今朝のWeatherBugの表示は3℃、最高気温予想も3℃、えーっ、大晦日の大掃除というか、小掃除^^;)はいつやればいいんだろと思いながら、どっちにしろ、昼まで様子見を決め込む。結局昼過ぎには5℃ぐらいまで気温が上がり、風も風速11km/hrから7km/hrまで落ちたので出動。窓に水を流し、スポンジとゴムのワイパーで汚れと水を掻き落とす。車も一緒に洗って汚れを拭き取る。2時間ぐらいで完了。「小澤征爾2008 今 あなたに伝えたい音楽がある」2008/12/31 15:05 〜 2008/12/31 16:55 (NHK総合)が始まるちょうど良いタイミング。カラヤン生誕100年記念のベルリンフィルでチャイコフスキーの悲愴を聞くことができた。
小澤征爾はカラヤンから歌劇もやるようにと指導されて、「交響曲と歌劇は両輪だ。作曲家の半分を知らずに終わるつもりか。」と言われたらしい。何事をやるにも指導者は重要だね。悲愴の前にサイトウ・キネン・フェスティバル松本で公演されたヤナーチェクの「オペラ“利口な女狐の物語”」を視聴。
さて、今年も終わろうとしている。昨日届いた水村美苗著「日本語が亡びるとき−英語の世紀の中で」(筑摩書房、2008年)をほとんど一気に読み終えた。最近ではなかったことだ。最初の方からメチャクチャおもしろいから引き込まれた。Amazonの書評にあった批判の意味はあまりよくわからなかった。わかりもしない専門外のことを述べるべきでないというような偏狭な意見のようだったが。僕は英語が普遍語であるということについてはちょっと簡単には同意できないねと思うぐらいで、それ以外はなるほどという感じだった。著者の日本語は、特に書き出しの部分は明晰で素晴らしいなと思った。結論については引用は止めておくが、みんな日本語も英語もよく勉強せよという教育論めいた話になるので、こういう話に落とし込むとなあんだという感じになってしまう。
本書は普遍語と母語の二重言語者の物語として読むほうが奥が深い。著者自身がバイリンガル、あるいはトライリンガルかもしれないが、普通の語学力では本当のところはわからないレベルの話かもしれない。日本語は明治維新以降、近代日本文学にみるように普遍語に近いレベルまで到達していたのに、昨今の日本文学は惨憺たる物、幼稚の一語に尽きるとまでは言わないけどそんな批判の書でもある。こんなことではだめ、もっと日本語を磨き上げよというわけだ。そうでないと、英語の影響を強く受けて、日本語は亡び、単なる現地語になってしまう。そういう危機感から書かれている。なかなかおもしろい論考で歴史も踏まえて説得力があった。しかし、現実は言葉だけの問題ではない。学問、科学技術、その他、社会・文化全般の問題なのである。言葉が磨かれるためにはその言葉を発するための基盤としての知的活動が必要なのだから。最近は女性が元気が良い。塩野七生氏はローマ人の物語を自腹で翻訳して配布を実行していると聞いた。水村美苗氏の他の著作も調べてみる価値がありそうと思った読書だった。
これで今年のキーボード叩きを終えよう。
昨晩は最後の忘年会。今日は、午前中に宮島墓苑の掃除を終えて帰宅すると、昨日から印刷していた賀状に手書きのコメントを加えて投函を済ませた。筆まめをインストールしてある旧世代機Dell 4300Sを使いやすくセットしなおして、年末のPC廻りも多少は掃除して、コードの絡まりを少し解いて整理。このマシンにはRS232Cボードがセットしてあるのでスキャナを使うためにも手放せない。風が少し強くて寒い感じはするが、それほど気温は低くない。足元の40Wの電球並みのマットだけで、室温は20℃を越えている。PC Watch年間アクセスランキング: ネットブックで明け、ネットブックで暮れた2008年ネタ。
年末になって、ネットブックという言葉が定着した感じ。それではネットブックではオフィスは動かないのだろうか。Hothotレビュー: 日本HP「HP 2133 Mini-Note PC」〜5万円台からのWXGA液晶搭載ミニノート(2008年5月21日)を読むと、一つのアプリを動かすだけならまったく問題ないという結論でよさそうだ。
PSPとPS3は今ひとつだったなあ。PLAYSTATIONによるコンピューティングはPS4を待たねばならないのかも。PSPとPCの連携は多少改善された感じはするけどね。PSPについては、プレイステーション・ポータブル - Wikipediaを見るとよいが、インターネットラジオについては、ワン・ジャンル・インターネット・ラジオ(ONE-GENRE INTERNET RADIO)というプレーヤーなども使うことができる。ジャズだけとかクラシックだけとかを選択できるので便利。iPodのiTunesに相当するのがSonicStageなんだが、少し慣れたせいか、使いやすくなった(SonicStage - Wikipedia)。
あまり思い浮かばないなあ・・・世の中では、iPhoneとかあるのかもしれないが、ユーザーにならない限りは関係ないしね。Vistaも結局触らなかったし。
爆熱PCが冬休みに入った日にディスプレイを表示しなくなって、壊れたかなと慌てたのだが、グラフィックスボードのコネクタを留める片方のナットがなくなりグラグラしていたのを思い出して、グラフィックスボードをはずすための作業をしていると、カタカタとPCの筐体から音がしてナットが出てきた。Zedのアウトライン表示が環境に依存すると聞いていたので、グラフィックスボードをはずしたまま、ディスプレイはデフォルトの画像出力につなぐことにした。そうすると嘘みたいに正常に近い形でアウトライン表示ができるようになった。まだ完璧ではないが・・・リフレッシュすると完全に表示されることが多くなった。編集していくと部分的にデータが欠落する場合があるのが、もう一息という感じ。編集入力に依存して正常に表示されるようになったり、しなくなったりする。Zedのファイル管理も大変便利である。要望も出してみるかな^^)
年末のZed(画像はクリックすると拡大)ハードウェア編なので話を戻して、「UP」について。[Computing]UPは思考の道具か!? (2008/10/08)で取り上げたニコンのスカウター型メディアプレーヤー。ニコンとしては撮影分野(入力ツール)から視聴分野(出力ツール)への進出という位置づけなのだろうが、この分野も競争が激しい。しかし、注文に生産が追いつかないということらしいので、まずは成功だろう。そろそろ使用感がWebに発表されてもいい頃だろうと検索してみた。On The Bridge [OTBブログ][UP300xモニター]1週間使ってみてとニコン HMD MEDIA PORT UP(UP300x/UP300) まとめ - MobileHackerzぐらい。実際のところ、無線LAN環境はモバイル時にはまだ一般的とは言えないので、現時点では、予め転送しておいたコンテンツを視聴するような用途しかない。使用感といっても、視聴の快適さや装着している姿を廻りからどう見られているかというようなことしかないだろう。UPのようなタイプのツールは、ライフログ的な機能を持たせてはじめておもしろいかもしれない。あるいはSkypeみたいなチャット・電話機能。ライフログには、見たものを撮影・録画する機能と、音声を記録したり、メモを音声記録する機能の二つが必要だと思う。それをWebのアーカイブに位置・時間情報を含めて転送して整理する。そんな感じかなあ。実際のところ、その程度のことならネットブックを使えば現実化しつつあると言えるので、凄い時代になっているわけだ。そこまでの情報の生産・処理を必要としている人間がどの程度いるのかという問題はあるのだが・・・
