朝は陰翳の明瞭な絵画的な雲が青空を背景に広がるのを観察しながら出掛け、昼は青緑色の宮島を遠くに観望し、夜は暗くなったアスファルト舗道に乾燥した枯れ葉が冷たい風に舞ってカサカサと音を立てるのに耳を澄ます。冬が近づいている。「モオツァルト」読解も佳境に入ったが、ゆるゆるとしか進まぬ。焦る理由はどこにもない。あちこち彷徨いつつ、いつか終点に辿りつけばよい。
宮島遠望第8節はスタンダールについて書いてあるといってもよい。「モオツァルト」は様々なモーツァルト論についての集成でもある。スタンダールが書いたモーツァルト論からはじまり、「モオツァルト」を通して「スタンダアル」を語る。
[8-1] スタンダールがモーツァルトについて書き遺したのは「ハイドン・モオツァルト・メタスタシオ伝」だけであると書かれているのだが、アマゾンで検索すると、スタンダール 著, 高橋英郎訳, 冨永明夫訳、モーツァルト (ミュージック・ライブラリー)、東京創元社; 新装版版 (2006/3/23)が出てくる。ロマン・ロランの序文抜粋を含むと書いてある。264ページもあり、数ページの短文ではない。少し調べてみる必要があるかもしれない。東京創元社のモーツァルトのページを見ると、「モーツァルト伝」以外にもモーツァルトに関する断章を集めていると書いてある。
それはともかく、モーツァルトという「・・・偶然が、これほどまでに、天才を言わば
[8-2] [8-1]の引用から、スタンダアルにモオツァルトと同質のものを読み取る小林秀雄がいる。
・・・この文句は、長い間、僕の心にうちにあって、あたかも、無用なものを何一つ纏わぬ、純潔なモオツァルトの主題のように鳴り、様々な共鳴を呼覚ました。・・・
([8-2];29-30ページ)
[8-3] 小林のスタンダアル論である。「生涯に百二十乃至百三十の偽名を必要としたエゴティスト」
・・・そこで、凡そ行為は、無償であればある程美しく、無用であればある程真実であるというパラドックスの上に、彼は平然と身を横たえ、月並みな懐疑派たる事を止める。
([8-3];31ページ)
[8-4] モオツァルトとの類似性を説くスタンダアル論の続き。「無償性無用法の原理」「エゴティスムという大芝居」
[8-5] 続き。
・・・作家に扮した俳優は、自力で演技の型を発明しなければならなかったばかりでなく、観客を発明しなければならなかった。・・・
([8-5];32ページ)
[8-6] 「モオツァルト伝」に戻る。
・・・音楽の霊は、己れ以外のものは、何物も表現しないというその本来の性質から、この徹底したエゴティストの奥深い処に食い入っていたと思えてならないのである。彼が、人生の門出に際して、モオツァルトに対して抱いた全幅の信頼を現した短文は、洞察と陶酔との不思議な合一を示して、いかにも美しく、この自己告白の達人が書いた一番無意識な告白の傑作とさえ思われる。・・・
([8-6];32-33ページ)
[8-7] スタンダアルに音楽的訓練があったならという空想。
The Universal Digital Libraryは今日はつながらない。
日本の本もあるというので、Advanced SearchからLanguageのフィールドでJapaneseを選択して検索してみた。中国にある日本の古い書物が登録されているようだ。
考え方としてはおもしろいが、実用的でないような気もする。それさえ、ページランクのメカニズムによる検索結果は既に含んでいるとも言えるからだ。なぜなら、ページランクは広い意味ではSNSだからである。屋上屋を架すという感じがする。
むしろ誰かに検索してまとめてもらった結果を見たほうが便利とも言えるだろう。それも実際のところ面倒だ。待ってられない。結局、自分でGoogleを使っていろいろ検索して調べたほうが早いし、正確かもしれない。検索に必要なものはセンスである。
激安ノート「ASUS Eee PC」のソースコードが公開経由、ASUS Eee PC is America's Most Wanted Christmas Gift→Eee PC 4G→Model: Eee PC 4G(701) Downloadネタ。ダウンロードにソースコードがある。
マニュアルを調べると、デスクトップはKDE。アプリはFirefox、Thunderbird、Openoffice.orgとGoogle関係。Media Playerなども揃っているが、フリーではないのかも。
日本はまだ対象になっていない。マニュアルからもはずれている。
しかし、例えば、39,900円で売りに出されたら買うかというと、今のところ、買わない可能性が高いかもしれない。なぜなら、買い換えの対象として優先されるのは騒音デスクトップだからね^^;)
なんだか、ほとんど寒くない。散歩日和の毎日である。なんて暢気なことを言っているとどこかからお叱りの言葉が飛んできそうな気もするが。少し古い「サーファー物理学者」の新たな統一理論に注目集まるネタ。
音楽に何を読み取るか、伝記から何を読み取るか、歴史から何を読み取るか、書物から何を読み取るか、人の表情から何を読み取るか。人間の生活は、パターンを読み取ることから成り立っているとも言えないことはない。「モオツァルト」から作品生成の秘儀を読み取れるかどうかは次の機会に求めるとして、今日は、時空にどのような構造を読み取るかという話。
物理学は、超弦理論かM理論などの万物理論を追い求めてきているが、究極理論は実は場や時空に関係したものではなく、物理過程の間で交換される情報に関する理論になるだろうと考えられるようになってきている(J.D.ベッケンスタイン、「ホログラフィック宇宙」、日経サイエンス2003年11月号、56ページ)。
ネタ記事は、数学的パターンが万物の構造として読み取れるという話である。「E8はおそらくすべての数学の中で最も美しい構造であるが、非常に複雑だ。」という、Hermann Nicolaiの言葉がLisiの論文「例外的に単純な万物理論」に引用されている。
咳が少し残っているが、風邪からほぼ回復した。現代的洗濯機の実体験を今日は試みることになったのだが、昔の洗濯機とまったく水の使い方が違うのに驚いた。洗濯物が水にジャブ付けになって槽の中をグルグル回るような洗い方ではない。言わば手で揉み洗いをするのに近いのだろうなあと思いながら、最初はこれでいいのかなあと心配そうに見ていたのだが、しばらく目を離している間に脱水まで終わっていた。当然とはいえ、知らない間に世の中は進化している。さて、先を急ごう。
