日本シリーズ第6戦が広島カープにとって今年最後の試合になった。日本ハムの4勝2敗。【一問一答】引退の広島・黒田、最後に対戦した大谷は「ショッキングだった」ネタ。
日本シリーズ第6戦後、表彰式が終わり、ベンチに下りようとする黒田選手今放送されていたMr.サンデー『日本シリーズの舞台裏 大谷に黒田が投げた「魂の8球」秘話』への答えが、上記の記事かな。舞台裏は聞いてみないとわからない。
丸の打席とエルドレッド日本シリーズ第6戦で丸はホームラン。エルドレッドは敢闘賞を受賞。
日本シリーズ第6戦後、夜中、マツダスタジアムの室内練習場で打ち込みをしていたという。
ノーベル賞選考委「ディラン氏の声聞けてうれしい」:Cubeニュースネタ。
ということで、両者からの話が合致し、既に問題は決着済みであることが確認された。JNNについてはJapan News Network - Wikipediaを参照。
Apple Music「土曜日のアルバム」、「グレン・グールドを聴くあなたに」ネタ。庄司紗矢香の「Bach and Reger: Pièces pour violon solo」(2011年)。
最初はどんなもんかな程度の試し聞きだったのだが。精神性が極めて高い。ゆるがない技術、余裕、音の静けさ、真率さ。
Regerは初めて聴くけど、素晴らしい。Chaconne No.4 in G Minor, Op.117が流れている。マックス・レーガー - Wikipediaによると近年再評価されているようだ。Welcome to the Max-Reger-Institute (MRI), the centre of Reger research: News。
BachのPartita No.2 in D Minor, BWV 1004、V. Chaconneで終わり。1時間46分。
昨日は8時には就寝。何か疲れてしまった。今朝は、J.D. Southerの「You're Only Lonely」(1979年)が流れている。Apple Music。Spotifyはスマホからなら無制限にフリーで聴けるということをようやく理解して、AndroidからApple TVかAmazon Firestick TV経由のオーディオ再生を検討してみたが、無料というわけにはなりそうもないので、取り敢えず中断。J.D. Southerも70歳になっている。土曜日のアルバムの中にあった最初のソロアルバム、「John David Souther」(1972年)から続けて聴いている。ソフトロック。「You're Only Lonely」はLPを持っているはず。
「Tenderness」(2015年)をさらに続けて聴いている。ストリングも入って、分類もロックではなく、ポップ。タイトル通りで、聴きやすい。昨年出たアルバムだけど、声がとても若くて驚いた。JD Souther, New Album Tenderness Out Today, Posted 05/12/2015。
ボブ・ディランさん、ノーベル文学賞「受け取る」:Cubeニュースネタ。PCを起動すると、Cubeニュースのポップアップが伝えてくれた。起床時、室内温度23℃、昨晩帰宅時、外気温17℃。なあーんだというか・・・
まあ、ひとさわがせだよねの一言。随分憶測記事を書かせてもらったしというか、まあいろいろと調べたし、考えたけど。最初から受賞を決めていても、いろいろと調べ始めたことには変わりないとは思うから、別にどうというわけではない。受賞を断る理由をあまり思いつかないから、是非、理由を教えてほしかった。「授賞に言葉を失った」というのが理由とは・・・
これで物事は収まるところにようやく収まった。次は、ノーベル文学賞受賞記念で何を歌うかが話題になるだろう。新曲かな^^)/
これがネタ元らしい。Bob Dylan: Nobel Literature Prize left me speechless - BBC News。
記者の眼 - 「ジョブズとの決別は避けられた」とジョン・スカリーは語った:ITproネタ。今、Apple WATCH Series 2の防水性を示すコマーシャルがテレビに流れた。斬新な映像だ。
スティーブ・ジョブズ氏はおそらく過去最大のイノベータ―の一人です。アップルの歴史の早期に、彼と一緒に仕事をできたことは最も幸福なことでした。今でもうれしく思っています。
2011年10月5日、スティーブ・ジョブズ氏はこの世を去りました。その日、私は新しい会社を創設するにあたって「MISFIT」という名前を付けました。それは2015年に売却したのですが。
「MISFIT」とは「はみだしもの」という意味です。スティーブ・ジョブズ氏が使っていた言葉です。彼はこう言っていました。「我々は既存の枠組みにははまらないぞ。もし丸い鍵穴があったとしても、我々は四角いままだぞ」ってね。
(前掲IT Pro記事)
Watch Series 2レビュー―Apple初の本物の腕時計 | TechCrunch Japanや「Apple Watch Series 2」がどう進化したのか使ってみたレポート - GIGAZINEの記事を見ると、Apple Watch series 2はMISFITのデバイスなのかもしれない。
AirPodsを待っているのだが、アップル、完全ワイヤレスイヤホンAirPodsを発売延期。不具合のため「あと少しだけ時間が必要」 - Engadget Japaneseとのこと。
気温高し。昨日帰宅時外気温21℃、本日24℃。Apple、iPhone/iPad/Macとも出荷減で2016年Q4は減収減益 - PC Watchネタ。Appleの2016年Q3 PC出荷台数が前年同期比13.4%減に - PC Watchから見て、世界景気減速か?
そろそろ、5年も経つとジョブズ・マジックも解けてきたかな。ジョブズが言えば、なんであろうとそれは魔法だった。もう、スマホもタブレットも日用品になったのだ。
さて、次はVRなのかな・・・PlayStation(R)VR | プレイステーション(R) オフィシャルサイトは売り切れ。Google VRのDaydreamはこれから。
うむ。それって本当に必要な物なのという感じ。やはり、ゲームの世界か。誰もが使うものじゃない。
アップルに関してはAppleのティム・クックCEOのVRに対する考え | ライフハッカー[日本版]ということなので、すぐには出てこない。
予定通り、昼から駱駝カフェの読書会に出掛けた。広電でトコトコ、40分弱かな。広電本社前で乗り換えになる。課題図書は森田真生著「数学する身体」(新潮社、2016年)。14:00-17:00の3時間。話題はあちこちに飛びながら拡がる。トランプのカードを切るように - 歴史の中の数学と言語 (10/09/2016)の続き。
S氏、「数学する身体」というタイトルからは内容的に何が書いてあるんだろうと、難しそうだという印象を持つが、読みやすいとの評価。いろいろな興味深い題材が詰まっていて、それぞれにつながっていく本。
特に皆が岡潔に注目。岡潔の顔に魅入られたとY氏。凄い人が日本人にもいた。
「数学する身体」と「日本のこころ」岡潔は毎日平均3ページ、レポーティング・ペーパーを書く。それを二年間続けて、2000枚ぐらい書き溜め、そこから20ページの論文を書く。(「日本のこころ」、54ページ)
僕は次の箇所を引用。
チューリングが、心を作ることによって心を理解しようとしたとすれば、岡の方は心になることによって心をわかろうとした。チューリングが数学を道具として心の探究に向かったとすれば、岡にとって数学は、心の世界の奥深くへと分け入る行為そのものであった。道元にとって禅がそうであったように、また芭蕉にとって俳諧がそうであったように、彼にとって数学は、それ自体が一つの道だったのだ。
(前掲、185ページ)
この部分は著書独自のものの見方が現れているところだろう。村上春樹は小説を書くことについて次のように言っている。
小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで降りて行かなくてはなりません。大きなビルディングを建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならないのと同じことです。また密な物語を語ろうとすればするほど、その地下の暗闇はますます重く分厚いものになります。
(村上春樹著「職業としての小説家」、スイッチ・パブリッシング、2015年、175ページ)
こうしてみると、小説を書くこと自体が、心の世界の奥深くへと分け入る行為であると読めなくもありません。数学も同様な行為であるとすると、チューリング的な数学の方法と同様な小説の書き方もあり得るという感じもしますし、「道」とは何かという疑問も湧きます。この箇所だけでは、単に「道」という言葉に言い換えているに過ぎない。この節の最後の段落は次のようなものだ。
心の外、心の過去、物理的な肉体の中に閉じ込められない、心の本来の広がりを取り戻そうと、岡は「情緒」という言葉に、新たな意味を吹き込もうとしたのだ。
(前掲、186ページ)
岡潔の「日本のこころ」が手元にあるのだが、第二部に「情緒」は割り当てられている。さて、何が書いてあるかは次の機会に辿ってみよう。
人工知能について
意外だったのは、みんなが人工知能は実現して、例えば、小説やデザインを生み出して、創作者たるべき人間を脅かすのではと危惧していること。ベストセラーを機械学習で学習させれば、ベストセラーが生みだせるはずというわけ。
しかし、どのようなレベルの創作が人工知能に可能になるかは難しい問題を含んでいる。小説を書くことは碁や将棋のようなゲームとはまったく異なる。まず明確なルールがない。W氏は小説を書くセオリーがあると主張されたが、文章というものは無限だ。機械学習させるにしても、何を学習させるのか、どのような小説の何がどの程度いいとするのか難しい。よいという基準とは何なのか。ベストセラーなら、販売数で考えるのだろうか。コンピュータはベストセラーに共通のパターンを見出せるだろうか。販売数を基準にして、片っ端から、学習させるとして、何を解析するのだろう。
