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日記: Text World | 脳髄の日記 | 第四の日記 | jscripter's Twitter | Facebook | Myspace(記事抄録や関連メモ: コメントはこちらにどうぞ)

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7/31/2007 (Tue.)

福岡伸一著、「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書、2007年)ネタ。

脳髄の日記時間という名の解けない折り紙を書いた。「時間という名の解けない折り紙」という表現は、生物と無生物のちがいを表す象徴的な表現である。最初の半分ぐらいまでは知っていることも多い内容だったが、飽かせずに読ませる。実体験に基づく内容だからだろう。良い本。お勧めだ。

7/29/2007 (Sun.)

Vistaのβ、RC1をインストールしていたマシンは、そのままではVista用には力不足だし、Vista正規版へのアップグレードもないということで、Linuxをインストールしてみることにした。昨日、花火を見た後にイオンの未来堂書店で購入したSoftware Design 2007年8月号は、Debian GNU/Linux 4.0の特集だった。

インストールは、Debian JP Projectクイックインストール解説に従ってやれば、難しくない。ISO イメージファイル(debian-40r0-i386-netinst.iso、159MB)をダウンロードして、CD-Rに焼けば、インストール自体は1時間程度で完了する。ネットワークにPCをつないだ状態で、スイッチを入れると手早く、CDドライブを開いて、焼いたCD-Rをセットする。元のOSが起動された場合には、終了して再起動すればインストールがはじまる。

FirefoxはIceweaselという名前になっており、デフォルトでインストール済みらしい。知らずにSynapticパッケージマネージャで最新版をインストールしてしまった。Rubyもデフォルトでは入っていない。しかし、それらは小さなことだ。大変、素晴らしい。OpenOffice.orgも標準でインストール済みだし、Iceweasel/FirefoxのFlash Player Pluginもキチンと動作して、YouTubeの動画再生も完璧だ。音声も再生できた。これまでで、最高のLinux体験になりそうだ。Linux自体もPCマシンも成熟してきている。僕のようなスクリプタでなくても、Linuxで十分な時代に入りつつある。

jpg/SA360003_1_s.JPGDebian GNU/Linux 4.0

ノートPC市場に革命をもたらすか、OLPCの『XO』Meet the XOネタ。

いくらなんでも100$では作れないだろうと思っていたら、175$ぐらいらしい。ハードルの高い目標を設定して、とにかく作ってしまうところがえらい。アイドリング時の消費電力が1ワットというから驚く。WiFiも標準搭載。Sugarというインターフェースを持つLinux OSで動作する。


松岡正剛の千夜千冊『コンテンツ・フューチャー』小寺信良・津田大介ネタ。

B6‥メディア・テクノロジーが次に挑むべきはアブダクションとアフォーダンスであろう。そのうえで「意味を追うソフトウェアシステム」のために、コノテーションとデノテーションを瞬間湯沸かしできる機能の開発に乗り出すべきだ。

コノテーションとデノテーションについては、ロラン・バルト著、渡辺淳・沢村昴一共訳、「零度のエクリチュール」(みすず書房、1971年)の「記号学の原理」を参照すること。

コノテーションというより、Web上のシステムあるいは表現としては高次言語(メタランガージュ)の問題になってくるのではと思う。すなわち、自然言語→HTML→XML/RDFという三重の入れ子構造が既に出現している。具体的には、RSS/Atomなわけだけど、そして、そのような構造化と表現を支えているのはプログラミング言語なのである。それを含めると4重構造ということもできる。

この次に出てくるのは、Microformatしかないというか、・・・必然だ。

更新: 2007-07-29T11:32:20+09:00

恒例の宇品1万トンバースでの花火大会。夜半を回ったので昨晩ということになるのかな。15,000発、60万人の人出だったそうだ。

午後6時半ぐらいに「太閤」で家内と食事。店に入るとき、花火を見に行こうとしているらしきカップルが外でメニューを眺めている。夕食を食べようかどうかと迷っているのだろう。花火開始まではまだ時間がありすぎ。

jpg/SA360001_s.JPG交通規制された県立広島大(前の広島女子大)前の交差点

花火は午後8時開始。午後7時半ぐらいに家から出発。広島高速3号線の出入り口は閉鎖されて、臨時のバス乗降車場ができている。高速3号線の延長となる高架の下を通って、ニチレイの倉庫を越えれば水上の仕掛け花火が見えるようになる。

Googleに、マイマップ: 宇品花火大会を作ってみた。簡単に作れる。

地域的に関連ある記事の02/11/2006: [ひろしま] 10000歩の散歩では近辺の昼間の写真を見ることができる。ACTUSの南側の階段は花火の打ち上げる方向と少し向きがずれているが、無料なのでみんなが陣取っていた。もっとも快適な場所は、広島プリンスホテル高層の部屋だろう。



jpg/SA360046_s.JPG花火1

jpg/SA360051_s.JPG花火2

jpg/SA360054_s.JPG花火3

更新: 2007-07-29T12:19:05+09:00
7/28/2007 (Sat.)

アジア初の仮想世界カンファレンス「VWC2007」--Second Lifeに見るネットの未来ネタ。

Second Lifeにはご無沙汰してるけど、書物-脳髄空間には浸りっきりかもしれない。それはだれでも同じか^^;)

Second LifeはWebのような言説主体の空間とは違う。やはりデザイナーの活躍する空間だろうという気がするね。デザイナー万歳といったところだろう。さて、デザインの勉強でも始めるか^^)v


ネットワーク応用通信研究所、Rubyの市場拡大を目的とする合同会社を設立ネタ。

最近、Google Analyticsでページ別セッションを調べると、私のRubyページ「Ruby AWKING for Beginner」が、更新していない古いページにも関わらず、本ページについで多く、Rubyへの関心の高さをうかがわせる。

明日は参院選だが、日本がどうなっていくのか。百貨店の売上げが低下しているように、国内のマーケットがシュリンクすれば、ITマーケットだってシュリンクしてしまう。脳髄空間と同様、仮想空間の容積は人口に比例すると考えられるからだ。なにしろ、日本の人口が、2050年には4分の3になるというのだからねえ・・・第21回 争点なき参院選に絶望した財務省若手官僚からの電話を読みながら、さて、さて、・・・

更新: 2007-07-28T22:49:27+09:00

さて、文学やマラルメの方向に舵を切りすぎる前に、フーコーとレヴィ=ストロースの関係を整理しておこう。

・・・つまり、いついかなるときにも、精神分析と文化人類学は、人間のなかにある特異なもの、人間のなかにあるかけがえのないもの、人間が経験にあたえられるどこでも一様に有効なもの、の輪郭を描こうとしないのである。「精神分析的人類学」という観念も、文化人類学によって復元される「人間の本性」という観念も、つつましい願いごとにすぎない。精神分析と文化人類学は、人間という概念なしですますことができるばかりか、人間を経ていくこともありえない。なぜなら、それらはつねに人間の外部の諸限界を構成するものを対象とするからだ。この二つの学問については、レヴィ=ストロースが文化人類学について語った、それらは人間を解消するものだという言葉をくりかえすことができるだろう。・・・

