早、Webを作成・編集できなくてはOSとは言えない。こんな具合だ。Webページを表示させる。Webページを編集状態にして、メモなどを追加してローカルに保存し、データベース管理する。テキストだけでなく画像なども編集加工できるようになるのかもしれない。
googleケータイは歴史の変換点となるか?--「HT-03A」発売に向けブロガーイベント開催:ニュース - CNET Japanや【PC Watch】 Google、Chrome OSに関する3つのFAQを公開ネタなど最近の多くのネタ^^;)
Googleが矢継ぎ早に打ち出すサービスやフレームワークに圧倒されてしまう。Google Chrome OSやAndroidなど、よりハードウェアに密着して、パフォーマンスを最速化・最適化する方向に進み始めた。さて、どのような姿になるのか楽しみである。
マイクロソフトが霞んでしまいそうだが、次のマシンをどうするのか。悩みそうな気がしている。しかし、メインのデスクトップでWindows環境から離れるにはまだまだ時間が掛かりそうだ。好みのエディタやメーラーがWindowsでしか動かないからね。
梅棹先生の「知的生産の技術」(1969年)には次のよう書かれている。
よみ、かき、計算ができる、というのは近代市民としてあたりまえのことである。現代では、それだけではすまなくなってきているのである。たとえば、電話帳のようなものでも、単に字がよめるということだけでは、つかいこなせないものである。百科事典とか、図書館とか、そんなものも、よみ・かきだけでは利用できない。書類の整理、検討、発表というようなことになると、これはかなりの訓練がいる。今日では、情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養として、たいせつなものになりつつあるのではないか。
ややさきばしったいいかたになるかもしれないが、わたしは、たとえばコンピューターのプログラムのかきかたなどが、個人としてのもっとも基礎的な技能となる日が、意外とはやくくるのではないかとかんがえている。すでにアメリカでは、初等教育においてコンピューター用の言語FORTRANをおしえることがはじまったようだ。社会が、いままでのように人間だけでなりたっているものではなくなって、人間と機械とが緊密にむすびあった体系という意味で、いわゆるマン・マシン・システムの展開へすすむことが必至であるとするならば、それも当然であろう。
(15-16ページ)
残念ながら、現代ではプログラミングが個人の基礎的素養とはならずにアプリケーションの使い方が素養となってしまった。しかし、情報の検索に関しては、誰もがGoogleなどを通じて親しむものとなった。今後、インターネットやGoogleの利用を通じて、プログラミングが素養として必要な時代となっていくかもしれない。
「Google Chrome OS」の可能性--Windowsに挑むウェブOS:スペシャルレポート - CNET Japanネタ。
著者の言によると、Chrome OSは「ウェブアプリケーションへの接続ルートとして機能し、Chrome OSはGoogleがネットブックにChromeブラウザをインストールするための手段」とされているのだが、本当にそうなのかな。それならWindows 7/XPにChromeブラウザをインストールすれば済む話である。それにWebアプリケーションはChromeブラウザでなくとも使えるし。なにしろ、Webは標準なのだから、Googleを使うのに誰も困っていない。
他に、GoogleがChrome OSを開発する狙いを深読みしてみた(第82回):塩田紳二「モバイルトレンド」のような予測もある。しかし、X Window/Linuxで動くChromeブラウザと違うものを別に開発する手間を掛けるのだろうか。Googleの目的がデスクトップ情報の収集であれば、使う人はよくわかっていないか、個人情報に無頓着な人ということになるだろう。ネットブック用にChromeブラウザ専用の軽いウインドウマネージャを開発するというのならわかるような気はするが。
もうひとつ、404 Blog Not Found:news - Google Chrome OS ってどう(なる)よ?。現物を見ないとわからないというのが本当のところですか。