スラッシュドット・ジャパン | PCから射撃方向を制御できる水鉄砲経由、NerdKits - educational microcontroller kits for the digital generationネタ。
「自分に投資せよ。することによって学べ。」ということなので、少し勉強を始めよう。Arduino(Arduino - Wikipedia)などとどのように違うのだろう。マイクロコントローラーのキットという意味では一緒なのだろう。Arduinoは、Atmel AVRをマイクロコントローラーに使ったキットである。
ArduinoはProcessing(Processing - Wikipedia)で制御できるし、Processingの出力をArduino側で制御できる。Arduino playground - Processingや建築発明工作ゼミ2008: 目次:Processingに詳しい。
もう一つ注目すべきは、Processingは、Ruby(Home ― ruby-processing ― GitHub)やCanvas elementを使ったjavascript(John Resig - Processing.js)でも動作するということである。ちょっと何かやってみたいと思わせるねえ・・・Processing.jsの使い方 @ Irrational Exuberanceも参考になりそうだ。
コンピューティング・ライフに少し言及したので、古い記事だが年末のまとめの一環ということで^^;)MAKE: Japan: Sketching in Hardware '08 -「良いハードウェアAPIとは」ほかネタ。
Processingのような言語-ツール・システムはソフトウェアによるスケッチに使われることに対照させて、ハードウェアによるスケッチという概念が出てきている。スクリプティング言語によるプログラミングもスケッチに近いかもしれない。
Slashdot | Larry Wall Talks Perl, Culture, and Community Posted by Soulskill on Sunday December 14, @10:49AM経由、Computerworld - The A-Z of Programming Languages: Perl: Culture and community go hand-in-hand with Perl programming Rodney Gedda (Techworld Australia) 11/12/2008 16:02:00ネタ。
Larryは次の5-20年の未来にコンピュータプログラミング言語がどこに向かうと見ているのかと聞かれて、「次の100年に必要なものすべてをデザインするのではなく、20年あるいは100年に必要とするものを作り出すことができる能力をデザインしている。Perl6の努力の心臓部は、パーサーに組み込まれた、できる限り非破壊的な変化を言語に導入する拡張性である。」と述べている。
英語の世紀に生きる苦悩:江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance - CNET Japan経由、水村美苗 - Wikipedia経由、水村美苗・MINAE MIZUMURA・Website: 日本語で近代日本文学を書く小説家ネタ。まだ、本は読んでいない^^;)
プログラミング言語はともかく、自然言語は深く社会・文化に結びついているから、単に翻訳的に理解しているのとその言語が使われている世界に生きているのではまったく意味が異なる。しかし、言語的には本質的な問題であって、他言語社会に生きる問題を取り扱うのは大変有意義だろう。グローバル化する世界のなかで他人事でもない。Amazonの書評も本気に絡んで批判しているので大変興味深い。読んでみたいと思った。なぜなら、Wikipediaとホームページで普通の作家ではないということが明らかな経歴と作品のタイトルを知ったからだ。水村美苗の名前については「本格小説」が話題の時に知ったのが最初だと思う。ちょっと変った人が出てきたねと思っていたが、メタ言語の世界に登場した作家なのかもしれない。
ここで井筒俊彦氏の多元的な言語世界における哲学的メタ・ランゲージについてもう少し引用しておこう。ただ一つの言語しか存在しない世界なんて想像したくないからね^^)v
井筒 ええ、だから、私の構想している「東洋」のなかにはイスラームはもちろん、ユダヤ教も入っているし、インド、中国、そして日本、全部入ってくる。それにギリシア。そういうものを総合したような世界を考えて、その世界に通用するひとつの普遍的なメタ的な言語を哲学的につくり出せれば、理想的だと思っているんです。
司馬 東方どころか、世界そのものですね。
ところで、多元的な言語世界のなかに日本語があって、日本語もわりあいおもしろいなと、最近お思いになっているとうかがいましたが。
井筒 実におもしろい。最近ばっかりじゃないんです。私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいですから、日本語はすごく好きなんです。ただ、ほかにやることがあまりに多いものだから(笑)、ついほかのことをやってきただけで、究極的には私はやっぱり日本に帰るだろうと思いますね。
その意味でも、司馬さんの『空海の風景』という小説は、私には非常におもしろいんです。あれをもっと展開させていったら、その先端に本当に日本的哲学ができてくるんじゃないかと思います。司馬さんは、あそこではまだ哲学的に
九会 マンダラのなかでも理趣会 を関心の中心にしていらっしゃるでしょう。それを全部にわたって構造化したら・・・と、密かに思っているんです。司馬 拙作などよりも、空海その人が、もう一度出てきてくれればいいんですが。
(司馬遼太郎歴史歓談U「二十世紀末の闇と光」、中公文庫、2004年: 「メタ・ランゲージと空海」、319-320ページ)
Journal of chromatic (983): Saturday December 27, 2008 05:41 AM: Bring Your Own Ruler Internet Measuring Contest経由、Python "Surpasses" Perl?経由、TIOBE Software: Tiobe Index: TIOBE Programming Community Index for December 2008: December Headline: C and C++ Candidates Programming Language of 2008 、LangPop.com: Programming Language Popularityネタ。
「好きなのを使え」というのが最も正しく、最も無責任な答えだ。使っているあなたの責任だよってわけ。「目的を達成できるものを使え」、「慣れているものを使え」なども同様の答えだろう。
しかし、来年はParrotをチェックすべきだろうということは間違いない。最近落ち目のPerlユーザーもRakudo Perl6を使ってみるべきだ。何をチェックするのかって、当然パフォーマンスがどれくらい向上するのかである。Parrotの開発が始まった当時、簡単なプログラムで10倍ぐらいパフォーマンスが向上した。さて、完成時にはどのようなことになるのだろう。