それはともかく、人工知能の発展の今後を考えるのに興味深い二つの記事をリストアップしておこう。
しかしながら、現実を如実に表していて、とても現実的なのは、ASCII.jp:仕掛けがないアイデアというのは無に等しい|スペシャルトーク@プログラミング+の話だろう。超素晴らしい。大部分を引用したくなりそうだけど、ここでは一か所だけ引用しておこう。是非読むべし。
―― ロボットスタートの中橋義博さんに聞いたら、いま日本ではコミュニケーションロボットが、国内約30、海外約15社から60機種以上出ているそうなんです。そうした業界マップをインフォグラフィックにして配布していますけど、信じられない数です。
高橋 ハードを作り上げるのも大変だし、そのあとのソフトウェアのコンテンツを延々作り続けなきゃいけない苦労がある。ところが、アイデアだけでロボットが完成すると思われがちなんですよね。
―― コンテンツは消費されていきますからね。
高橋 いまのところコミュニケーションのコンテンツって何やかんや人力で作っているわけです。Siriもそうなわけですけど。勝手に会話を紡ぎだしてくれるんじゃないかという妄想がありますが、現実はそういうわけじゃない。
ロドニー・ブルックスがAI脅威論を否定「人間レベルに達するには500年かかる」 | ROBOTEERのような意見もある。
社会について
談論風発、様々な話題が飛び交った。国際紛争・国際平和論、政治論、結婚観、料理、SNS、LINE、Kindleなど。もっと基本的な重要な概念もあったはずだが、メモを見ると次のようにリストされている。
いろいろと思い返していると、S氏から最後は山に籠って生活かなという話が出た。岡潔先生が農業をしながら数学に打ち込んだという話題からつながった。現代のようなグローバルな拝金主義(資本主義)の世の中では、一部に富が片寄り(ビル・ゲイツやFacebookのザッカーバーグのようにしっかりした考え方の人がいるにしても)、実際上、個人はプラグマティズムや功利主義的な見方を採らざるを得ず、山籠もりが相当という気持ちになるというわけ。今の日本ならそういう生き方も可能であろうというお話。究極的には、グローバル化の中で国家(政治)の存在感が希薄になり、個人と個人のつながり(ネットワーク)が重要になる。
岡潔先生の著作からの話だったと思うが、「モノ」よりは「人」が大切ということだとY氏。「人」をどこまで大切にできるのかどうか。図書館で、おそらく「情緒と創造」を借りてこられていたと思う。グローバル化時代の社会の在り方において、もう少し解きほぐすべき話題があるかもしれない。
数学は苦手からの出発、数学に親しむ
数学は苦手という気持ちが皆にあるから、「数学する身体」というタイトルは手に取りにくいという面もあったように感じた。僕も例外ではないが、苦手のままにしたくないという気持ちもある。数学することを理解したい。「数学する身体」は今年の小林秀雄賞という肩書があったから少し勧めやすかったということもあったし、新しい本、若い人の書いた本を読んでみたいという個人的な理由もあったわけだが、数学そのものが直接出てくるわけではないので数学的に読むのが難しいわけではない。数学がどのように発展してきたか、どのような問題が残っているのか、現在にどのように関わっているのかをわかりやすく説明している。
チューリングが生前、最後に発表した論文は「解ける問題と解けない問題」と題されている。彼はその中で、数々のパズルを紹介しながら、任意のパズルを紹介しながら、任意のパズルが解けるかどうかを判定するような機械的手続きは存在しないと、論じている。解けるパズルが「解ける」のだということは、そのパズルを実際に解いてみせることによって示すことができる。ところが、パズルが「解けない」ことを立証するのは、必ずしも容易ではない。
(「数学する身体」、109ページ)
この部分は証明論、メタ数学、超数学の領域に関わるもので、ゲーデルの不完全性定理にもつながる話である。これについては、「無限の始まり」を書いたデイヴィッド・ドイッチュ先生が「Constructor Theory」に取り組まれていることと関係があると思う。E.ナーゲル、J.R.ニューマン著「数学から超数学へ ゲーデルの証明」(白揚社、1968年)というバートランド・ラッセルに捧げられた書があるのだが、これを読み返している。はやしはじめ氏のあとがきにチューリングへの言及がある。コンピュータや人工知能が超数学にどこまで近づけるのか。ゲーデルとチューリングを同時に議論するような解説があればぜひ読みたいと思っている。
「数学から超数学へ」で本日記を検索すると次の二つの記事が見つかった。
上記のリンクの前者は齋藤正彦著「数のコスモロジー」(ちくま学芸文庫、2007年)に関する記事だが、最後につぎのように書いている。
物理学の発展も、より包括的な理論を求める歴史のなかにあり、その発展は永遠に続くことをゲーデルの証明は保証しているのかなと思ったり、それをもたらすものは言語的創造力であるということだろうとも考える。齋藤先生は「数学は言語である」と、そして不完全性定理こそが数学の新しい発展をもたらす創造性の源にあるとしている。ここには深遠な神秘がある。
もう一冊数学関係の著作として取り上げた本が、たまたまFacebookで前日に見つけた記事から、木村俊一著「数学の魔術師たち」(角川ソフィア文庫、2015年; 原著: 「数術師伝説」、平凡社、1999年)。この中にラマヌジャンというインドの数学者が紹介されていて、現代の数学者を悩ませ続ける「100年前の数学の魔術師」シュリニヴァーサ・ラマヌジャン|WIRED.jpの記事につながっている。ラマヌジャンの伝記「奇蹟がくれた数式」という映画が公開されるのにあわせて、解説をつとめる木村先生のインタビューが載っている。木村先生に言わせれば、100年後になってラマヌジャンはようやく理解され始めているのだそうだ。ちなみに「数学の魔術師たち」は小学生でも理解できるようにと書かれたという。
W氏から、「奇蹟がくれた数式」は、広島ではサロンシネマで11月19日からのようだと連絡をいただいた。数学に親しむ機会になるかもしれない。
PCを起動すると、ディラン氏“無礼で思い上がっている” 文学賞選考メンバーが批判:Cubeニュースの記事に驚く。記事タイトルでさらに検索。ボブ・ディランに「無礼で傲慢」 ネットではノーベル賞選考員側に非難の声 - ライブドアニュースなど。
ボブ・ディラン、公式サイトから「ノーベル文学賞受賞者」表記が消えるを見て、あれあれと思った。本記事は、ディランの意志かどうか不明としているが、ボブ・ディランHPに「受賞」記載も本人が削除要請 - 芸能 : 日刊スポーツと報じられている。
この流れで行くと、最初から応答しないことから導き出せるように、授賞無視ということかと思う。歌で暗に答えているのかもしれないが、辞退すると明言したほうがよいのではと思ってしまうね。理由を明確にしてほしい。ディラン・ファンとしては。
いずれにせよ、ノーベル文学賞もディランもこれほどメディアに注目されたことはなかったろうと思う。大成功だよ、プロモーションとしては・・・僕も考える材料やディランの歌詞を認知するチャンスをもらったということかな。
室温24℃。快適。震度6弱の鳥取県中部、震度1以上の地震182回:Cubeニュースも気になる。今回の地震でずれた断層は知られていなかったものだとどこかに書いてあったと思う。鳥取地震「横ずれ断層型」 熊本と同じ内陸直下 :日本経済新聞にも次のように書いてある。
大きな地震を繰り返す断層を活断層と呼び、地震調査委は主要な97の活断層で地震の規模や発生確率の予測を公表している。ただ今回の地震は「これまで知られていなかった断層で起きた可能性がある」(京都大学の飯尾能久教授)。周囲には43年に鳥取地震(M7.2)を起こした鹿野―吉岡断層や、岩坪断層があるが、今回の震源からは離れている。
Art PepperのModern Artを繰り返して聴いている。Apple Music/iTunesで音量をあまり大きくせず、バックに流す。静かな朝には悪くない。
次は、今回の騒動で知ったディランのアルバム「Time Out of Mind」を聴いてみる。タイム・アウト・オブ・マインド - Wikipedia参照。アルバム・タイトルに惹かれた。いつの世からということでもないこと、普遍的な事象を歌う。グラミー賞の最優秀アルバム賞とベスト・コンテンポラリー・フォーク・アルバム部門を受賞。「Love Sick」から、「Dirt Road Blues」、「Standing in the Doorway」と続く。「Cold Irons Bound」で男性ロック・ボーカル部門グラミー賞を受けたという。
グラミー賞でさえ、身近で話題にならなければ、知らずに終わってしまう。ノーベル賞も同様の運命にある。最近は村上春樹の授賞の話題が年中行事となったので、必ずノーベル文学賞に注意が行くようになった。尤もこの時代(1997-1998年)にはApple Musicはなかった。この時代は音楽を聴くということはCDを購入するか、CDレンタルに行くということだった。知っていても聞かなかっただけかもしれない。まだ、現在のように情報に溢れたWEBも存在していなかった。テレビ・ラジオや新聞などのメディアだけでは、知らずに終わった可能性も高い。
昨晩、ジェフリー・ディーヴァーの「悪魔の涙」(文藝春秋、2000年)を読了。終盤のどんでん返しの連続。あー、よかったね、これで終わりかなと思っていると・・・まだ、ページが残っている。訳者のあとがきを読んでいると、ディーヴァーは原稿を20稿ぐらいは作るらしい。さらに印刷で15回ぐらいは書き直す。出版社がゲラを返すのを躊躇するほど。
そういえば、連環の日々 (2015/03/08)の次の部分を思い出した。
「村上海賊の娘」の和田竜が杏と達人達で話し合っている。資料集めに1年、シナリオ作りに1年、小説化に2年半を掛けたそうだ。小説にする前に一旦シナリオ化して、物語の内容や構造の問題点を洗い出す。それによって、小説が濃密で無駄のないものになる。やはり、手間が掛かっている。いや、読んでみようかな。杏という人も相当すごい才能を持っているし、チャレンジャー、努力家。脚本を自分で書き写して、自分用に作り直している。最初の仕事からずーっとそうしているらしい。才能と努力だねえ。