GoogleはChromeブラウザやChrome OSをWebアプリケーションの進化を推進するエンジンと考えているのだろうと思うのだが。MS Windowsと差別化するような機能をChrome OSに持たせていくのかもしれない。それはWebを表示するだけでなく、コンテンツを作成するような本来デスクトップの仕事をするための機能をWebブラウザに持たせるためかもしれない。これは僕がそうあって欲しいと願っていることに過ぎないのだが。そして、これはGoogleにとってもメリットがある。なぜならコンテンツを作成するような重い処理をWebサーバーでやるのは得策ではない。クライアントのデスクトップで各自処理させるのがGoogleのサーバーの負担を下げるのにつながるのである。
週刊朝日2009.7.24号の「田原総一朗のギロン堂 そこが聞きたい!」連載546、「次世代を牽引する産業が見えない世界の不幸」ネタ。最後の部分。
アメリカのものづくり産業が時代に適合しなくなったのは、GMやクライスラーなどビッグ3の問題で明らかである。しかし、ものづくりで勝負できなくなって金融にシフトしたアメリカが、その金融産業を破綻させて、どんな産業で立ち上がることができるのか。金融産業にもシフトできなかった日本は、いったいどのようにすればよいのか。
(41ページ)
うむ、この総括は妥当なのかどうか。文藝春秋8月号、池上彰氏の「今月買った本 連載90 ニュースの深層」には「なぜGMは転落したのか」、「GMの言い分」が取り上げられている。
GMは、売れない車を作り続けていたから日本車に負けたのではない。そこには、アメリカの年金制度や健康保険制度の不備・欠陥があり、それをGMという一企業でカバーしようとしたため、労務費のコストがかかり過ぎ、没落していったことがわかります。
(392ページ)
答えは、これからGMが再生するかどうかで検証されるだろう。GM車が米国で売れていないわけではない。年金問題の先送りは、日本は国家的にやっているわけで、他人事ではないということだ。
実は、文藝春秋8月号は『総力特集 さらば「アメリカの時代」』に、映画評論家・コラムニストの町山智浩氏の『「GM破綻」ぬけがらデトロイトをゆく アメリカ繁栄の象徴の街が辿った破滅への道程 』がある。この記事の中味はすべてが現在のアメリカの存在の困難さを示していて、衝撃的なのだが、その最後の部分。
そして彼は日本に警告した。
「今、中国やインドが自動車を作り始めている。たしかにまだ拙くて、猿真似の域を出ない代物だ。でも、我々も最初に日本車を見たときにそう思ったんだ。中国やインドの車の品質も向上するかもしれない。そうなった時、価格競争で中国に太刀打ちできると思うかい?それじゃアメリカと同じ道だな(笑)」
見渡す限りに広がるフリントのGM跡地はゆっくりと朽ち果て大自然に還りつつある。この姿が日本の将来ではないと誰が言い切れるのか。
(147ページ)
フリントというのはGM発祥の地であり、「アメリカで最も荒廃した街」と呼ばれている。自動車産業について言えば、日本の経済もアメリカに連動しているので、今や立場は同じだ。まずいよね。しかし、GMは1970年代の後半からフリントの工場の縮小を始めていたのだ。1970年代に日本車の品質はアメリカ車の品質を追い抜いた。
それはともかく、それはともかくどころではないかもしれないが、次世代の産業はどうなるのか。日本はどこへいくのか。世界はどこへ行くのか。その答えが見えていないのも確かだ。混迷を深める自民党は日本や世界の縮図なのかもしれない。
経済の仕組み自体が機能不全に陥っているように思うし、意味を失いつつあるようにも思える。余剰資金が利益を最大化するために投資先を求めて右往左往する。そのたびに経済が不安定化する。もう少し、経済・金融システムの在りかたを工夫すべきだし、どうあるべきかも考えるべきだろう。
環境問題は地球温暖化・CO2排出規制という言葉で一括りにされる傾向があるが、もっと人間の生活を豊かにするためには何が必要かという観点から見直さないといけない。そこに次世代の産業をマッチさせるべきだろう。
グローバル化は各国の利害が対立するために自国の思う通りにはならない。当然だ。話し合いだけで進むのか疑問だ。個別の最適化ではなくて、全体の最適化をする必要があるわけだが、南北格差、東西格差、すなわちグローバル的思考からは歴史的既得権益格差(国家格差)の短期間の調整は現実的に難しい。結局、現在と同様、各国のグローバルな競争的経済活動による相互作用と結果的な調整に依存せざるを得ない。しかし、グローバル経済の影響を受けすぎることは危険だ。自国の経済状況が他国の経済発展に依存するという図式は、わからないではないが、自国だけで制御できないという意味で大層不安定なものだ。そうすると、自給自足という考え方が出てくる。すべては難しいのだろうが、リスクを最小化するためにそういう方法を組み合わせていく必要があるだろう。特に農業のことを指しているわけだが。食料を外部に依存するのは常識的に考えても大変危険だろう。