[7-1] プロドンムがモオツァルトに面識のあった人の話を集めた話からの引用。義妹のゾフィ・ハイベルの話。
[7-2] 義兄のヨゼフ・ランゲの話。ランゲが描いたモーツァルトの肖像画については[2-2]で一度出ている。
[7-3] 小林秀雄は言う。「・・・僕は、何も天才狂人説などを説こうとするのではない。人間は、皆それぞれのラプトゥス(日記註: 一種の狂気状態)を持っていると簡単明瞭に考えているだけである。」
[7-4] 「・・・モオツァルトの伝記作者達は、皆手こずっている。確実と思われる彼の生活記録をどう配列してみても、彼の生涯に関する統一ある観念は得られないからである。・・・」
[7-5] 「・・・そんな事を言ってみても、彼の統一のない殆ど愚劣とも評したい生涯と彼の完璧な芸術との驚くべき不調和をどう仕様もない。・・・」バッハやベエトオヴェンとの対比。
[7-6] 「自分の作品を眺めている作者とは、或る時は家鴨を孵した白鳥、或る時は白鳥を孵した家鴨。」というヴァレリィの言葉の引用。「・・・人と作品との因果的連続を説く評論家達の仕事は、到底作品生成の秘儀には触れ得まい。・・・」
[7-7] 「・・・創造する者も創造しない者も、僕等は皆いずれは造化の戯れのなかに居る。・・・」「ラプラスの魔を信ずるのもよい。」
[7-8] ヴァレリィから批評の話に転調する。テエヌとバルザック。
[7-9] ランゲの苦衷を想像する。「一番大切なものは一番慎重に隠されている、自然に於いても人間に於いても。」
[7-10] ランゲの肖像画の魅力。
ランゲの未完成の肖像画Source: http://www.mozartforum.com/images/Mozart_(unfinished)_by_Lange_1782.jpg; Status: Public domain
小林秀雄氏はザルツブルグまで原画を見に行かれたのだろうか。写真版から色彩を勝手に想像しているのに、変な色を塗られてはかなわぬと・・・
[7-11] ロダンのモオツァルトの肖像について。(グスタフ・マーラー(4)[画像+文章]のページにある「モーツァルト」の頭部像がそうだと思う。)
・・・ロダンの考えによれば、モオツァルトの精髄は、表現しようとする意志そのもの、苦痛そのものとでも呼ぶより仕方ない様な、一つの純粋な観念に行きついている様に思われる。
「モオツァルト」は第6節ではまだ導入部、第7節から本論に入るといった感じがする。世の中に小林秀雄の「モオツァルト」を愛読している人は多いだろうからと、少しググってみて、興味を持った部分について。第9節([9-5];37ページ)にあるゲオンの言葉「tristesse allante」で検索する。
「tristesse allante」は英語に訳すと、「going sadness」となる(livedoor仏語翻訳)。allant(e)の形容詞には、(1)動き回ることの好きな、活動的な.(2)(老人が)動き回ることができる、活力がある.(3)堪える.という意味がある(スタンダード佛和辞典、大修館、1968年16版)。allant(e)の動詞は語幹から「aller」と考えられ、辞書の最初の意味は「行く」だから、英語の「go」に対応している。
ゲオンがこれを tristesse allante と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた。(Henri Ghéon, Promenades avec Mozart) 確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。・・・こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない。・・・
この文の前に、ト短調クインテット、K.516の冒頭のアレグロ(Allegro)が引用される。ゲオンはテンポを表すAllegroと対照させて、「tristesse allante」、言い換えれば「allègre tristesse」と表現している(上記記事2の次の部分)。
・・・第一楽章は(アレグロ)は、1787年の無二の傑作《弦楽五重奏曲ト短調》K516の冒頭部のアレグロの最高の力感のうちに見出される耳新しい音をときとして響かせている。それはある種の表現しがたい苦悩で、《テンポ》の速さと対照をなしている足どりの軽い悲しさ(tristesse allante)言いかえれば、爽やかな悲しさ(allegre tristesse)とも言える。・・・
Allegroはイタリア語で、急速に、快速にという演奏の速度記号であり、テンポを速くという意味を現している。「allègre」はフランス語のAllegroであろう。テンポに従って「かなしさは疾走する」のである。
この前の段落([9-4];36ページ)の最初に次の様にある。
スタンダアルは、モオツァルトの音楽の
根柢 は tristesse (かなしさ)というものだ、と言った。・・・
小林秀雄は「tristesse allante」に「モオツァルトのかなしさは疾走する」ことを読み取ったのである。元のゲオンの意も、アレグロで進行する「かなしさ」と考えてよいだろう。モーツァルトの音楽の根底にかなしさがあるという見方は、このト短調 K.516を聴けばなるほどと思わせる。これまで、モーツァルトは軽快で明るく、クールでそれほど思い入れがなく、感情の入らない(古典主義的な)気持ちの良い音楽という感じを持っていたので、この見解には考えさせられることが多かった。
アルバンベルク・クァルテット+マルクス・ウォルフの弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516 (EMI CLASSICS TOCE-59219、1986年)を聴きながら。
[6-1] 第6節の最初には、ウイゼワのモーツァルトについての研究が引用されている。
・・・次の様な文句に出会った。
「この多産な時期に於ける器楽形式に関する幾多の問題の、どれを取り上げてみても、次の様な考えに落ち着かざるを得ない。即ち、円熟し発展した形で後の作品に表れる殆どすべての新機軸は、一七七二年の作品に、芽生えとして存する、と。彼にしてみれば、これは、不思議な深さと広さとを持った精神の危機である。彼は、生まれて初めて、自分の作品の審美上の大問題に、はっきり意識してぶつかったと思われる」(Vol.I. page 418.)