なにごとも時間が掛かる。毎日少しずつでも努力を続けていないと時は過ぎ去り、後に何も残らない。「村上海賊の娘」(新潮文庫、2016年)の(一)、(二)は手元にあるがまだ読めていない。そろそろ読んでみたいが・・・やはり、切っ掛けが必要なのだ。(三)、(四)も既に出ている。
現代の数学者を悩ませ続ける「100年前の数学の魔術師」シュリニヴァーサ・ラマヌジャン|WIRED.jpの最後には次のようにある。
WIRED NEWS 2016.10.21 FRI 10:00
現代の数学者を悩ませ続ける「100年前の数学の魔術師」シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
映画『奇蹟がくれた数式』が2016年10月22日に公開される。天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの短い生涯を追った作品だ。本作の解説をつとめる広島大学の木村俊一に、ラマヌジャンの功績について話を訊いた。TEXT BY WIRED.jp_N
・・・
テクノロジーの発展は速いですが、数学の進みはとてもゆっくりです。1997年には、(前出の)アンドリュースがラマヌジャンに関係する数学専門の学術誌(『The Ramanujan Journal』)を創刊しました。ラマヌジャンの数学はいまもなお、生きているんです。むしろ、ようやくラマヌジャンが見えていたものが、100年後のぼくたちにも見えはじめてきたのだと思います」
ものごとを10年のスパンで見なくてはならないといつも書いているが、実は100年のスパンでものごとを見る必要があることに数学の世界では気づいてきているということだ。先日のBarbourの最先端の論文にライプニッツやマッハが出てくるということは物理学も100年のスパンで物事を考えているということ。100年前の意味がわかってくる。
エルンスト・マッハ - Wikipediaは今年が没後100年だったということか・・・
昨日は鳥取は震度6弱、広島も一部は震度4。かなり広範囲にわたって揺れた。東日本大震災から五年後、西日本も熊本地震、阿蘇山の爆発的噴火から鳥取地震と地殻変動が続いている。日本列島の置かれている地理的位置による宿命的な現象であると言えるが、戦後70年のタイムスパンの中で異常に地殻変動が活発になっていることも間違いない。引き金はおそらく、東日本太平洋沖地震だったのだろう。
大分・佐伯で日向灘を震源とする震度4の地震と、MSNのニュースのトップに載っている。今朝の3時過ぎ。南海トラフ地震は「確実に近づいている」 高橋学教授が警告 - ライブドアニュースのニュースの後なので、不気味だったが、鳥取6弱 南海トラフ影響なし | 2016/10/21(金) 21:03 - Yahoo!ニュース、鳥取地震「揺れる船にいるようだった」 続く余震に不安 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュースなどの報が出ている。熊本地震と同じ横ずれ断層型とのことだが、局所的にはそうなんだろうけど、それがなぜ引き起こされているのかということが問題なのだろうと思う。
メールのタイトルを眺めていて、【速報】任天堂、新型ゲーム機「Nintendo Switch(ニンテンドースイッチ)」を発表 2017年3月発売予定【追記あり】 | Social Game Infoのニュースに気付いた。テクノロジー的にはNVIDIA の技術が任天堂の新ゲーム機「Nintendo Switch」に採用されました | NVIDIAが参考になるだろう。
おととい、Fire TVでSpotifyのアプリを動かしたのだが、音はまったく悪くない。ただ、Spotifyのフリーの再生の上限時間に達してしまった。今日は、Amazon Musicへ。「読書しながら聴くジャズ」。コルトレーンの「Say It」から。
Amazonのプレミアビデオで見ていた「メンタリスト」もシーズン5へ入ると有料になった。SD画質でも200円/エピソード。すっ飛ばして最後のエピソード22を見てしまうかと思ったら、さらにシーズン6-7が控えていた。背景の主題「レッド・ジョン」に関してはエピソードの連続性が低いので、毎回を独立して楽しむことができるシリーズ。「24」の最後の有料シーズンは全部見ざるを得なかったが・・・アート・ペッパーの「Bewitched」が耳をそばだたせる。何気ない静けさの中の音。目覚めていくものがある。
PCのApple Musicに切り替えて、Art Pepper Quartetのmodern artを再生する。二曲目がBewitched, Bothered and Bewildered。
あーっ、もう8時過ぎ。時間がない。一旦、止める。
・・・
なぜか、iTunesからの音にはあまりインパクトがない。途中で音がもたつく感じがするフレーズもある。もう一度、Amazon Musicで試す。こちらは力強い音がする。曲名に(Remastered)と表示されている。Apple Musicで聴いているのは「Modern Art: The Complete Art Pepper Arradin Recordings, Vol. 2」とアルバム名が表示されている。収録されている曲順も異なる。曲タイトルも「Bewitched」だけだし。Remastered、そのせいかな。Modern Art - Art Pepper | Release Info | AllMusic、曲タイトルと曲順から見てこちらなんだろう。さて、どちらがいいのだろう。それは価値観の問題だ。元の録音されたままの音と・・・
Amazon Music最近は、曲の表示に合わせて、アルバムのジャケットを背景に広げて表示する。真っ黒よりは洒落ている。
The Lyrics: 1961-2012 | The Official Bob Dylan Siteには、WINNER OF THE NOVEL PRIZE IN LITERATUREとある。公式サイトで受賞を認めたということ。
この歌詞集は、元は、1961年から2001年までのものだったが、ノーベル賞受賞に合わせて新たに発売されたということだ。2012年というのは、Tempestが出た年で、現時点、ディランの最後の自作の歌曲が載っているアルバムだと思う。『ボブ・ディラン全詩集1962-2001』も新しいのが出るだろう。
その状態なので、今更、文学賞と言われてもねと躊躇したのが真相かも知れない。
次は、いつ自作の新曲が出るだろう。楽しみ。
今日は暑くて汗が出るくらいだった。現在の室温28℃。タイトルだけで十分なニュースかな。
Nobel panel gives up knockin' on Dylan's door | Music | The Guardianのリンクは残して、最後の部分を引用しておこう。
Dylan has toured consistently since 1988, and concludes his current leg on 23 November - so at least the musician will be free on the date of the Nobel's big bash.
As to whether he will attend, however, the answer is blowing in the wind.
デイヴィッド・ドイッチュ David Deutsch (2016/09/02)の続き・・・室温が27℃まで上がってきた。もう暑いね。
「コンストラクタ理論は、すべての基礎科学理論を、可能な物理的変換と不可能な物理的変換、すなわち起こり得るか、そうでないかの二分法の観点から表現しようとする。」でアブストラクトは始まる。
「これは、初期条件と運動の法則から何が起こるかを予測する、という基礎物理学の支配的な概念からの出発である。」と続く。
「コンストラクタ理論が物理学の基礎部門であることに期待する、いくつかの輻輳する動機が議論される。理論のいくつかの定理が提案され、その様々な問題を解決し、様々な統一を達成する潜在的可能性が研究される。これらは、古典的及び量子情報に横たわる情報理論をもたらし、計算理論をすべての物理的変換を含むように一般化し、(永遠運動機械の除外のような)より強い操作則で保存則の形式的ステートメントを統一し、物理学の法則として(それぞれ方法論的、メタ物理学的と現在思われている)自然のテスト可能性や計算可能性の定理を表現し、(熱力学の第二法則のような)出現則の正確なステートメントを可能にし、物理用語における知識のような明らかに人間中心的な属性を表現する。」
以上で、要約は終わり。続いて、序論、動機、理論の展開、結論、謝辞で終わる40ページの論文である。2012年9月に書かれ、12月に再校されている。英語はイギリス英語のせいか、読みやすい。どこまで読むか、どこを読むか、いつ読むかは、僕の単なる気紛れに支配されるだろう。関連した興味のあることはたくさんあるし、他にも面白い読むべきものはたくさんある。
Referencesには25件の文献が記載されているが、最初の二つが、Barbourとなっている。調べてみると、Julian Barbourのことだった。初めて知った。論文のタイトルなどを見ているとライプニッツとかマッハの名前が出てくる。何がどこにつながるか、わからない・・・
雨が降り出した。昨日はカープがクライマックス・シリーズ、ファイナルステージの第4戦を8-7で勝って、日本シリーズ出場を決めた後、ひろしま国際ホテルまで出掛けた。懇親会の後、F氏と後輩三人と一緒に二次会に出掛けた。F氏と四次会になったが、助言に従って五次会はパスして夜中過ぎ、タクシーで帰宅。まだ、薄いセーターぐらいで夜も寒くない。雨の音が大きい。気温がまた上がるという。現在の室温26℃。秋も深まりつつ、逆戻り。秋の夜長、少し数学と物理理論の世界に迷い込んでみよう。
to be continued...
