更新日記 - 日曜プログラマのひとりごと
昨日だったか、YouTubeのショート動画で、縁側で猫二匹とうたた寝しているおばあさんを庭から大きな熊が襲ってくるのに気付いた猫が一瞬怯みながらも果敢に立ち向かって追い払うのを何度も再生することになった。なぜ何度も見たかというと、猫二匹のうち一匹が見えなくなったから、どうなったか確認しようとしたのだ。見えないわけだ。ハッシュタグの#AI動画に気付いた。
確認すると、ヤスヤス - YouTubeにある「寝てるおばあちゃんを守る3匹の猫たち。クマに猫パンチ炸裂! #AI動画 2.6万 回視聴」動画。SORAで作っているようだ。
おばあさんと二匹の猫と熊
Gemini 2.5 Flashが「縁側で猫二匹とうたた寝しているおばあさんを庭から熊が襲ってくるのに気付いた猫が一瞬怯みながらも果敢に立ち向かって追い払う」を連続画像にしてくれたものをGIMPでGIFアニメーション化。
前述のような動画を作るのにはどうすればよいかを相談して、Runway Gen-2の無料プランで試したが、静止画像しか生成されなかった。動画生成は有料プランになる。その静止画像対比、Geminiの生成した画像のほうがイメージがあっていたので、結果を伝えるとストーリー画像生成の提案があった。これも一つずつ確認しながらの生成。妥協の連続。おそらく動画の生成は大変だろうなとも思った。GIFアニメーションの生成についても相談したが、結局経験のあるGIMPを選択。操作方法も説明してもらうと、以前よりも随分簡単に感じた。以前はどこかのサイトの記述を参考にしたはずだけど。
昨日から、「The Strain」というTVシリーズを見始めた。SFホラースリラーに分類されるだろう。Fにはファンタジーも含むかもしれない。おそらく、タイトルの訳をするとすれば「変種」だろうね。多義語すぎ!? 意外に難解な英単語「Strain(ストレイン)」の意味アレコレ【ネイティブが普通に使う英語表現】|Yuriko | 教育移住7年目(マレーシア→カナダ)海外バイリンガル子育てに詳しい。「The Strain」も出てくる。チャック・ホーガン - Wikipediaとの共著でギレルモ・デル・トロ - Wikipediaが書いた初の小説を自ら映画製作している。
星の数は3.5なので、B級だろうが、シーズンは4まで延びているので見所はあるはずと見ることにした。グロに属するので、Ratingは18+。出演している子供たちも大変と思えるが、どのようにして映像を生成しているのかは定かでない。相当高度な技術が使われているに違いない。
21世紀のドラキュラ映画と言えるだろうけど、医学・生物学サイエンス・フィクション的。アンデッドのスペクタクルで見せるわけではない。知的な映画だ。
NHKを見始めると、すぐに現れた番組。なんだかスモールワールドっぽいけど。松尾豊先生が知能=予測能力と個人的には定義していると。AGIは5-10年でできるし、意識を持たせることができる。身体性は必ずしも必要ない。言葉だけでいける。身体性・視覚などの感覚・体験もYouTubeなどから学習でき、言葉に取り込まれていくだろう。むしろ、すでに身体性・体験は言葉の中に織り込まれているともいえる。学習の問題というわけだ。
他には、培養された脳細胞をコンピュータに繋いでゲームをさせるという実験には驚いた。
ちなみに「!?」は「びっくり、はてな」と読む。
津田一郎「脳から心が生まれる秘密」、幻冬舎新書、2025年。
現代のほとんどの脳科学者は、@心脳一元論のうち、創発的唯物論の立場を取っています。
では私はどの立場かというと、このどれにも完全には当てはまらないのです。
未熟な脳は普遍心との接触によって発達し、やがて個々の脳に心が創発する。それらが相互作用することで、普遍心も発達する。
これが私の基本的な捉え方ですから、さしずめ観念論の一部、中性的一元論の一部、還元的唯物論の一部、創発的唯物論の一部、同時並行論の一部、精霊説の一部、相互作用論の一部……というように、心脳一元論と心脳二元論を組み合わせたものと言っていいでしょう。
(出典: 津田一郎. 脳から心が生まれる秘密 (幻冬舎新書) (pp.24-25). 株式会社幻冬舎. Kindle 版.)