(第十章 人文諸科学、401ページ)

「言葉と物」のこの部分に唯一、「レヴィ=ストロース」が現れる。レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」に存在する構造は数学的構造であり、例えば、カリエラ型の婚姻規則は「クラインの4元群」の構造と同じという話が、前出の「はじめての構造主義」で紹介されているのだが、なぜ、それがある数学的構造と等価な規則なのかというような意味を求めてもはじまらない。人間の社会に現れる無意識の構造はこのようになっていますよということなのである。はあーそうですかで終わってしまうのかもしれない。それ以上の話はまだないだろうと思う。

先の日曜日に、ココログに脳髄の日記というブログを開設してみた。本サイトでは自作のWeb日記システムを既に7年に渡って少しずつ改良しながら運用してきているわけだが、世の中のいわゆるブログがどんなものかを試してみるためである。Text Worldにはbloxcomを設置してみたが、全然使わない^^;)から発展しない。同様に「脳髄の日記」がさらに書き続けられるかどうかは単なる気紛れによるだろう。

ブログタイトルの由来は書いておいた。最近の「言葉と物」シリーズ記事のヌーヴォーロマンの前にはシュールレアリスムがあり、そのようなものがあることを僕に知らせてくれたのが西脇順三郎だった。

((くつがえ)された宝石)のような朝

「ギリシア的抒情詩」の「天気」の一節だが、最初に読んだのが、小学生だったか、中学生の時だったか、もう記憶の中では判然としないのだ。国語の教科書で読んだ時、目を瞠って、声を出さずに唸っていたと思う。良いものを選んで教科書に並べるだけで教育というものは達成できるのだよ・・・

「脳髄の日記」の収録されている西脇順三郎詩論集(思潮社、1967年新装版、1972年第二刷)にある「詩の幽玄」のマラルメに関する記述を少しメモっておく。

詩は或ることを伝達するのでなく、発見することである。

詩は感情や思想の伝達だとするのはアンシャン・レジームである。詩の世界は純粋に感覚的な世界で音と幻像の世界である。

そしてその目的はマラルメのように「或る他のもの」を発見することである。

「或る他のもの」とは或るものと或るものとの新しい関係を発見することであると私は思う。自分の経験ではこの発見はなかなか困難な仕事である。ダイヤモンドのような関係を発見することは一生かかって出来ないかも知れない宿命的なものである。

そういう意味の詩の達成は偶然である。

マラルメなどは、もはや万物象徴主義であるシンボリズムから脱出している。これは凡ゆるものの中にあらゆる関係が存在するというロマン主義の哲学から来たコウルリッジやポーの考え方である。シンボリズムから脱出しているのが新しい詩である。このシンボリズムの哲学は殆ど骨董であるが、アインシュタインの相対性原理が出てから、科学的に考えられ、またそうしたシンボリズムを哲学としたヴァレリがいたので詩的生命があるように今日みえるだけである。

私の求める詩はそうしたシンボルを破壊したものである。サンボリストはそうしたシンボルをランプにして、すべてを照らしてみようとした。私にはそのランプを消して、ニルヴァナを求める詩に興味がある。

(216ページ)

松岡正剛の千夜千冊『雑談の夜明け』 西脇順三郎にも、新装版と少し異なる、真鍋博装丁の日焼けして筆の痕が残る詩論集が出てくるが、1965年になっている。新潮社の世界詩人全集 10、マラルメ・ヴァレリー詩集(1969年)のマラルメの訳は西脇順三郎によるものだ。

「言葉と物」の固有名詞索引(26ページ)にあるマラルメの解説は次のようになっている。

マラルメ Stéphane Mallarmé (1842-98)
フランスの詩人。象徴派の始祖。語の自律性についてつよく自覚し、世界のすべてを語から成る詩篇によってとらえようと生涯苦闘をつづけた。

西脇はシンボリズムから脱出しているというのに、象徴派の始祖となっているのはなぜかな・・・「言葉と物」には「マラルメ」は8箇所で出てくる。最初の部分。

・・・ところで、十九世紀全般にわたって、さらには今日のわれわれにいたるまで---すなわち、ヘルダーリンからマラルメ、アントナン・アルトーにいたるまで---文学がその自律性において実在し、他のいっさいの言語(ランガージュ)からふかい断絶をもって切り離されているのは、それが一種の「反=言説(ディスクール)」を形成し、そうすることによって、言語(ランガージュ)の表象的機能あるいは記号をなす(シニフィエ)機能から、十六世紀以来忘れられていたあの生のままの存在(エートル)へとさかのぼったからにほかならない。


jpg/un_coup_de_des_le_hasard.jpg骰子一擲(Coup de dés)の LE HASARD の部分

最近では、実際のイメージ通りのPDFファイルを入手することができる。→www.mallarme.netの骰子一擲(Coup de dés)のページ



更新: 2007-07-28T15:03:25+09:00
7/26/2007 (Thu.)

PS3システムソフトウェア バージョン1.90公開ネタ。記事にあるリンクはPS3の今後の動向を占う上で重要なもののようだ。

記事追加。本田雅一の週刊モバイル通信: SCE 平井一夫CEOインタビュー「PS3はまず国内500万台を目指す」

更新: 2007-07-26T00:48:50+09:00
7/21/2007 (Sat.)

橋爪大三郎著「はじめての構造主義」(講談社現代新書、1988年)を大体読んでみた。39版(2006年1月13日)を重ねているだけあって、示唆を得るところの多い参考になる本である。参考図書の紹介の定価などの情報は2003年のデータが使われている。丁寧にメンテナンスしていても、時の流れに抗することは難しい。「神話学」(「Mythologiques」の訳は「神話学」というよりは「神話論理」だと思う)の日本語訳はないとなっているが、みすず書房より2006年から刊行され始めている。

本書は、構造主義のルーツが数学であることを説明するためにレヴィ=ストロースを中心に構造主義を解き明かすという構成になっている。他の人を中心にしたのでは数学が出てこなくなってしまうのだろう。付録的ではあるが、レヴィ=ストロースとフーコーの類似性が詳しく指摘されていて(194ページ)、興味深い。未開社会(冷たい社会)にレヴィ=ストロースの方法は適用され、現代社会(熱い社会)にはフーコーの方法が適用されるという説明には、なるほど、そういうものかと一応は思ったけど・・・フーコーにも同様の数学的思考が背景にあり、「知の考古学」には、翻訳ではわかりにくいが、ブルバキ派の用語によると思われる数学的比喩が多用されているらしい。