Parrotが成功した場合には、「好きなのを使え」という答えは真に正しくなる。Parrotは基本的にはどのような言語でも動作するようになるはずである。来年に備えて、Parrot - Wikipediaを参照しておこう。The Vision for 1.0 | Parrot VMも読んでおこう。
その次のステップでは、Perl6の新しいオブジェクト指向モデルを研究してみることも来年の楽しみかもしれない。
仏教の「空」の概念。世界と意識の虚無から出発する存在。
紀元前数百年のむかしに死んだとされる釈迦は、その偉大さが語り継がれただけで、かれの思想の内容はよくわかっていないのです。ただ現世は一切空であるとし、その苦しみからぬけ出す(解脱する)方法を説いた人であるということは、たしかです。
言葉をのこさなかったのは、かれがひらいた仏教はキリスト教のような啓示(revelation)の宗教ではなかったからです。釈迦の上には、ユダヤ教の神のような、あるいはイエスの神のような絶対者がいませんでした。だから啓示をうけることもなく、従って『聖書』はなかったのです。いまとなれば、不便なことです。釈迦はどんな思想家だったかわかりにくい。釈迦にとっての最高の観念は、神ではなく、空でした。その修業法はみずから空になることによって解脱しようとしました。ついでながらインドにおける空の観念には、多分、インド人が発見した数学上のゼロというイメージが入っていたでしょう。あらゆるプラス数字もマイナス数字もゼロの中に入っているという意味でのゼロです。すくなくとも仏教における空を、数学上のゼロを哲学化したものだと思えば、わかりやすくなります。
(司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」、文春文庫、2004年、253ページ: 「日本仏教小論---伝来から親鸞まで」、コロンビア大学ドナルド・キーン日本文化研究センター講演、初出「新潮45」、1992年)
「あらゆるプラス数字もマイナス数字もゼロの中に入っているという意味でのゼロです。」という意味の「ゼロ」について知りたいなと思っている。空は単なる空ではない。ゼロは単なるゼロではない。不確定性原理が教えるようにミクロなレベルではからっぽの空間で粒子が発生と消滅を繰り返していることに似ている話だ。
・・・在ることとは、世界のなかに炸裂することであり、世界と意識の虚無から出発して、突如として世界=の内に=意識として=己れを炸裂さす(partir d'un néant de monde et de conscience pour soudain s'éclater-conscience-dans-le-monde)ことである。意識が己れを取り戻そうと努め、ついには、ぬくぬくと、扉を閉めたまま、己れ自身と一致しようと努めるやいなや、意識は虚無化される。意識が、それ自体とは別なものについての意識として実存するこの必然性を、フッサールは《志向性》(intentionalité)と名付けるのである。
(JEAN-PAUL SARTRE著「シチュアシオンI 評論集」、人文書院、サルトル全集 第十一巻、1965年、白井健三郎訳「フッサールの現象学の根本的理念 -志向性-」、28-29ページ)
サルトルの「存在と無」という主著の「無」とは何かということがずーっと昔から気になっているのだが、そんなことを少し考える準備ができたという気がしている。ある意味、仏教の空に近い概念と見做せるのかもしれないと思っている。科学には人間を見出せない。単なる言葉と物には人間を見出せない。サルトルの「想像力」(「哲学論文集」、人文書院、1957年)はデカルトからフッサールまでの意識の問題を取り扱う。「情緒論素描」(「哲学論文集」、人文書院、1957年)の「情緒」は「émotion」の訳であり、翻訳当時は「情動」の選択も考慮されたようだが、生硬と判断された。情緒という言葉は最近では使われなくなったように思う言葉で曖昧な印象を受けてしまう。「情動論素描」として読むべきなのだろう。意識の可能的形式にこそ、人間の存在を含む体系を見出せるかもしれない。西欧と東洋の接点となる思想はサルトルに見出されるのかもしれないとぼんやりと思っている。サルトルの古ぼけた書物群が突然意味を持ち輝き始めた。
スラッシュドット・ジャパン | 2008年の「テクノロジーブレイクスルーTop10」ネタ経由、Top Technology Breakthroughs of 2008、そして、本田雅一の「週刊モバイル通信」第437回 2009年、PC業界で流行るものや後藤弘茂のWeekly海外ニュース そしてCPUはDRAMダイも統合するなど。
2008年ももうすぐ過ぎ去る。フレキシブルディスプレイは既に実現したようだが、新聞紙のように折り畳むわけにはいかないんだろう。しかし、技術は進歩して様々なことが実現していく。それもパーソナルなレベルで使える技術として提供されつつあるということがうれしい。
今年面白かったのは、ArduinoやGainerなどの電子工作用のツールキットがあることを知ったこと。そして、Processingの1.0がリリースされた。残念ながら、いずれにも手を出す余裕はなかったが、オライリージャパンの出したMake:04の翻訳は手に入れている。ハードウェアがツールキットによってスケッチできるようになったということらしい。詳しくは、MAKE: Japanをチェックしよう。Processingについては、絵をプログラムする言語「Processing 1.0」が正式リリース | パソコン | マイコミジャーナルに詳しい。オライリーから「ビジュアライジング・データ ―Processingによる情報視覚化手法」という本も出版されている。このような素晴らしい環境が登場しているのだが、それで何をするのか、あるいは表現するのかが問題であろう。
今日はエールエールのジュンク堂のコンピュータ関連書籍コーナーを覗いたのだが、様々な応用・実用書が溢れている。やろうと思えばいろいろと遊べるだろうなあと思いつつ、今日のところはそのまま後にした。本の買い過ぎだからね^^;)新たに買わなくたって、既にネタのストックはいろいろあるぐらいだもの・・・
2008年は準備が整った年であり、2009年は具体化する年にしたいな。
PCそのものはもっと高速化してほしい。いらいらしながら待つことが多くなっていたマシンはメモリ増設で少しは改善された。しかし、速過ぎて困ることはない。価格的にはコモディティ化したということで消費者としてはありがたいと思っている^^)
眩しい朝日の差込を日除けで避けながら、取り越し苦労に終わった早朝ドライヴから帰宅。まだ、働きに出ている人も多い。外気温0℃。昨日の広島市周辺の山々は薄っすらと雪を被っていた。井筒俊彦著「意識と本質 精神的東洋を索めて」(岩波文庫、1991年、原著: 岩波書店、1983年)の最初のほうを眺めているとサルトルが引用されている。連環が一旦閉じるか・・・
初期の、つまり現象学時代のサルトルは、意識の本源的脱自性を強調して、それを「自分の外に滑り出すこと」であると言い、「意識には内部(le dedans)なるものはない。意識は己れ自身の外(le dehors)以外の何ものでもない。意識を意識として成り立たせるものは、この絶対的な脱走(cette fuite absolute)であり、固定した物であることのこの拒絶(ce refus d'être substance)だ」と断じた(「フッサール現象学の基礎理念」)。だが、いくら己れの外へ不断に滑り出す、といっても、なんの方向性もなしに、むやみやたらにただ脱走するわけのものでもあるまい。必ず何かに向って、Xに向って滑り出していくのである。例えば、サルトル自身が言っているように、あそこにあるあの樹に向って。