塩野七生氏は『海の中の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 1」(新潮文庫、2009年)の第1話「ヴェネツィア誕生」で次のように述べている。
海の都の物語 1それが十二世紀を境に一変するのである。住民共同体的であった教区(バロッキア)の役割はぐっと後退し、代って、行政組織としてのセスティエレと呼ばれる区制が敷かれるのである。
教区が廃止されたのではない。これがヴェネツィアの行政の特色となるのだが、彼らは、中央集権化する過程で、絶対に以前の形態を捨てない。教区では、人々は、以前と同じように彼らの教会を持ち、それぞれの祭りを行い、教区ごとの市を開きつづける。しかし、以前のように、その内部でたいがいのことがまにあう、ということではなくなっただけである。
これは、ヴェネツィアの都市化と入ってもよいだろう。進歩に要するすべてのエネルギーは都市からしか生まれない、とわたしは信じている。自給自足の概念を捨てきったところにしか生まれない、と言い換えてもよい。
(68-69ページ)
自給自足というとグローバル化に反するようにも考えられるが、全体最適化であれば問題はない。都市化が究極に達した現代には、前述の自給自足という概念は都市を越えた国家の中にある。自給自足の概念はともかく、ヴェネツィア人の現実主義的感覚に学ぶことは多いだろう。現実は常に流動し、変化し続けることも間違いないわけで、様々な選択肢を機敏に選び取り、最適化し続けることが必要なんだろう。
無名犬よくそれだけ好きなことを言えるなあ・・・
呂坊人学習中です。・・・・・
文藝春秋八月号に長尾真氏(国立国会図書館館長)が「世界電子図書館へようこそ」という文を書かれている。
へーっ。へーっとか、ほーっとかばかりで申し訳ないが、知らなかったね。なかなか素晴らしいものだ。如何に役に立てるかが問題。
著者の長尾真氏の名前は見覚えがあるので、書棚を調べると、「人工知能と人間」(岩波新書、1992年)が見つかる。コンピュータを用いた表現と哲学における考え方の比較などに踏み込んでいる。現在読んでも新しく興味深い本である。現在は、コンピューティングもノウハウや応用ばかりでまったくおもしろくない。原理的な部分で進化したいものだと思う。
人工知能と人間知識のネットワーク世界を構成するものは言葉を用いて説明される。普通の人が普通に認識できる物や事についてはそれでよいだろう。しかしすべての物質の基本要素となっている原子や分子の意味の説明がわれわれの知っている言葉の組合せで説明されるという意味では複合概念とみなされざるをえないのはどうしてだろう。これは次のように考えてはどうだろうか。世界を構成している基本的なもの(X)が、言葉の世界における基本的な概念(Y)の組合せによって説明しうるのは、「XはYのようなものである」という表現で、言葉の世界で理解しうるもの(Y)との対比(アナロジー)でXが説明されるからではないだろうか。そもそも素粒子が素な粒子であるという言葉の意味からの類似性、つまり比喩によってその物がイメージとして把握されていることからも、それが想像される。言葉の働きに比喩という機能がなかったとしたら、このようなことはありえず、新しい発見や創造、新しい世界というものが説明できないということになる。そういった意味でも比喩的な意味という機能は言語の持つ本質的な機能であり、これなくしては言語ということはできないだろう。プログラミング言語が言語と認められないのはこの機能の欠如にある。
(189-190ページ)
昨年のトークだが、
最近買うCDの包装に様々な形態が出てくるのに、いろいろみんな工夫をしているなあと感心していたのだが、古いLPの復刻版CDを精密に縮小再生した紙ジャケットで出しているという話がウェークアップ!ぷらすで紹介されていた。
上記の例のように包装コストを下げたり、プラスチックの使用量を下げるために紙を使うという発想から、紙の良さを積極的に引き出した紙ジャケCDそのものの1例。
プーランク ピアノ・室内楽集4枚組み4枚組みでも1枚1枚にジャケットが付いていて、曲目・演奏者などを見るにも大変便利だ。CDは紙ジャケットにそのまま収納されていて、気楽に取り扱える。プラスチックケースに複数のCDを収納した場合の扱いにくさの問題を解決している。外盤でジャケットやライナーノーツは翻訳されておらず、録音は1964-1983年と古いが、4枚組みで2,600円と安い。ジャケットに使われている絵はスーラの「アニエールの水浴」。
Apple vs. Googleでもよいわけだけど。最近、ハイテクネタが少ないので。モバイル・アプリを巡る「Google対Appleの闘い」 | WIRED VISIONネタ。