ボブ・ディラン喋らん 直後のベガス公演黙々17曲 - 社会 : 日刊スポーツネタ。この記事の中から、既にシカゴ・トリビューンの授賞が遅すぎるという批判は取り上げた。文学の境界の問題もあるが、既にそれもある程度議論したので、残っているニューヨークタイムズのオピニオン(by Anna North)記事、Why Bob Dylan Shouldn't Have Gotten a Nobel - The New York Timesを取り上げよう。これもノーベル賞が取り上げる文学の領域の問題にも関わることではあるので、関連記事のリンクは残しておこう。Bob Dylan Wins Nobel Prize, Redefining Boundaries of Literature - The New York Times。
要点は、ボブ・ディランはグラミー賞にこそ値するものである。ボブ・ディランはノーベル文学賞を必要としないが、文学はノーベル賞を必要としている。
ボブ・ディランのノーベル賞の必要性に関しては、レナード・コーエン氏の「エベレスト頂上のメダル」説と同じ。読書は世界的に衰退している。文学賞は貴重なのである。作家たちは売り上げを増やすためにノーベル賞を必要としている。グラミー賞やロックの殿堂に小説家や詩人は入れないのだ。
大体、主要な記事は集めたので、そろそろ終わりにしよう。
ついでに、ディラン受賞、ロシア文壇の反応 | ロシアNOWを残しておこう。それなりにそれぞれ妥当な見解・反応だと思う。とにかく賽は投げられた。後はディランの選択の問題だ。いずれにせよ、今年はボブ・ディランが選ばれたのであり、それは変わらない。読書が世界的に減少し、伝統的な文学が時代に適応できなくて衰退するとすれば仕方がない。押しとどめることはできない。いずれ変化に適応して、新しい文学や読書が生まれるに違いない。ロシア文壇の反応にはレナード・コーエンやジム・モリソンについての言及がある。全然知らなかったんだけど・・・名前はどこかで聞きかじったかもしれない。調べてみたけど、基本的には、Bob Dylanを追い掛ければよいだろうと思う。
Bob Dylan The Bootleg Series Vol.1-3 [rare & unreleased] 1961-1991ノーベル賞授賞の報を聞いて注文したCDの方は届いたけど、本の方はだいぶ遅れるみたい。
それぞれの曲の録音の解説がある24ページの小冊子が同梱されているが、なにしろ字が小さく、無理やりページに細かく詰め込まれている。早速スキャンしてPDF化した。PCで200%に拡大して読みながら聴いている。
何度も同じようなことを書いているのだが、Apple Musicにはレコーディングデータや歌詞などの文字情報はない。情報はアルバムと曲のタイトルとアーティスト名ぐらいだけ、後は曲が聴けるだけに過ぎない。人間が音楽を聴く行為はもっと複雑だ。それだけでは足りない。今のところ、CDはそのような豊富な文字情報を供給する役割がある。それが虫眼鏡でも読む気になれない不親切な小冊子の添付では、いずれ売れなくなるだろう。WEBを使って、CD購入者には情報を提供するなどの仕組みを作ればいいのに。
WIREDは、雑誌の定期購読者にはかなり安く価格を設定して、PDF版をWEBサイトでダウンロードできる特典を設定している。記事の提供もWEBと一体なのだ。お買い得感がある。
三枚組のCDをすべて聴き通した。歌詞は、Songs Archive | The Official Bob Dylan Siteでタイトルを検索すれば簡単に読むことができる。フレンドリーだね。
事務局困惑…ボブ・ディラン本人に連絡つかず「非常に珍しい」 ― スポニチ Sponichi Annex 芸能ネタ。ボブ・ディランのノーベル文学賞授賞に関連して、連絡が付かないことに加えて、いろいろなニュースが伝えられている。ディランのCDなどの作品はノーベル特需景気に沸いているようで、世界に刺激を与えたことだけは間違いない。
ディラン氏は受賞後も一切コメントを出していない。コンサートではノーベル賞受賞の話題だけでなく、曲以外の会話そのものが一切なかった。ステージは暗くディラン氏の顔もかろうじて見える程度。声と曲が強調される「歌が全て」という演出だった。
ステージでは、アンコールに応え代表曲「風に吹かれて」を演奏した後、最後はフランク・シナトラが歌って有名な「Why try to change me now(なぜ今僕の気持ちを変えようとするの?)」で締めた。世間から少し離れた自分の世界に入り「そっとしといて」と歌う曲だ。意味ありげな選曲だった。
(出典: ボブ・ディラン氏、ノーベル賞の熱狂と距離|エンタメ!|NIKKEI STYLE)
ディランは「デザート―」にトップバッターで登場し、全17曲を熱唱した。アンコールでは自身最大のヒット曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を約3年ぶりに披露。最後は13日のラスベガス公演と同じ「ホワイ・トライ・トゥ・チェンジ・ミー・ナウ」で締めた。
「ホワイ―」の歌詞には「今、私を心変わりさせようとするのはどうして」「私はどうしてもっとありきたりの人間になれないのだろう?」という一節がある。ディラン本人は受賞に関して一言も発していないが、ファンの間では意味深長な歌詞が、今の心情を代弁しているのではないかと臆測を呼んでいる。
(出典: ボブ・ディランいまだ沈黙 「ノーベル賞」授与伝えられず - ライブドアニュース)
連絡が付くまでは公式になっていないということだから、なんらかの連絡がついた段階で、受賞か、辞退かが決まるんだろう。レナード・コーエン氏の「エベレスト頂上のメダル」説はともかく、授賞が遅すぎるという、シカゴ・トリビューンの批判もわからないではない。今更という気持ちもあるだろうね。Just 19 years too late, Bob Dylan wins the Nobel Prize - Chicago Tribuneの最後に次のようにある。
For those in the Swedish Academy still wondering upon whom they should bestow the most coveted prize in letters, the answer is not blowing in the wind. It's right here.
「風に吹かれて」で、風に吹かれるのは「答え」だ。記事の本体は、1997年に書かれたものを再掲している。
ボブ・ディラン氏、ノーベル賞の熱狂と距離|エンタメ!|NIKKEI STYLEの先の引用の後に次のようにある。
「詩人」と呼ばれるディラン氏はかすれた声で言葉を一つ一つ慎重に曲に乗せ、ほぼ全ての曲を独白するように歌い上げた。原曲に様々なアレンジが加わっており、ライブならではの楽しさがあふれる。それに独白調のボソボソとした歌唱が加わることで、かつてのような政治性やフォークの要素は驚くほど感じさせない。今のパフォーマンスはおそらく熱狂的なフォークファンなら物足りなさを感じるものだろう。
僕にはこちらの評価のほうが興味深い。
もう一点、「ロックを舐めている」 ボブ・ディラン日経記事が大物議 : J-CASTニュースがおもしろい。なるほどと思った。ロックは芸術でないのかということは、音楽は芸術ではないのかということにもつながる。ノーベル賞にノーベル音楽賞があればなんの問題もないのだと思うけど。
ノーベル賞 - Wikipediaによれば、ノーベル賞は自然科学分野の物理学賞、化学賞、生理学・医学賞に加えて、文学賞、平和賞、経済学賞がある。経済学賞はノーベルの遺言にはなく、1969年から授与されている。予算の問題は当然あるのだろうけど、音楽賞、哲学賞があってもよいわけだ。数学についてはフィールズ賞がいつも話題に上がる。音楽はグラミー賞が有名。さすがに、哲学は、今や賞を与えるような、わかりやすい成果が出てくるのかどうかがわからない時代に入っている。あらゆる分野の思考に基礎的に必要なものとなったのかもしれない。哲学の定義自体が揺らいでいる。
ロックが芸術かどうか、芸術でないロックがあるのかどうか。ジャズやポピュラー・ミュージックだって、芸術であり得る。音楽という意味で。音楽が文学であり得るのか、歌詞が文学でもあり得るというのはその通りだろうけど、歌はそれ以上のものでもあるだろう。しかしながら、英語のいろいろな記事を読みながら、英語の言葉の持つニュアンスを十分に読み取れないことに苛立った。グローバルな文学賞が真の意味で有り得るのかどうか、言葉の壁は大きい。そんなことを考えさせられた。
今朝、ロイヤル・アルバート・ホール・コンサートのElectric SetをCDで聴いたあと、Apple Music/iTunes/Windows 10 Proに戻って、「Nashville Skyline」に続けて、「Shadows in the Night」(2015年)を聴いている。Bob Dylan - Wikipediaには既にノーベル文学賞の記載がある。
ボブ・ディランの最近の話題は、「Shadows in the Night」と「Fallen Angels」(2016年)なのが、少し心配。自作の歌曲ではないからだ。Great American Songbookからの歌曲の発掘であり、アレンジは独自のもので、uncoverと称しているけど。少なくとも文学とは関係ない。尤も、ディランは自らを詩人とは見做していない可能性もある。ミュージシャン、音楽家だと。大きなお世話だと。
Sony Corporation of America: New Bob Dylan Studio Album Shadows In The Night Set For CD, Vinyl And Digital Release February 3, 2015には次のようにある。日本語は、ボブ・ディラン通算36作目のニューアルバム『シャドウズ・イン・ザ・ナイト』2月4日発売を参照。
Upon Columbia's announcement of the album's forthcoming release, Bob Dylan commented, "It was a real privilege to make this album. I've wanted to do something like this for a long time but was never brave enough to approach 30-piece complicated arrangements and refine them down for a 5-piece band. That's the key to all these performances. We knew these songs extremely well. It was all done live. Maybe one or two takes. No overdubbing. No vocal booths. No headphones. No separate tracking, and, for the most part, mixed as it was recorded. I don't see myself as covering these songs in any way. They've been covered enough. Buried, as a matter a fact. What me and my band are basically doing is uncovering them. Lifting them out of the grave and bringing them into the light of day."