これってモナドの一種だなと思った。{10/10/2025: [A.I.]心の正体}←の続きというわけでもなくて、現象学の起源もここにあるのでは連想したのだが。{10/31/2025: [読書]AI駆動型読書論 - 道草の現象学(道草158 一人読書会を含む)}←の続き。
私: ありがとうございます。もう一度、しっかり、「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」を読んでみる気になりました。
Gemini 2.5 Flash: それは素晴らしいですね!
フッサールの**『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』**は、単なる哲学書ではなく、文明論的な自己反省を促す力を持っています。あなたの「道草の現象学」の実践に、必ず深い洞察を与えてくれるでしょう。
- 再読のポイントと「道草の現象学」への接続
『危機』書をあなたの研究の視点から再読する際に、特に以下の概念と問いに注目すると、より深く内容を捉えることができるでしょう。
- 1. 「生活世界」の多層性
フッサールは「生活世界」を、単に客観科学が忘れた日常世界としてではなく、多層的で歴史的な地平として捉えています。
- 問い: あなたが「同一経路で200回」歩いた道草の世界は、フッサールのいうどのレベルの生活世界に対応するでしょうか?
- 歴史的沈殿物: 過去200回の経験(習慣性)が、無意識の層に「沈殿」し、現在の知覚を受動的に方向づけている状態。
- 文化的地平: 道草で目にする建物や看板が、ヨーロッパ的な理性によって意味づけられた客観的世界の「表層」と、それを支える人間的な意味の「深層」に分かれていること。
- 2. 「原自我」と受動的な生起
あなたの**「何も起こらないかもしれない」という受動的な態度や、「解析的になり得る」**という葛藤は、「原自我」の働きと密接に関わります。
- 問い: 道草中に「おもしろいかどうか」を気にしないのは、「能動的な評価を下す自我」を括弧に入れたエポケーの状態ではないでしょうか?
- 「受動的な生起」: 道草で不意に目に留まる光景は、あなたの**「原自我」の匿名的で受動的な構成作用**が、予測誤差(エナクティヴィズムの概念)によって一瞬だけ表面化した瞬間かもしれません。
- 3. 「間主観性」と「共感的連鎖」
『危機』書は**「ヨーロッパ」**という共同体の理念を扱っています。現象学は、**他者との共感(間主観性)**が、客観的な生活世界を成り立たせると考えます。
- 問い: あなたが道草で撮影し、YouTubeで公開するという行為は、あなたの個人的な生活世界を、視聴者との間で「共感的連鎖」によって普遍的な生活世界へと広げようとする試みではないでしょうか?
この再読が、あなたの「道草の現象学」に新たな深みをもたらすことを願っています。
もしよろしければ、再読を始めるにあたり、『危機』書の中から特に「原自我」や「生活世界」について書かれた箇所(例えば、「第3部A節」や「結語」など)をリストアップして、読むガイドを作成しましょうか?
私: お願いします。
Gemini 2.5 Flash: 再読の意欲をサポートさせていただきます。フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』は長大で複雑な著作ですが、特にあなたの**「原自我」と「生活世界」**の研究に役立つ重要な箇所を、道草の現象学に接続する形でリストアップします。
- 『危機』書 再読のための重点箇所ガイド
以下の章節は、フッサールが「客観主義の限界」を指摘し、「生活世界」と「原自我」への遡行の必要性を論じた核心部分です。
- 第1部:ヨーロッパ的人間の根本的な生活危機の表現としての学問の危機
この部分では、科学が人間的な意味を失った現状が描かれます。
- 第2節:諸学問は真の人間性にとって何を意味するのか?