(「意識と本質 精神的東洋を索めて」、10ページ)
昨晩から、Webや手持ちの人文書院の「哲学論文集」、「想像力の問題」、「存在と無」などを調べながら、「フッサール現象学の基礎理念」という著作を探していたのだが、ようやく見つけた。JEAN-PAUL SARTRE著「シチュアシオンI 評論集」(人文書院、サルトル全集 第十一巻、1965年)の白井健三郎訳「フッサールの現象学の根本的理念」(26ページ)である。高々二段組4ページ程度の小論文であるが、意味は深い。
・・・結局一切は、われわれ自身まで含めての一切は、外部にあるからである。外部に、世界のなかに、他のもののあいだに。われわれがわれわれを発見するであろうのは、なんだか知らない隠れ場所などではない。それは諸物のあいだの物として、人間たちのあいだの人間として、路の上で、街のなかで、群集のさなかで、なのだ。
一九三九年一月。
(「フッサールの現象学の根本的理念」、29-30ページ)
それはともかく、フッサールの「意識が、それ自体とは別なものについての意識として実存するこの必然性を、フッサールは《志向性》(intentionalité)と名付けるのである」(28ページ)という意味は。
・・・フッサールおよび現象学者にとっては、われわれが物についてもつ意識は、なんらその物を認識するということだけに限られるのではない。認識あるいは純粋《表象》(pure 《représentation》)は、この《樹木》についての私の意識の可能的形式の一つにすぎない。私はこの樹木を愛し、怖れ、憎むこともまたできる。そして、《志向性》と名付けられる、意識の意識自体によるあの乗り超えが、怖れや、憎しみや、愛のなかにも見出されるのだ。・・・
(「フッサールの現象学の根本的理念」、29ページ)
過去の記憶を辿って遡る旅において、サルトルをどう位置づけるかという問題はいささか収まりにくいままに放っておかれた。澤田直著「新・サルトル講義 未完の思想、実存から倫理へ」(平凡社新書、2002年)と海老坂武著「サルトル -「人間」の思想の可能性-」(岩波新書、2005年)を読んでみたが、サルトルを読み直そうという動機付けとしては不十分に思われた。過去に読んだことがあるにしても10-20歳台の半端な読書でサルトルからどのような意味を汲み取れていただろうか。多分に情緒的、心情的な関心に過ぎなかったと思うからだ。しかし、井筒氏の「意識と本質」冒頭の10-15ページに渡る引用・解釈はサルトルへの強い関心を呼び覚ました。
Skype上のオンラインユーザー数が100万人ぐらい少ないが、そろそろみんな冬休みに入ったのだろうか。TSNETも賑わい始めた。今日は帰宅に通常の倍ぐらいの時間が掛かった。特にはつかいち大橋の手前から御幸橋を過ぎるまで渋滞。それでなくてもここ2週間は休みがない感じでお疲れ気味、やれやれ。まだ、明日も出だよ・・・
NHKオンデマンドや新感覚ラジオ情報検索サービス - MuFiのようなおもしろいサービスがはじまっているが、まだ利用するに至っていない。MuFiは興味あるけど、広島じゃまだね。正式サービスが始まったPS3 Homeは拡大β時に一度覗いてみただけ。任天堂のWii向け動画配信「Wiiの間チャンネル」が来春開始もおもしろそう。いつのまにか、メディアは混線状態に突入という感じだ。時代は変ると思う。
NHKオンデマンドは視聴の設定の問題でトラぶっているらしいが・・・NHKオンデマンドやNHKオンデマンド ブログを見る限りはそれほどでもないらしい。
「アクトビラ」ダウンロードを試す--第1回:ついにサービススタート、その全貌とは?:ニュース - CNET Japanでは、TSUTAYA TVのサービスが紹介されている。いよいよ、映画もセルスルーでインターネット配信される時代になった。
新聞の発行部数が減ると一部当たりの配送コストも上がってしまうのかもしれないが、広告料が減ってしまうのがそれ以上に問題なのだろう。メディア・読売、朝日・・・公表、新聞販売部数は本当か。のような記事があるぐらいだ。
2008年ヒット商品 (2008/11/03)に書いたが、主要50雑誌の「部数激減(秘)データ」:FACTA onlineにもあるように雑誌は大きく減っている。
ニコラス・ネグロポンテは「ビーイング・デジタル ビットの時代」(アスキー出版局、1995年)に次のように書いている。
現在のメディア王たちは、中央集権化された帝国の未来を必死で護ろうとするだろう。しかし二〇〇五年までにアメリカ人は、全国ネットのテレビを見るより長い時間をインターネット(またはそれに相当するもの)に費やすようになっているはずだ。・・・
(PART1 ビットはビット、第四章 ビット・ポリス、クロスオーナーシップ、86ページ)
「ピーイング・デジタル」の電子ペーパーなど、すべての予想が実現されるのはもう少し先のことになりそうだが、1995年の時点の予測としては大変精度が高い。ビーイング・デジタルにはパーソナル・フィルター(213ページ)という節があって、新聞社が個人向けの一部だけの新聞を作るというアイデアが述べられている。大量に同一の内容の新聞を印刷するよりはコストがかかるだろうけど、不可能な話ではない。
Webにある記事であれば、自分自身でプライベート新聞を作ることも可能だろう。わざわざ、新聞にするまでもなくそのまま読めばすむわけだから、編集までして紙に印刷して読みたいというニーズがどの程度あるかだが・・・本日記も一種のプライベート新聞的なものでもあるわけだけど。
実際に稼働、古代ギリシャ「最古のコンピューター」レプリカの動画 | WIRED VISIONネタ。「アンティキティラ島の機械の謎」解明プロジェクト、ギャラリー方式でご紹介 | WIRED VISIONの記事も見る必要がある。
「アンティキティラ島の機械」の鮮明な写真を見るためには、Antikythera Mechanism Relighting Demonstrationを見なくてはならない。解明プロジェクトの詳細は、The Antikythera Mechanism Research Projectにある。
こういうものを見せられるとルネッサンスとは何だったのかと考えさせられる。そして、古代復興という訳は適切ということになるだろう。アンティキティラ島の機械 - Wikipediaによれば、地動説に基づいた機構となっているそうだ。
秩序には知性があるか:科学とSETIと「知性あるデザイン」 | WIRED VISIONネタ経由で、文藝春秋へ。自然の中には様々な秩序がある。秩序は生命に由来するものだけではない。そして、生命に由来するものを知性に由来するものと考えるのも早計である。えーっ、そんなこと自明だろうって。そうだね。
宮崎 でも、あれだけ通勤電車のなかで漫画雑誌を読んでいたのに、もはや激減しているでしょう。いまは全員が携帯電話をみつめているけど、この時代もいつか終わるはずです。
(宮崎駿/市川海老蔵、「ポニョから学んだ歌舞伎の真髄」、文藝春秋、2009年新年特別号、205ページ)