創造者としての音楽家の強烈な自負心を感じる。
ノーベル文学賞は他の賞に比べて価値がわかりにくい。最近の受賞者を見ても知らない人ばかり、唯一、2008年のジャン=マリー・ギュスターヴ・ル・クレジオが昔から知っている好きな作家でよかったねと思ったのだった。文学には言葉の壁がある。ディランはほとんど誰でも知っているから、まったく問題ない。そして、英語の世紀だし、英語なら何とか読めるし、翻訳もある。日本では自伝も詩集も翻訳されている。
受賞者を知らない場合は、そういう人に光を当てるのは良いことだよねと思うばかり。ただ、少なくとも原文なり、特殊な言語の場合は翻訳が手に届くように配慮してほしいと思う。まずはエッセンスや一部でよいので。WEBの時代だよ。
ノーベル自身は、Wikipediaによれば、多国語を理解するマルチリンガルだったそうで、自ら翻訳もしていたという。シンガー・ソング・ライターの受賞は初めてだが、調べてみると、哲学も受賞対象になっている。もちろん、サルトルが受賞を辞退したのはよく知られていることだが、サルトルの場合は小説も戯曲もあった。哲学ではベルグソンやバートランド・ラッセルが受賞している。
今、「Fallen Angels」を聴きなおしている。歌曲・アルバムとして悪くはないけど、ディランがこれでいいのとちょっと思う。Critic Reviews for Fallen Angels - MetacriticのMetascoreも現在77。5月20日の79から下がっている。ボブ・ディラン自作最新作の「Tempest」(2012年)を後で聴いてみよう。Reviews for Tempest by Bob Dylan - Metacriticでは、現在83。ついでに、Reviews for Shadows in the Night by Bob Dylan - MetacriticのMetascoreは82。こっちのほうはいいなあと思ったけどね。
今日、日経や中國新聞を見ると、受賞辞退の可能性もありそうだ。受賞後のコメントもないし、スウェーデン・アカデミーは連絡が取れていないらしい。さて、どうなるか。
レナード・コーエンが、ディランのノーベル賞受賞、「もう死ぬ準備はできている」と語ったことについて語る。本人登場の新作イベントに行った! - 中村明美の「ニューヨーク通信」 (2016/10/14)| ブログ | RO69(アールオーロック) - ロッキング・オンの音楽情報サイトには次のようにある。レナード・コーエンのコメント。
・・・「それは、エベレストの頂上にメダルを飾るようなもの」と短く答えた。つまり、ディランはすでに世界一で巨大な存在なので、その頂上に小さなメダルを飾ったところであまり意味がない、ということ。
Tempestは六曲目の「Scarlet Town」から、耳に馴染んできたせいか、ようやく心に響いてきた。ディランがそこにいる。
ようやく、Apple Music クラシックロック「はじめてのボブ・ディラン」を流し始めた。「Like a Rolling Stone」、アルバムは「Highway 61 Revisted」。昨晩はカープがCSファイナルステージ第二戦で勝利が確定する前に何か疲れていて寝てしまった。ノーベル文学賞のことも忘れて。夜中二時半に目が覚めて、PCを点ける。Cubeニュースだったと思うけど、カープの勝利とディランがノーベル賞を取ったことを知った。
2016年10月14日、朝日新聞と中國新聞は第一面のトップニュース昼休みに日経と朝日を買っておいてとメッセージを送っていた。日経は一面こそトップの扱いではなかったが、二面に「風に吹かれて」と「時代は変る」の歌詞を載せていた。ボブ・ディラン著、中川五郎訳「ボブ・ディラン全詩集 1962-2001」(SBクリエイティブ刊)から引用している。
日本経済新聞、2016年10月14日、第2面今朝、何か本が欲しいねと思って、自伝を買おうと思ったけど、もう古書しかないし、ずいぶん高価なので止めて、湯浅 学著「ボブ・ディラン――ロックの精霊」(岩波新書)を取りあえず調達することに。おそらく自伝は再刊されるだろう。
「The Bootleg Series Vol.4 BOB DYLAN LIVE 1966 The "Royal Albert Hall" Concert」に冊子があったことを思い出して調べると、歌詞の英語との対訳と解説が訳されて入っている。年寄りにしては僕の眼がいくらよくてもあまりにも字が小さくて読めないので、スキャンしてPDF化した。こういう時でもないと作業する気にならないからね。60ページ見開きのPDF冊子が出来上がった。これでじっくり読める。
BOB DYLAN LIVE 1966それはともかく、「風に吹かれて」の意味をあまり気にしたことはなかった。深刻な意味だった。今の時代にもマッチしていることが悲しいぐらいに。今こそ、歌われるべき歌。「時代が変る」も同じだ。変化に適応できなければ、石のように沈んでしまうよと。現代への警告だね。
「It's All Over Now, Baby Blue」が流れている。僕にとってもどうすべきか、意味深だねえ・・・聴く人によって多様な解釈が可能な歌詞なのだ。
スティーブ・ジョブズの話題の後に、ディランのノーベル賞の話題とはね。「Lay Lady Lay」が流れてくる。好きな曲。「Nashville Skyline」(1969年)のアルバムで親しんだ。ただ、歌詞の意味は知らない。Lay, Lady, Lay | The Official Bob Dylan Siteへ行こう。このアルバム自体はゆったりとしたカントリー調で、おだやかなディランの顔と曲が印象的。
ロイヤル・アルバート・ホール・コンサート(1966年)のDISC 1 Acoustic Setを聴きはじめた。DISC 1はギターとハーモニカとの弾き語りだが、DISC 2 Electric SetはThe Hawksとエレキギターで音楽的に新しい世界に入った問題作。フォークからロックへ。DISC 2は明日の朝、聴こう。おやすみ。
知られざるスティーブ・ジョブズ 〜伝説のスピーチの真実〜。NHK BSプレミアム。
「いつか点はつながる」と信じろ。マッキントッシュ、1984年。右腕、ジョージ・クロウ。点と点はつながる。1976年、アップル・コンピュータを創業。「マジですごいものをつくってやる」人材を集めはじめた。
クロウはヒューレット・パッカード。1980年に最初の誘いを受ける。汚いブーツを履いて、森からやってきたみたいだった。アップルIIは1298ドル。オタクのコンピュータ。6ヶ月後にまたやってくる。マッキントッシュの原型を持ってきた。しかし、それが凄いものだとクロウは見抜いた。1980年の社内会議、一人一台を実現するのが決定的に重要、2000ドルに設定する。クロウはそれを知って、アップルに行くことを決断する。人生最大の決断だったという。
テクノロジー×アート。書道家、ティム・ガービン。フォントを作らされる。何度も何度も。一書体あたり50回も。ジョブズがいるところで。どうすればよいのかわからないようになるが、なんとかして、ダメ出しをするジョブズを満足させたいと思うようになったのだそうだ。
クロウはジョブズに禁じられたソニーとマッキントッシュのディスクドライブを作る。ジョブズは結局それに対して怒ることはない。
1985年、アップル追放。喪失と愛。NeXT+PIXAR。最悪の状況でも信念を失ってはいけない。自分の仕事は素晴らしい仕事だと信じる。
アルビー・レイ・スミス。ルーカスフィルムのコンピュータ部門のリーダーだった。これがPIXARになる。1991年、屈辱を受けたスミスは退社。1995年、Toy Storyをスミスの教え子のジョン・ラセターらが完成させた。スミスが辞める時、ジョブズは最高になったら戻ってきてもよいと言った。ジョブズは、それが悔しくてがんばったスミスのCG会社に投資した。人ではなくて、その能力を評価する。
曹洞宗。死の覚悟。ハイク禅堂、知野弘文。ジョブズが永平寺に行って禅僧になりたいと言うのを、ここで見つからないものは永平寺に見つからないと諭した。重重無尽の縁。誰のものかわからない人生を生きるな。
Stay Hungry, Stay Foolish.
「『ハングリーであれ、愚か者であれ(Stay hungry, Stay foolish)』は、(曹洞宗の祖、洞山良价(とうざんりょうかい)禅師が説いた)『愚の如く、魯ろの如く、よく相続するを主中の主と名づく』を訳したものだろう。『よく相続するを主中の主と名づく』は、コツコツと1つのことを続ける人が最も強い、という意味である。形あるものは必ず滅びる。だからこそ、命ある間にたゆまず精進し、一瞬一瞬の生を最大限に発揮せよ、という教えだ」
(スティーブ・ジョブズと禅 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online)
ちょっとメモとしては不完全だが・・・残しておこう。バカになってやれ。
一昨日、急に寒くなる。ひろしま美術館にパセーラの駐車場から上がって向かうと半袖では寒かった。本日、帰宅時室温、22℃、現在、24℃。5-6℃低くなった。ノラ・ジョーンズのCome Away With Me (2002)のShoot The Moonが流れている。
Spotifyをずーっと使っている。最初、最新リリースのTragedyを流し始めると、家内からなんなのと声が掛かる。ノラ・ジョーンズと答えると、やはりセンスがいいわねと。僕が最初に知ったのはアップルのイベントだった。スティーブ・ジョブズのお気に入りだった。カントリーっぽい音楽だが、ジャズに分類される。どちらかというとフォークだと思うけど。ゆっくりとしたテンポで古さもあるのだが、現代的な洗練された感性を感じさせる。
9月はあっという間に過ぎ去り、秋が深まる。少し遅くなるだけで夜の中を走ることになる。10月23日に次回の読書会が決まる。課題図書は「数学する身体」。関連図書の岡潔著「日本のこころ」の発送の連絡があった。明日届くはず。
次はLittle Broken Hearts (2012)、10年の時を経ると音楽はもっと新しい感じがする。Good Morning、環境音楽的に聴こえる。
読み掛けのジェフリー・ディーヴァーの「悪魔の涙」(文春文庫、2000年)を取り出して読み始める。ディーヴァーは007を書いてもストーリーの雰囲気・構成・流れが同じだなあと思う。ただ、凄く専門的な知識に彩られる。主人公は元FBI科学犯罪文書研究室捜査官の文書検査士。パラパラと捲って、英語の脅迫状が手書きなのに惹かれて購入した。どのように事件が解決されるのだろう。期待に違わずおもしろい。今、四分の一を超えたところ。スリラー・サスペンスを愉しむ余裕が出てきた。
それはともかく、Spotifyが「利用可能時間は残り1時間を切りました」と言う。あれ、15時間は30日間の制限なのか・・・。これでは続けられないね。仕方がない。Apple Musicに戻るか^^;)世の中甘くない。
同じ、Little Broken Heartsで切り替え。音質を比較すると、iTunesの方が上という感じがするね。音に深みがあるのと高音の出方が明らかに違う。音が輝く。もちろん、有料なのだから当然だろうけど。音量が違うせいの可能性もあるので、試してみて。
広島県立美術館の月曜休日開館を美術館のカレンダーで確かめて、車で出かけた。美術館の地下駐車場に留めることができた。3Fの展覧会入り口はみんなが説明を読むので、混雑気味だが、中は、昨日の川端康成展と同様で、じっくり、ゆったりの鑑賞ができた。特に見るべきものは「唐招提寺御影堂障壁画 濤声」と思った。見ると言葉を失う。その実体を見なければその夢のような実在の凄さはわからない。