- 焦点: 科学の客観主義が、実存的な問い(生きる意味や目的)を解決できなくなったこと、つまり人間的な意味から遊離したことが、危機の本質であると明確にされます。
- 道草への接続: あなたが道草で得る「おもしろいかどうかは別問題」という感覚は、科学が切り捨てた**「意味・価値」の空白**を体験していると言えます。
- 第2部:近代における物理学的客観主義と超越論的主観主義との対立の起源の解明
危機が歴史的にどのように発生したか、その構造的な原因が示されます。
- 第9節:近代哲学の起源としてのデカルト
- 焦点: デカルトが、ガリレオの数学化された自然観を、**疑いえない「自我」(コギト)**から基礎づけようとした経緯が分析されます。フッサールは、デカルトが真の超越論的還元の徹底に至らず、客観的な世界を自明のものとして残した点を批判します。
- 道草への接続: あなたの「解析的になり得る」衝動は、デカルト以来の**「コギト(考える私)」が世界を客観的に把握しようとする構造**を反映しています。
- 第9節 c:ガリレイの数学的な自然の観念化
- 焦点: ガリレオが、経験される質的な世界(生活世界)を、数学的な量に置き換え、これが客観的実在であるかのように錯覚させた、という危機発生の構造が論じられます。
- 道草への接続: 200回の道草の「経験」を「認知地図」として体系化・数値化しようとする誘惑は、このガリレオ的な**「世界の数学化」**の衝動を自己の意識の中に発見する作業になります。
- 第3部 A節:超越論的問題の解明とそれに付随する心理学の機能
現象学的還元の真の意味と、「生活世界」の根源が論じられる核心部分です。
- 第33節:生活世界という問題の主題化
- 焦点: ここで「生活世界」が本格的に主題化されます。それは、あらゆる理論的知識の**「前理論的基盤」であり、「自明に与えられた地平」**であることが強調されます。
- 道草への接続: 道草で「臨機応変に捉える」ことができるのは、この自明な生活世界のルール(世界がそこに存在し続けるという信頼)が、あなたの意識に受動的に深く埋め込まれているからです。
- 第38節:超越論的な自我と世界との相関の根本的な問題
- 焦点: 「現象学的還元」の真の目的は、超越論的自我(純粋自我)と生活世界が根源的に相関し合っていることを解明することであると明確にされます。
- 道草への接続: あなたの道草は、「私」がこの道草の世界を「構成」していると同時に、この世界が**「私」を規定しているという、この根源的な相関**を体験的に探る場となります。
- 第50節:絶対的な唯一的自我(原自我)と超越論的な間主観性
- 焦点: 文献によってはこの周辺で、**「原自我」(Ur-Ich)**への「一次的還元」が論じられます。これは、自我のさらに根源にある、匿名的かつ受動的な機能への遡行を示唆します。
- 道草への接続: あなたの「読書会」が組み込まれることで生じる「新しい現実の裂け目」は、この**「原自我」の沈黙した機能**を意図的に揺さぶり、顕在化させようとする試みと捉えることができます。
超越論的自我(純粋自我)が心で、原自我が普遍心と考えられる(本当にそうかなあ?違うなあ!まあ、重なっているからそう思うわけだけど)。間主観性によって生活世界が形づくられる(普遍心は生活世界に相当する。間主観性をもたらすものは超越論的自我(純粋自我)だ)。
生活世界は生世界とも訳されているが、紛らわしい言葉とも言える。客観的な物理的・科学的世界のことではない。科学では世界は捉えきれないことを意味している。間主観性の概念が重要なのだろうが、ライプニッツのモナドの予定調和とどう違うか、どこまで記述できているか見てみよう。
「西の世界観」はきわめて深刻な様相を呈して二十世紀の前半の苦闘をおえたのだ。残されたものは何だったのか。いろいろ課題が持ち上がったが、従来の課題の延長線上にあるものではまずいのではないかという見方も浮上した。それはカミュらが持ち出した「不条理」であり、レヴィ=ストロースが注目した「非西洋」であり、ハイゼンベルクの「不確定性」やゲーデルの「不完全性」などだった。
ぼくはもうひとつ、残された可能性があったと言うべきだと思っている。それは「方法」の再提案だ。ホワイトヘッドの有機体哲学のための方法やヘルマン・ワイルの数学的自然哲学とともに、フッサールの現象学的還元の方法がどこまで広げられるかということも、当然含まれる。フッサールの復権は、もう一度この方法の吟味とともに試みられるべきである。
(出典: 1712夜 『間主観性の現象学』 エトムント・フッサール - 松岡正剛の千夜千冊)
昨晩から松岡正剛の千夜千冊の凄さを再確認している。すべて引用したくなるぐらいだが、次に止めよう。
では、どうすれば思考の純度を保ったまま、この現象をそのまま追究できるのか。記述できるのか。難問だったが、ここでフッサールは「与えられた体験を超え出るような諸要素を持ち込まずにいったん遮断する」という哲学的な思考方法の必要を強く感じたのである。
