今朝の外気温2-3℃、帰宅時7℃、小雨。テーマが五つぐらいまで増えた。そのうち三つがほぼ同時に頭の中でグジャグジャになってきた。そのうち新たに発生した一つは帰宅してからメールを読んで知ったのだが・・・趣味の世界は自分でなんとでも調整できる。帰宅すると、注文していた「実例で学ぶゲームAIプログラミング」(Mat Buckland著、松田晃一訳、オライリー・ジャパン、2007年)が届いていた。届いたのは、2014年の初版第6刷、この種の本にしてはよく売れている。さすが、ゲーム関係だからか。ゲームAIは「人間の良き遊び相手」となるか?【三宅陽一郎×山本貴光】の記事で知って注文した。
「人工知能のための哲学塾」と「実例で学ぶゲームAIプログラミング」「ゲームAIプログラミング」は約10年前の本だが、出発点を押さえるためには必要だと思った。10年前に「ゲームAI」という概念で本を書いたのはやはり素晴らしいと思う。そして、500ページを超える分量に惚れた。定価3,800円也。
日記をゲームとして考えることができないかという問題意識で購入した。日記もゲームもデータとの相互作用をインターフェースにどのようにデザインするかという話になるわけだ。
「実例で学ぶゲームAIプログラミング」の表紙を見て思ったのは、そう言えば、これは何のプログラミング言語を使うのだっけということ。まったく頭が回っていなかった。C++とLua。まあ、別に何でもいいんだけど、哲学が問題なんだよ。よかったのは、有限ステートマシン(有限オートマトン)の実装について書かれているところ。そんな本は初めて見た。Luaのようなスクリプト言語の組み込み方についても一章を割いている。Luaがゲームのプログラミングによく使われていることは知っていたけど、実例を見ることができる。
哲学塾のほうは、また別の日にネタにしよう。今日はいささか疲れた。
さて、今日はいい天気だった。今日は「コバート・アフェア」というCIAものを見始めた。まあまあかな。エピソード2まで見て、「Mozart in the Jungle」に切り替えた。シーズン3、エピソード9をもう一度最初から見ている。
ブックカフェ7の課題図書、多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫、2000年)をあらかた通して読んでみた。まずベンヤミンを読んで、精読の解説部分を読んだ。本体70ページ、精読135ページ。
結局、複製技術時代の芸術作品は写真や映画なのだ。現代では、僕らはその中にどっぷり浸かっているに過ぎないと思っていたが、芸術にもなにやら社会的機能があるということを思い出させてくれた。そして「アウラ」がキーワード。現代の複製技術による芸術作品からは「アウラ」が消失しているという。「アウラ」って何だろう。一回性のもの・・・それがどうしたというのだ。
いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと---これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。・・・
(多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』、144ページ)
この日記にはあまり社会と言う概念は含まれていない。この方向性を目指すためにはもっと足掛かりが必要だ。読んでいると、社会的機能とか、政治とかという言葉が突然現れるように感じてしまう。
絵は絵画(タブロー)から石版画が出てくるところが大きな変化のように書いてあるのだが、さらにそれは写真、そして映画に進化していく。石版画がそんなに技術的に高度なものかと調べてみると、リトグラフ、平版のことを指している。なるほど、やはり一種の版画だ。複製技術の進化によって、人間の知覚などがどのように影響を受けるか。それは社会や政治に反映されることになる?
ちょっと、なんだか、しっくりこなくて、モリス・バーマンの「デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化」(柴田元幸訳、国文社、1989年;原著: The Reenchantment of The World、1981年)を引っ張り出して読みはじめた。科学的思考の発達は、魔法が解ける過程である。それにまた魔法を掛けるとは・・・購入の切っ掛けになった1241夜『デカルトからベイトソンへ』モリス・バーマン|松岡正剛の千夜千冊をもう一度読んでみないと・・・
ただバーマンは、この魔術から科学への変容によって「ミメーシス」という世界観もがたがたと解体していったことを強調していて、そこが本書の重要な指摘になっている(本書ではミメーシスは「一体化」と訳されている)。
これが、おそらく、アウラの消失と関係がある。「精読」ではミメーシスは()付で「模倣」と訳されている。これは心に写し取る(知覚、呼吸する)という意味で「一体化」という訳が出てくるのだろう。写真はアウラを持たない複製である。人間のアウラを持たないというべきかもしれないが・・・
松岡正剛先生は次のようにも言われている。
『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』と「デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化」もっとも、この「再魔術化」という用語はくせもので、文字どおりの魔術化とは受け取れない。本書の原題が“The Reenchantment of the World”となっているように、re-enchantment、すなわち「新たに魅了する」ということが主題になっていると見たほうがいい。・・・
第九章「意識の政治学」に古代中国の予言書「易経」の言葉が引用されている。
めざすべきは、人類全体が満足できる政治的あるいは社会的組織である。我々は、人生のもっとも根本的なところに降りて行かなければならない。生のもっとも深い必要が満たされないような、表面的な生の秩序化などまったく無益であり、何ら秩序をめざさないのと同じことである。
(328-329ページ)
具体的には、本書の322-325ページに社会のあるべき姿が叙述されている。最後だけ引用しておこう。
・・・都市はふたたび生と喜びの中心となるだろう。ギリシャ語でいうアゴラ(素晴らしい言葉だ)、市場であり出会いの場所である都市がよみがえり、フィリップ・アリエスの言う「さまざまな色のメドレー」がよみがえるのだ。人は自分の仕事に密接して生き、仕事、人生、娯楽という区別がほとんど意味をなさなくなるだろう。
(325ページ)
今ならともかく、1981年の時点でここまでの思索を深めていたとは驚くべきことである。いつの世も、世界の課題は同じなのかもしれない。モリス・バーマンの最近の動向も追い掛けなくてはと思うが、他の著作は翻訳されていないようだ。本書は既に中古でしか手に入らない高価な書物となっている。時代にマッチして、人気が出てきているのだろう。僕は2008年に購入した。再版される価値のある書だと思う。他の著作も是非翻訳してほしい。
ミシェル・フーコーの「言葉と物」(1966年)の最後の部分のことが書いてある。本日記では[本]言葉と物 (2006/11/11)で言及している部分。