濤声だけでなく、他の唐招提寺御影堂障壁画も素晴らしいので、そのためだけに行っても損はないのでは。日本国内は当然、3年かけて、鑑真和上の出身地、中国に取材し、10年掛けて制作したという。物事はやはり10年のスパンで見る必要がありそうだ。
日本画の習作も多数展示されていたが、とにかく手抜きがない。習作の後、本作品の制作をする。天才の努力と共に、体力・気力が充実していたということだと思う。リズム感のある微妙に変化する造形・色彩、大局の構造は一貫してシンプルでダイナミック。その中に夢のような実在を感じさせる。障壁画の場合はその物理的な大きさが実在感をいやが上にも高める。夢のように見えるのは照明の効果も大きいのだろう。濤声は、けっしてリアルな表現ではないのにそこに海があるように感じてしまう。夢の海。
パンフ・チケット・縮景園チケット・出品リスト会場出口のショップで、東山魁夷の本がないかと探すと、「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」(求龍堂、2014年)を見つけて買い求めた。昨日のひろしま美術館の「 ノーベル賞作家 川端康成 珠玉のコレクション展」は、この書籍に大体含まれる範囲のものだったし、「唐招提寺御影堂障壁画」を含めて、東山魁夷についても詳しく記載がある。両方の展覧会をカバーするものだ。
「日本の文学 38 川端康成」と「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」1964年から2014年の50年の時を超えて。
収蔵作品展を回って、1階に下りると、鑑賞券のワンコイン縮景園を使って縮景園に入る。美術館前芝生広場の出店で、抹茶とみたらし団子を食す。ゆっくりと西側から濯纓池のそばを通って京橋川側に出て、また最後に池に戻って跨虹橋を渡って帰った。もちろん、縮景園の風景にも、地上190m超、52階の「BIG FRONTひろしま」(Bブロック)が加わったので、途中で撮影。
濯纓池から見るBIG FRONTひろしま日曜の朝から、PCの前ではテレビの音声を消している間は、ずーっとSpotifyを聴き続けている。オーディオ装置にPCの音声光デジタル出力がつながっている。「Smooth Morning」から「秋の気配」のリスト、Bill Evans、今朝は、Martha Argerichを聴いている。
Martha Argerichを聴くCMは30秒で設計されている。15秒×2の場合もあるようだが、頻繁だと今のところ感じたことはないので、音楽を鑑賞するのに邪魔になることはない。音楽の途中で割り込むこともない。
当面、聞きたいものがどれくらい聴けるのか、続けてSpotifyで試していこう。Bill Evansについては知らないアルバムもいろいろと見つけた。デザインもよい。「関連アーティスト」にはこれも聴きたいと思う人が現れる。
さらにいろいろと試していると、大体30分に一回ぐらいCMが入ることがわかった。アルバムなら曲間に入る。
宇多田ヒカルや椎名林檎は一曲ずつ引っ掛かるだけで、まず聴けない。日本の人気アーティストはCDなどの販売ルートが生きているということ。ある意味、日本はここでもガラパゴス。渡辺貞夫のアルバムはある程度あるけど、僕が持っているものは一つもない。制限があるようだ。経済原則が支配するのは当然だけど、それが最適かどうか。「アーティストRADIO Sadao Watanabe」に移行。渡辺貞夫の曲だけでなく、近い雰囲気の曲を選曲している。Dextar Gordon、Phil Woods、Bill Evans、Ahmad Jamai、・・・という流れ。これもいいねえ。
さて、昼からは広島県立美術館へ向かう。東山魁夷展。
人工知能は「音楽」なのかもしれない:“AIの父”マーヴィン・ミンスキーが残した謎|WIRED.jpネタ。今年の始め、マーヴィン・ミンスキーを失って、愕然としたのだが、日記に何か書きたいと思いながら、ここまで来てしまった。服部桂氏の良い記事がWIREDにあることに昨晩Facebookで気付いた。
「パーセプトロン」、「心の社会」と「THE EMOTION MACHINE」既にAIは存在している、PCなどのコンピューティング・デバイスの中に、自律的ではないにしても。もう一度、ミンスキーに戻る必要があるのだろう。
ひろしま美術館で10月16日までなので、昼から出掛けた。まずまずの人出。鑑賞の邪魔になるほどではないので、快適だった。オーギュスト・ロダンの「女の手」が最初にあるのだが、実際の手よりも小さなもので、折れてしまいそうな繊細なほっそりした感じが伝わってくる。生きているようだ。
別館の第5-6展示室までフルに使っての展示で、作品は豊富で多様、飽きなかった。第5展示室の小林一茶と良寛の俳画のところでつい見入って額をガラスにぶつけてしまった。ゆっくり、じっくりと鑑賞できた。
例によって、ドーム展示室の常設展を覗くと、ピカソなど少し入れ替えもあった。展示室の前で、家内の知り合いの調律師がピアノを調整している。ミュージアム・コンサートがあるのかな。挨拶をして見て回る。最後にいつものようにカフェ・ジャルダンに入り、コーヒーとダークチェリーのパンを摂った。
ドームの前にて、秋の青空と気温が下がってきて、半袖のシャツでは少し肌寒い。
古賀春江の作品は出品リストによれば、11点あり、東山魁夷の27点に次いで多い。パンフにも掲載されている「そこに在る」(1933年)が「末期の眼」の挿画に使われていた。
私がシュウル・リアリズムの絵画を解するはずはないが、古賀氏のそのイズムの絵に古さがありとすれば、それは東方の古風な詩情の病いのせいであろうかと思われる。理知の鏡の表を、遥かなるあこがれの霞が流れる。理知の構成とか、理知の論理や哲学なんてものは、画面から素人はなかなか読みにくいが、古賀氏の絵に向かうと、私はまずなにかしら遠いあこがれと、ほのぼのとむなしい拡がりを感じるのである。虚無を超えた肯定である。したがって、これはおさなごころの驚きの鮮麗な夢である。はなはだ仏法的である。・・・
(前掲、「末期(まつご)の眼」486ページ)
この引用の最後のほうの一部が展覧会の案内板にあったと思う。
一昨日、森田真生著「数学する身体」(新潮社、2016年)が届いていた。偶然目に留まって、次回の読書会の課題図書に提案して変更してもらった。今年、第15回の小林秀雄賞を受賞している。昨日のうちに完読。最近は、トランプのカードを切るようにいろいろな本を取り重ねては一冊ずつ抜き出し、中味を少しずつ吟味するだけで、なかなか全体を通して読めない。読むためには切っ掛けが必要だ。
「数学する身体」と「考える人」二冊「考える人」は2014年秋号(No.50)「オーケストラをつくろう」と2015年春号(No.52)「数学の言葉」の二冊。前者には「養老孟司×内田樹×森田真生 未知の身体世界へ」、後者には「森田真生 計算の風景 ヨーロッパ数学紀行」がある。
森田真生氏は、30歳の若き著者であり、数学の独立研究者という肩書に惹かれたということもある。もう一つは数学者の岡潔の「日本のこころ」を取り上げていること。W氏との会話から岡潔のことを思い出して、もう少し知りたいと感じていたところだから。
岡潔については、書籍では、小林秀雄との対談、「人間の建設」(新潮文庫、2010年)を知っているのだが、1965年の対談に「世界的天才数学者とあの小林秀雄による史上最強の雑談」と帯が付いている。文庫版はお買い得で、茂木健一郎の『「情緒」を美しく耕すために』という解説と小林秀雄全作品からの註解が付いている。
関連して、トランプの束からもう一冊抜き出したのは、マイケル・S・マホーニィの「歴史の中の数学」(ちくま学芸文庫、2007年)。確認すると「数学する身体」の参考文献にも上げられている。第6章「計算・思考・コンピュータ計算的思考」を読み直した。といっても、前のことを憶えているわけではないが、書籍の購入理由になっていたに違いないと思う。おそらく(再)発見をしたと思うので、引用しておこう。忘れないために。
フォン・ノイマンのオートマトンに関する研究に続く20年間、さまざまな学問分野からの研究者が、3つの主要な部門、すなわち、オートマトンの理論と形式言語、アルゴリズムの理論と計算的複雑性、形式的意味論、からなる数学的計算理論に集中した。第1分野の核心は、順序回路からチューリング・マシーンに及ぶ4種の有限オートマトンと、ノーム・チョムスキーによる1959年の古典的な論文によって詳細に説明された4種の語句構造文法(phrase structure grammars)の間の相互関係にあった。各クラスには、特有の数学的構造と数学的テクニックが伴っていた。
(339ページ)
この部分はもう少し探究すべきというか、本質的な問題を含んでいる。今なら、註に記載されているチョムスキーの原論文を辿っていけるだろう。
「人間の建設」と「歴史の中の数学」to be continued...
昨日、Shawn MendesのサイトでFOLLOWボタンを押すと、Spotify上でフォローするためのボタンだった。日本上陸は知っていたが、初めて具体的なサービスに遭遇した。登録・ログインする前段に招待コードの入力欄。早速、招待コードを依頼した。が、なぜか、九日前に招待コードは届いていた。もちろん昨日依頼したプライベートなメールアドレスにはまだ届いていない。どこかで招待コードを依頼したのだったかな。
メールを調べてみると、Spotifyがついに日本に上陸、本日より招待制でサービス開始 | スラド ITのニュースがある。これによると9月30日から招待制でサービス開始となっている。当日、招待コードは届いていたわけだ。音楽関係者として認知されているのだろうか。Twitterでは音楽関係者として外国のアーチストからフォローされることが多いけどね。名前が名前だけに。
Spotify on Windows 10 ProSmooth Morningを聴いている。Spotifyをダウンロード・インストールすると、Spotify Freeのまま起動される。アップグレードすると広告がはずれるのだろう。広告の声も爽やかで嫌味がないし、長く感じることもない。ラジオを聴いていると思えば、Freeでまったく問題ない。画面の下の方にバナー広告。センスは悪くない。
しばらく使ってみよう。
世界で初めて「時間結晶」の生成に成功 - GIGAZINEネタ。
Physicists Create World's First Time Crystalが元ネタだけど、論文もある。[1609.08684] Observation of a Discrete Time Crystalを参照。
風雨が強くなってきた。
昨晩は、横川駅ガード下の「わらび」の会合に駆けつけて、午後9時過ぎまで話し込む。広電本社前行きの電車があるうちに帰った。おそらく、9時28分に乗った。43分が最終だったはず。録画していた浦沢直樹 | 浦沢直樹の漫勉 | NHKを見た。
漫勉初!いよいよ浦沢直樹が登場する!
2008年から連載してきた時空を超えたSF大作「BILLY BAT」が、今年の秋、最終回を迎える。なんとその最終回の執筆作業に、10日間にわたり完全密着!現代の漫画家の最高峰のペン先映像を記録した。今回は、浦沢直樹が、自身のペン先映像を観ながら、独自の視点で解説。浦沢自身も今まで気づかなかった漫画家「浦沢直樹」の秘密に迫る!