([6-1];20ページ)
しかし、びっくりした。これほどまでの情報がWeb上にあるとは^^;The Web KANZAKI -- Japan, music and computerにはWeb関連でお世話になることが多いのだが、音楽までお世話になるとは^^;;;音楽関係があるとは知っていたが、・・・リンクされている楽譜のデータベース、NEUE MOZART-AUSGABE ONLINE::NMA ONLINE::usr_web2_1(DIGITAL MOZART EDITION)も凄いものだ。
1772年に作曲された7曲の交響曲のうち最初のものが第15番(K.124)である。小林秀雄は、「・・・もっとも残念なのは、・・・分析され解説されているモオツァルトの初期作品が、僕らの環境ではまるで聞く機会がないことである。」と書いているが、1946年(昭和21年)当時は当然であろう。今では誰もが容易に聴くことができることに感謝しなくてはならないかもしれない。
[6-2] モーツァルトの天才であるがゆえの苦しみについて想像する。
・・・天賦の才というものが、モオツアルトにはどんなに重荷であったかを明示している。才能がある御蔭で仕事が楽になのは凡才に限るのである。十六歳で、既に、創作方法上の意識の限界に達したとはどういう事か。「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、真似出来る」と彼は父親に書く。(一七七八年、二月七日)・・・若し彼に詩才があったなら、マラルメの様に「すべての書は読まれたり、肉は悲し」と嘆けただろう。少しも唐突な比較ではない。彼は、楽才の赴くがままに、一七七二年の一群のシンフォニーで同じ苦しみを語っている筈だ。
([6-2];21ページ)
マラルメの引用は、「海の微風」という詩の冒頭で、西脇順三郎の訳では「肉体は悲しい、ああ、そして私はすべての書物を読んだ。」となっている。「BRISE MARINE」の原文は「La chair est triste, hélas! et j'ai lu tous les livres.」となっており、西脇の訳は原文の語順を生かした直訳に近い。(世界詩人全集10 マラルメ ヴァレリー詩集、新潮社、1969年)小林の訳は文の順を入れ替えて、すべてを読んでしまったが故に、「肉は悲し」と読ませる。
[6-3] 「天才とは努力し得る才だ」というゲーテの言葉で始まる。「五里霧中の努力」により、「困難や障壁の発明による自己改変の長い道」を通り抜けるように、「いつも与えられる困難だけを、どうにか切り抜けてきた」結果、「一見意外とも思われるほど発育不全な自己を持っている」。
[6-4] いわゆるハイドン・セットの話に転ずる。
[6-5] この「六つのクワルテット」こそが、「・・・モオツァルト自身の仕事の上でも、殆ど当時の聴衆なぞ眼中にない様な、極めて内的なこれらの作品は、続いて起こった『フィガロの結婚』の出現より遥かに大事な事件に思われる。・・・」としている。
・・・僕はその最初のもの(K.387)を聞くごとに、モオツァルトの円熟した肉体が現れ、血が流れ、彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまるという想いに感動を覚えるのである。
([6-5];22ページ)
今日届いたジュリアード弦楽四重奏団による「モーツァルト ザ・ハイドン・クァルテット」(SONY CLASSICAL SICC 825-827、1962年)を聴きながら。
風邪の熱にうなされている間に、トランセンドからメモリーモジュール(TS256MDL7005)が届いていた。256MB MEMORY MODULE FOR DELL DESKTOPと書かれている。間違いないねとい思いながらも、余計な知識が不安を覚えさせる。2本挿す場合には、できるだけ特性のあったものを、すなわち同じ銘柄を挿したほうが良いというものだ。
4300Sの配線を取り除いて、筐体を開く。おーっ、全然姿が違うね。PCは2002年購入だから、5年後のメモリの姿はこれぐらい違うんだと誇らしげに主張しているようにも見える。チップサイズが全然小さい。大丈夫かな^^;
メモリモジュール今昔物語手前が新しいモジュール。まず高さが半分しかない。
問題なく起動できる。システムメモリは512MBになっている。一安心。しかし、始動終動など、動作は軽やかになったが、HDDが常時点灯、駆動音が続くとイラついていくる。これが特に嫌だったんだ。HDDはNTFSを使っていて、37GBで残りが5GB程度しかない。キャッシュを小さくしてもだめ。デフラグを試してみようとすると、残量が13%で、デフラグには15%以上必要とのお達し。ゴミ箱を空にしてみよう。当たり。残量が21%に増大。延々とデフラグを動かす。
デフラグの終了結果上が元の状態、白の部分が空きだがほとんどが細切れになっている。赤い部分が断片化されたファイルを示している。下がデフラグ終了後の姿。白い部分が大分まとまっている。
点灯時間は減ったようだ。静かになった。タスクマネージャを調べると、どうも原因はGoogle Desktop・・・どっちにしてもHDDを増設しないと使えないしなあ。不安定なVAIOを諦めて、80GBのHDDをスレーブに廻す・・・ふーむ、ダメ。内蔵は一基のみだったっけ。外付けか・・・元々、付けていた120GBのUSB-HDDを戻すということに・・・困った時にはなるかな。
中野馨先生ネタの続きだが、ググる過程で見つけたAlife Treasury:人工生命の宝庫のページネタ。
あまりにも膨大なので、もうやーめよっと思ったのだが^^;・・・いつのまにか、手元には、有田隆也著、「心はプログラムできるか 人工生命で探る人類最後の謎」(サイエンス・アイ新書、ソフトバンク クリエイティブ、2007年)がある。「はじめに」には中野馨先生への謝辞がある。ジュンク堂で探す過程で、津田一郎著「ダイナミックな脳 - カオス的解釈」(岩波書店、2002年)も購入してしまった。やれやれ・・・行く道はいつも遥かなり。
リビジョンが0.5.0となって、道半ば、chromatic氏のアナウンスのメールの冒頭には、ニール・スティーブンスンの「世界のシステム」(The System of the World)の一節が引用されている。ただいま降下中というわけである。Caulked Snackとは主食の間に挟んだ軽食ということかな。鸚鵡の名前も種切れか^^;
オブジェクトがParrotに乗ったらしい。・・・ググると、各所で公開されているが、Parrot 0.5.0 " Caulked Snack " Released - O'Reilly ONLamp Blogがトップに出る。話は例によって逸れるが、このブログは音声読み上げがサポートされている。
ReadSpeakermp3でダウンロードできるので、ブログを録音して車で聴くというのもいいかもと思ったり・・・