・・・自我がこのように歴史的につくられたものとすれば、現在の形の社会が消滅するとき、我々が理解しているところの「人間」もまた消滅するのではないか? 「人間」の終焉。この不気味な結論こそ、『言葉と物』の結末においてミシェル・フーコーが避けようとして避けられなかった結論ではなかったか。言いかえれば、生のあり方が変わるとすれば、それは、自我力を善と考える姿勢が消滅するというだけではなく、存在の方法としての自我力そのものが消滅し、したがっていま我々が思い描いている「人間」そのものが消滅することになるかもしれないのだ。・・・
(第六章 エロスふたたび、175ページ)
前に考えたのは9年弱前ということになる。ようやく、次のステップに進む。
WIREDのVol.27は「サイエンスのゆくえ」、科学はどこからきて、どこへいくのか? になるというメールが届いた。最先端がどうなっているのかということもある。
十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかないと言ったのはアーサー・C・クラークだが、今やそれを超えてサイエンスは思弁的なものになりつつあるようにも見える。サイエンスはサイエンスで、奥深く世界の本質に迫ろうとしている。それはどこかでつながるのかもしれない・・・
帰宅時の外気温は14℃。春一番が吹いた。マフラーもハーフコートも車の後部座席にカバンと一緒に放り込んで、N氏を横に載せて駄弁りながら帰宅。世の中、なにごともすべて都合よくはいかないが、いいこともある。欲張らずにいこうか。読みたい本は山ほどあるが、ヌーヴォー・ロマンやポストモダンの出現の理由、1950-1970年代に起きたことをもう少し理解したかった。しかし、最早2017年だ。それに何の意味がある。その間に何があったか。そこを生きてきたのにわからないのか。
ミシェル・ビュトール「ミラノ通り」(竹内書店、1971年)、ナタリー・サロート「見知らぬ男の肖像」(河出書房新社、1977年)、クロード・シモン「フランドルへの道」(白水社、1966年)、ロジェ・グルニエ「シネロマン」(白水社、1977年)この後、アラン・ロブ=グリエ、フィリップ・ソレルス、J・M・G・ル・クレジオなどを読むことになるわけだが。
「近代文化史入門 超英文学講義」によれば、マニエリスムは単純に数えて、歴史の中に5回現れたとホッケが「迷宮としての世界」(1957年)で言っているそうだ(Kindle版、25%)。最後が、1880-1950年ということなのだが、現代はずーっとマニエリスムの時代なのかもしれない。
もう少し勉強しよう。
・・・哲学の関心が存在論にあるか認識論にあるかで、その時代の趨勢を語ることができる。マニエリスムの時代が、そのいずれかはいうまでもない。'true'か'false'かを問う恋愛詩の構造によせて、実のところは存在の「真」と「偽」を問う認識知狂い(epistemophile)の時代だったのだ。
(Kindle版、23%)
この部分を読んで、思い起こすのは、プログラミング言語のif-then-elseで記述する分岐構文のこと。プログラミングはepistemophileそのものである。「true or false」を問うのは、正規表現によるパターン認識においてだが。前の引用の前の文は次のようになっている。
存在論の哲学とは、自分の認識と関係ないレヴェルのところにある何か、神とは何か、悪魔とは何かを説明するためのものだ。それに対して神も悪魔も国家もない、自分の心の感受性のメカニズムが説明できればいいと考える時代がある。・・・
もっとも、存在論と認識論、「分ける」と「つなぐ」という方法に対応関係があるわけではない。「分ける」ことは「つなぐ」ことにつながるわけであり、別の認識の方法ではない。分けることによってつながりが見えてくる。単に分けたって意味はない。つなぐために分けるわけだ。存在と認識の概念も対立するものではないようにも感じる。認識するから存在するのであって、神や悪魔の存在を考えるのが存在論と言うのも少し理解しがたい。どの時代のことについて考えるのかによって、議論はあるのかもしれないけど。
そして、次のように展開されていく。
コンピュータのキーボードをたたいている君たちは、ひょっとすると魔術哲学の手先かもしれないとは、最新刊「ヴィジュアル・アナロジー---つなぐ技術としての人間意識」(産業図書)のバーバラ・スタフォードの主張だが、コンピュータも愛も、コンシートもオカルトもすべて、つなぐ知としてのマニエリスムに行き着くらしい。・・・
(27%)
それはともかく、「見て読んで書いて、死ぬ」を読んでいて、たまたま見つけたのが、四方田犬彦「先生とわたし」、これこそが、我が時代の文科系の流れを追体験するためのツール、タイムマシンになりそうな予感がしている。
実は他にも「ニューヨークより不思議」を注文、「月島物語」をKindleで購入してしまった。
四方田犬彦が、我が蔵書の著者リストに加わることになった。この後の行方は知らない・・・
「見て読んで書いて、死ぬ」の第一部は「読む」、May 2007、Part 1からMay 2008、Part 13までに分かれて、百冊が並んでいる。この先、この誘惑からどこまで逃れられるか心許ない限りである。
今日もいつもの4名だが、喫茶店の一般席だったので、廻りを気にしながらで集中できなかった。やはり、個室で喧々諤々でいきたい。
とはいえ、芸術は、若いS氏の専門分野でもあり、いろいろと教えてもらえた。最大の収穫は、ゲルハルト・リヒター - Wikipediaという画家の存在を知ったこと。「ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論」を購入することにした。Amazonの「商品の説明」の「内容」には「リヒターの作風は、写真を描いたフォト・ペインティングから抽象絵画、鏡から色パネルまで多岐にわたるが、その問題意識は一貫して写真性と光をめぐっている。写真性と光は絵画とどのように関わりあうのか、本書はその40年分のドキュメントでもある。」、「著名な美術評論家やジャーナリストによるインタビューと、処刑されたテロリストを描き話題となった、連作「1977年10月18日」をめぐっての対談、さらに1962年から92年までに書いたノートや日記をまとめた書。」と記載されている。経験こそがすべてなのだ。それがノートや日記などに記録されているなら、読まねばならないだろう。日記マニアとしては、垂涎の書なのかもしれないのだ。ただ、実際に見てがっかりと言うことはあり得る。人によって言葉の表現能力には限界があるからだ。絵が描けるからと言って、文章が書けるとは限らない。絵について言葉で語るのはむずかしい。
現代美術はテクニックが凄いという話の中で、ゲルハルト・リヒターが出てきた。先週の日美のアートシーンで紹介された池田学の巨大な細密画も知っていた。僕は昨晩、録画で見たばかり。「池田学展 The Pen -凝縮の宇宙-」。S氏は、広島では現代美術館(MOCA)しか見に行かないという。いいのがあるときには教えてもらうように頼んだ。池田満寿夫と横尾忠則の展覧会ぐらいしか感心したことがないから。
翻って、課題図書の話。最後にT氏から出た問題。最後の部分の意味。
「芸術ヨ生マレヨ---世界ハ滅ブトモ」とファシズムはいい、マリネッティが信条とするような技術によって変えられた知覚を、戦争によって芸術的に満足させるつもりでいる。これは明らかに、芸術のための芸術の完成である。かつてホメロスにあってはオリンポスの神々の見物の対象だった人類は、いまや自分自身の見物の対象となってしまった。人類の自己疎外は、自身の絶滅を美的な享楽として体験できるほどにまでなっている。ファシズムの推進する政治の耽美主義は、そういうところにまで来ているのだ。コミュニズムはこれにたいして、芸術の政治化をもって答えるだろう。