密着した作品:「BILLY BAT」
創作の秘密を表面的に見ることができるわけだけど、なぜ、そのような表現が生まれるのかはわからない。指先、鉛筆、ペン先が何もない白紙の上に素早く絵を生み出していく。単なる絵のうまさだけでなく、そのストーリー、カット割り・構図と表現、大変な想像力・創造力だ。生活のあらゆる場面で、これは漫画にならないかと考え続けているという。描いて描いて描き続ける。ここらへんがポイントなんだろう。考え続ける。描き続ける。
言わば、漫画が身体化して、紙面に出力される。
シェアラジオ、はじまる。〜ラジオをもっと聴こう!|タイムフリーで共有して楽しむラジオへ。「特別番組について 10月11日より17日まで、全国101局で放送決定! 宇多田ヒカルが約2年半ぶりにラジオに帰ってきます。シェアラジオ・ 民放ラジオ 特別番組サントリー天然水 Presents 宇多田ヒカルのファントーム・アワー」とある。Facebookで見つけたNHKスペシャルが宮崎駿氏に2年間密着!CGアニメに奮闘する姿描く | RBB TODAYもメモ。
そんなことをしているうちに、鈴木敏夫プロデューサーに聞く“現在進行形”の宮崎駿監督とスタジオジブリ | nippon.comを見つけた。
これからはボーダレスな映画作りが面白くなる
『レッドタートル ある島の物語』はオランダの監督、ヨーロッパ各国出身のスタッフで製作された。これからは「ヨーロッパだけじゃなく、アメリカ、アジアやアフリカから人が集まって1本作ればいい。もうそういう時代になっている」と鈴木氏は言う。
すでに、現在の日本のアニメの6、7割が東南アジアで製作されており、米国のアニメ業界も同様な状況になっているそうだ。「日本のプロデューサーや監督が向こう(東南アジア)へ行って一緒に作る時代が来ているのではないか」
「日本、これからのアジアは中国語、タイ語など、いろいろな言葉を覚えていかないと仕事がうまくできなくなる時代になると思う。作品のテイストも変わるだろうが、それが面白い。そこから何が生まれるのか。ボーダレス時代は面白いことになるなと考えています」
ここのところ、エキニシの読書会から始まって、何回か、文学系の集まりに参加したが、主催のそれぞれ三人の方は僕よりだいぶ若い方ばかりだが、英語が話せる(らしい)ことは共通している。最早、水村美苗先生の期待されている英語のバイリンガルはめずらしくない時代になっているのかもしれない。鈴木敏夫氏の言われるアジアの時代には中国語・タイ語などは当然必要になるのだろう。さて、中国語は勉強しようと思っていたが、まったく進んでいない。そろそろ、中国語サイトの記事を読む努力をすべきかもしれないのだが・・・
野鳥がツィーと何度も鳴く。そのうち、ツィピーツィと鳴き始めた。シジュウカラかな。宇多田ヒカルの新譜『Fantôme』をbluenoteのツイートで見て、iTunesの「見つける」で検索したが、予想通り出てこない。Apple Musicで聴くことはできない。残念。何気なしに新譜のアルバムを横スクロールさせて眺めていると、若い男性がエレキギターを構えて椅子に座っている、青緑の色調の印象的なジャケットを見つけた。Illuminate (Shawn Mendes album) - Wikipedia, the free encyclopedia。センスを感じる18歳、Shawn Mendes - Wikipedia, the free encyclopedia。カナダ。twitterは760万以上のフォロワーがいる。
Handwritten (Shawn Mendes album) - Wikipedia, the free encyclopedia。デビュー作のタイトルも気に入った。今、聴いている。歌詞はSHAWN MENDES lyricsで読める。歌詞は単純なようにも思えるが、音楽と溶け合っている。語りが音楽に自然に乗っている。
Shawn Mendesには、新しい音楽がある。宇多田ヒカルにおけるのと同じように。
Shawn Mendes - Official Websiteで、Followボタンを押すと、Spotifyにログインする設定になっている。まず、Spotifyに登録する必要があるが、そのために招待コードをリクエストする必要がある。EXCLUSIVE MUSIC STOREにはiTunes、Google Play、Amazonへのリンクがある。
窓を開けて、Shawnの「Never be alone」を流していると、口笛がきっかけになったのか、野鳥が近くで応答を始めたように感じた。ツィー、ツィー、ツィーなどと喋るように囀っている。シジュウカラ - Wikipediaによるとシジュウカラは言葉が喋れるらしい。
Shawn MendesがEd Sheeranの影響を受けているというので、もう一度聴きなおしている。「+」と「X」。やはり才能があるねえ。Apple Musicは便利。
将棋 羽生三冠が王座戦5連覇 | NHKニュースから羽生善治、AIとの歩み「棋士は存在価値を問われてる」 | R25ネタ。とうとう叡王戦が始まる。羽生三冠が初戦突破 将棋叡王戦、前回優勝者を破る:朝日新聞デジタル。
羽生善治さんは、あっさりと叡王戦の参加を決めた。参加するかしないかは基本的にスケジュールが決めるという。真正面から時代と自分の運命と向き合っている。ご本人は楽観はしていないというが、大変な時代に最強の棋士が存在することは素晴らしいことだ。
まずは人間が相手、初戦、山崎隆之八段を破る。叡王戦は楽しみと言わざるを得ない。
台風18号は日本列島の北側に逸れて曲がった。少なくとも広島県南部には大きな影響はなさそうだ。帰宅時の外気温27℃。来週にはようやく気温が下がるらしい。行きがかり上、二つの文学系会合に続けて参加した。休みがない。しかし、一人で考えるよりはしっかり本を読むことになる。そこはいいところ。過去の記憶を探ることになる。更新日記が活躍する。長々と自分なりの要約を作ってみる。記憶にあるすべての要素を詰め込む。知識表現の実験。
最初、その存在を知った記事の記載では、ドイッチュ先生の「無限の始まり」は人工知能の実現を否定していると思われたが、実は逆だった。もちろん人間の意識やクオリアが何かがわからなければプログラミング自体ができないという意味において当面の実現を否定しているわけだが、人工知能がいずれ実現すると考えている。
人工知能に意識やクオリアが必要なのかどうか、僕には疑問、むしろそういうものは人間と同様に危険なものになるだろうと思う^^;)人間が危険なものであることは毎日世界が証明していることだ。
もう一つの問題は人工知能を記述するためにはどのようなプログラミング言語が必要かということだ。人間はすべてではないにしても自然言語で駆動されている。自然言語で思考する。少なくとも書いて考える場合は。意識・無意識と自然言語の関係はどのようになっているのか。意識やクオリアが何であるかだけでなく、疑問な点は他にもある。
具体的に人工知能と思われるものをプログラミングするところから、何か見つかるかもしれない。人工無脳はあってもまだ人工知能のプログラミングを実際に見たことはない。何か自分で作ってみようと考えるべきかもしれない。
この日記はどのような本を所有しているか、購入したかが駆動しているとも言える。本を読むために書いているとも言える。
前の問題の記事には次のような記載もある。
ある書籍を読んで、筆者のモヤモヤ感はより強まった。テリー・ウィノグラード(Terry Winograd)氏の「コンピュータと認知を理解する」(産業図書、共著)がその書籍である。
米スタンフォード大学コンピューターサイエンス学部名誉教授のウィノグラード氏は、初期のAIシステム「SHRDLU」で著名なAI研究者だった。SHRDLUは自然言語を使って、「積み木」の世界のブロックや円錐、球などを移動させることができる。
ところがAI研究に限界を感じ、人間とコンピュータとのインタラクションに関する研究に移行する。デザイン思考の研究にも深く関わっている。グーグルの共同創業者であるラリー・ペイジ氏をスタンフォード大で指導したことでも知られる。先に引用したのはウィノグラード氏へのインタビューである。
「コンピュータと認知を理解する」は、論理的・演繹的なアプローチを採る以前のAIを批判し、その限界について論じている。問題は、ここで述べているのは単純なアプローチの否定ではなく、西洋の知識人に共通する「合理主義的伝統(rationalistic tradition)」に踏み込んで批判している点にある。
(記者の眼 - (5/6)元専門誌記者が抱く「イマドキのAI」への期待とモヤモヤ感:ITpro)
もっと引用してもよいのだが、いずれ、この記事の著者の勧めに従って、読んでみる必要があるだろう。既に本は手元にある。
テリー・ウィノグラード、フェルナンド・フローレス著「コンピュータと認知を理解する 人工知能の限界と新しい設計理念」(産業図書、1988年)駱駝カフェで、12時からW氏主催の読書会。昼間なので広電でゆっくり向かう。一番安上がり。160円也。広電本社前で横川行に乗り継いでも料金は変わらない。8年前に読んで、「言葉と物」シリーズや脳髄の日記で取り上げた本なので、電車の中でパラパラと本格小説の最初のほうと一緒に再読。それでも新しい観点からの収穫はあった。人間は忘れるし、変化する動物だ。出席者は4名。駱駝カフェ二階3時間貸し切り。昼食を兼ねる。
駱駝カフェ後で気付いたことだが、私小説の定義は「本格小説」のほうにあった。(勘違いですみません。)
そもそも「私小説」的な作品とは何か?