脳の中に形成された秩序は変化して、次第に同じパターンを示さなくなる。習慣は変化する。コミュニティが変化するのも同じ。ある意味、生命の持つ秩序はダイナミックだということだろう。変化する。これが生命の定義として妥当かな。例えば、非生命である鉱物結晶などの秩序は変化しないからだ。しかし、よく考えてみると無機物の結晶であっても温度や圧力で相変化を起こす可能性はあるし、溶媒に溶解したり、他の物質と化学反応して別の物質に変化する可能性もある。そんなに単純ではない。そうだなあ、生命の定義は意識-無意識を持つというのが正解だろう。これが物質構造の秩序とどのように関わっているのかは定かでないわけだが。
Wiredネタは少し無理に作られていて、インテリジェント・デザイン - Wikipediaとの対比を持ち出すので、話を無理に転換^^;)。見ればわかるというポルノの定義を持ち出して締め括ったのはよしとしておくが。
アンドラーシュ・シフ - Wikipediaの「スーパーピアノレッスン <新> − シフと挑むベートーベンの協奏曲 −(1)」を見ながら、一階から上がってきた文藝春秋を見ていると宮崎駿の対談を見つけた。新年特別号で既に雑誌は新年気分なのだ、やれやれ。RSSをチェックしているとわたなべさんは仕事納めだ。そろそろ、今年を振り返ってみてと思ったりはしているのだが、次から次へと情報を漁り続けているので止まれない。シフはハンガリー出身のピアニストで、まだ若い(1953年生まれ)せいか、吉田秀和の「世界のピアニスト」(ちくま文庫、2008年)には出ていない。テレビで弾いてみせるのを聴くとさすがに素晴らしい。繊細でありかつ明瞭な音を響かせる。
懐かしい「The Matrix」。現実とは何か。五感で感覚できるものが現実か。
司馬 唯識というのは、ひたすらに識る、ただ識る。目とか、鼻とか、見たり、嗅いだり、触ったり、五感に意識という「識」を加えたものですね。われわれは、「識」で生きていて、ここにビルやホテルがあるけれども、これは全部影であり、本物じゃないんだということですね。本物がどこにあるのかというのは別として、その底に「阿頼耶」が、サンスクリットで「蔵」という意味だそうですが、どうもその蔵は無意識のなかにあるらしい。
・・・
井筒 ええ、まず正確に観察するんです。そうすると、そのどろどろした無定形の意味志向性の「種子」がだんだんはっきりした存在イメージに転変しながら意識の表層領野に登っていき、現実の経験的な世界になってあらわれてくる過程が見えてくる。だから、唯識すべてが「識」であるということは、すべてが阿頼耶識の転換したものだということなんですね。
(「民族」問題をめぐって、313-315ページ)
司馬遼太郎と井筒俊彦の「二十世紀末の闇と光」の対談は、中央公論1993年1月号に掲載され、井筒氏は1993年1月7日に亡くなられたので、残念ながらこの後の物語を読むことはできない。「見ればわかる」かどうかは保証の限りではない。
今日、手元に届いた井筒俊彦著「東洋哲学覚書 意識の形而上学 - 「大乗起進論」の哲学」(中公文庫BIBLIO、2001年、原著: 中央公論社、1993年)のあとがき、池田晶子氏の「情熱の形而上学」には本著が最後の著作となったことが記されている。他に入手したのは、「意識と本質 精神的東洋を索めて」(岩波文庫、1991年、原著: 岩波書店、1983年)と「イスラーム文化 その根柢にあるもの」(岩波文庫、1991年、原著: 岩波書店、1981年)である。
チョムスキーのように言語的創造力を理解しながら、デカルト派言語学を推進するのは、一見矛盾しているようにも思えるのだが、デカルト派言語学を一種の実験と考えれば正しい科学者の態度というべきかもれしない。ミンスキーがまず「The Emotion Machine」を探求し、「Thinking Machines」を書くのも正しい道筋なのかも・・・
昨日、19:00から広島厚生年金会館で、グスターボ・ドゥダメル(Gustavo Dudamel)指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラの演奏会があった。広島では異例の100名を大幅に超える大編成のオーケストラである。150名に近かったのではと思う。ステージから溢れそうで、アンコールでは実際溢れ出て客席に飛び込んで走り回る演出もありで楽しかった。
演目は、マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)、ルノー・カプソン(ヴァイオリン)、ゴーティエ・カプソン(チェロ)を迎えてのべートーヴェンのピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲ハ長調Op.56とマーラーの交響曲第1番ニ長調「巨人」。アンコールは南米の若いオーケストラらしくラテンのリズムと踊りながらの迫力の演奏でウエストサイドストーリーなどから2曲と君が代。僕はマーラーの第3楽章ぐらいから演奏に引き込まれていった。第4楽章の盛り上がりからスタンディングオベーションのアンコールへと続く素晴らしい演奏会だった。
アルゲリッチが客演しただけあり、このオーケストラは素晴らしかった。協奏曲のカプソン兄弟は堂々として懸命の演奏に好感が持て、弦の響きもよく伸びてさわやかだった。アルゲリッチにはもっと他の曲を演奏して欲しかったが、共演者の引きたて役に徹したということだろう。ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラは期待に答えた。
平和大通りのクリスマスイルミネーション21:30終了。寒くないねと話しながら、平和大通りのクリスマスまでのイルミネーションを鑑賞し、ビールとお好み焼きで遅い夕食を済ませた。
アンコールの1曲目ではウエストサイド・ストーリーのマンボ(Manbo)が踊りながら演奏された。ヒナステラのバレエ組曲「エスタンシア」の終幕の踊り「マランボ」(アルゼンチンの民族音楽)がアンコールの2曲目。既にWikipediaにはグスターボ・ドゥダメル - Wikipediaが積極的に取り上げているとの記載がある。
宮島の稜線は人間世界の憂鬱をまったく知らぬかのように悠然とのびている。静かに身じろぎもせず。日本にもすごい人がいたものだと思う。憂鬱を越えて進める。
司馬 ものを考えたり、哲学的に表現する言語としては、たとえばサンスクリットはそのためにつくられたものですが、その後、あるいはつくられているかもしれませんが、哲学、思索のためだけの言語、いっそメタ言語というのをつくりたいものだ、とお思いになることがおありだそうですね。
井筒 もちろん思います。それは、理想ですよ。メタ・ランゲージというものがどうしてもできなくては、さきほどの国際社会のコスモス化というものも成立しないと思いますね。各民族が、おのおの自分の言葉しか知らなければ、だめだと思います。だからといって、ほかの言葉を知ったって限界がありますから、それにはやはりメタ・ランゲージ的な文化的パラダイムというものが成立しないとだめで、そこに哲学の使命があるんじゃないか。まあ、理想論でしょうが、そう思っています。
いま、わたしは東洋哲学全般を見渡すような哲学をつくりたいと思ってやっているんですけど、そのためには哲学的なメタ・ランゲージ、東洋的なメタ・ランゲージの世界をつくりたい。東洋的だけでなくて、西洋も入れたらいいんだけれども、あんまり大きすぎて手におえないから、いまのところ、東洋でやりたいと思っています。
司馬 その東洋は、インドから東でしょうか。
井筒 いえ、むしろギリシアを組み込んだ形での「ギリシア以東」です。・・・
(メタ・ランゲージと空海、317-318ページ)