Googleとしては、Webブラウザが動けばどのようなプラットフォームでも、というよりはすべてのプラットフォームがマーケットである。Chrome OSはいわばLinuxプラットフォームの標準化というか、Google標準のようなものを示してオープンソース化し、トータルの開発コストを下げようという動きではないかと思われる。Androidはケータイ版Chrome OSということだ。Mac OS XとiPhone OSの関係にあるのだろう。
AppleはPCのハードウェア(Mac)とソフトウェア(Mac OS X)の両方を統合的かつ独占的に開発し続けている唯一のメーカーである。それにも関わらず、iTunesはWindowsでも動作するが、PCマーケットでシェアの低いLinuxはサポートされていない。iTunesはiPod/iPhoneを売るためのプラットフォームだからだ。iTunesはハードウェアを売るための初めてのプラットフォーム型アプリケーションとして歴史に残るだろう。既にデスクトップOS中心の時代は去ったのである。Webとデスクトップを融合するアプリケーションの時代となった。すなわち、iTunesであり、Webブラウザであり、Picasaである。今後の注目点は、iTunesがChrome OSで動くようになるかどうかである。Linuxが普及しない障害はiTunesが動かないことであるとの意見もある。現時点のSongbird - Open Source Music Playerをチェックしてみるべきかもしれないが。
「iPod touchにカメラとマイク」:Skypeで電話にも変貌 | WIRED VISIONのような記事も出たし、Appleの利益を最大化する方向にどんどん変化していくだろう。AppleやGoogleはトレンドメーカーというだけでなく、電話会社でないだけに変化をもたらす中核となっていくのでは。
グーグル、「iPhone」向け「Google Latitude」をリリース:ニュース - CNET Japanに見るようにiPhoneもGoogleのプラットフォームなのである。Googleはマーケットの状況に合わせて、必要なプラットフォームに対応させていくだけだから、Appleと対立する必要や理由はあまりないだろう。
今朝の荒川洋治先生は、新聞のスクラップ講習会が夏休み全国各地で開かれていて盛況という話をされた。新聞配達店が2週間無料配達サービスなどの試みもあるらしい。
昔は、ノートに新聞記事を書き写して、紛争世界地図などにまとめられたのだそうだ。すごいな。確かに新聞を詳細に調べて系統的に整理していけば世界が見えてくるかもしれない。
本日記もライフログ化しているのだが、新聞を切り抜いて大っぴらに貼り付けるわけにもいかないけどね。
【コラム】シリコンバレー101 (328) 平均700ドル - 止まらないPC価格の下落、本体で儲ける時代は終わり!? | ネット | マイコミジャーナルネタ。
本体で儲ける時代が終わりというのも奇妙な話で、PCメーカーは何で儲けるのという話になる。PCだけではなく関連のある他のものも売っていて別格なのはAppleだけなんだけど、AppleはPCを最も高く売っているわけで、逆だ。
他に何か・・・PCとセットでサービスを売る。よく考えてみれば、他のものと比較すると700ドルでも安くはない。700ドルにもう少し色を付ければ、PS3が今なら2台買える。ソニーならゲームを売れるが、PCメーカーに何が売れるか。
昔は、軽自動車と同じぐらいの価格がしていた時代もあったのに・・・
OSCON 2009 - O'Reilly Conferences, July 20 - 24, 2009, San Jose, CAから、Hacking Rakudo Perl経由、Presentationネタ。OSCON 2009で、Patrick R. Michaud氏は「Hacking Rakudo Perl」のプレゼンで、Rakudo 1.0の2010年春のリリースを計画していると述べた(らしい)。
Larry Wall氏のプレゼンの内容(Speaker: Larry Wall)がまだわからないのだが・・・Notes from OSCON 2009 in San Jose | ecmarchitect.comには、Larry Wallに言及があるのだが、内容には触れていない。
マルチプラットフォーム言語「haXe」、C++にも対応した最新版をリリース | エンタープライズ | マイコミジャーナルネタ。