(187-188ページ)
その場ではわからないような気がしたが、XIXの最初(184-185ページ)に答えがあるように思える。「複製技術は、大衆に芸術表現の機会を与える(ファシズム)し、芸術の所有関係を変更(コミュニズム)する可能性を持っている」ということが言いたいのかもしれない。しかし、ファシズムではなくコミュニズムの方向に進むべきと考えていたのかどうかはよくわからない。むしろ、「現代人のプロレタリア化の進行と、大衆の組織化の進行とは、同一の事象の二つの側面である。・・・」の動向に警鐘を鳴らそうとしていたのかもしれない。
ただ、ちょっと古いね。今は、ファシズムやコミュニズムの時代ではなくなっているから。出発点の資本主義のまま。ただ、そこから結局どこへ行くんだろうということについて問題意識を持たせてくれたのは、いいことかも。
芸術表現の機会が与えられているということについては、ベンヤミンの時代よりも今の方が進んでいる。それはファシズムとは関係がない。個人の能力の拡張と言う意味においてであろう。コンピュータ・グラフィックスの技術は新しい個人の可能性をもたらしている。"かぎりなく実写"な女子高生CGキャラ『Saya』で国内外から注目をあつめるデジタルアーティスト、「TELYUKA」(テルユカ)とは、何者? | インタビュー | CGWORLD.jpの記事のように、今や、雑草魂があれば、すなわち、才能と努力と工夫があれば、非常に高度な能力を獲得できるのである。今日の日曜美術館のティツィアーノの絵の鑑賞者として、仕事を紹介され、夫婦で出演していた。
先日、メトロポリタン美術館の収蔵品数十万点が、CC0ライセンスで公開された | TechCrunch Japanが話題になった。芸術財産の共有という意味では時代は変わりつつある。CC0ライセンスは、Creative Common 0(Zero)という「Public Domain」に置くというライセンスだ。自在に加工できるし、出典を明記する必要もない。人類共通の財産の開放だ。池田満寿夫は「模倣と創造」を書いた。芸術の出発点は模倣だ。それが束縛されると創造性も失われる。メトロポリタン美術館の英断を祝いたい。時代は変わる。芸術を美術館に囲み過ぎることは芸術の活性化・発展を損なうとの認識なのだろうと推察する。
次回、ブックカフェ 8の課題図書は「まなざしの記憶 (角川ソフィア文庫) 文庫 - 2016/4/23 鷲田 清一 (著), 植田 正治 (写真)」。3/25(土) 12時から、UluruでW氏が調整中。
VOL. Iは2015年にゲバントであったのだが、今年は、VOL. II「小蔦寛二と仲間たちによる室内楽の午後 <ドイツ・ロマン派の二台ビアノ・トリオ>」がエリザベート音楽大学のザビエル・ホールであった。ブックカフェの後、丸善・ジュンク堂書店で少し時間をつぶして、エリザベートへ向かった。
チケットとパンフ【出演】蔵川瑠美:ヴァイオリン 川岡光一:チェロ 小蔦花結:ピアノ 小蔦寛二:ピアノ
メンデルスゾーン アンダンテと華麗なるアレグロ イ長調 作品92(四手連弾)、メンデルスゾーン ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 作品49、ブラームス ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 作品8。
ザビエルホールは小さなホールだが、ピアノも音響もよい。前から6列目の左端で聴かせてもらった。ピアノトリオを生で聴くのは初めてかもしれない。いずれもよかったが、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調 作品49は特によかった。ピアノの音が柔らかい。それだけで聴かせることができるぐらいだ。
広島地元でこれだけの音楽を聴かせてもらえるのはうれしい。室内楽は聴く機会が少ないので、今回のような形で、少なくとも年二回ぐらいは聴かせてもらいたいと思った。
シリコンバレー101 (696) SnapがAmazonやAppleを彷彿させる理由、IPOでもぶれない戦略 | マイナビニュースネタ。
SnapchatのカメラグラスSpectaclesはビデオを10秒撮影録画できるカメラ付きメガネ | TechCrunch Japan。度の入ったメガネにできるのかな。
どこまでユーザーが使うだろう。予想できない世界だが、思わぬ使い方が出てくるかもしれない。楽しみではある。
肩が重い。いろいろと書きたいことはあるが、少し疲れ気味なので、月替わりの日記を書いておくぐらいにしておこう。
たまたま、Newsweekの2017.2.7号を読んだのだが、なかなか興味深い。「トランプ支持者の本心」というタイトルが付いている。明日、何か書くかもしれない。
日経2017.2.1、ニューズウィーク日本版2017.2.7ニューズウィーク日本版2017.2.7。『「TRUE TRUMP SUPPORTERS リベラルが見過ごすトランプ愛の源泉 支持者 大統領就任後も罵詈雑言をやめないトランプを「アメリカの半分」が支持し続ける理由』(小暮聡子、本誌ニューヨーク支局、26-32ページ)。
記事は力作だと思う。おもしろいところをピックアップしようと思うと長くなるので、引用は一か所で止めておく。
ニューズウィーク日本版2017.2.7、26-27ページ「いいかい?」と、ラールは諭すように何度も強調した。「トランプが何を言ったか、言葉を真に受けるんじゃない。重要なのは、彼が何をするか」だ。
ラールにとって「本質」とは、トランプが実際に何をするのかということにほかならない。彼はその「本質」を見て、トランプに票を投じた。銀行員として働いていた時にトランプを間接的に知る立場にあったというラールは、昨年10月に会った際もこう言っていた。「トランプはばかげたことをたくさん言うし、私も好きにはなれないが、彼はばかではない。」
(28ページ)
もろ手を挙げて賛成ということではないが、現実主義者も理想主義者も、何を選択すべきなのかを自ら冷静に考えて投票している。米国の多様性、民主主義を示している。
もちろん他の関連記事もおもしろいのでお勧め。ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイトも参照。最近見ることが多くなった。
当然のことながら、トランプ大統領の話題が中心。「風をよむ」は中東を取り上げた。歴史的な危機につながる可能性があるというわけだが・・・
シリア難民は、インタビューされた難民の人が言うように歴史や時代の流れに翻弄されているだけで、難民になりたくてなっているわけではない。中東では、不条理としかいいようのない状況が長年にわたって生じている。状況は変化している。四次にわたる中東戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争などが繰り返されてきた。今回はシリア・イラクにまたがるイスラム国(イスラム過激派?)の戦争がシリア難民を生み出した。
状況を説明する記事はいろいろとあるだろうけど、なにがどうなれば問題が解決して平和に向かうのかの説明はないと思う。事態が複雑な利害対立を含んでいるというがわかるだけで、姜尚中先生の、結局、過去の事例(スペイン内乱)からみると、戦争で破壊しつくされ、完全に疲弊するまで終わらないだろうという話だけが頭に残っている。
それでよいのかということ。あなたは自分のことだけで精一杯!?