水曜日から咳きと熱でダウン。前日から調子が悪く悪い予感がしていた。気温が格段に下がり、通勤時の外気温も6℃となっていた。北日本では11月では記録的な積雪の報。夏の記録的な暑さの埋め合わせのような寒さがやってきそうだ。風邪に伏せる少し前から、ずっと長い間懸案にしていた連想記憶モデルのアソシアトロンについて少し調べようと重い腰を上げていた。
中野馨編著、阪口豊、森田昌彦、新妻素直、脇本良則、田中宏一良、藤田啓介、衛作人共著、「ニューロコンピュータの基礎」(コロナ社、1990年)が病の床に届いた。大したことはないが、少しカバーが痛んでいる。よくわからないままに、値引きになっていたのはそのせいなのかな。CiteSeerやGoogleを使う(「Kaoru Nakano」で検索する)と中野先生が著者に入った4件の論文が入手可能だ。「脳の情報処理」(昭晃堂、1997年)と「Cでつくる脳の情報システム」(近代科学社、1995年)は昨年夏、既に入手済みで積読状態のまま。
「ニューロコンピュータの基礎」では、1980年代までのニューロコンピュータの歴史が概観できる。David Marrも登場する。単なる数学の本ではなくて、神経回路網を生理学的所見に基づいていかにモデル化していくかということを丁寧に追いかけている。
『Wikipedia』創設者、スクリーンショットを公開した『Search Wikia』を語るネタ。少し前にどこかで読んだ記憶が、・・・、Googleに挑戦? Wikipedia創設者の検索プロジェクト [2007/08/06]だったかな。
Search Wikia /ja - search - a Wikia wikiが公開されている。
「モオツァルト」と「ニイチェ雑感」の「シュウマン」への言及の対応部分についてのメモ。
・・・和声組織の実験器としてのピアノの多様で自由な表現力の上に、シュウマンという分析家が打ち立てた音楽と言葉の合一という原理は、彼の狂死が暗に語っている様に、甚だ不安定な危険な原理であった。・・・
([4-1];16ページ)
・・・ワグネルの音楽は、ベエトオヴェンの音楽と同様、音楽の一流派という様なものではない。ワグネルは、ベエトオヴェン以後に現れた最初の新しい音楽上の普遍的な意識である。彼の新しさは、言わばシュウマンが一旋律の上に行ったスペクトル分析の如きものを、和声音楽の全組織に行ったところにあるのであり、ニイチェが同時代人として先ず惹かれたものは、この大分析家の意識の多様性であった。最も近代的な多声的資質であった。・・・
(「作家の顔」、新潮文庫 [草] 七B、259ページ)
シューマンのピアノ協奏曲、イ短調、作品54をアルゲリッチのピアノとロストロポービッチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団で聴きながら(ドイツグラモフォンMG1169)。
第5節は「美とはなにか」について述べる。この節は要約するには短過ぎるかもしれない。要は、次の最後の言葉で要約される。
・・・真らしいものが美しいものに取って代わった、詮ずるところそういう事の結果であろうか。それにしても、心理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何の関係もないものかも知れないのだ。美は真の母かもしれないのだ。然しそれはもう晦渋な深い思想となり
([5-4];19ページ)了 った。
[5-1] 「美は人を沈黙させる」ことについて述べる。
[5-2] 「・・・優れた芸術作品が表現する一種言い難い或ものは、その作品固有の様式と離す事が出来ない・・・」という原理が忘れられている。
[5-3] 音楽は、その原理を明示するのに最適な芸術だが、「群がる思想や感情や心理の干渉を受けて」、すなわち言葉が侵入してきたがゆえに、沈黙を表現するのに失敗するようになった。
[5-4] 上記引用部分。言葉と物 LXXIX - 「モオツァルト」読解 第2節における「ニイチェ雑感」の引用を思い起こせ。
第4節は、「言葉と物」に近い話題を提供する。フーコーはモーツァルトやベートーヴェンなど音楽については述べていないようだが、モーツァルトがそのものであった古典主義時代から、ロマン主義へと移り変わる時期をベートーヴェンが体現しているということにおいて、「モオツァルト」は「言葉と物」と親和性が高い内容を持っている。
・・・彼の死に続く、浪漫主義音楽の時代は音楽家の意識の最重要部は、音で出来上がっているという、少くとも当人にとっては自明な事柄が、見る見る曖昧になって行く時代とも定義出来るように思う。音の世界に言葉が侵入して来た結果である。個性や主観の重視は、特殊な心理や感情の発見と意識を伴い、当然、これは又己れの生活体験の独特な解釈や形式を必要とするに至る。そしてこういう傾向は、言葉というものの豊富な精緻な使用なくては行われ難い。従って、音楽家の戦は、漠然とした音という材料を、言葉によって、如何に分析し計量し限定して、音楽の運動を保証しようかという方向を取らざるを得なくなる。・・・
([4-1];16ページ)
・・・ともあれ、現代音楽家の窮余の一策としてのモオツァルトというものは、僕には徒な難題に思われる。雄弁術を覚え込んで了った音楽家達の失語症たらんとする試み。---ここに現れる純粋さとか自然さとかいうものは、若しかしたら人間にも自然にも関係のない一種の仮構物かも知れぬ。
([4-3];17-18ページ)
[4-1] モオツァルトの死に続く、浪漫主義音楽について、浪漫派のシュウマンとワグネルについて述べる。
[4-2] 「永遠の小児モオツァルト」という伝説について。
[4-3] 現代の音楽家の浪漫主義音楽から古典主義音楽への回帰について。ストラヴィンスキーの復古主義への批判。
ようやく、第3節。「構想は、
これを読んで思い出すのは、三島由紀夫だったか、芥川龍之介が「どの章からでも書き始めることができる」と言ったこと。太宰治がどの作品だったか、書き始めると淀みなく最後まで書き切ったという夫人の話。
天才の能力は凡人には理解しがたいものだ。昔、ピカソの陶器の展覧会を東京で見たことがあるが、皿に描かれている絵のパターンの多様さと豊富さに圧倒されたことがある。奔流のようにアイデアが溢れてくるのを描き続けたように思えたものだ。
[3-1] 「---構想は、宛も奔流の様に、・・・だから、後で書く段になれば、脳髄という袋の中から、今申し上げた様にして蒐集したものを取り出して来るだけです。・・・」というモーツァルトの手紙の引用。
[3-2] それは、「・・・言わば精神生理学的奇蹟として永久に残るより他はあるまい。・・・」が、「・・・しかし、これを語るモオツァルトの子供らしさという事になると、いろいろと思索を廻らす余地がありそうに思える。・・・」としている。