ここまできて、構造主義とは何かを書き残しておかないと、次に進みにくい。わかったようでわからないかもしれないが・・・次が一応の結論になる。

レヴィ=ストロースは、主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)の手の届かない彼方に、それを包む、集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することを示した。それが神話である。神話は、一定の秩序---個々の神話の間の変換関係に伴う<構造>---をもっている。この<構造>は、主体の思考によって直接とらえられないもの、"不可視"のものなのだ。

(190ページ)
更新: 2007-07-21T18:24:38+09:00

「AIRやWPFはウェブにとって不健全」--Firefox3開発幹部のMike Shaver氏ネタ。

記事の後半にMicroformatのサポートについての言及がある。MicroformatはSemantic WebのHTML版といってもよい。RSS/AtomをMicroformatでHTMLに埋め込むという発想もありえるし、基本的になんでもありで、自由な仕組みである。

CodeZine記事の「Webとデスクトップを融合する 第3回 - 独自の日記記述言語からHTML形式のWeb日記を出力・配信する」のddl2html.plでは、実験的な独自仕様ではあるが、書籍情報と地点情報入力用のMicroformatの記述仕様を盛り込んでいる。Microformatについては独自仕様でも読み取れるような柔軟な仕組みにしてほしいという気はする。自分で考える仕様でさえ、様々に変化するぐらいだから、好みのものに固まるまでは紆余曲折がある。それに人の作った仕様を使いたいと思うとは限らないからだ。人間の生み出すものはバベルの塔状態になるのが本質なのかもしれない。

実際にはMicroformatのタグはなくても、自然言語による記述でもほぼ一定のパターンがあれば、簡単にパターンマッチングで読み取れる。例えば、書籍情報のようなものであれば簡単に読み取れるので、本日記では最近では書籍情報のタグは使っていない。プログラマだけでなく、人間というものは、無精であり、短気であり、傲慢になりがちなので、よほど必要にせまられなければ、面倒なことはしないものである。現実的にはパターンマッチングを使うなら、自然言語処理も十分可能なのである。

本日記の書籍情報を含む記事を抽出したいなら、/[著訳修][、「]/ ぐらいのパターンマッチでOKだろう。書籍データを抽出するのはもっと複雑になるが・・・

更新: 2007-07-22T00:18:07+09:00
7/18/2007 (Wed.)

Wii/DSに追い抜かれたPS3/PSPが打つ次の手は・・・新型PSPは9月20日発売、ワンセグチューナーも登場--FF7同梱パックは13日に先行発売SCEI平井氏、「60Gバイト版PS3は製造打ち切り」と発言「PS3は2007年末に再ローンチするつもりでやる」--巻き返しへ対応タイトルを一挙披露ネタ。

新型PSPの問題は、同時発売のワンセグチューナーが新型PSP専用であること。旧ユーザーを無視するものだ。けしからん^^;)これは買いかなと喜ばせといてこれだから、今後が心配だ。旧PSP用のユニットはこれからは出ないのだろうか・・・

60Gバイト版PS3の打ち切りは何を目的にしているのだろうか。単にアップグレード。80Gバイトにして何ができるようになるのか。少し、Linux導入が楽になるかも。まあ、こちらのほうは大勢に影響はない。

PS3については、ゲームユーザーではないので、新しいタイトルが増えても特に影響はないのだが、今日、PLAYSTATION 3のサイトでニュースを眺めていると、[PLAYSTATION Home]サイトがオープンされていることに気が付いた。いよいよ公開されるのかな。しかし、問題は、PS3ユーザーだけの世界では不十分ということだ。PCからでもアクセスできるようにしないと世界が拡がらない。PS3グラフィックスカードというのはどうだろう^^;)

更新: 2007-07-22T00:15:08+09:00
7/17/2007 (Tue.)

3Di、日本で初めてセカンドライフをブラウザで見られるアクセス技術を開発ネタ。言葉と物 ]]]Z - Second Life は空っぽか?を書いたばかりで、こんな記事が出てきたが、おもしろいかもしれない。

Second Life世界の座標をパラメータに持つCGIからSecond Lifeブラウザを起動するとその地点にログインできるという仕組みでも結構おもしろい。SLの記事に埋め込んでおくと話がつながるよね。SLブラウザはコマンドライン起動できて、パラメータを取れるのだっけ・・・それに近い話は既にどこかで読んだことがあるような・・・

Wikipediaの日本の近現代文学史を見ると、ポストモダン文学については言及がなく、田中康夫も取り上げられていない。J文学やライトノベル、メディアミックス、ハイパーテクストには言及があっておもしろい。J文学という用語は最近知って、変な用語だなと思っていた疑問が溶けた。柄谷行人氏の「反文学論」はAmazonの書評によると1977年から2年間の文藝時評を収録したものらしいので、昭和52年から53年に出版された本が対象になっていると思われる。昭和50年周辺の項を見ると、中上健次宮本輝らが対応していることになる。実際の本に当たってみればわかることだ・・・時評とはいっても、目次を見ると、文学論の体裁を取っているみたい。

本題に入ろう。と、えらそうにいってもちょっと話題を変えるだけだが^^;)ポストモダンの定義を読んでみると、やはり構造主義を無視するわけにはいかないんだなと、いまさらながらではあるが、そう考え始める。フーコーを読むだけなら不要と思うが、ポストモダンを考えるためには必要らしい。

ということで、昨日夕方、ジャスコ御幸店のフタバ図書で、橋爪大三郎著「はじめての構造主義」(講談社現代新書、1988年)を購入。内田樹先生の「映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想」と「寝ながら学べる構造主義」が待ちきれなくてね^^;)「はじめての構造主義」は僕が購入したのは39刷なので結構売れているのだろう。わかりやすい。レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」(川田順造訳、中央公論社、1977年、原書: 1955年)を最初の方で勧めている。僕は「悲しき熱帯」は持っているので、褪色して朱色であることが辛うじてわかる白っぽい背表紙に、やはり褪色して明るく青っぽくなった緑色の帯に「構造主義の原典」とある上下二冊の本を懐かしさを憶えながら取り出す。今こそ、読める年代になったのかもしれないと思ったり・・・エッセイの「悲しき熱帯」を読んでもわからないことだろうけど、構造主義のルーツは数学にあるということが、「はじめての構造主義」には書かれているらしい。どちらも楽しみながら読めそうだ^^)


7/16/2007 (Mon.)