最近、1630夜『エルサレム』アモス・エロン|松岡正剛の千夜千冊を読んだ。歴史の記憶に圧倒された。歴史から学べということになるだろう。
谷川俊太郎「言葉を待つ」ネタ。
昨日読んだのだけど、言葉になるのを待つ。なにかいいねえ。無意識から掬い上げられる言葉、浮かび上がる言葉。
教養と看護のサイトはおもしろい。三宅先生の名前も見える。次のネタにしよう。
昨日の帰りは外気温0-1℃。雪の降る中を帰ってきたが、旧市内に入ると雪は止み、空は晴れた。月も明るく鮮明に輝いていた。今朝のニュースでは山陰が大雪。
世界が動いているのを知るのは、今ではWEBを経由したデータベースの情報からだ。Googleの検索結果もあるが、専門的なデータベースもたくさんある。大量の情報を見つけた後、驚きがおさまり、いろいろと考えて冷静になる。何も解決するわけではない。対処法があるわけでもない。さらに調べつつ、我が道を行くしかない。
ある疑問を解釈する情報を見つけて安心する場合もある。これならうまくいく可能性があると。
これはという情報に出会うことは稀だ。それでも探し続けると深いところに到達する。重要な情報は大体が遠くの過去にある。それを見つけても物事が解決するわけではない。しかし、事実を知ることが、正しい行動の出発点になる。
閑話休題。先週の木曜の会合で睡眠の話が出た。よく眠れるという。僕は4時間程度で目が覚めてしまう。それから1時間ぐらい起きてしまうこともある。大雑把には、寝入りばなから3-4時間の睡眠は、成長ホルモンに分泌によって、肉体の修復に充てられる。残りの睡眠の続きでは次第に眠りが浅くなり、夢の中で頭の記憶の整理が行われるはずだ。実際にはノンレム睡眠(脳が休息する深い睡眠)とレム睡眠(夢を見る浅い睡眠)が交互に生じる。目が覚めるのはレム睡眠の時だろう。眠りのしくみ-レム睡眠とノンレム睡眠に詳しい。年を取れば睡眠時間は短くなるが、起きて動くよりはできるだけウトウトしながらでも寝ていたほうが体にはよさそうだ。
ナポレオンの睡眠時間が3時間だったという話は有名だが、ドナルド・トランプ「知られざる私生活」~フロリダの大豪邸で30年仕えた執事が明かす(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(2/4)によると、トランプ大統領のフロリダ大豪邸の私生活では睡眠時間は4時間程度と短い。日の出前に起きて新聞を読まれるそうだ。
トランプの平均睡眠時間は4時間ほど。たいてい日の出前には起き出している。セネカルの最初の仕事は、トランプに新聞の束を渡すことだ。
また、池上彰、佐藤優著「僕らが毎日やっている最強の読み方」(東洋経済新報社、2016年)によると、著者お二人とも3、4~5時間の睡眠時間だとか(79ページ)。そうすると、レム睡眠で脳の中を整理する時間が少なくなるのではと思うけど、大丈夫なのだろうか。何かレム睡眠を補償するメカニズムがあるのかもしれない。5時間が上限の数字で上がっているので、年齢相応と考えることができるかもしれない。レム睡眠の比率は年を取ると低くなる。
お二人の情報収集術ではGoogleの検索やデータベースの話はでてこない。ネットサーフィンの誘惑に負けないことみたいなことが中心、SNSのFacebookやTwitterも読むのではなくて情報発信(アウトプット)だとか。ここはちょっと違うと思うけど。もっとネットは有用で不可欠なツールだと思う。紙から得られる情報は基盤にはなるが、アクセスできる範囲に限界がある。書籍はかなり深いところまでいけるだろうけど、書籍にならない情報もたくさんある。
今や、WEBにはニュースを含め、様々な多様なレベルの情報がぎっしりと詰まっている。検索すれば、魔法のように知りたいことを何でも引き出せる。存在していればという但し書きが付くけれども、想像できるようなものはほとんどあると言ってもよい。もしなければ、あなたの想像力は常人を超えているということになる。もちろん、日本語だけでなんとかなると思ってはいけない。WEBはほとんど英語でできている。
三次と庄原に大雪警報が出ている。明日は雪かな・・・
Twitterで「高山宏」の名前が出た。誰だろうと思って調べ始めた。高山宏の読んで生き、書いて死ぬ : ■講演レポート「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」ネタ。
まだ、この年になって知らないことがある。世界はまだまだ広く深い。そこで、フーコーの「言葉と物」と並んだフランセス・イエイツ『記憶術』を知る。
フランセス・イエイツも知らなかった。千夜千冊では417夜『世界劇場』フランセス・イエイツ|松岡正剛の千夜千冊が取り上げられている。
外部記憶に頼る現代人には、わからない話かもしれない。昔は本でさえ、貴重品だったのだ。頭の中に記憶する必要があった。そこで、分類という概念が生まれたらしい。今なら外部記憶を如何に構成するか、どうアクセスするかという問題があるかもしれない。
高山宏先生は、「記憶vsメモ。メディアとは何だろう?」と書かれている。どうも、高山宏先生を追い掛ける必要がありそうな気がしてきた。「近代文化史入門 超英文学講義」(講談社学術文庫、2007年)がよさそう。Kindle版がある。
言葉は変化していくのだ。
最近、毎日見ているのが、Covert Affairs。今朝の外気温、2℃。透明な薄っぺらな月が西の青い空に張り付いていた。帰宅時、7-10℃。雲一つない快晴だ。山陰は大雪というのに。
Covert Affairsに「24」に出ていたサラ・クラークが出てきた。もうシーズン3に入っている。なかなか身を入れてみていない。流し見ている感じで頭に入らず、最初から見直すことも多くなる。ながら族はだめだね。
コバート・アフェアは次第に良くなってきたように感じる。慣れてきたからかな。いや、思いやりもある人間的なスパイの話。冷酷非情ではないが、チャレンジするスパイだ。やる気がある。
見るのを止めれない。
一月は時間の経過が長く感じられたが、二月は逃げ去りそうだ。気が付いたら、半ば過ぎ。過去からの積読の山を取り崩す速度よりも、新しい本を入手する速度の方が早いと少々焦り気味ではあるが、ブックカフェの刺激も相まって、読書巡航速度は快調と言えるだろう。手持ちの本もトランプのように繰り出しながら、少しずつ深い理解に到達しつつある。関連付けを持つ蔵書目録を日記の中に構築しようと目論んでいる。
とうとう、ポストモダン解明の突破口が開けてきたように感じられる。それはP氏のTwitterに高山宏先生の手書きの謎のメモが載っていたのが切っ掛けだった。それは結局、松岡正剛先生や中沢新一先生につながり、それが四方田犬彦の購読につながっていく。マニエリスムとコンピューティング、あるいは「わける」と「つなぐ」がキーワードになるかもしれない。バーバラ・スタフォードも掴まえる予定。
これらの話は、いずれデカルトから、ゲーデル、チューリング、チョムスキー先生の系列の話につながっていくはずなのだ。もっと遡れば、グーテンベルクからレオナルド・ダ・ヴィンチ、ガリレオ・ガリレイもあるのかもしれない。系列という考え方からすれば、デカルトからゲーデルの間もライプニッツなど埋める必要もあるかもしれないが、むしろ、言語や思考の歴史は考古学的にさらに遡れるだろう。そちらのほうにむしろ興味がある。チョムスキー先生は既に直接デカルトにつながっているからだ。Chomsky先生の言われるように生成文法理論を中核とする言語学は、いずれ、生物言語学の一部門、人間言語学に位置付けられ、そして、まだよくわからないが、最終的には情報物理学に到達するのかもしれない。それは万物理論になる。自然の奥は深い。人間は自然の一部だ。
イアン・タッターソル「化石から知るヒトの進化」(三田出版会、1998年)、タッターソル「ヒトの起源を探して 言語能力と認知能力が現生人類を誕生させた」(原書房、2016年)と三井誠「人類進化の700万年 - 書き換えられる『ヒトの起源』」(講談社、2005年)タッターソルを知ったのは、十夜一冊 第千百八十夜 ノーム・チョムスキー著「我々はどのような生き物なのか - ソフィア・レクチャーズ」 (2017/01/04)のチョムスキー先生の言及から。十夜一冊 第千百八十.二夜 エッセイ: How Could Language Has Evolved? (01/07/2017)にチョムスキー、タッターソル共著の論文・エッセイがある。