初めて聞いた言語なのだが・・・おもしろそうだが、インストーラ付きのダウンロードを試みると、トロイの木馬が付いているとMcAfeeが言って削除されてしまう。まあ、焦らずともよいか^^;)
日中は暑さから逃れて、電脳空間カウボーイズのPodcastやRubyKaigi2009の中継を聴いたり、見たりしていた。暗くなって散歩に出たが、まだ日中の暑さの残渣が漂っている。
テクニカルな話題では、桑田さんという方のErubis: fast and extensible eRuby implementationの話がおもしろかった。Erubisとは別に、Tenjinという高速なテンプレートエンジンを開発されている。むしろこちらの話が聞きたかったが・・・こちらはRubyだけの話でもないようだが、本命なのでは。
テンプレートの高速性は、スクリプトから直接出力するのと比較して欲しい。それよりも速ければ意味があるだろうけどね。結局、別の言語を設計するのと同じ話になって、僕なんかは元のままの言語をテンプレートを介さずにそのまま出力するのでいいじゃないと思ってしまう。再利用できるほどのテンプレートってどれほどあるのだろう。MVCフレームワークではテンプレートを使うのがお約束事みたいなのだが・・・
最後の高橋征義氏の基調講演も興味深かった。特にRailsとRubyの文化の違いがどのように融合していくのか、あるいは分断していくのか。自然言語の違いは大きい。言語だけでもないだろうが、どのように問題を解決していくのか大変興味深い。日本発のプロジェクトの試金石となるだろう。昔、まつもとさんが、機械翻訳でもいいから、とにかく発信しようと呼びかけられていたのが記憶に残っているが・・・
SunのJRuby主要開発者がEngine Yardへ移籍 - 「次のステップに進むために」 | エンタープライズ | マイコミジャーナルネタ。
それほどコメントすることもないけど、なかなか大変だなと思う。
『風呂で読む漱石の漢詩』豊福健二 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇ネタ。
養老先生がどこかで風呂で読書をする仕方を書かれているはずなんだが、まだどのような方法を取られているのかわからない。松岡先生の方法が明かされた。
塩野七生『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』(中央公論社、1980年;新潮文庫、2009年)。第3巻と第6巻に文庫への新しい解説が付いている。ヨーロッパの歴史を知りたいなら、そしてヨーロッパ人を知りたいなら、塩野七生を読め。ということになるのかもしれないと思いながら、棚から一掴み。
『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』1,2フーコーの「言葉と物」の読解には塩野七生の薬味が必須のような状況なのだ。
要はだ。日本の文学も遡ると、ルネッサンス末期のセルバンテスまで遡る必要性が出てくるし、とにかく西欧を理解しなくてはなんとも先に進めないのだ。そして、コンピュータとインターネットが絡み合った奇妙なポストモダンの現代を理解するにも歴史を理解することが必要である。視覚を獲得した生物がカンブリア紀に生命の大爆発を起こしたように、情報や記憶がメディアの影響を受けて、その結果人間がどのような変貌を遂げるのかを理解するには、もっとシンプルな世界から理解しなくてはならない。
それはともかく、ヴェネツィアって昔はベニスって呼んでいたと思うんだが、それに一千年の歴史があろうとは知らなかったね。これで中世を遡れるわけだけど、最近出た「ローマ亡き後の地中海世界」も立ち読みしてみるとおもしろそうだ。上下で6000円はちょっと立ち止まってしまうんだが・・・文庫本はいつ出るんだろう^^;)塩野七生にルネッサンス以後も書かせてみたいね。とえらそうに言ってみる。
週刊朝日、2009年8月7日号。ポストモダン化する日記「東浩紀の批評するココロ」13、「皆既日食見て、ゼロ年代に欠けていたものを想う」ネタ。
ゼロ年代って、やはり西暦2000年代ってことだろうなと思いながら、でも2000年生まれじゃまだ小学生じゃないと、Yahoo!辞書 - ゼロ年代を調べて納得。2000年で20-30代で発言を始めた評論家たちのことを言っている。
佐々木敦著「ニッポンの思想」、毛利嘉孝著「ストリートの思想」を80年代以降の日本の思想状況を概観する書籍として推薦しているのだが、最後でひっくり返して全体がどうしようもなく貧しい話だということになり、素朴で知的な感動を思想に昇華する試みがゼロ年代には欠けているという話で終わる。