ジョン・C・ライト著、日暮雅通訳「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」、ハヤカワ文庫、2006年。

久し振りに新しいSF作家をライブラリに加えることになった。三部作で、「ゴールデン・エイジ2 フェニックスの飛翔」は既に刊行されている。今秋、「ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉」が出る予定。

設定は興味深いが、638ページと分厚いだけに読み続けることができるかどうかが不安だったが、今のところ読み続けている^^;)3000歳の不死者がどのような思考をするのかという点については多少の疑義があるが、ニューロフォームなどの小道具がおもしろい。

用語の問題を少し整理しよう。「ポストモダン」という用語は、「近代以後」という語の意味からは、近代以後に関わることであれば、すべて包含するということになる。

近代と現代をどう区切るかということについては分野により、諸説がある。Wikipediaのモダニズムによれば、絵画においては、「1970年代後半頃からモダニズムの終焉が叫ばれた」とある。これについては、モダニズムと歴史的な区切りである近代を一緒に取り扱うのには無理があるという批判もありえるだろう。

日本文学に限ってみると、奥野健男の「日本文学史 近代から現代へ」(中公新書、1970年)では、近代の終わりは1920年前後である。乱暴に言えば、夏目漱石らによる近代文学の確立を経て、芥川龍之介等による近代文学の成熟の時代までである。それ以降は現代文学の範疇としている。戦後まもなく書かれた中村光夫の「日本の近代小説」(岩波新書、1954年、1964年14刷改版)も芥川龍之介の自殺で終わっていて、同様の認識であろう。

一方、Wikipediaでは、モダニズム文学は、「昭和初期の横光利一、川端康成の新感覚派や梶井基次郎、吉行エイスケや龍胆寺雄、など」を指しており、ポストモダン文学においては、「日本におけるポストモダン文学は1980年代に始まり、最初の作品として1980年の文藝賞受賞作品、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』があげられることが多い」としている。

ポストモダンの最後には、「なお、近年ではヨーロッパを中心に1989年のベルリンの壁崩壊をもって「近代」と「現代」を区分すべきだという議論が存在しており、この論に従った場合にはポストモダンそのものが「近代」の出来事の一つとして扱われてしまうという矛盾が生じてしまうことになる」と記されており、このような区分、分類の難しさを示している。時間の経過とともに「近代」や「現代」が後にずれるのは当然である。いつまでも100年も前のことを「近代」と呼ぶのも難しくなっている。

柄谷行人著「定本 柄谷行人集 1 日本近代文学の起源」(岩波書店、2004年、初版: 1980年)の「文庫版あとがき」(1988年)には次のようにある。

一九七〇年代の半ばに、大きな転換期があったことは明らかである。日本の近代文学の起源について考えていたとき、私は、日本の同時代の文学のことをまったく考えていなかった。しかし、日本に帰って、文芸批評(『反文学論』所収)をはじめた時、そこに近代文学が決定的に変容する光景を見いだした。一つの特徴をいえば、それは、「内面性」を否定することだったといえる。文学といえば、暗くどろどろした内面といった一方的なイメージが、この時期に払拭された。別の側からいえば、それは意味や内面性を背負わない「言葉」が解放されたということである。それは、「風景の発見」によって排除されたものが復権されたということだ。言葉遊び、パロディ、引用、さらに物語、つまり、近代文学が締め出した全領域が回復しはじめたのである。

(268-269ページ)

ということは、日本文学においては「反文学論」を読む必要があるということかな^^;)「日本近代文学の起源」の取り扱っている領域は、中村光夫の「日本の近代小説」の範囲である。1970年代半ばに大きな転換期があったとすれば、1920年代から1970年代までの50年間の小説とは何かということになる。近代は続いていたということなのか。日本の小説については、いずれ、ふたたび取り上げることにしよう。

jpg/kk_kindai_s.jpg柄谷行人著「定本 柄谷行人集 1 日本近代文学の起源」(岩波書店、2004年、初版: 1980年)

また、東浩紀氏は「ポストモダン」と「ポストモダニズム」は分けて考えようと提案している(「ゲーム的リアリズムの誕生」、2007年)。Wikipediaにあるように「ポストモダン」は現象であり、「ポストモダニズム」は運動であるというわけだ。しかし、語の定義と言うものは曖昧であり、重なる部分もある。言葉とはそのようなものであり、文脈によって判断される。意味は一度定義しても揺らいでいくのである。ここでは、定義そのものを問題とするよりも、なぜ、デリダなどのような「ポストモダニスト」と称せられるような哲学者が現れたのか(デリダについては、東浩紀著「存在論的、郵便的」、1998年がある)、先に触れたソレルスなどのような「ヌーヴォーロマン」の小説家が現れたのかを考えてみよう。

現代フランス小説については、僕自身が生きてきた時代の一つの不思議であったからである。ソレルスの「数」を見て以来、僕はヌーヴォーロマンのような現代フランス文学からは離れていった。読む意味がないし、袋小路のように感じたからだ。アラン・ロブ=グリエについても同じように感じた。ル・クレジオは当時、僕が高校生の時、「調書」(新潮社、1966年、原書: 1963年)から始めて、もっとも好んで読んでいた作家で、ヌーヴォーロマンの作家としては分類されていなかったと思うが、次第に小説を書かなくなった。文化人類学者になったからだろうけど、僕が最後に見たのは「創造の小径」の一冊「悪魔祓い」(新潮社、1975年、原書: 1971年)で、文体は既に普通のものであった。少しがっかりして、僕自身は現実の中に埋没していき、思い出す時があるとすれば、ほろ苦く遠くなった過去としてであった。それでも「向う側への旅」(新潮社、1979年、原書: 1975年)までは購入している。

(この項さらに続く)

更新: 2007-07-21T17:52:19+09:00
7/15/2007 (Sun.)

企業に見限られるSecond Lifeネタから、セカンドライフは時代遅れ?SLOってご存知ですか?「セカンドライフ出店」のマイナス面ネタへ。

Second Life(2006年版)について書いた記事はいつのことだったかもう忘れている。人間というものは忘れやすい動物だ。しかし、Second Lifeは、もっと気楽に行ける場所である必要があるだろう。Second Lifeが短期的にビジネスとして成り立つかどうかは微妙な問題であろうが、いずれはインターネットとは、Second Lifeのようなものだということになるだろう。インターネットは創造的機械としてのインターネットとして機能する必要がある。Second Lifeブラウザは、Webブラウザでもあると便利だろう。相互に行き来できるようになるとかっこいい。WebページからSecond Lifeに入る。Second LifeからWebページに出る。それが、向かうべき道だろう。

現実(リアル)の対応物のつもりのものが仮想空間に存在するようになる。仮想空間は記号から成り立っている。これこそが究極のポストモダンかもしれない。というか、究極のモダン^^;)

更新: 2007-07-15T22:29:07+09:00

7月にしては過去最大の強さを持つといわれる台風4号は九州に上陸した後、大雨を降らせながら、日本の南岸に沿って曲がり、関東沖で暴風域を急速に消滅させた。広島は昼を過ぎると、塵による散乱のない青みの深い空が、台風の名残の分厚く緻密な雲の巨大な層片を浮かべながら広がっている。太陽光の当たる雲の上部は白く輝いているが、光の透過しない下部は暗いままだ。