Covert Affairsはシーズン4、エピソード7に到達。シーズンが進展するにつれて、激情型の展開、過激表現に「24」との類似性を感じている。単なる印象に過ぎないが。主役級の悪役俳優が同じであることもその印象を強めているかもしれない。エピソード7を途中から何度も見直している。オーギーとアニーがなぜ別れないといけないのかがよくわからない。ながら族はだめだね。
今朝は外気温低下注意のアラートが付いた。3℃。昼はお天気雨で、小雨の中を小走りに走る羽目に陥った。帰りは気温が11℃から9℃まで下がった。下がるのは当然、夜に入るからだ。明日はまた寒いらしい。十夜一冊に入れるかどうか迷ったが、完読したので入れておこう。十夜一冊に入れるかどうかは単に気紛れでしかないのだが。日記のタイトルとして、簡明さに欠けるところがある。
それはともかく、日本のポストモダンの状況を知るタイムマシンとしての役割を期待したのだが、第1章メフィストフェレス、第2章ファウストはそれに近い役割を果たしそうだったが、読み終わってみると、うーむと唸ってしまった。もちろん、由良君美の伝記に近いものだから、それ以上を期待することは読者の勝手に過ぎない。第3章出自と残滓は、由良君美の父、由良哲次の伝記である。第4章ヨブは読むのがつらい由良君美の凋落。間奏曲があって、第5章ウェルギリウスの最後には次のように述べられている。
私見するに、由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。・・・
(233ページ)
前後にプロローグとエピローグがある。端正な日本語で、自らがよく知る師のこととはいえ、これだけのことをよく調べて書ききる構想力・精神力は凄いものだと思った。並大抵のことではできないだろう。最後の結論が実を結ぶことを祈るばかりである。
僕が期待していた要素はあまりなかった。1950~1970年代に現れたヌーヴォー・ロマンやポストモダンに関わる部分がないように感じられた。わずかにデリダを由良君美が評価していなかったということぐらいでしかない。日本のニューアカデミズムという現象は1980年代に現れたもので、ミシェル・ビュトールやナタリー・サロートなどに端を発し、文学の新しい潮流として期待したアラン・ロブ=グリエやフィリップ・ソレルスはそれ以前に終わってしまったと僕は感じていた。J・G・バラードもそうだったと思う。期待を裏切らずに残ったのはJ=M・G・ル・クレジオぐらいだった。
僕は長らく文学や哲学から遠ざかっていたが、21世紀に入って、過去に遡る機会を得て、ミシェル・フーコーをかなり熱心に読んだが、言語学への関心からチョムスキーを深く知るにつけ、フーコーを含めて、ジャック・デリダ、ラカン、ドゥルーズなどのポストモダンの哲学をどのように捉えるべきかと、思案に暮れている。もっとも、由良君美は小林秀雄や吉本隆明も評価していなかったという話に、ほう、なるほどとは思ったわけだけど、ポストモダンの哲学の評価についてはあまり役に立たなかった。
人文的教養の再統合ということは、今や、非常に難しい時代に入っていることは間違いないというか、そのこと自体が、「先生とわたし」の底流にあるのかもしれないのではという気もする。今は自然科学の時代である。特に20世紀の後半において、それが次第に顕著になっていった。コンピュータとマスメディアを伴う通信ネットワークの出現が大きい。今後、21世紀のマニエリスムが何を導き出し得るのかが問題だと思う。それは広汎な意味での芸術に現れるしかないかもしれない。
P氏のツイートから、高山宏氏の「見て 読んで 書いて、死ぬ」を入手し、そこから四方田犬彦氏の「先生とわたし」に到達し、ほぼ同時に「月島物語」と「ニューヨークより不思議」を手に入れた。
「先生とわたし」と「月島物語」on iPad2 and Kindle四方田氏は「先生とわたし」を2007年に新潮に発表し、新潮社から単行本を刊行している。月島物語は、1992年に集英社から刊行され、1999年に集英社文庫として刊行、2015年に集英社e文庫が出た。文庫本化の時点で、「月島、そして深川」という川田順三との「すばる」(1993年2月号)の対談が転載され、「文庫版のために 月島への旅の追憶」という回想が追加されている。ただ、それも1999年時点のものであり、最早21世紀になって17年が経過しようとしている。さて、月島は現在いかなる変貌を遂げているのか。ちょっと興味深い。
文庫版の回想の中に、「『月島物語』を書き上げて二年後、わたしはイタリアに映画の勉強のため留学した。行き先はボローニャという人口四十万ほどの小さな大学町である。」とある。四方田犬彦 - Wikipediaによれば、映画史も専門の一つとしていて、映画評論家と目されているらしい。
「先生とわたし」の最後の結論部分の引用の前に、映画研究家の加藤幹郎の人文的教養主義の新たな再生のための孤軍奮闘について記載がある。映画がキーワードになるかなと思いつつ、思い返してみると、最近「イミテーション・ゲーム」と「ビューティフル・マインド」をAmazonのプレミア・ビデオで見て、少しつらいなと思いながらも、人間の一生とはそういうこともあり得るものだと納得したことを思い出した。前者は、アラン・チューリングの伝記であり、第二次世界大戦でドイツの暗号を解く方法を開発する物語だ。もちろん、最後に悲劇的な結末はあるのだが、50年後にエリザベス女王によって名誉回復がなされ、その功績への感謝が述べられたことが観客に伝えられる。後者は、妄想が現れる極限状況の中でゲーム理論を構築したジョン・ナッシュとその妻との物語で、最後はノーベル経済学賞を受賞する場面で終わる。
前に見た11/27/2016 (Sun.) [映画] 奇蹟がくれた数式を思い出したが、伝記映画は人間が偶然や環境、歴史の中で生きていくことの現実を伝えてくれる。天才数学者のゲーデルも晩年は、プリストン高等研究所で被害妄想に陥り、アインシュタインとだけしか話をしなかったそうだ。
さて、人文的教養主義とは何なのかという問題がある。これはポストモダンとは何かという問題の立て方にも似ている気がする。多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』が明日のブックカフェ7の課題図書である。この書は次のような目次になっている。
一篇のテクスト、一枚の絵画や写真と映画では情報や知識の伝達という意味では、役割が違う。伝達するためのメディアとして制作するための時間や費用、必要な材料・機器・技術・知識などの観点からも大いに異なる。
複製技術時代の芸術作品としての最先端に映画が置かれている。が、現在はビデオ・ゲームというべきかもしれない。さらにその先端はVRやARかもしれない。そういう時代が訪れていることの根源自体が、あらゆる知的営為に影響を与えつつある。
あの宮崎駿監督が引退を撤回し「長編アニメ」に復帰することを鈴木プロデューサーが明らかに - GIGAZINEのニュースが昨晩流れた。何を作るのか、楽しみではある。
今朝は、外気温4℃。五日市の高架で3℃、外気温低下注意のアラートが表示された。帰宅時の外気温は忘れたが、分厚い雲のかたまりもあるが、晴れている。風があるので体感温度が低く寒い。
今朝の天気予報で、中区は青空が出ていると天気予報士が言う。空を見ずにレーダーかなにかの観測データを見て言っているに違いない。どこにも青空は見えない。忙しい朝、本名アナウンサーはふーむと唸りながらいつも反論せずに話を進める。どこかに青空は見えるかもしれない。
Covert Affairsのシーズン3、エピソード9、ブラックバード、信じられない展開。アニー・ウォーカー最大の危機。サラ・クラークはまた悪役だ。
一昨日から、「近代文化史入門 超英文学講義」(講談社、2014年;原著: 講談社学術文庫、2007年)をKindleで読んでいる。おもしろい。読みやすい。わかりやすい。でも、知らない歴史があることを教えられる。しかし、普通の学校では教わらない歴史だ。誰もが知らない歴史だ。教育や常識には限界がある。自分で学ばねばならない。