司馬遼太郎歴史歓談U「二十世紀末の闇と光」(中公文庫、2004年)ネタというか、書のタイトルとなっている井筒俊彦氏との対談が僕の運命を決めた。ちょっと大袈裟かな^^;)世界史すべてをスキャンしなくてはならなくなったのである。
司馬 そうしますと、阿頼耶識は哲学的な体系のなかのひとつなんですね。
井筒 たしかにそうです。現象学的意味での「哲学」ですね。私にいわせれば、阿頼耶識とは、第一義的には、意味が生まれてくる世界なんです。意味というのは、存在じゃない。存在じゃなくて、「記号」なんですね。つまり、記号が生まれてくる場所。それが言葉と結びつくと言語阿頼耶識になる。言語阿頼耶識になる前に、言語以前の、純粋意味性の世界というものが「種子」の世界であって、それを唯識では名言種子といっているんです。
つまり、結局すべてコトバだということですね。まだ言語そのものではないんだけれども、言語化されるべきものである。言語すなわち名称性を志向している浮動的流動的な意味単位の群れが自己顕現しようとして、いつも動いている内的場所。自己顕現して、たまたま因縁が合えば経験的な存在の世界になってあらわれてくる。それを外的な世界だと思ったら、間違いになる。というのが、ごく簡単にいえば唯識の哲学的立場ですね。
まあ、司馬さんが『空海の風景』で書かれた真言でも、識大内含といって、すべてのものに「識」が内含されているという考えがあるんです。だから、「識」がないものなんてないのであり、純粋に客観的なものは存在しない。すべて識大内含・・・、「識」がそこに加わっている。本当は、大日如来の「識」なんですけれども、人間の「識」でもあるわけで、そういうものが働いて、いわゆる事物ができているということなんです。まあ、そんなことをいっても、さきほど司馬さんが問題にしておられた民族の問題とは結びつきませんけどね。
(「民族」問題をめぐって、315-316ページ)
この節の後に、「メタ・ランゲージと空海」という運命の節がある。
フーコーは、言葉と物の関係がルネッサンスと古典主義時代の間で、そして古典主義時代と19世紀近代との間で変化したというのだが、記号の性質が古代以来本質的に変化するわけがないとも思ったりする。もっと普遍的なものの見方があってもよいような気がしている。
うわさ:PSP-4000は2009年発売、次世代機「PSP2」も登場 - Engadget Japanese、Imagination、「国際的な家電大手」にPowerVRをライセンス ・ PSP2に採用? - Engadget Japaneseネタ。
年末になって信憑性はともかく大ニュース!? とにかく本格的なプログラマブル・モバイルPCにしてほしい^^;)
今日は寒いですねと言いながら昼食に向かった。帰宅時の外気温はラジオが10℃を切ったと伝えていた。存在しているのかどうかよくわからないセーフティネットの話やブッシュ大統領が投げつけられた靴を見事に避けるのを何度も見ながら、「やちまた」を読んだり、日記を書いている。
01/14/2008: [小林秀雄] 言葉と物 CV - 本居宣長とベルグソンの記事を思い返すと、1965年ぐらいから「本居宣長」は書き始められている。「本居宣長」には春庭の話はあるのだろうか。西欧から近世日本まで、様々な連想が頭の中を駆け巡っているが、なかなか実体化できない。百冊ぐらいの本を並行して読んでいるので、支離滅裂になりかねない。少しずつ収斂させていかねばならない。
司馬遼太郎の対談は大変興味深い。「日本語の本質」を読み直しながら、ドナルド・キーンとの「世界のなかの日本 十六世紀まで遡って見る」と「二十世紀末の闇と光 司馬遼太郎歴史歓談U」を読んでいる。どれかで、現代日本語が確立したのは昭和30年以降だと司馬遼太郎が語っているのを読んで、あーっそうなのかなあと思った。日本語は過去に遡るのが難しい。しかし、司馬遼太郎の対談集を読めば歴史を遡ることがある程度できそうだ。この路線で日本の歴史を探ってみよう。西欧と対比させながら。
足立巻一著「やちまた、上巻、下巻」(河出書房新社、1974年)の返却日になったので、ろくに読んでもいないので少し読みはじめた。11/30/2008: [図書館] 詞の八衢の続き。「衢」という文字はかな漢字変換では出てこないが、手書きでは簡単に取り出せた。
それが春庭を知りたいがために膨大な著述に目をとおしているうちに、わたしの宣長感など浅薄な誤解にすぎないことが思い知らされてきた。といって、宣長を理解できたというのではない。それどころか、かえって宣長は星雲のように巨大などろどろとしたものになり、私の大脳を回転しはじめた。
なんとも捕捉のしようがない。
・・・
宣長はまるで近世の中空でゆっくり旋回する、巨大で複雑な光源体のように見える。多面の光りを眩惑するように放ちながら、怪奇に回転をつづける。
(上巻、52ページ)
ここを読んで、おもしろいと思った。読みやすいし、わかりやすい。本居宣長について知る助けにもなるのではないかと思われた。南区図書館に赴き、延長を申し出ると図書館利用のアンケートを依頼された。アンケートを書いて投函すると、図書館内を見回しながらすぐ出口に向かった。日曜日はやはり混んでいる。
ETV特集「加藤周一 1968年を語る〜“言葉と戦車”ふたたび〜」2008/12/14 22:00 〜 2008/12/14 23:30 (NHK教育)ネタ。加藤周一氏がなくなって、何かを振り返りたいと思っていた。現代の閉塞感は若者の世界的反乱が起きた1968年当時を思い起こさせるという。
生き方を変えなくてはならないという閉塞感。これは、米国オバマ次期大統領のスローガン「チェインジ(Change)」の成功に通ずるという。過去に何があったかを見定めるのが老人の義務。聞きたい人には伝えることができるように準備をする。だんだんシステムが強くなって個人の力が後退する。明治維新以後、非人格化、非人間化が進んできた。広い意味で知識人は思想的影響を及ぼすことが大事。第一部、何が起こっているかを認識する。第二部、それでどうしようか。人間的感覚による世界の解釈の仕方。人間らしさを世界に再生させる。そのことを意識せよ。戦う前に何が相手なのか敵なのか理解することが大事。
安藤日記 12/12/2008 [&] KUDAN makingネタ。不思議な絵に惹かれた。Links DigiWorksのKUDANのサイトを参照。安藤日記 12/12/2008 [&] SIGGRAPH Asia 2008 : KUDANにあるようにSIGGRAPH Asia 2008ネタでもある。SIGGRAPHの速報・詳報は安藤日記をフォローするに限る。
言葉もプログラミング言語もアートもアニメーションも、すべてメディアはこちらとあちらの二つの世界をつなぐインターフェースなのだろう。
12/16/2007: [Computer] Dell Dimension 4700C 異常事態 II、09/09/2008: [日記] PCの買い替え時期は・・・、09/29/2008: [PlayStation] PLAYSTATION 4ネタ経由、メインメモリを2GBに増設しましたネタ。
メインメモリ増設効果は明らかで、Windowsの立ち上がりも、各種アプリケーションの立ち上がりも早くなるのは実感される。投資効果ありだ。6,880円なり。1MB1万円時代を知っている身には、メモリメーカーの苦労が偲ばれる。容量が2000倍になって価格は半分という感じ。だからこそ、新しいコンピューティングの時代が到来しているのである。素晴らしいことだ。