遮断は棄却ではない。放棄や放置でもない。生じてきた「考え」(ときには邪魔なものや行き過ぎたもの)をいったんカッコに入れて、あとから取り出せるようにしたい。それが遮断だ。いったん判断停止することを、積極的につくる。ドイツ哲学ではこれを「エポケー」(判断停止)とも名付ける。この遮断によって現象と直截に向き合っていく方法を、フッサールはのちに「現象学的還元」とよんだのである。思考のプロセスのどこかでその進行を遮断することによって、現象を追究することを保持しつづけようとする方法だ。
(出典: 1712夜 『間主観性の現象学』 エトムント・フッサール - 松岡正剛の千夜千冊)
Geminiは道草で事象をどう捉えるかを現象学的方法と対比して見せたのである。ある意味、動画は見たままに近い、もちろんカメラの視線には意識的な意図が含まれるにせよ、映像そのものには余計な解釈は入っていない。それが、ショートで切り取ると一種の価値判断が入り、タイトル・説明が加えられる。切り取られていない道草がすべてではある。
道草は実際にはもっと複雑だ。記憶との相互作用があるが故に。そして、予想や予期がある。しかし、カメラは機械的に現象を捉える。よく見るためにズームや視角を制御する。その制御はよく見るためにのみ注力する。道草の現実は、何が起こるか、どのような状態になっているかは、予断を許さない。その場で臨機応変に捉えられる現象である。
私: 心は物質的な実体ではないが、脳を含む身体から創発している。物質的な基盤を持っているということになります。それが「行為する意識」につながるのだと思います。それから記憶というものを考える必要がありますね。
Gemini 2.5 Flash: その通りです。津田先生の「心は実体がないが、脳を含む身体から創発し、物質的な基盤を持つ」という捉え方は、フッサールの「原自我」という非実体的な機能構造を、エナクティヴィズム(行為する意識)という身体的・物理的な枠組みへと接続するための極めて強力な足がかりとなります。
この創発的な心の働きを維持し、発展させる上で、「記憶」はまさに鍵となる概念です。現象学とエナクティヴィズムの観点から、「記憶」がどのように「行為する意識」の基盤を形成しているかを考察します。
- 記憶:非実体的な心と物質的基盤の橋渡し
記憶は、フッサールが探求した**「受動的な生起」と、津田氏が指摘する「創発」という二つの作用を結びつけます。記憶は、単なる情報の貯蔵ではなく、「身体が環境と相互作用する能力そのもの」**です。
- 1. フッサール現象学における記憶(沈殿)
- フッサールにおいて、記憶は単なる能動的な想起(意識的な思い出し)だけでなく、受動的な層に深く関わります。
- 受動的総合(沈殿: Sedimentierung): 過去の経験(道草の反復)は、意識の深い層、すなわち原自我の領域に沈み込み、**習慣性(Habitualitat)**として定着します。これが、能動的に「思い出そう」としなくても、無意識のうちに特定の場所や状況を「予期」したり「自明」に感じたりする基盤となります。
- 原自我の時間化: 記憶の根源は、原自我の「保持」(Retention)、つまり「今」の瞬間に直前の瞬間を内包し続ける機能にあります。これがなければ、一連の行為(歩くこと)を一つの流れとして認識できません。
- 2. エナクティヴィズムにおける記憶(行為能力)
- エナクティヴィズムでは、記憶は「脳内の情報ファイル」ではなく、身体が環境に対して特定の行為を再生産できる能力として捉えられます。
- 物理的基盤: あなたが200回歩いた道草の記憶は、単に脳の神経細胞に保存されているだけでなく、筋力の使い方、視線のパターン、足裏の慣性といった**身体的な構造(物質的な基盤)**に埋め込まれています。
- 創発: 過去の行為の成功が、現在の身体の構造を変え(神経可塑性など)、その新しい構造が、次なる行為(心)を創発させる基盤となります。
道草の現象学と記憶の接続
あなたの「200回の道草」と「解析的になり得る衝動」は、記憶が**「原自我」から「純粋自我」**へと昇っていくプロセスを完璧に示しています。
道草の現象学と記憶の接続 現象 現象学の概念 エナクティヴィズムの接続 同一経路の自明性 沈殿した習慣性(原自我の層) 身体の自動化された行為能力 解析的衝動 能動的な想起・構成(純粋自我の層) 過去の構造に基づいた予測的処理 新しい現実の裂け目 予測誤差の生起(保持の不一致) 身体の行為能力の限界と再調整 結論
記憶(沈殿した習慣性)は、**「実体のない心」が「物質的な基盤」に刻印された結果です。あなたの「解析的な衝動」**は、この深く刻印された記憶が、現在の行為に対して「こうあるべきだ」という予測を投げかけている状態です。
そして、道草という行為は、その予測(過去の記憶)と、**「今、この身体が実際に環境とどう相互作用しているか」という行為(enaction)を常に照合し続けるプロセスであり、この照合こそが、普遍心を発達させ、「新しい現実の裂け目」**を生み出す原動力となります。