県立図書館にフーコーの本を返却して、イオン宇品に向かう。屋上に車を止めると少し風が残っている。毎度のことで、一階の文房具コーナーと二階の未来堂書店を廻る。大江健三郎の 「話して考える(シンク・トーク)」と「書いて考える(シンク・ライト)」をしばらく立ち読みして、とりあえず置く。次に「日経サイエンス 2007 08」を読み耽る。21世紀に入って、科学の進歩を感じることが多くなった。応用科学の力によるものではあるが、様々なものが現実化していく。高性能化したコンピュータの力は大きいものだろう。「日経サイエンス」のニュース・スキャンを読めば、様々なニュースに追いまくられるような気がする。変化する社会に迅速に適応していく必要があるからだ。

ソフトウェアの分野においても、マイクロソフトのSilverlight、アドビのAIR(Adobe Integrated Runtime)、Sun Java Desktop Systemなど、様々なアナウンスに晒される。そろそろ鎖国ではないけど、鎖情すべきではないかと思うこの頃である^^;)もうこれはバベルの塔状態ではないかと思う。


更新: 2007-07-17T23:58:29+09:00

4月に作って置いただけの「My 本」のページを更新し、新たにミシェル・フーコーのページを作成した。「養老孟司」のページと同様の構成にしている。

日記記事へのアクセスを容易にするために、更新日記は、年度別の時系列インデックスや月別のマンスリー・インデックスを自動的に作成する仕組みを持っているが、最早、7年目にもなると、日記全体を見通すことはほとんど不可能である。最近では、日記記事に関連記事の検索結果を埋め込むスクリプト(CodeZine連載第3回の記事にあるrenewal_r2html.pl)を使っているが、場当たり的にならざるを得ない。記事がリストで長くなってしまうという問題もある。

今後は、大きな項目については、更新日記全体を通したインデックス的なページを作っていこうと思う。今のところ、記事検索結果を出力するスクリプトを利用しているだけだが、いずれは、もっと自動化する必要があるかもしれない。

CodeZine連載記事の応用も今後の課題である。配信したAtomから生成したデータベースから記事を再構成することは容易だし、表現をAjaxの手法を用いた方法に変更することも簡単なことだ。

更新: 2007-07-16T20:31:07+09:00

園芸的プログラミング(08/16/2005)、その後。前の記事から8日後に追加された記事、要素還元論から混沌の縁へネタ。

過去の記事をリンクで辿っていて、そのそばにある記事が気になって読むことも結構多い。言わば寄り道だが、日記の場合は自分が関心を持っている内容だから、特に効果的である。偶然に頼るわけだが、京大式カードを捲るのに相当する作業である。一つの記事だけを表示するシステムと比較して、まとめて表示する場合のメリットでもある。

「要素還元論から混沌の縁へ」は複雑性の科学からソフトウェア開発の現場を見るとどのように見えるかという論考である。単なるロジックだけではすべてを見通せないという話。ロジックの前提が正しいかどうかが結局問題になる。ロジックの前提とはロジックに用いられる記号の意味論に帰着するだろう。意味論のゆらぎは混沌の縁にある。言わばソフトウェア開発の現場のポストモダンである。もっともソフトウェア開発自体がポストモダンな仕事であるわけだが^^;)

7/14/2007 (Sat.)

「postmodern」の「modern」を英和辞典で引くと、「近代の」と「現代の」の両方の訳が出てくる。近代も現代も実際上、時間的には近接していて重なって使われることが多いからだろう。曖昧な言葉だが、ここでは「近代の」ということで問題ない。「ポストモダン」という用語は、ポストモダン - Wikipediaの最初に要約されるように、「モダニズムを批判し、近代の行き詰まりを克服しようとする文化上の運動」と定義される。ポストモダンという言葉を耳にするたびに、近代とは何かと考えてしまう。何をどのように乗り越えるのか、ポストモダンの現象だけを論じても片手落ちなのである。

ミシェル・フーコーの「言葉と物」を媒介として、ルネサンス以降の西欧の哲学などの歴史を紐解いてきたが、大体わかってきたのは、デカルト以降の近代科学の歴史があって、それは20世紀におけるチョムスキーの生成文法につながったり、物理学の発展やコンピュータの出現につながり、それと並行してというか、影響を受けながらか、あるいは同時発生的に、他の文化的な活動である人文諸科学、芸術、文学は生じているということだ。

Wikipediaには「ポストモダン」の項に「ポストモダン文学」へのリンクがあるが、新しい文学は、科学の発展と逆比例するように科学の明晰性に反した無意味なものへと変化したように見える。例えば、フィリップ・ソレルスである。岩崎力訳、「数 ノンブル」(新潮社、1976年、原著: 1968年)の訳者あとがきには次のよう書かれている。

まず第一に指摘しなければならないのは、この《小説》には登場人物も心理も物語も筋も事件もなく、伝達すべきもの、表現すべきものもいっさいないということである。それどころか、この《小説》は、もともとなにかを言おうとさえしない。完結したある《意味》、読者が受け止め、理解すべきものはいっさい含まれていないのである。・・・

(フィリップ・ソレルス著、岩崎力訳、「数 ノンブル」、新潮社、1978年、170ページ)

あとがきだけではどのようなものかわからないので、「数 ノンブル」の最初の部分も引用しておこう。

1 ......紙が燃えていた、そして、規則正しく形が歪められるやり方でそこに投影され、描かれ、彩られたものすべてが問題なのだったが、その一方、ひとつの章句が語っていた---《外面がここにある》。・・・

jpg/ps_nomble_s.jpg数 ノンブル

ついでに、僕が持っている初期の作品の最初のセンテンスを示しておこう。

jpg/ps_drame_s.jpg小説 ドラマ(岩崎力訳、新潮社、1967年、1970年3刷、7ページ)

まずはじめに(最初の状態、幾本かの線、版画---演技がはじまる)、目と額の内側に集まってくるのは、おそらく、もっとも安定度の高い要素なのだ。・・・



jpg/ps_parc_s.JPG公園(岩崎力訳、新潮社、1966年、1970年6刷、45ページ)

空の青は、濡れて光る長い街路(アベニュ)のうえでくすんでいる。もう少したったら僕は外出するだろう、すこしずつ暗くなり、やがては消えうせる空に顔をあおむけて、僕は歩くだろう。・・・



(この項、つづく)

更新: 2007-07-16T08:58:18+09:00

[番外編]カウボーイズ岡山二人旅ネタ。

Antwaveで検索していたら、ニコニコ動画(RC) ‐ブラウジングコミュニケータ Antwave のご紹介が出てきたので、登録しようとしたら、遅すぎ、180万番を越えていた^^;)仕方がないので、YouTubeで検索。


更新: 2007-07-14T21:52:02+09:00

純粋行為 - 養老先生のタケシ君虫日記(06/03/2007)、その後の経過。

養老先生は、「逆立ち日本論」もそうだが、「・・・なんで虫のいない土地なんかに住むのだ、アホが。」と、最近は過激だ。言いたい放題、虫取り放題・・・


更新: 2007-07-14T18:41:28+09:00
7/12/2007 (Thu.)