爆熱CPUの冷却フィンメモリを取り替えるついでにCPUの冷却ファンを取り外して綿埃の量を確かめてみた。掃除機の爆音級の音がしていたときと比べるとずいぶん少ないが・・・
指先で下から擦り挙げると結構取れる。
D2/667-1Gx2 (DDR2 PC2-5300 1GB 2枚組)を価格.comで調べて購入。実際にショップのサイトに行くと2500円ぐらいさらに安いのでラッキーと購入決定。価格.comに表示されている価格は実際のサイトで確認すべきだ。12/9に購入決定して今日まで価格の差は残ったままである。
これからsecondlifeに新規参入:まだまだこれから!!セカンドライフ情報 - CNET Japan、secondlifeで儲けよう!(その1):まだまだこれから!!セカンドライフ情報 - CNET Japanネタ。なかなか実際的でおもしろい。あなたがデザイナーならフォローしてもよい記事だろう。
日本は才能ある19歳を「無駄遣い」していないか--日経新聞関口氏:特集 - CNET Japan、長引く不況の入り口で将来を見通すために:コラム - CNET Japanネタ。なるほどと思った話、二題。若き人、出でよ。
後の記事は、森祐治氏の「情報経済への視点」シリーズの最新記事なのだが、確かに情報の伝わり方にはWebが重要になりつつある。経済へも大きく影響を与えるだろう。Webから得た情報で必要なものを選択していく時代になった。少なくとも僕の購買行動に大きく影響を与えている。有名なのは価格.comなどの価格比較サイトだろう。製品名でググると上位に必ず出てくるし、覗いてみようかということになる。自分が慣れているAmazonよりも安いショッピングサイトは数多くあり、初めて使うというリスクにチャレンジしてみるかと思わせる安さである。
製品のスペックや詳細について、Webに情報が存在しなければ購入検討の対象にはならない。そういう時代になった。店頭で調べるという時代では最早ないのである。よほどの品揃えができる大規模店であればともかく、店頭に出向いても調べることができない。時間の無駄である。店頭はWebと融合していかなければ生き残る道はない。Webでできなくてリアルショップでできるサービス、それは何だろうか。店はサービスを売るしかない。
それはともかく、経済という視点だけで、Webを見るのは不十分だろう。Webには人間に影響を与える様々な側面がある。教育的な側面もある。例えば、Opencoursewareは教育そのものである。学問的にも学会誌などを越えた情報の共有が実現されつつある。最早大学などの教育機関を超えて、研究成果は公開されているのである。こういった側面の効果が現われるのは5-10年後だろう。楽しみといえば楽しみである。
最近どこかで、mixiがオープンになったという記事タイトルを見た。今日、msnのメールからmixiの日記へのリンクが開いたのを家内が驚いたので思い出した。あーそう言えばmixiはオープンになったからねとしたり顔で答えたのだが・・・
元々閉鎖的なものが繁栄するはずがない。入会者が増えなくなったので、オープンに転じたのだろう。賢明な判断と思われる。絶頂期に見えたNIFTY SERVEもインターネットのオープン性の前にあっという間に空洞化してしまった。蛸壺化したフォーラムの会議室は衰微するしかなかったのである。新陳代謝が十分に起らなければ老化衰退するのは避けられない。そして、そのように努力したとしても永続するものはないのである。新たに場を作った方が効率がよいからである。システムの寿命というものはどのようにして生ずるのであろうか。
人間が複雑な言語を使用し始めたのは、7.5万年前と言われている(三井誠著『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』)。現在地球上には約五千の言語があり(R.M.W.ディクソン著「言語の興亡」、岩波新書、2001年)、プログラミング言語においては、毎年のように新しい言語が登場している。人間の脳というシステムは解剖学的には7.5万年前と本当に同じなのだろうか。頭蓋骨のサイズは同じなのであろうが・・・同じであるとすれば、脳に巣食っている言語こそが人間の進歩の源であるはずだ。そこで意味があるのは語彙数なのか、文法なのか。文法理論は語彙の意味を考慮していないように思える。単に動詞か名詞かというような品詞的分類しか取り扱えない。語彙数とは意味数を意味している。歴史的な語彙数の変化を検証した研究はあるのだろうか。
SNSの寿命は、さて、コミュニティの寿命なのか、システムの寿命なのか・・・システムは常に新しい要素を加え、更新されていく。新しい要素とは何なのか。意味なのか。
朝は8℃、帰宅時は12℃。室温18℃に回復。昨年同様に寒くなったり暖かくなったりを繰り返している。武田鉄矢の朝の三枚おろしでは、ロラン・バルトの「表徴の帝国」の話が昨日から出ているが、どんな話だったか忘れてしまった・・・エクリチュールをエクチュールと言うのが気になるばかりだった。「表徴の帝国」に関しては、[日記]言葉と物 CXXXIX - 表徴の帝国 (2008/09/15)の記事がある。日本と西欧の違いを考える際にはもう一度よく調べてみる必要はあるだろうと思った。
今日は火曜だから荒川先生の日。年末で今年の話題ネタ。「蟹工船」。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」全5巻が100万部出たそうだ。それから「源氏物語」。それ以外に何が話されたか、やはり忘れてしまっている。うーむ。何か書けそうな気がしていたのだが・・・毎日そう思いながら、ネタが混沌の中に流れていく^^;)
そうそう少し思い出した。日本古典文学の短い要約のような本が出ていて、全部読むのはいまさら大変だからどんなことが書いてあるのかを知るだけでも価値があるという話と「ドイツ文学の短い歴史」という本がおもしろかったという話。ドイツ文学はゲーテから200年ぐらいしかないと言い切っているおもしろい本があるらしい。メモメモφ(。。)>
三枚おろしも思い出した。川柳の本の話題(仲畑 貴志著「万能川柳デラックス1000」、毎日新聞社、2005年)の中で俳句の話が出ていたね。古池や蛙飛び込む水の音。「表徴の帝国」の「意味の家宅侵入」(ちくま学芸文庫、106ページ)にある話。日本の文化は西欧の古典主義時代とは対極にある。
「とっておき世界遺産」の「山水の世界」で、松岡先生のインタビューが流れている。これもまだ探ってみるべき領分なのだろう。白川静 (2008/04/28)の記事で松岡正剛先生の「山水思想」を読んでいることに触れている。まだ中味には言及していないが。
今朝の気温は2℃、帰宅時は雨の中の8℃。室温は14℃まで下がっている。冬らしくなってきたが、昼休みの散歩もそれほど寒いわけではない。足に電気マットを装備し、フリースを羽織れば、まだエアコンの暖房を入れなくても済んでいる。爆熱PCの排気も弱々しくなった。今年もPCはこのまま年を越すか。「言葉と物」シリーズも2006年から足掛け4年に入るのかもしれない。解読は遅遅として進まないが。
かつてルネッサンス時代に、世界にひしめきあう物のうえに分布させられていた記号は、こうしてそこから解放されたのである。以後記号は、表象作用の内部、観念の間隙、観念がみずからを分解し再合成してみずからとたわむれる、あの厚みのない空間に宿ることとなる。相似はといえば、いまや認識の領域のそとに転落するよりほかない。それはもっとも粗雑な形態における経験的対象である。それが、類似性という不正確さにおいては消滅させられたうえで、知によって相等なり秩序なりの関係に変形させられるのでなければ、もはや「それを哲学の一部となすものと見なす」ことはできない。