「私小説」的な作品とは、実際に小説家が自分の人生を書こうが書くまいが、究極的には、それが作り話であろうがあるまいが、何らかの形で読み手がそこに小説家その人を読み込むのが前提となった作品である。・・・
(「本格小説」上、230ページ)
「日本語・・・」にも『「私小説」とは日本語で自伝的小説のことを名指す言葉です。』(「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」、89-90ページ)とはあるが。
なぜ、日本語では、そのような意味での「私小説」的なものがより確実に「真実の力」をもちうるのであろうか。逆をいえば、なぜ「私小説」的なものから距たれば距たるほど、小説がもちうる「真実の力」がかくも困難になるのであろうか。
(「本格小説」上、231ページ)
「本格小説」も一緒に最初の「本格小説の始まる前の長い長いお話」を再読したが故に、頭に残って、間違えた。その時、外国の小説には私小説はないなあという話になったが、なぜかということには答えはなかった。水村は「私は答えを知らない。ただひとつ考えられるのは、それがどこかで日本語という言葉の構造と関わっているのかもしれないということである。」と続けている。このあとは「本格小説」の最も重要な箇所かもしれない。
日本近代文学が成立する過程は、英語を翻訳する過程で、近代日本語が成立するのと軌を一にしていた。普遍語=英語で書かれたものを現地語(日本語)で翻訳するにしたがって、国語(日本語)が成立していくという変換論(「日本語・・・」、133ページ)。
そう考えると普遍語たる英語はどのように成立していったのかという問題意識に至るわけだけど。ヨーロッパで学問の言葉と文学の言葉が分かれていく過程は、神学校が今の大学へと姿を変え、専門化が進む過程でもあった(「日本語・・・」、148ページ)。
現地語といっても平安時代からの歴史的な表記法や文学が存在していることも語られる。明治の大学の翻訳機関としての存在の重要性。そして、すごい人材群。象徴的存在としての漱石。
「文学の終わり」の歴史的な根拠。
一つは、科学の急速な進歩。二つは、<文化商品>の多様化。そして三つは、大衆消費社会の実現。主にこの三つの歴史的な理由によって、近代に入って<文学>とよばれてきたもののありがたさが、今、どうしようもなく、加速度をつけて失われていっているのである。
(「日本語・・・」、234ページ)
科学の進歩が広い意味での「文学の終わり」をもたらすことはないというが(「日本語・・・」、238ページ)、科学の最先端は今や哲学に近くなっている。人間原理が真剣に物理学の世界で議論される。むろん、それが世界のすべてではないから文学が終わることはない。が、すでに物理学などの科学は意味の領域に踏み込んでいる。Singularity is Near.の問題もその一つだろう。人間の存在自体を揺り動かしつつある。
なぜ、ポストモダンが生じたのかについてその原因を知りたいという話をした。その後から小説などはおかしくなっていった。無意味な傾向を持つようになった。1983年の浅田彰の「構造と力」を知っていているのは、当時、高校生以上の人だろう。2016年現在の50歳が年齢下限に近いと思う。当時17歳以上。ソーカル事件 - Wikipediaの『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』の話題を提供。
読書会の中では、科学に関連して、時空と湯川秀樹の素領域理論の関係、量子論の確率の多世界解釈とアインシュタインの「神様はサイコロを振らない」という話との関係を少し話した。
昔は、谷崎潤一郎の時代はまだ文藝春秋の連載小説は貴重な娯楽だった。雑誌が書店に並ぶ頃は、連載を読むために皆が並んで買い求めた。そういう時代は過ぎ去り、流行(流通価値)が支配する時代にある。「ハリー・ポッター」のように世界的なベストセラーが生じる。テレビなど他のメディアの発達が文学に親しむ時間を奪っている。今ではインターネットかもしれない。
ほんとうの問題は、英語の世紀に入ったことにある(「日本語・・・」、239ページ)。インターネットで使われる言語は普遍語となり、それは英語である。もはや、漱石ほどの人材は日本語を使わず、英語を使うのではないだろうか。例えば、25年後にはという話である。私(水村美苗)程度の人材でさえ、英語を使おうとするだろう。
日本語が生き残るためには、国民の一部がバイリンガルになることを目指す必要があるというのが結論。
・・・英語の世紀の中で、日本語で読み書きすることの意味の根源から問い、その問いを問いつつも、日本語で読み書きすることの意味のそのままの証しとなるような日本語であり続けること---そのような日本語であり続ける運命を、今ならまだ選び直すことができる。
(「日本語・・・」、323ページ)
やはり、英語の問題は表音言語であること。音を大切にして表現する言語。フィネガンズ・ウェイクの単語の区切りに拘らない記述はそこに根拠があるのではと思った。だから、漱石をうまく訳せないのかな。これについては具体的に考えてみないと・・・いずれにせよ、言葉遊びを翻訳するのは難しい。柳瀬尚紀訳のフイネガンズ・ウェイクを見ればその苦労が偲ばれる。
・・・日本語という特異な<書き言葉>をもつ私たち日本人こそ、世界に向かい、まさに誰よりも声を大にして、「表音主義」を批判すべきだったのである。
(「日本語・・・」、309ページ)
日本語の存在価値は、表意文字を使うこと。ひらがな・カタカナ・漢字・漢数字・数字・アルファベットなど様々な文字を混ぜて表現する。英語、外国語の単語や文章さえ。水村美苗著「私小説 from left to right」の帯には『「日本語が亡びるとき」はこの小説を読んではじめてほんとうに理解できる』とある。英語が一杯。
結局、意味のあることを書こうと思えば、再再読しかなかった。話題に出たと思うことを書き加えた。意味が流れるように多少脚色してある。
水村美苗の著作群最近の作家でどんな人を読んでいるかという質問の中で「朝井リョウ」が出た。その他、湯川秀樹の「素粒子 第2版」、スタインベックの「二十日鼠と人間」、トルストイの「人生論」、ニーチェ、科学哲学、ジェームズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」。
スタインベックの「二十日鼠と人間」、トルストイの「人生論」朝井リョウについてはどこかで作品をチェックしてみよう。ニーチェや科学哲学の話はもう少しきちっとしてみたい。僕にとってはポストモダンの話と同じぐらい興味のある話題なので。
次のネタで最初に出たのは、ジョージ・フリードマンの「100年予測」(2009年)だが、文学ではないし、これも僕にとっては既に読んだことのある7年前の本だ。次の候補のゴールズワージー著「リンゴの木」はどうかな。みんなは賛成したけど、古過ぎる感がある。短ければいいというもんでもないし。せっかく取り上げるなら、話題性のある新しい本がよいような気がするけど。もっとも今話題になっているものは何かという問題はある。読むべきものがあるかどうかだね。自分が紹介したいものを持ち寄るほうが自由度が高くて良いかも。
日記を読み直していると、面白いことは間違いないし、「must read」だと書いている。人間は忘れる動物だ^^;)
昨晩、広島音楽高校休校の記念演奏会にアステールプラザまで家内を連れていった後、帰宅して、横川の駱駝カフェに31号線、JR経由で向かおうとするが、例によって31号線のバスは15分遅れ。バスが着いての出たとこ勝負だが、19:50分広島発の可部線で20時の開始にギリギリ間に合った。
シェリー酒からスタート。
アブサンという言葉を知らないわけではないけど、アブサン - Wikipediaを読めば、大体の話はわかる。ただ調べればわかるというレベルの話で日常世界でぶつかることはなかなかないかもしれない。例えば小説の中でぶつかるとか・・・あるとすれば、ヘミングウェーぐらいか、それでも意識して捉えることはないかもしれない。
どういうきっかけで来たのか、若い人二人と話していると、どうも「アブサンとシェリー酒の夕べ」というタイトルに惹かれたらしい。特に文学や芸術に興味があるわけではない。あっ、そうなんだ。映画やビデオの話に転換。なるほど・・・どんなものか、覗いてみようという好奇心。
総勢15名ぐらい。駱駝カフェの二階は予定の定員を超えたみたいだけど、丸テーブルで立食のほうが全体のコミュニケーションを計るのによいのではと思った。部屋の周囲に椅子を置いて疲れたら休めるように・・・
仕掛けがいろいろ。最初のシェリー酒と一緒にカードが二枚配られる。カード裏にある写真の内容を切っ掛けに話題を展開できるようにという配慮。
Absintheのカード途中からデザイナも参加されたが、話す機会はなかった。残念。
午後9時にアブサンが出る。アブサンに関する蘊蓄・調達方法。砂糖に垂らして、少量の水で割る。緑色の液体。問題なく飲める。そのほか、最後のほうではみんな参加で楽しめるシンプルなカードゲーム。
アブサンの砂糖・水割り駱駝カフェ二階貸し切り。部屋の窓が低い。お酒を飲むので、特に転落に注意と店主から注意があったとアナウンス。その他、政治の話やカープの話はなしとのお達し。文学・芸術の話ということだったが、そういうことに関心のある詳しい人はあまりいそうにもなかった。やはり、めずらしいお酒を飲んでみようということかな・・・
10時を過ぎて、翌日、すなわち今日の昼からの会合に備えて少し早めに退散。この時間だと広島駅に出てタクシーかなと迷ったが、JR10分待ち、時間がもったいないと直接タクシーで帰宅。
まあ、初めてゆっくり、主催のTさんと話せたのが収穫。頭がよくて回転が速い。その場では思いつかなかったけど、引用句、TimToady、すなわち、Perlのモットー、There's more than one way to do it - Wikipedia, the free encyclopediaを記しておこう。TimToadyはLarry Wall(Perlの作者)の別名だが、長ったらしい句を頭文字で短縮するとTMTOWTDI、これを発音するとTim Toadyとなる。言語表現の多様性はプログラミング言語Perlにもあるよっていうわけだ。何ごとにもいろいろな方法がある。
量子世界の話はまたどこかで、もう少し正確な話を・・・。その時、レイ・カーツワイルの話もしてたら、今日、来日し、クラウドにつないで人間は不死になるという持論を展開したという記事が出ていた。人工知能の世界的権威レイ・カーツワイル氏来日 人類はクラウドにつながり不死身に | Catalystの記事を参照。ポイントは血液細胞サイズのデバイス、ナノボット。Singularity is near.ただ、この話は10年以上前から出ているんだけどね。今頃現実味が出てきたということかな。
明日も昼から駱駝カフェ。あれ、日を跨いでたか^^;)駱駝って知ってるかな、Perlのマスコットなんだよね。
日曜は9時からRebuildのライブ・ポッドキャストの案内がある。忘れずに久しぶりに聴いてみよう。直也さんだね。夕方、一睡してしまったので、まだ起きていても問題ない。少し何か読んで寝ようか。