養老孟司、内田樹著「逆立ち日本論」(新潮選書、2007年)ネタ。対談集だが、かなり編集されている。

これほどビンビン響いてきて、思わず、身体の置き場所を見回して確認したくなるような本はまれである。

・・・この対談を読み返してみると、養老先生が「斬猫」に類する、誰もが答えに窮するような問いを発し、私がそれに対して発作的に「草履を頭に載せて」、必死に師の打擲(ちょうちゃく)を逃れようとしている場面が散見されるはずである。

(「養老斬手 --- あとがきにかえて 内田樹」、255ページ)

これほど容赦ない養老先生を見るのは初めてかもしれない。解剖と合気道の達人が丁々発止と繰り広げる高級漫才を、少し居心地悪くもぞもぞしながら、超刺激的な異次元世界を楽しめる本である。養老本のなかでも最高の部類に属するだろう。

「内田樹」で本日記を検索してみると、意外といろいろと出てくる。

更新: 2007-07-14T10:15:38+09:00

デスクトップCGIフレームワークの研究 - mod_perlの導入ネタ。アナウンスを忘れていた^^;)

いろいろと環境設定が複雑になると面倒だなあと逆効果かもしれないが、PerlのCGIを高速化するなら、mod_perlが必須になるだろう。閲覧の立ち上がりは悪くはないみたいだけど^^)

環境と言えば、SQLをSQLiteに変更すればインストールは少し楽になる。これもネタにはなるけど。えーっ、また環境をいじるのと言われそうだから、まあ、しばらくは置いておこう。サーバーをPerlで動かせばというのもありなんだが・・・そうすれば、Perlだけですむけどね。

初回にひっそりと構想に盛り込んでおいたリソースインターフェースを考えているとやはり面倒だなあと思い始める。深みにはまりそうだし、効率は落ちる可能性があるし、それほど当面の目的には実用的とも思えないし・・・予告どおり、rss2msrdb.plを取り敢えず作るのが楽だなと日曜プログラマらしくというか、Perlプログラマらしく、実際的で怠惰な思考に流されていく^^;)

更新: 2007-07-15T12:49:31+09:00

PS3 Gentoo Linux KDE xmame snesx torrents Part 2ネタ。百聞は一見に如かず。


更新: 2007-07-12T22:13:21+09:00
7/10/2007 (Tue.)

情報の洪水で注意力は細切れに--ソフトウェアでどう支援できるかネタ。

大体、誰もが考えることは同じということである。しかし、最後に読者はどうしているのだろうと聞くところがかわいい。

7/8/2007 (Sun.)

昨日、試しに日記記事へアクセスするためのテーマ別のページを作ってみた。「養老」で検索した記事リストと更新日記インデックスを組み合わせる。日記記事に検索結果を埋め込むのも頻繁になると考えものだからだ。日記上欄の「養老孟司」からアクセスできる。さすが、メジャーネタなので、作成した一日だけで、ページビューが50件を越えている。

このようなページはある程度自動化して生成できるけど、記事の件数が多いともはや有効とはいえない。100件のリストをすべて見ようとは思わない。同一テーマでもさらに記事の分別、整理、要約が必要ということだろう。

さて、ここから導き出される方向性は、関連のある記事を合わせて一つにまとめる作業と、それを支援する仕組みが必要だということである。既に過去に何を書いたかなんて忘れている。見直したり、まとめなおしたりするドライビングフォースとは何かということになるわけだが・・・

過去に書いたものが検索によって浮かび上がる。しかし、この記事と特に関連のあるのはどれとどれかというところまではわからない。あるいは組み合わせるとおもしろいものはどれとどれかというような選別は難しい。結局、実際に自分で読んでみて比較対照するしかない。そういった作業がしやすい仕組みとは何かということだろう。

例えば、記事を印刷して読んで、編集するとよいかもしれない。検索結果のリストの記事を時系列に印刷する仕組みを作る。PDFに出力するかな。

更新: 2007-07-09T22:45:10+09:00

科学の終焉(1997年)に、チョムスキーについて、次のような引用がある。

1988年の「言語と知識の問題点」(Language and Problems of Knowledge)と題する本で、チョムスキーは、人間性についての多くの問題に関して、我々の言語的創造力のほうが科学的手法よりも多くの成果を示すかもしれない、と述べている。「人間の生命と人間の人格について、科学的心理学よりも小説のほうが、より多くのことを教えてくれるに違いない」と彼は書いている。「科学を形成する能力は、私たちの精神的資質のほんの一面に過ぎない。私たちはできるところでは科学を利用するが、幸いにして、それは絶対的な制限ではないのだ」。

(ジョン・ホーガン著、筒井康隆監修、竹内薫訳、「科学の終焉(おわり)」、徳間書店、1998年三刷、225ページ)

「人間性についての多くの問題」に限定した話ではあるが、言語的創造力の有効性をチョムスキーが指摘しているのは大変興味深い。翻訳も出ているので読んでみたいね。上記引用の前後はまったく素晴らしい。是非読むべし。チョムスキーの人間の認識には限界があるという話は、哲学者を含めた科学者に大きく影響を与えているらしい。

ポンジュの1952年以降に言語学を含む人文科学が大きく進歩したという話は、チョムスキーのことを意識して言っていると思われる。1953年にチョムスキーは「Systems of Syntactic Analysis,Journal of Symbolic Logic 18, no. 3 (September 1953): 242-56.」を書き、「科学の終焉」にも紹介されているように、1957年に「Syntactic Structures. The Hague: Mouton, 1957. 」が出版される。チョムスキーの「言語と知識の問題点」はマナグア講義と呼ばれているものだ。これも読まないと・・・

「言葉と物」から哲学や自然科学、言語学の側面については、ルネサンス以降の透視図が見えてきたかもしれない。少しは触れてきたが、文学については言語的創造力、ポストモダンとの関連においてもう少し考えてみようかな。MODE-Bあたりを出発点とすべきかもしれない。調べると、J・M・G・ル・ クレジオ (J. M. G. Le Crezio)フィリップ・ソレルスアラン・ ロブ = グリエ (Alain Robbe-Grillet)は新しい本も出ているなあ。書物の連鎖を断ち切ることは難しい^^;)

更新: 2007-07-13T23:21:54+09:00
7/7/2007 (Sat.)