例えば、シュールレアリスムの起源はどこにあるのかとか。こういう問題の立て方はよくないか。本質はもっと別のところにある。存在論と認識論の繰り返し。認識論にはエピステモロジーとルビが振ってある。realという言葉が最初に使われたのは1601年。情報という概念が生まれたのは1630年代。その他、山ほどの新たな認識の山・・・
わけることはわかることだから、認識。つなぐと存在になる。認識には様々なレベルがある。わけかたにもいろいろある。しかし意味を生み出すためにはつながないといけない。どの観点で分けるのか、そして、どのレベルでつなぐのか。このような操作を自在に行える仕組みを作る。これが我が日記の課題だ。
ということで、とてもおもしろくて悦に入って読み続けている。
明日には最新の著書「見て読んで書いて、死ぬ」だったかなが、届くだろう。何が書いてあるのか、『見て読んで書いて、死ぬ』: 表現急行あたりが参考になるだろう。
グスタフ・ルネ・ホッケ「迷宮としての世界 マニエリスム美術」とニュートンの「光学」チョムスキー先生の「統辞構造論」が出た年に「迷宮としての世界」も出ている。それから、今年まで60年が経過している。なぜ僕がニュートンの「光学」を持っているかは、まあ、あまり説明しても仕方がない。これは光子論で波動論ではない。デカルトの方法叙説にある「屈折光学」はまだ見たことがない。
今朝の外気温は3℃ぐらいだったかな。帰宅時に外気温表示が3℃から11℃まで急速に上がっていった。保持されていた過去の記憶から連続的に変化したのか・・・センサーの温度は既に変化して平衡状態に達しているはずだが・・・続けて読んでいる。Kindleは画像が小さくて見にくい。画像は拡大できない。これは最大の欠点だ。Kindle for PCなら画像は拡大して鮮明に見ることができる。画像を見たいときはPCで見る。
さて、超英文学。シェークスピアからデフォーのロビンソン・クルーソー、そしてグランド・ツアーにイングリッシュ・ガーデン。これで50%まで来た。残りは・・・
それはともかく、高山宏著「見て読んで書いて、死ぬ」(青土社、2016年)が届いた。2007-2008年に書かれた百冊の書評と第二部として最近の27の映画評がまとめられている。百冊のうち、知っていて、ある程度読んでいるのは中沢新一著「ミクロコスモスI、II」だけ。
「見て読んで書いて、死ぬ」と「ミクロコスモスI、II」「読まずに死ねるか。見ずして眠れようか。」と言われてもね・・・
一応、最後までページを繰った。一箇所引用しておこう。
文化史家フーコーが「言葉と物」という本の中で、一六六〇年から一八二〇~一八三〇年までを、「表象の古典主義時代」と呼び、さらに、その「古典主義時代」の特徴を「タブローの宇宙」としてまとめたのだった。
(57%)
そうだったのか、僕は何を読んでいたのだろうと・・・
おもしろかったのは、「ロビンソン・クルーソー漂流記」は日記の草創期という話。いまでは日記は当たり前だが、物の見方が変ったから現れた。ファクト(fact)を積み重ねることによって、リアリティ(reality)に近づくことができるという考え方が、日記を生み出した。
最近は、surrealとかposttruth、「alternative facts」という言葉が流行しているようだが・・・さすが、世界は進化している。
昨日今日と朝夕、外気温は9-12℃ぐらいの10℃前後を示している。風があるので体感温度は低くて寒い。日本語の小説は何を読むべきかを何年もずーっと探ってきた。松岡正剛も中沢新一も小説家ではない。高山宏も四方田犬彦もエッセイストか批評家といったところだろう。何年か前から、多和田葉子が気になっていたが、なかなか踏み込めずにいた。
岩波学芸文庫の『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』と岩波新書の『言葉と歩く日記』を立ち読みして、何度か購入しそうになったが、なぜか、踏みとどまっていた。多和田葉子をよく知らなかったからだと思う。
Amazonで検索してみると、意外とたくさんの本が見つかることに気付いた。その中に、芥川賞受賞作の「犬婿入り」が含まれていて、目に留まった。まずはそこからだろうと購入。「ペルソナ」と「犬婿入り」の二作。いずれも変わった作品だ。一種のグローバルな民話(不気味なグリム童話)、ファンタジー。特に「犬婿入り」はおもしろかった。きわどい話ではあるが嫌な感じがまったくない。ユーモアさえ感じるのだ。今時、SFやスリラー・サスペンス・ハードボイルド以外に感情移入できる小説があるとはねと感じた。次の展開はどうなると読ませる。
1992年にいずれも群像に発表され、1993年に講談社から単行本化、1998年に講談社文庫として刊行されたものを2013年に電子書籍化。
次は、『アルファベットの傷口』(1993年)を「文字移植」と改題して文庫化したものを入手予定。
ドイツで永住権を取っているそうで、ドイツ語でも作品を書く。ドイツ国内でもいろいろと受賞しているそうだが、グローバルな時代にふさわしい小説家なのかも。
最近、更新日記のインターフェースをもう少し考えてみようと、Timelineの改造を始めた。データはPerlで生成するとして、インターフェースはやはりJavaScriptで書く必要がある。HTMLに記述していたものをライブラリ化して再利用できるようにした。データ生成用CGIも年月を指定して出力できるように書き直した。
これまでタイムラインは当月と先月しか見ることができなかったが、もっと過去に遡れるようにしたいと考えている。機能的には簡単なことだけど、JavaScriptにもっと習熟してシンプルなものにしたい。HTML上のイベント・ドリヴンな表現はノウハウの塊という感じがする。そこに分け入って、深く掘り下げる。
Timelineのウィジェット(APIライブラリ)自体も変化しているはずなので、チェックしてみよう。MITで生まれたSIMILEプロジェクトの産物だが、今はオープンソースとして、SIMILE Widgetsにある。
何をつなぐかというマニエリスムの話があるけど、一つは連想にある。過去の古い小説、ミシェル・ビュトールの「心変わり」(La Modification)を捲っていて、最後のほうに「アニェス」という女性の名を見つけて、どこかで見たことがあると思った。
ミラン・クンデラの「不滅」の最初で、作者が小説の主人公に名をつけるのだが、「アニェス」と付ける。クンデラはミシェル・ビュトールの「心変わり」を思い浮かべていたかもしれないと思った。
「不滅」と「心変わり」なぜなら、主人公(きみ)が、同じ車室にいる若い二人の男女に名前を付けるという話だからだ(「心変わり」105ページ)。その女性に付ける名がアニェス(Anyesかな)なのだ。もちろん、架空の名前だ。この小説は二人称で語られる。そして、「不滅」のほうの「あなた」は読者を意味している。いずれも小説にしては奇妙な語り口だ。
池上彰氏と佐藤優氏の「二人の最新全スキルが一冊でわかる」、「僕らが毎日やっている最強の読み方」(東洋経済新報社、2016年)、「新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意」、「新聞1誌5分で読む、電子版は使える」、「週刊誌、中吊り、雑誌、dマガジン活用法」、「ネット、スマホ、SNSはどう使う? おすすめサイト全一覧」、「書籍速読、多読のやり方、本の知識を活かすコツ」。裏表紙の帯には「知の源泉」をここまで公開したのは本書が初!とある。実はもっと書いてある。普通の人でも実践できる!「知の教科書」5大特色、後は表の散らし書きを箇条書きにまとめてある。こんな宣伝だらけのすごい表紙は初めて見た。読まずばなるまい・・・
どれがタイトルかな、やはり「最強の読み方」、と「新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方」後者の方をお二人の共著としては最初に読んでいたのだが・・・