僕が思うのは、戦後や80年代をいくら詳細に辿ったところで、それだけでは何もわからないかなということ。確かにそんなことだったなという程度の話でしかない。僕が読んだのは、本上まもる著「<ポストモダン>とは何だったのか」と仲正昌樹著「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」だけど。
今、自分が何をしたいのか、何をしようとしているのかを明確に述べることは難しい。結局、生きることは自分とは何なのかを巡る旅なのである。そして、それは必然的に他人とは何なのかを巡る旅でもある。一般化すればそれは人間とは何なのかを巡る旅である。そして、さらには自分が生きている世界とは何なのかを巡る旅である。それは生物として当然の欲求であろうとも思ったりしている。生存の欲求を満たすために。
現実社会は複雑だ。ここにはあらゆる要素がある。この仕組みを解明し、理解することが必要である。まず何から・・・マネーについて!?「海の都の物語」の海洋都市国家の交易と戦争の歴史を読みながら・・・最近、どこかで、マネーの台頭という本があることを知った。さっきそのことを思い出した。毎日新聞社のエコノミスト誌だったか。
知羊 IntelSheep: The Ascent of Money(Niall Ferguson)マネーの台頭のような昨年末の記事が出てくるが、翻訳はまだかな・・・我日記のカテゴリはいくらでも拡張可能である。
KJ法の生みの親、文化人類学者の川喜田二郎氏死去 - スラッシュドット・ジャパン経由、asahi.com(朝日新聞社):「KJ法」創始者、文化人類学者の川喜田二郎さん死去 - おくやみ・訃報。89歳。
ご冥福をお祈りします。
梅棹忠夫先生の「知的生産の技術」(1969年)には、こざね法というカード間の論理的な脈絡を導き出す方法が紹介されていて、『これは川喜田二郎君の体系で言えば、・・・「KJ法B型による文章化」とよばれているものと、ほぼ同じである。KJ法については、かれの著書「発想法」(中公新書)をよまれることをおすすめする』(266ページ)とある。「発想法」は手元に見当たらないが、「知的生産の技術」よりもだいぶ早い1961年に刊行されている。KJ法は社会的な流行になった時期があって入社時の研修で学んだ記憶がある。チームで発想する方法として使いやすいものだろう。Wikipediaによれば、KJ法という用語は商標登録されているのだそうだ。
書棚の川喜田二郎の著書を探してみると、「チームワーク 組織の中で自己を実現する」(カッパ・ビジネス、1966年)、「可能性の探検」(講談社現代新書、1967年)、「野外科学の方法 思考と探検」(中公新書、1973年)が見つかった。
「野外科学の方法」を読み返していると、最後に付論として、ティコシナーの探究学「ゼテティクス」と「発想法」、KJ法の類似性について書かれている。Wikipediaによると、ティコシナーはポーランドのエンジニアでトーキーのパイオニアなのだそうだ。
「野外科学の方法」の最後の方、201ページにOutline of Zeteticsから知識の諸領域という図が翻訳されて引用されていて、大変興味深いものだ。知識の諸領域が12に分類され、しかし、単なる分類ではなく、諸領域に介在する学問によって円環的・循環的に矢印で関連付けられている。図の中央部が詳細に読み取れないのだが、知識の諸領域の循環プロセスから問題解決に向かって進む方向が示されているらしい。一種の曼荼羅のように見える。
Outline of zeteticsものごとの認識は知識の諸領域を循環して螺旋状に登るように高まっていくのだが、KJ法の場合は累積KJ法といって、KJ法を繰り返すことによって、行きつ戻りつ、新しい知識を取り込みながら、認識を高めていく。
ティコシナー教授のゼテティクスの紹介の次のセクションには「問題解決学の時代」とある。しかし、今日の混迷の時代ほど問題解決学が求められている時代はないかもしれない。環境・経済・政治そして人間という存在を含めた、複雑に縺れた「地球」という問題を解かねばならないのだから。
ちょっと、空の様子がめずらしいなと思って昨日撮影。
雲 1今日も雨。山口県は記録的豪雨で防府のほうはひどい水害になっている。明日は皆既日食だけど、夜間もまだ降りそうだし、それどころではないような。
衆議院解散。経済も大雨。政治の役割の大切さを再認識して取り組んで欲しい。しかし、仕切りなおしが40日先ではスピード感がないねえ。自己変革できるのだろうか。それはともかくつるし上げ状態の官僚の意見も聞いてみたいものだと思うのはぼくだけだろうか。あまりいい姿は見えてこないけど。官僚が政策を具体化して実行するわけだから、一方的なのはよくないような気がする。