続きの続き。フランシス・ポンジュとフィリップ・ソレルスの対話の中に次のような記述がある。

それで、二、三千年このかた、西欧文明のなかでは、幾何学の表現様式と同じ修辞学の表現形式の上で人は生かされ、そして生きてきた。これらのことはすべてタレスとユークリッドから始まっており、現在、現実の幾何学がすでにユークリッド幾何学でないことは十分に知られているところです。物理学についても同じことがいえます。もはや人はそれまでの物理学を拠り所にしていたのでは生きてゆけないし、世界を理解することもできない。それまでの法則、表現様式に従っていたのでは人間と人間、人間と世界の関係というものを説明することはまったくできないし、そこで生きてゆくこともできません。また世界を見ること、世界の中で行動することさえもできないともいえます。言うまでもありませんが、芸術、文学、修辞学のいずれにもこれと同じことがいえるのです。

これらすべてが変化してしまった。今からおよそ一世紀前から、といっても一世紀には少したりないが、人間による人間についての考え方、人間による世界についての考え方という点で、我々は数千年このかた、かつて経験したことのない革命のなかで生きているのだ、といえる。キリスト教が到達したものとか、ルネサンスがなし遂げたものなどさほど重要な事件ではありません。なぜかといえば、それらはまだ、ギリシアに端を発する幾何学や修辞学の内部(つまり西欧文明の内部)におかれていたからです。われわれは、はるかに深刻な激動のときを生きているのです。

(諸田和冶訳、「物が私語するとき ポンジュ、ソレルスの対話」、新潮社、86-87ページ)

ポンジュが言っているのは、フーコーの言う17世紀の最初の断絶は人間にとって大したことではなかったが(古代復興後の古典主義時代)、19世紀の断絶は深刻であるということ(カントの純粋理性批判以降)。ここで、人文諸科学が勃興し、激動の近代が始まった。ポストモダンとは、まだ終わりのない近代の延長なのかもしれない。

古い近代以降、20世紀に現れた、新しい科学的要素とは、万物理論(相対性理論と量子力学から超ひも理論へ)、物性物理学(半導体など電子デバイス、材料科学)、バイオテクノロジー(分子生物学、脳科学、サイボーグ)、複雑性の科学(自己組織化、カオス、フラクタル、Small World)、コンピュータ(オートマトン)、変形生成文法ぐらい、思い付きだからいろいろと洩れているかもしれないが。言ってみれば、これらがポストモダンであろう。近代以降、人間の思考や社会に大きな影響を与え、与えつつあるという意味において。

科学の発達は高速化しているように見えるが、一方では、「科学の終焉」(ジョン・ホーガン著、徳間書店、1997年、原著: 1996年)ということも言われている。科学の終焉とは、例えば、物理学の法則を根本的に変えるような新しい発見はもうない(第3章 物理学の終焉)ということを意味している。この本は皮肉で意地悪に最先端の科学者達を俎上に上げて論じていてとてもおもしろい。「第6章 社会科学の終焉」には、もちろん、チョムスキーも出てくる。

彼自身の言語学の分野では、「現在では人間の言語は多かれ少なかれ同じような(型にはまっている)ことや、それらを統一する原理は何かなど、多くのことが解ってきている」。しかし言葉が原因の最も根深い問題点の多くは、未解決のままになっている。例えば、デカルトも、人間が限りなく創造的な方法で言葉を使う能力を完全に解明しようとして苦しんでいた。「我々は、デカルトがぶつかったと同じような未知の壁にぶつかっているのだ」とチョムスキーは言った。

(ジョン・ホーガン著、筒井康隆監修、竹内薫訳、「科学の終焉(おわり)」、徳間書店、1998年三刷、225ページ)
更新: 2007-07-12T22:20:20+09:00

続き。フランシス・ポンジュとフィリップ・ソレルスの対話の中に次のような記述がある。

「小石への序説」というテキストのなかで、私は次のように述べています。われわれと同時代の人間にとっては、知識の全体を把握し、ソクラテス以前のギリシアの宇宙論と比べうるようなものを作り出すのは不可能である。なぜなら、ひとりの人間がそれを読み、それを学ぶのに、いくつもの生を必要とするほどに、科学はかくも発展し、分化してしまったからだ。そこで、すべてを再把握すること、草の上に寝転ぶこと、あたかも何も知らないかのように再びはじめることなどが基本的に必要となる、と私は言ったのです。

それゆえ、宇宙論ではないけれども、宇宙論の要素とでもいえるものが、多分終わりのない辞引といった形態のもとに分類されることになる。

(諸田和冶訳、「物が私語するとき ポンジュ、ソレルスの対話」、新潮社、94ページ)

現代の地球上に生まれ出た人間は誰もが「すべてを再把握する」という欲望をもっておかしくはない。20世紀の半ばに既に人間がそう考えていたというよりは、人間は誰もが太古よりそうしてきたということもできるだろう。「言葉と物」の最終章、第十章、人文諸科学では、人間そのものが科学の対象となったことに着目していて、特に科学の分化によって、人間が知識の全体を把握できなくなるという話にはなっていない。

科学の分化による知識の全体の把握の困難性とは意味合いが異なるが、情報量の増大による全体の把握の困難性について、「情報洪水」のような言葉が使われはじめたのはいつ頃からかは調べていないが、随分昔からそうだったような気がする。おそらくマスコミュニケーションという言葉の登場と機を一にして言われるようになったと思う。現代の情報量の加速度的な増大は人間に何をもたらしているのだろうか。人間の脳の容量は古代より変化していないのだ。

マスコミュニケーション - Wikipediaの項は焦点を合わせにくいが、通信社の歴史がおもしろい。

更新: 2007-07-07T10:41:34+09:00
7/6/2007 (Fri.)

iTunesがRuntime Errorで起動しても終了してしまう。

仕方がないので、iPhone対応の7.3でインストールしなおしたが、うんともスンとも言わない。結局、我がRSSリーダーで電脳空間カウボーイズを聴いている。

最近、Windowsが少しおかしい。プロセスとしては存在していても起動されているものが画面上に表示されないことがある。具体的には忘れたが、それを思い出して、タスクマネージャでプロセスを調べる。案の定、プロセスにはiTunes関係のプログラムが表示されている。iTunes関連と思われるいくつか心当たりのプロセスを終了してから、iTunesを起動すると7.3のライセンス条件の同意を求める画面が立ち上がる。なるほど、既に電脳空間カウボーイズのPodcastもダウンロード済みだ。

TSNETでBruce.さんからhttp://www.padmacolors.org/archives/2007/07/05_075627.phpを紹介してもらったが、僕の場合は、バージョン7.2の現象だったはずで、7.3をインストールしてPCを再起動すれば、おそらく問題なかったはずだ。しかし、Runtime Errorが出ても、Podcastがダウンロードされているところをみると、終了したように見えただけで、実際には動いていたらしい。