読み方においては、何をどう読むかということは当然あるのだが、世の中の変化をどう追いかけるのかも、重要な問題だ。基本的な答えは、世の中を知るには「新聞」を読む。そして、体系的な知識を得るためには本を読む。ということになる。要は昔ながらの方法が残る、変らないということだ。佐藤氏は新聞は電子版に移行し、選択・蓄積にはエバーノートを活用している。電子版と言っても記事の一覧性のあるタイプのようだ。通常のWEBの形式ではない。一覧性があることが重要なのだが、紙の新聞の一覧性をiPadの画面で満たせるだろうかとは思った。
後はノウハウ的なものや具体的な情報が満載だ。基本となる新聞や書籍以外の情報についても。
結局、この本を参考に何をするか。新聞や本を読むしかない。そして、日記を書く・・・
スクラップや抜き書きを元に、関連付け、まとめをするシステムを如何に構築するかという問題に行き着くのだが、・・・僕のいまの解は、HTML日記がベスト。時系列表示とリンクによる自在なアクセスが魅力だ。分類は情報量が多くなるとあまり役に立たない。日記を検索して読むのが、最も強力な情報の関連付けになる。
カメラで撮影したり、スキャナで読み込んだりも有用な方法ではあるが、結局、画像やPDFを管理する必要が出てくる。Windows 10のエクスプローラはかなり機能が向上していて、画像やPDFはファイルを選択すると中味を表示できるようになった。アイコンで中味を表示できるようになれば最高だけど。
物理的な紙の新聞の整理方法を少し具体的にやってみようかと考え始めた。物理的な紙をコンピュータと如何に結びつけるか。一種のIoTだけど。そこまでやる必要があるのかという問題はあるのだが・・・これができれば、書籍などもコンピュータに結びつけることは簡単だ。
池上先生は、必要な記事のある新聞1ページを破り取って、見出しが見えるように折りたたんでクリアファイルに入れて整理されるという。
新聞ページ・クリアファイル収納法2ページのつながりを1ページにして四つ折りにした。日本経済新聞、2月5日の16面、「美の美」、華やぐ広告の街 パリ (上)。ロートレックの「ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ」の版画はリトグラフだった。
朝、8時には起き出して着替えると、日経を自動販売機まで買いに行った。寒いだろうとダウンジャケットを引っ掛けて出る。上空は真っ青に晴れていた。東や南の空には少し雲が浮かんでいたが。サンデーモーニングが始まっている。
日本経済新聞一面上半分、2017年2月19日日経は「トランプ氏、就任一ヶ月」をトップにおいて、2、4、10、13面に関連記事を載せて特集を組んでいる感じだ。トップは「異端の変革 崩さぬ我流」、「内向き 猪突猛進」。二面は、日本関係、『トランプ氏「尖閣に安保」』、『米軍駐留「謝意」』で「日本政府、警戒和らぐ」、「通商・為替 なお見極め」。第4面が特集、「強気のトランプ外交」、「TPPから離脱 通商政策を破壊」、『「米国第一」譲歩迫る』、入国制限令 司法に圧力」。第10面、「日曜に考える」、「時流」、「中外時評」、「トランプ流 情報術の行方」、「攻防加熱、舞台裏に気を抜くな」と論説委員長、飯野克彦氏の論説。第13面、「日曜に考える」、「グローバル」、「FINANCIAL TIMES」、「米政権問われる対ロ関係」、「疑惑の解明不可欠 世界で広がる不信」。
サンデーモーニングは、例の物騒な話もあって、暗殺の話題に終始したので、気が重い展開。人間度し難し。世界は混沌の中にある。南スーダンの自衛隊PKO活動の「戦闘」については、本日の日経にはまったく記事がないが、日曜だからかも。
日経については、3月4日 日経が変わる 2017年2月17日の話題が新鮮。最近は、土日だけは紙面を買おうかと思っていたけど。曜日ごとに特徴を出す作戦に変更したみたいなので、こちらも対策を考える必要がある。
「日曜に考える」はなくなり、「中外時評」とフィナンシャル・タイムズの翻訳の一部は木曜に移るそうだ。「美の美」は「美の粋」となって、NIKKEI The STYLE|優雅なオフを提案する日曜朝刊に入る。『土曜・日曜の朝刊2面は「振り返る(レビュー)」「先を読む(プレビュー)」をテーマに大きく衣替えします。』とのこと、土日買いを継続してみよう。
本来、我がサイトはコンピュータ・プログラミング・インターネットを中心に、お気楽に宇宙論・哲学・文学・音楽ぐらいで彩ろうという感じだったのだか、政治経済も無視できる世相ではなくなってしまった。ICT関係も人工知能テクノロジーの発展の中で、少し掘り下げてみたいと思うようになった。すべては連関しているという思いが深い。
Perlの作者のLarry Wallが言語学を学んだことはよく知られていて、下記のMatthew Allen Estes - Semantic Scholar氏の論文「人工言語: 形式文法の研究」では、その知識をプログラミング言語の設計に使ったことになっている。有名な言語学者のリストの5位にLarry Wallは載っている。Famous Linguists | List of the Top Well-Known Linguists。もちろん、1位はNoam Chomskyだけど。
List of Famous Linguistsなぜかトップの写真はLarry Wallが表示されている。Noam Chomskyの写真は子供の頃の写真だ。
Artificial Languages: a Study of Formal Grammars - Semantic Scholarの「Works Cited」には、Larry Wallの著述をいくつか上げている。
もっとも論文に書かれていることは、変数に接頭辞「$」が付いて、名詞として機能し、「$」が付かない動詞と区別されることが記載されているだけである。
Perl 6もAnnounce: Rakudo Star Release 2017.01 | Rakudo Perl 6のアナウンスが出て、順調に発展しつつある。Think Perl 6 - O'Reilly Mediaもアナウンスされた。この著者はフランスの方らしい。Perl 6 at a Glanceは既に刊行されている。こちらの著者はアムステルダム在住のロシア生まれ。Perl 6 by Example by Moritz Lenz [Leanpub PDF/iPad/Kindle]もeBookで出る。Learning Perl 6に加えて、今年はPerl 6の書籍花盛りということになりそうだ。
人工言語としてのPerl 6という観点からも何か考えてみたいと思うこの頃である。もちろん、話題にした文献のリファレンスにはNoam ChomskyのNoam Chomsky, Three Models for the Description of Languageが引用されている。Semantic Scholarのサイトのリファレンスは適切に収録できていないので、論文のWorks CitedとBibliographyの文献などのリストから、リファレンスをチェックする必要がある。
次は、チョムスキー先生とプログラミング言語との直接的なつながりの話。「この世界の片隅に」を見ようとして、Fitbit、Apple、人工知能のための哲学塾、ファミ通へ、そして、チョムスキー・・・ (01/09/2017)の記事の続きでもある。直接的にはむしろその後に出てくるいろいろと (01/15/2017)の記事。
実際、一九五〇年代後半から一九六〇年代初期にかけての研究の全てにおいて。言語学的に有意義な結果はたった一つだけだと思います。そして、それは数理言語学の教科書にも出てきさえしないようなものです。その結果とは、文脈自由文法を、(ここが肝心なのですが)強い意味で等価な非決定性ブッシュダウン・オートマトンへ写像するための構成的手順が存在するという事実です。まあ、これは、退屈な構成的手続きの話にすぎませんが。このことに関しては、私が多少の仕事をして(28)、テリー・ランゲンドンが学部卒業論文のための研究で手直しを行いました(29)。これは数学としてはあまり興味深いものではありません。単に構成的手順が存在することを示したに過ぎないんですから。でも、言語学的に有意義な結果というと、このことぐらいしかないんです。実際、この結果は、全てのパーサー(統語解析プログラム)の基になっているんです。あらゆるパーサーが非決定性プッシュダウン・オートマトンであるのはこのためです。・・・