気温が下がってきた。朝の外気温が昨日は10℃。今日も大分気温は低いが、19℃までは上がったようだ。旧メインマシン、Dell Dimension 4300Sのメモリ(non-ECC SDRAM PC133 256MB)を最大の512MBまで増設してみようと、筐体を開いて、256MBが一本挿してあることを確認してから、コジマ電機に出掛けた。メルコしか置いていない。機種対比表を調べていると、店員がWebでメルコのサイトを調べましょうと言う。古過ぎて、機種対比表には名前がないと思われるのだが、一応確認。対応製品はないという結論が出る。礼を言って店を出ると、宇品のデオデオに向かって歩き始める。やはりなし。運動になっただけ^^;
Webで検索すると、::: トランセンド オンラインストア ::: - 増設メモリ, メモリ, CF ...がヒット。ほぼ同一のスペックのモジュールがたくさんあるので迷っていたら、ブランドと機種で互換性を調べることができた。これで安心して購入できる。結局、運賃込みで5,000円近くを要する。古いマシンながらP4で1.6GHzだし、RS-232Cでフラットベッドスキャナを接続している。他にRS-232Cボードを挿せるマシンもないし、筆まめもインストールしてある。できるだけ良い状態で使いたいから投資を決断。決断と言うには大げさ過ぎ^^;
PS3が週間販売台数トップに、初めてWiiを上回る経由、PS3が週間販売トップに 初めてWiiを上回る、そして、PS3、値下げで米国での売り上げ倍増ネタ。
39,980円なら売れるはず。PS2もそれぐらいの価格からスタートしたのだから。まあ、基本的には数が出ないと、盛り上がらない。
ショコラ・リパブリック言語論、『ワイアード』誌で日本漫画特集:「Mangaはどのように米国を征服したか」ネタ。
「chocolat」はフランス語からきた英語とも取れないことはないが、chocolatというフランス語とrepublicという英語をなんなく結び合わせる日本人による造語というのは事実だろう。普通の日本人にとって、chocolatがフランス語か英語かなんてことには興味がないし、「ショコラ」と「リパブリック」という、フランス語と英語の衝突がおもしろい語感を生み出す。また、チョコレートは日本語としては手垢に塗れているし、お洒落でないから、ショコラと相成ったのだろう。
養老先生が、マンガが日本で発達したのは表意文字と表音文字(ひらがなは完全な表音文字とは違うとも思うけど)を混在させて使う日本語の特性によるものだろうという説を唱えておられるらしい。マンガは絵の中に言葉を埋め込むようにも見えるが、言葉を絵で包み込んでいるとも言えるかもしれない。日本語はなんでも飲み込んでしまう。日本人はシェークスピアでさえ、マンガにしてしまう(記事2)。
記事3にある英文マンガは捲ることができる。しかし、アルファベットの羅列はマンガには似合わない気がする。単なる記号に見えてしまうからだ。ぼくが英語に強い馴染みがないためかもしれないのだが。
昔々、地球に隕石が落ちてきて、隕石に付いていた種子から移動可能な殺人植物が繁茂するというSF映画があった(トリフィド時代 - Wikipediaを見ると子供のころに見たせいか、内容が理解できていなかったか、記憶が後付の知識で再編集されたらしい^^;)。「植物の知性」を研究、フィレンツェ大学の植物神経生物学研究所ネタ。
さっき、NHK教育でモリゾー・キッコロ 森へいこうよ!「まだまだあるよ へんてこな木」をやっていたけど、上方を他の木で覆われた低い木は、単に上に伸びようとするのではなく、木の下のほうから分岐する枝を生やして、光を受容するための面積を増やそうとするらしい。
Hotwired JapanはWIRED VISIONになって相当なパワーアップを遂げた。Hotwired Japan時代から好きなサイトだったが、一度閉じられ残念に思っていたので、大変うれしい。
動画:ヨーロピアン・テイストなPS3コマーシャルネタ。WIRED VISIONならではの話題提供。
【山田祥平のRe:config.sys】今、Vistaを選ぶ理由ネタ。
Vistaには、いろいろ問題があるらしい。問題なんて、ある程度使わないとわからないもの。しかし、問題があると聞くとそれは困ったと思う。メインで使っている騒音PCの処遇に困っているのだが、メモリが安くなっていると聞いて、古いPCのメモリでも増設して再使用してみるかとメモリのスペックを調べてみたり・・・
『YouTube』を「世界最高のオンデマンド音楽サービス」に変える『Songza』ネタ経由、自由に使える音楽を検索・再生できる『SeeqPod』ネタ。
Songzaはなぜか音が出ない。仕方ないので、Seeqpodを使ってみた。これはいいじゃないと思ったが、デスクトップに作るのもありかなと思った。
This is a seeqpod.ふと、思い付いた。Songzaが動かないのは、FirefoxのFlash Player再生の問題からだろう。Firefoxで右クリックして、ページをIEに切り替えて表示させてみるとなんなくSongza上の音楽プレーヤが動き始める。
SongzaLinuxのFirefoxで正常に動作するので、FirefoxのFlash playerをインストールしなおすと、正常に動作始めた。なあんだ・・・
蔵本由紀著「非線形科学」、集英社新書 0408G、2007年。もう一度、非線形科学について勉強しなおしてもよいだろうと思って手に取ると、期待以上の世界が広がっていた。
熱平衡の世界で多様性が生じることについて考えている。ちょっと新しい見方の感じがする。熱力学や統計力学がベースにあるが、もっとおもしろく世界を眺めることができる。これは本書の一部に過ぎない。言葉についても新しい見方を提供してくれる。
水母・・・日常の言葉そのものが「不変なものを通じて変転する世界、多様な世界を理解する」という基本構造をもっていなければなりません。じっさい、私たちは「何がどのようにある」という基本パターンにしたがって、ものごとを理解しています。「何」と「どのように」が変数になっていて、そこに値を入れる、つまり可変部分を不変にすることで知識が確定するわけです。・・・
11/10、土曜日に宇品まで散歩したときに撮影。クラゲを「水母」と書くのは水の源のように見えるからだろうか。写真が小さいので特に見にくいが、小さく白っぽいのはクラゲだ。大量発生しているが小さいのでかわいい。
11/14、玖波。潮の干満による波が海面に伝わる風に揺さぶられる。太陽光線は波紋に沿って屈折しつつ揺らいでいる。
某ブログ経由、ニッポンIT業界絶望論ネタ。森正久著「暗黒のシステムインテグレーション【コンピュータ文化の夜明けのために】」(IDG、2003年)を南区市立図書館で借りてきている。ネタ記事を読んで、パラパラと捲る。
いや、わかるね。SIの難しさは。業務情報を抽出する相手が本当に業務の方法・仕組み・手順を熟知しているかどうかは疑問な場合は多いからだ。その結果、部分的に使えない中途半端なシステムが出来上がる。現場はその部分は手作業に戻るしかない。現実というものは極めて複雑で、簡単にはデータベース化することは難しい。そこを端折ると意味のないものが生まれる。コンピュータに載せてメリットのある業務とない業務があり、メリットがあるように構成しないと無駄なことをやっていることになる。