バージョン7.3は終了時に異常終了にならないようだし、iPhoneの中味のないヘルプもある^^;)オーディオマニアにはiTunes Plusが話題になるのだろう。そういえば、最近はPCの騒音がひどくて、音楽を聴く雰囲気ではないけどね(;_;)

更新: 2007-07-07T08:38:56+09:00

ページのカウンターとはとうとうお別れ。Google Analyticsによる解析データを利用することにしたからだ。以前は、サイトの所有者でないと恩恵に与れなかったが、新しいGoogle Analyticsは、パスを含むホームページサイトでも利用できるようになった。

長らくお世話になったカウンターCGI(カウント数: 134,694)をはずした。我がサイトのページビューの6割ぐらいは最も更新頻度の高いrenewal.htmlが稼ぎ出しているが、このページへのアクセスだけをカウントしてもあまり意味がない。Google Analyticsでは各ページへのアクセス状況は簡単にわかるので、カウンターは不要になった。RSS/Atomへのアクセス解析がGoogle Analyticsに統合されればベストである。

問題は、Google Analyticsの各ページへのアクセス状況のデータから、二番目がPLAYSTATION 3のページで、その次が、jperlのページだということがわかったのだが、日記の各記事へのアクセス頻度がわからないことだ。日記記事単位でページを構成すべきかということになるが、はてどうするかな。まあ、そんなことはどうでもいいんだが・・・

更新: 2007-08-02T22:03:47+09:00
7/3/2007 (Tue.)

思わぬ展開で、フランシス・ポンジュ、フィリップ・ソレルス著、諸田和治訳「物が私語するとき ポンジュ、ソレルスの対話」(新潮社、1975年、原著: 1970年)を読んでいる。原因は以下の引用部分を読めばわかるだろう。

変化したこととは、しばらくまえから---といってもごく最近のことですが---、文化が現在、ある学問(シャンス)の周囲をまわりはじめている点です。どんな学問(シャンス)の周囲かというと、言語学という学問(シャンス)の周囲をです。言語学も当然含まれる人文科学(シャンス・ユメーヌ)は著しい進歩をした。より正確にいえば、その進歩が目立ちはじめたのは、ごく最近、それもおそらく一九五二年以降のことだと思います。

むろん、この部分だけではないが、今日は疲れているのでこれぐらいにしておこう。既に日曜日の夜には「定本 柄谷行人集 1 日本近代文学の起源」(岩波書店、2004年)を読んでいたのだが・・・本は山のように積み重なり、今にも崩れようとしている。

1952年に何が起こったのか。

jpg/fp_ent01_s.jpg「物が私語するとき」(新潮社、1975年)

パラフィン紙の表紙カバーが付いていて、さらに箱がある。



更新: 2007-07-15T19:12:28+09:00
7/1/2007 (Sun.)

PS3 Linux のネットワークブートネタの続き。ネットワークブートの場合、他のシステムをインストールしないわけだから、HDDの領域確保をしなくてよいことになる。実際のところ、ローカルにまったくデータを持たなくてよいのかどうかはキャッシュなどのことを考えると問題のような気もするが、起動するだけならできてもよさそうな気がする。FAQではできることになっているはずの「HDDの領域確保をしない場合のブートローダーのインストールの仕方」がよくわからないので、SCEIにメールで問い合わせた。

早速、日曜日に返信メールが飛んできたのには驚いたが、フォーマットして領域確保をしてからとも取れる内容で、そんな答えだったら聞くまでもないが、「OK」と答えよとも取れる。なんだか箇条書きの番号の付け方がおかしい、文の編集間違いのような気もする回答だった。再質問も面倒だし、しかたがない、自分で多少のリスクをおかしてみようということで、「他のシステムのインストール」で、フォーマットして領域を作成するようにという依頼に対して、「OK」を出してみるとCD-Rに焼いたブートローダーを認識した。以上の情報を考慮して、「PS3 Linuxのためのブートローダーをインストールする」の手順でインストールする。

後は、「HTTP-FUSE PS3 Linuxをつかってみよう」の手順に従えばよいが、openlab.jpではkbootできなかったので、HTTP-FUSE PS3-Linuxにあるaist-game.comからkbootした。

実際のところ、HDDに領域確保していないせいか、極めて遅くてとても使えない。結局、quitもできず、PS3のハードスイッチで強制終了し、再起動して、kbootからboot-game-osで元に戻った。

jpg/SA360012_s.JPGubuntu Linux Internet-booted on PS3

ネットワークブートというものがどのようなものか、初めての経験でなるほどと思ったし、それがPS3で実際にできたことですごい世の中になってきたものだと感心した。ようやく、ハードディスクをバックアップして、Linuxに触ってもよいかなと思い始めた。焦ることは何もないので、いつのことになるかはわからないが、タイミングを見て実行しよう。その時は、PS3を我が書斎に移動することになるだろう。発熱のひどい年代物の17インチCRTモニターを引退させて、D端子付きの液晶ディスプレイの導入時かな。

更新: 2007-07-02T22:02:26+09:00

「iPhone」の使い心地は? 米有力メディアが続々と試用レビューを掲載ネタ。

最近のITメディア報道は加熱していて、ありとあらゆる情報が飛び交っている。ヘタな予想ネタの出番はもうないかなと思っている。iPhoneは今のところ日本で発売にならないので、電脳空間カウボーイズも取り上げないようだ。Apple関連では、以前Mac OS XのPC用販売を予想したことがあったが、Intel-Mac化、Bootcamp標準搭載に姿を変えた。さすが、一捻りされた興味深い戦略だが、OSを切り替えて使うというのは実際はそれほど現実的でない。それにMacを新たに使うユーザーなら、Windowsマシンも持っているだろう。OfficeデータはXML化され、標準化されたわけだし、既にデータはOSに依存しないものになりつつある。OSは好きなものを使う時代である。

さて、iPhoneネタ。米メディアの試用レビューの要約が出ているで、へーっそうなのというぐらいだが、Out of the Box:Apple iPhoneから、CNET TVで実際に動作する様子を見ることができる。早速登場!--iPhoneの分解レポートを見ると、中味はシンプルだ。物量からではなく、アイデアと知恵から成り立っている製品だと思わせる。なにしろ、135gしかないのに、5kgもあるPS3と同じ価格で売ろうというのだから、おいおいと言いたくなるかもね。iPhoneの詳細はApple本家のiPhoneへ行こう。

iPhoneとは関係ないけど、むしろ、画期的な静音PCのほうがユーザーからは待ち望まれているのではと思うこの頃。もっとも僕のPCだけがうるさいということもありえるが、最近のPC自作は静音化が一つの目的という。


更新: 2007-07-01T13:03:00+09:00
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