(ノーム・チョムスキー著、福井直樹・辻子美保子訳、「生成文法の企て」、二十一世紀の言語学、第二章 言語学とその他の諸科学、数学:言語学との内在的及び外在的関連性、チョムスキーの発言、328ページ)
これはおそらくゆめタウンの紀伊國屋で見つけて買ったと思うけど、これは何なんだろう、買うべきものかどうか、よく判らなかったが、訳者があとがきで傑作だと書いていたので買ったと思う。
最近、目がよく見えるようになって、紙の本の小さな文字でも十分に読める。紙の本は見えるうちに読み切ってしまわないと面倒だ。いつ眼鏡を購入しようかと思うのだが、目の調子が定まらない。KindleやPCなどを使ってフォントを拡大して読めば、どうにでもなるわけだけど、紙の本を虫眼鏡で読むのはしんどい。
ということで、傑作を読み始めた。おもしろそうだ・・・
ウィトゲンシュタイン関連著作、積読リストポパーという名に反応してしまったのは、名前は知っているが、どのような人だったのか知らないレベルだった。ドイッチュ先生が「無限の始まり」や「世界の究極理論は存在するか」などで言及しているのでいずれ調べたいという気持ちがあった。ウィトゲンシュタインについては「ケンブリッジ・クインテット」で関心を持ち直したところ。
本書の邦題は、読者の気を引く役目は十分に果たしたが、長過ぎる。原題は、「Wittgenstein's Poker: The Story of a Ten-Minute Argument Between Two Great Philosophers」なので、今後は「ウィトゲンシュタインのポーカー」ということにしよう。著者は、デヴィッド・エドモンズ&ジョン・エーディナウ(David Edmonds / John Eidinow)。二木麻里訳。ちくま学芸文庫。2016年(原著: 2001年)。
「ウィトゲンシュタインのポーカー」の事件が起きた場所は、やはりケンブリッジであり、有名な登場人物としてはバートランド・ラッセルがいる。
ウィトゲンシュタイン解読のための参考書いずれこの思考の流れはチューリングや人工知能に、そしてチョムスキー先生につながっていく。過去に向かっても未来に向かっても追求していく予定だ。
to be continued...
今日はきれいに晴れている。日米首脳会談で安倍首相は「罠」にハマった | トランプ大統領誕生の衝撃 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準ネタ。
「狂気」を装いながら、結果的に極めて合理的に振舞っている。駆け引きの一環として、常軌を逸した過激な言動を意図的に繰り返し、交渉相手国に要求や条件を呑ませることに成功している。日本のメディアではあまり報じられていないが、これは、トランプ大統領が尊敬するニクソン元大統領の「マッドマン・セオリー」(狂人理論)を実践しているにすぎない。
ということらしいのだが・・・結果が問題だ。
Lispの思想 | コンピュータサイエンス | POSTDネタ。Facebookで見つけたと思う。おそらく三宅先生のかな。
これを見て思い出すのは、というか、読み直す必要があるダミアン・コンウェイの記事。
ちょっとゆっくりと考えている時間がない・・・プライムビデオを見るのに忙しい(^_^)Covert Affairsはシーズン3エピソード6で今日は中断。調べるとシーズン4、5もある。まだ、先は長い・・・
十年一昔というけれど、十年はすぐに過ぎ去る。使っていない古いソフトウェアは変化する環境に適合しないものになっていきかねない。reCAPTCHAもGoogle reCAPTCHA を使ってみる(コンタクトフォーム) | Web Design Leavesのように新しくなっている。元のままでもいいのにと思うのだが、より便利なものを追求してしまうのだ。古いものはサポートされなくなる。TSNETWiki - TSNETWiki on TextWorldのphp - ReCaptcha - Could not open socket - Stack Overflowの問題が解消しない。
PHP用の新しいライブラリは、GitHub - google/recaptcha: reCAPTCHA is a free service to protect your website from spam and abuse.にある。この中を見ると、インストールのための推奨の仕組みとして、Composerが上げられている。これのもっと大きな枠組みとしては、PHP-FIG - PHP Framework Interop Groupがある。Composerもその中に含まれている。
仕事で常に最新のものを追い掛けていれば、インストール経験も豊富で、どうということはないのだろうが、プライベートで十年たって追いかけようとすると大変だ。reCAPTCHAをググっていろいろ試してみたが、古いまま使うのはむずかしそうなのであきらめた。ついでにPukiwikiもPHPも新しくインストールし直したほうがいいんじゃないかということなんだが。ただ、@niftyのサイトで使えるPHPは5.2のままだし、Pukiwikiの1.4.7を新しくする必然性はない。
さて、Google reCAPTCHAを調べてみるか・・・今のところ、Pukiwiki用のプラグインはなさそうだ。取りあえず、ページを編集したりするためにreCAPTCHAを外す。コメント・スパムがなければ問題はないのだが・・・
もう一つの問題はモバイル・フレンドリーではないということ。更新日記もGoogle検索結果にそう表示されるようになったので、一応の対策は施した。次の一行を付け加えただけ。
<meta name="viewport" content="width="device-width," initial-scale=1.0">
Pukiwikiに携帯プラグインはあるが、スマホが出る前のもの、質問箱4/481 - PukiWiki-officialのような問題があるらしい。
1632夜『それでも、読書をやめない理由』デヴィッド・L・ユーリン|松岡正剛の千夜千冊ネタ。何か書きたいけど、疲れている。
よく読んで何か書きたい。
追記: 2017-02-28
紙と電子に違いがあるとすれば、電子が優位な点は、最も重要なのは検索性、ただ、これは特殊な利点かもしれない。読みたい部分を簡単に選択できるのだが、普通の読み方ではない。データベースとして本を使う。次はフォントサイズの拡大性、小さな文字が読みにくい人にとってだけ価値がある。そして物理的実体としての軽さ、これはデバイスによるが、選択性がある。大量の本を持ち運べるという利点があるだけでなく、ネットワークがあればクラウドからダウンロードして読める。クラウドから購入することもできる。そうすれば、事実上、電子書籍であれば無制限に持ち運べることになる。
Kindle on iPad 2, Fire, and KindleKindleのデバイスは軽いが、画面が小さすぎて、図版が必要なだけ拡大できないので見難い。図版はモノクロでしかない。Fireタブレットは画面の縦横比が特殊すぎる。縦長で本らしくない。9.7インチのiPadは最高だ。本のリストも見やすいし、探しやすく、文章も大変読みやすい。
紙の良いところ。物理的実体感、手触り、感触、どこを読んでいるか直観的に把握できる。アクセスも速い。が、しおりだけでは検索性は低い。
紙と電子という観点からはこれぐらいにしておこう。
文学は死んだかどうか。これに答えるには、どのような観点で見るかという問題がある。小説は死んだかという意味では、かなり危ない。瀕死の状態だ。あまりおもしろくないからだ。おもしろい内容があるかどうか。読みたいと思うような小説とはどんなものか、いろいろと考えながら探している。
小説ではないが、「ウィトゲンシュタインのポーカー」は物凄くおもしろい。おもわず笑い出してしまうぐらい。これは現実にあったこと、一種の伝記だ。事実の重みが支えている。小説は虚構だ。虚構を読ませるのはむずかしい。もう少し考えよう。