僕はビジネスで専門的にプログラムを書いているわけではないが、ここのところは仕事でも書くようになった。3分で書いてすぐ使うレベルのもので、考え始めて遅くともその日のうちには実用的に動き始める。その日のうちにセットアップして、翌日には他の人が使えるようにする。Webアプリケーションというものは体裁を問題にしなければ、その程度のものである。
元のネタの絶望論はわからなくもない。Googleを超える日本企業が輩出して欲しいと思うのは、同じ気持ちである。しかし、Googleを超えるためのヒントはSIのなかにこそあると思われるのだ。
暗黒SIネタに転じる。暗黒のネットワーク配線は責任のなすりつけあいになる。会社でも無線LANがつながらなくなって、何かLANの設定を変えたんじゃないのと疑う。結局、無線LANルーターがハングしていて、スイッチの入れなおしで解決。いや、ダメ。頻繁に接続ができなくなる。結局ルーターのファームウェアを更新して、様子を見ることに・・・更新理由に無線LAN接続に不具合とあるので、これで解決すると思われる。
自宅は、有線LANが2階の各部屋に張り巡らされ、ルーターは無線LANにも対応している。6台のPCが有線でつながり、PS3が無線でつながっている。さらには有線LANの一端にVoIPアダプタを介して電話がつながっている。VoIPアダプタが1ヶ月に一度ぐらいつながらなくなる。これもスイッチの入れなおしがもっとも有効な処方箋である。これが効かなくて、一度NTTとすったもんだして、VoIPアダプタを交換した。その時にネットワーク配線の複雑さについて言及があった。元々つながっていたものがつながらないのだから、何か原因があるはずだという議論で応じたのだが、結局、原因不明のまま回復したので、ここまできていた。しかし、最近、家内がつながっても相手の声がすーっと消えていくことがあるという。相手はこちらの声が聞こえている。これは以前もあった現象だ。それが頻繁に起こるので、切れ気味だ。ぼくは思った。これはネットワークではなくて、電話そのものに原因があるのではないか。古い電話を買い換えたいという話も出ていたので、この際買い替えを試してみようと思った。まだ、実績のある期間は短いが、音声が聞こえなくなる問題は消失した。電話そのものも曲者である。新しい電話はコンパクトでデザインもクールだ。問題がなくなれば万々歳である。
もう一度元ネタに戻って。情報量の増大は人間の能力をはるかに超えているというか、既にそれはとっくの昔に超えていたのだが、インターネットの発展によって利用可能性が急激に増大したのである。必要な情報への絞込みによって利用可能性の有効性は増大するはずだ。情報の絞込みは何に基づいて行われるのか。Google、それも今となっては不可欠なものだろう。しかし、それも検索する人間が存在してこそ、意味を持つのである。不可欠なのは人間なのである。と、いつも当たり前のことを言う・・・
天下一カウボーイ大会公式ページが出来ました。経由、天下一カウボーイ大会公式ページネタ。12/23(日)、Googleカレンダーに載せておこう。
天下一カウボーイ大会の公式ページがおかれているホスト、onosendai.jpのonosendaiとは何か、と例によって瑣末なことを話題にする。ウィリアム・ギブスンは「No Maps For These Territories 〜ウィリアム・ギブスンとの対話〜」で、cyberspaceという言葉を使ったのは、Burning Chrome(1986年; 浅倉久志他訳「クローム襲撃」、ハヤカワ文庫SF 717、1987年)が最初だと述べている。この短編集の「クローム襲撃」(オムニ、1982年)の最初のほうに、オノ=センダイ・サイバースペース
久しぶりにHobbes' Internet Timelineを眺めていると、VingeのTrue Names(1981)も記載されていることに気付いた。GibsonのNeuromancer(1984)が記載されていることは以前も書いたが、Burning Chrome(1982)が記載されてしかるべきかもしれない。1982年はTCP/IPがARPANETで動いた年である。
朝は12℃、帰宅時は16℃だったと思う。後のほうは確かだ。明日はまた気温が上がるみたいだ。なんとか予定通りの仕事をこなして帰宅したが。昨日入った想定外の問題への対応で、時間的には大幅遅れ。お疲れさ。仕事の並列処理的連携プレーを切らすわけにもいかないし、とにかく最後のボールを渡せ。相手は有能だが、まだストーリーの全体像を知らない。時間切れは迫っている。お誘いが掛かっていたミーティングにも出ることは叶わず、申し訳なし。
「モオツァルト」読解シリーズの第2回。夾雑物がだいぶ混じってしまったが、なんでもありの思いつき、お得意の場当たり仕事のお手本なんだ。しかし、美味しそうなものを嗅ぎ出す能力はある。そう、第2節がト短調シンフォニーの第4楽章冒頭の楽譜に始まることは既に書いた。第2節は小林秀雄のモオツァルト体験談である。小林秀雄得意の私小説的批評。
第2節は四つの段落に分かれている。
[2-1] ト短調シンフォニーのテエマが頭の中で鳴った。
[2-2] モオツァルトの肖像画の話。[2-4]でヨゼフ・ランゲが一七八二年に書いた絵だと言及がある。「ニイチェ雑感」の発狂したニイチェの写真を切り抜いて大事にしていた話から、この部分を連想した。モオツァルトの音楽の性質について。たくさん引用したいが抑えておく。
・・・世界はとうに消えている。ある
巨 きな悩みがあり、彼の心は、それで一杯になっている。眼も口も何の用もなさぬ。彼は一切を耳に賭けて待っている。耳は動物の耳の様に動いているかもしれぬ。が、頭髪に隠れて見えぬ。ト短調シンフォニイには、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いはない、僕はそう信じた。・・・
[2-3] モオツァルトの音楽の性質について、その二。
[2-4] モオツァルトの音楽を自分が解っているのかどうかという自問。
ショオペンハウエルが、カントの「批判」から立ち上がったのは周知の事であるが、この点で、ニイチェは特色ある洞察を述べている。カントによって厳密に証明された知性の相対性を、いろいろと弄くり廻している様な「計算機械」達には自分は何の興味もない、何故絶望しないのかと彼は言う。・・・
(「作家の顔」、新潮文庫[草]七B、1961年、1970年改版、251ページ;「ニイチェ雑感」、新潮、1950年)
小林秀雄は「ニイチェの愛読者」(「ニイチェ雑感」、254ページ)であり、上記引用部分のニイチェの洞察を「善悪の彼岸」と「道徳の系譜」に立花隆流の超速読で探してみたが、見当たらない。パスカルやデカルトへの言及部分に近い記述はあるようには思ったが。小林秀雄のニイチェとの親和性は確かなことだろう。
小林秀雄は、「彼(ニーチェ)の一生で彼を本当に驚かした書物が三つある」(「ニイチェ雑感」、257ページ)と言う。ショーペンハウアーの主著「意志と表象としての世界」、スタンダールの「赤と黒」、ドストエフスキーの「地下室の手記」。読めば読むほど深みにはまる^^;)
風のざわめきが波打ち際のざわめきに変換され、防波堤の狭い頂点を辿る僕を追い落とそうする。自然の秘密を覗き見するのを非難するかのように耳元で風が唸っている。浅い海は透明で、海藻の繁茂する緑の領域と砂地の明るい土色の領域が分かれて大柄の模様を作っている。海面の揺らぎが複雑で滑らかな凹凸のレンズを生み出し、目を凝らして海底まで見通そうとする視線の邪魔をしている。今日はよく晴れて、気温は22℃ぐらいまで上がったらしい。
ふと、小林秀雄の「作家の顔」(昭和36年、1961年)という評論集を手にとって読み始めた。「ニイチェ雑感」(昭和25年、1950年)という題だが、僕の蔵書にはニーチェの「善悪の彼岸」と「道徳の系譜」が最近加わっている。これは、フーコーを読み解くための読書の一環である。フーコーはニーチェとハイデガーを出発点としている。「ニイチェ雑感」には「ショオペンハウエル」がニーチェの出発点として登場する。また「ニイチェ雑感」においても音楽が登場する。それは「モオツァルト」(昭和21年、1946年)の変奏のようにして。
「モオツァルト」の読解編が進まない。それでも何か書かないと切り開けない。
「読解するためには、何が書かれているか理解する必要がある」などと当たり前のことを書いてみる。何が書かれているか、理解するためには書かれていることを要素に分解して、一つ一つの要素について説明できる必要があるなどと、当たり前のことをさらに書いてみる。
おそらく、書かれていることを理解するための要素としては、固有名詞がまず重要だろう。固有名詞を抽出するかな。まあ、そんなことを考えながらウロウロしている。忙しくて、作業は進まないというべきか。どのように要素を取り出してまとめるかというようなことを考えている。これはある意味、書かれているものの構造の枠組みの一部を取り出すことに相当するだろう。ただ、要素を取り出しても、それは書かれたもののなかにあってこそ、意味を持つ。取り出してどうするということになる。
第2節の最初には、楽譜の一部が置かれている。Allegro assaiとあるので、ト短調シンフォニー(交響曲 第40番 ト短調 KV.550)の第4楽章の冒頭の部分らしい。街の雑踏の中で著者の頭の中で誰かが実際に演奏したように鳴ったのである。楽譜の部分が何がか特定できたからといって、何も理解できたことにはならないのではあるが・・・
書かれていることと知識とはどのような関係にあるかについても考えている。書かれていることは知識に分解できるのか。
まあ、いろいろと実験してみるとおもしろいだろう。
天気が悪い。雨が降ったり降らなかったり。日が差さない昼休みがめずらしいと感じるくらい、つい最近までは天気がよかったが、秋雨の日々。水不足の心配がなくてよいかも。Debianマシンに毎日必ず火を入れることにした。今日は時刻が合っていないことに気が付いた。
デジタル時計を右クリックで日付と時刻の設定を出して時間を合わせていると、「インターネット上のサーバと時間を同期させる」にチェックボタンが入っていない。チェックしようとすると、エラーメッセージが「NTPをインストールしてくれ」と言う。ほーっ、NTPは標準で入っていないの・・・、Synapticパッケージマネージャで、ネットワークのセクションからntp(Network Time Protocol daemon)をインストールして、チェック。
Web 3.0を考える:Radar Networksの創業者が語るウェブの近未来ネタ。
まあ、なんというかね。そういえば、Twineからメールが来てたが・・・
GoogleがAndroid説明会。「オープンプラットフォームで新たな価値を」 [14:16]ネタ。Googleがインターネットを伝って、あらゆる領域に進出していく。インターネットにつながるものはすべてGoogleが制覇するのか。
なぜ、アンドロイドなのか、Android - Wikipedia, the free encyclopediaをよく読んで考えてみるのもおもしろいかもしれない。まじめな解説は、open handset allianceのAndroidを参照。
しかし、あの小さな画面でググるのも大変なんだが、ケータイ・ハードウェアの行く末はいかに。通話・通信料金が下がるのならなんでも大歓迎^^;)
Tcl/Tkへの回帰 (2005/02/27)にあるPC間クリップボードシステム。Windows-Mac-Linux間で同じスクリプトが動作して、クリップボードを共有できる。Windowsマシンで選択した文字列をLinuxマシンに貼り付けたくなる時があるはず^^)v
sendclip.tcl on Linux「場所」→「ネットワーク・サーバ」をクリックするとWindowsのネットワークを見ることができる。Sambaだ。昔はこの設定に頭を悩ましたものだが、今はLinuxをインストールするだけで使い始めることができる。素晴らしい進歩だ。これに加えてクリップボードまで共有しようというのが、sendclip.tclである。もともとはPS2 Linuxで初めて試したのだけど・・・Samba経由でスクリプトをLinuxにコピー。
環境というものは使い込まないとよさも欠点もわからないし、限界を知ることもない。Windowsは肌身で知っている環境だが、Linuxは時折出掛けて空気を吸う外界でしかない。それでは本格的に使ってみよう。その時が来た。
・・・ということで、Thunderbird(Debianではicedove、氷鳩、Firefoxがiceweasel、氷イタチというのと同じらしい)をインストールして、Gmailの設定をPOPに変更した。これまでのメールを1時間ぐらいかけて、900通ぐらいずつ、繰り返してすべて受信。GDSの機能を試すためだ。icedoveではinboxで7334通の表示になるが、Gmailではなぜか2167通しかない。まだ36MB。Becky!の78万通のメールは5GBはとっくに超えているはずだが、Gmailも容量が4.625GBまで増えているので、遠慮なく使える。
gOS騒ぎで、Debian GNU/Linuxに再注目してしまった。低スペックのマシンで大衆向けの日用品PCを作る試みもある程度の需要を生み出すかもしれないが、既にLinuxはWindows並に重くなっていて、PCで軽々と動作するというわけではない。現状、単に安価だけを目指しても難しいが、もうしばらくすればマシンのスペックの問題は消えていくかもしれない。その状況を目指して今努力するというのはありかもしれない。
Windows環境からLinux環境に移る場合、やはりiTunesの存在が気になる。そこで登場するのが、Songbirdであり、Windows上でも動作するが、Linux版もあるので使ってみた。今のところiTunesが機能的にも操作性も圧倒的に上だが、筋のよさ、デザインのよさを感じるアプリケーションである。歌鳥の巣で、Songbird Media Playerをゲットしよう。
電脳空間カウボーイズのブログのPodcastカテゴリのURLを読ませると自動的にファイルを抽出してくれる。今のところ、RSSは読めないみたいだ。
Linuxマシンから、Gimpで画面をコピーして、pngファイル化し、FTP接続でサイトに送り込む作業をしてみた。Gimpの画面コピーの作業性がWindowsと違うし、ウィンドウの選択のしかたがよくわからない。画面全体をコピーする方針に変更^^;)
Songbird on Debian GNU/Linux黒いたまごっちみたいな歌鳥?が時折目をパチパチさせながらアルバムを探してくれる。
gOSネタ。昨晩は、混み合っていたせいか何度試してもアクセスできなかった。最近は会社も人遣いが荒いというか、実は単に自分で大変がっているだけとも言うが、どっちにしても疲れていたので9時前に就寝^^;)年を取ったせいか、朝型に変異して、4時過ぎには起きだす。
早速gOSサイトにアクセスしてみると、ダウンロードはBitTorrentの利用しかできないということなので、BitComet - C++ BitTorrent クライアントをインストールしてダウンロードを開始。ISOイメージをActive@ ISO BurnerでCD-Rに焼いてみると、700MBを超える容量のためにエラーになってしまう。あれあれ、DVD-Rが必要か。夜の明けるのを待つしかない。イオンとコジマ電機の開店時間を調べる。イオンは9時開店。
9時前になると、散歩がてらに歩いてイオンに向かう。TDKのDVD-R、データ用4.7GB、1〜8倍速記録対応、10枚入りが580円で一番安いのでゲット。急いで帰宅して、焼いてみる。問題なし。
Debian GNU/Linux 4.0 のインストール (2007/07/29)記事にあるVistaのRC1期限切れで、Debian LinuxをインストールしていたDimension 2400C(Celeron 2.40GHz、512MBメモリ、120GBHDD)にインストールしてみた。問題なくインストールできる。
Live CD起動画面この起動画面が出るまで画面が真っ暗なのがちょっと不安な感じ。デスクトップにinstallのアイコンがあるので、これでハードディスクにインストールする。もちろん、ハードディスクはフォーマットされてしまうので、まずは、不要なPCで試すこと。
言語設定画面で日本語を選ぶと、自動的にASIA/TOKYOを選んで切り替わる。
ディスク分割は、そのまま任せてインストール。
perlのバージョンは5.8.8、rubyは1.8.6がインストールされている。このコンソール(uxterm: terminal emulator for X, with Unicode support)は日本語を表示できる。言語設定に日本語を選べば、日本語入力にはSCIM(Smart Common Input Method)-Anthyが最初からインストールされている。ただし、Firefoxが英語版なのが問題なのと、無論日本語表示はできるが、よく落ちる。デスクトップの右上部にあるGoogle Searchも日本語を入力して検索すると落ちてしまう。キーボードの英語配列が日本語のキーボードの配列とは違うのをどう調整すればよいのかよくわからない。System Monitorを見ると、Ubuntu Release 7.10(gutsy) Kernel Linux 2.6.22-14-genericとなっている。
画面の下に並んでいるメニューやGUIはMac風。メニューのアイコンにカーソルを合わせると繰り返して拡がっては消える動作を繰り返す。カーソルの位置で自動的にメニューは左右に動く。左側に固定された緑の葉っぱには、システム関係のプルダウンメニューが隠れていて、シャットダウンもここで行う。
PCを起動してから、ログイン画面が出るまでに1分程度真っ暗な画面のまま待つ必要がある。ログインすればすぐに使える。英語版のOpenOffice.orgのCalcはそのままで日本語入力可能だが、WriterはAnthyが起動しないという問題がある。Google Desktop SearchやPicasaに加えて、Google Updaterと日本語版のFirefoxやOpenOffice.orgのサポートがあれば、常時継続的に使用できる極楽的Linux環境になっていくかもしれない。ゴシック体フォントが今一なのが残念だが・・・現時点では、日本語環境は使えない。
昼からアクセスすると、今朝はDownloadしか中身がなかったサイトに、ニュースなどが表示されるようになっている。「われわれはまだアルファステージにある.....」と断っているので、今後に期待したい。
最後には、GoogleのLinuxディストリビューションあるいはGoogle Linux Packが出てくるのではないかと思う。GDSやPicasaなどについてもLinuxデスクトップのアプリが揃えば、当然そのような構想が実行される可能性が高まってくる。デスクトップでは、Linuxのシェアは低いから、Googleが急ぐ必要はなく、gOSなどの動きを見ながらだろう。
結局、僕はDebian GNU/Linuxに戻すことにした。今更ながら、DebianはDebian JP Projectを含め、すごいものだと思う。Google DesktopとPicasa for Linuxをインストールしてみた。デスクトップはサイドバーやガジェットがないし、Picasaは日本語版がない。Windows環境と同等にはまだ至っていない。しかし、この環境を使ってみようという気持ちを抱かせるには十分である。
次の注目日。11/5。
時代は変わる。ほとんどGoogle PC、gOS搭載の低価格PCを米Wal-Martが販売ネタ。
gOSgOSはGoogleの関連会社ではない。
米国時間の11/1に詳細が公表されるので要注目である。
OpenOffice.orgやFirefoxがある今、Linuxユーザーなら既に現実のものとしている環境である。これを商品としてどうまとめるかを誰かが手がける必要があった。Googleを中心としてまとめるのはきわめてわかりやすいし、Webを通してアップグレードが容易になるだろう。
もっともOS自体が商品になるわけではない。gOSをインストールしているPCを販売することになる。本体だけで199$、17インチ液晶ディスプレイ込みで400$程度になるのだろう。もうこれぐらいの価格が低価格化の限界だろう。同様なCPU、メモリ構成で、Windows Vista Home Basic搭載、17インチCRTモニターの構成なら299$だから、WindowsとgOS(Linux)に価格的な差はない。もちろんWindowsにMS Officeを載せればもっと高くなるが、WindowsでもOpenOffice.orgは動作するのだから話はややこしい。
連想として出てくるのはPS3だが、既にPCは日用品化、文房具化してしまった。PCで夢を語ることは難しい時代になったのかもしれない。