(第三章 表象すること、五 類似性の想像力、92-93ページ)
出すなら、PS3 PCを出して欲しいなあと思うし、価格を公開して欲しい。
ただ、単なるPCだと実際のところに何に使うのっていうことになってしまうから、パーソナル用だとゲームにも使えるっていうことがやはり必要なんだよね。PS3そのものを拡張できるようにして欲しかった。
初雪の舞う中、夢タウンに向かう。くたびれた通勤靴とカジュアルの靴を新調するのが主目的だったのだが、結局紀伊国屋に侵入。
「ルネサンスとは何であったのか」(新潮文庫、2008年)にグーテンベルクの発明(1455年)の企業化に成功した出版人としてアルド・マヌッツィオのことが書かれている(79ページ)。詳しいことは「イタリア遺聞」(新潮文庫、1994年)の「ある出版人の話」を見よとあった。コンスタンティノープルの陥落(1453年)後、ヴェネツィアに亡命したギリシア人は多く、図書館が建つほどの量のギリシア・ローマの古代の写本を携えていたそうだ。ヴェネツィアに運ばれたギリシア・ローマの古典が活版印刷で大量に出版されたのである。
12/01/2008: [ミシェル・フーコー] 言葉と物 CLVI - フーコーとルネッサンス IIに引用した「印刷術の出現、東方の写本のヨーロッパへの到来」(第二章 世界という散文、四 物で書かれたもの、63ページ)とはこのことを指すのだろう。
DTP(Desktop publishing: デスクトップ・パブリッシング)の概念を生み出し、Aldus Pagemakerのソフトウェアを作ったアルダス社の名は世界最初の活版印刷企業化を成し遂げたアルドゥス・マヌティウスから取られている。
足元が冷えてきたので、暖房用の小さなマットを入れた。
・・・こうして、書かれたものという唯一の存在から出発して、言語の三つのレベルが生まれる。ルネッサンスの終焉とともに消滅するのは、この複雑な仕組みなのである。その消滅の理由は二つあげられるであろう。ひとつには、一にして三なる項のあいだを際限もなく揺れうごいていた諸形象が、ひとつの二元的形式のうちに固定され、安定したものとなるからである。ふたつには、言語が物によって物質的に書かれたものとして実在するのをやめ、もはやみずからの空間を表象的記号の一般的体制のうちにしか見いださなくなるからである。
(第二章 世界という散文、五 言語の存在、68ページ)
『ドン・キホーテ』は、ルネッサンス世界の陰画を描いている。書かれたものは、もはやそのまま世界という散文ではない。類似と記号とのあの古い和合は解消した。相似は人をあざむき、幻覚や錯乱に変っていく。物は頑固にその皮肉な同一性をまもりつづける。それらはもはや、それらがあるところのものでしかない。語は、みずからをみたすべき内容も類似も失ってあてどなくさまよい、もはや物の標識となることもなく、書物のページのあいだで塵にまみれて眠るのである。
(第三章 表象すること、一 ドン・キホーテ、72-73ページ)
・・・『ポール=ロワイヤル論理学』はそのことを明言している。「記号は、一方において表象する物の観念、他方において表象される物の観念という、二つの観念を含んでいる。記号の本性は、前者によって後者を喚起する点にある。」これは記号の二元的理論であり、ルネッサンスにおける、より複雑な組織とはっきり対立する。ルネッサンスにおいて、記号についての理論は、標識によって示されるもの、標識となるもの、そして後者のうちに前者の標識を認知することを可能にするものという、完全に区別される三つの要素を含意していた。ところで、この最後の要素こそ類似性であって、記号は、それが指示するものと「ほとんど同一の物」であるかぎりにおいて標識としての機能をはたしていたのである。「類似による思考」と同時に消滅したのはこの統一的な三元的体系であり、それは厳密に二元的な組織によっておきかえられたのだ。
(第三章 表象すること、四 二重化された表象、89ページ)
言語が写本という物質から印刷本というメディアに移った時に最初の本質的な変化が生じたのだろう。現代では言語は書かれたものだけで媒介されるわけではない。そして、言語だけが媒介されるわけではない。音声や画像についてはラジオ・テレビ・ビデオゲームから、書かれたものは主に新聞・雑誌・本からWebという新しいメディアに伝染・浸透している。Webは真の意味でマルチメディアである。テレビはデジタル化し、コンピュータと融合しつつある。これらは20世紀半ば以降の世界にもたらされたものである。人間がメディアによってどのように変質していくのかはまだ誰も知らない。
「Python 3.0」の正式版がリリース--Python 2シリーズとは非互換:ニュース - CNET Japanネタ。TSNETでも話題になっているが・・・
文字コードの問題は、Pythonにおいても例外ではない。PythonでもUnicodeがデフォルトになったということだけど、はて、SJISはどう取り扱うのだろう。
今年の最低気温、WeatherBugの広島西の表示、2℃。
帰宅時の外気温は7℃。明日はもっと寒くなるらしい。
帰宅時の外気温は15-16℃。この暖かさはなんだろう。帰宅してからだいぶ経ったが、広島西飛行場はまだ15℃を示している。帰宅直前に雨がパラパラと降り始めた。つらつらぐさ: TSNETスクリプト通信第3号でましたネタ。毎度取り上げていただきありがとうございます。
スクリプティング言語を使うなら何を使うべきかというような野暮なことは言わない。自分が使いたいものを使えばよいというのが答えである。それ以外にそれほど合理的な理由があるとも思えない。エディタも同様だ。それに人から何か言われたからといって愛用しているエディタを捨てる人はいない。自分が使いたいものを使うのである。僕も同様だ。それで、TSNETスクリプト通信はあらゆる話題を取り扱う。何かRubyネタを書いていただいたらよいのだけど・・・^^)v
大切なのは様々な選択肢があることだ。素晴らしいスクリプティング言語やエディタがたくさん存在している。そこには選べる幸せがある。それが豊かさというものだろう。20年前と比べるとずいぶん豊かになったものだ。素晴らしいことになってきた。
コンピューティングの次のステップ。スクリプティング言語+Webブラウザ+HTTPサーバー+テキストエディタ+画像編集ツール+グラフ編集ツールのような統合環境をイメージしている。それぞれの要素は既にあるので、デスクトップCGIで統合できるのかもしれない。
Parrotは0.8.1がリリースされたばかり、思ったよりも早い進捗である。来年はRakudoを使えるようになりそうだ。
よく調べると「言葉と物」にはルネッサンスが登場しないわけではない。事項索引にはルネッサンスはないので数えてみた。20回。最初の部分を引用しよう。
そして、小宇宙(ミクロコスム)というあまりにも有名な範疇が機能するのは、まさにこの点においてである。なるほど、この古来の概念は、中世をつうじ、さらにルネッサンス初期以来、ある種のネオ=プラトニズムの伝統によって復活されてはいた。だが十六世紀にいたって、それは知における基本的な役割を演ずるようになる。・・・
(第二章 世界という散文、三 世界の限界、56ページ)
二つ目。
十六世紀末、あるいは十七世紀初頭に現われたような百科事典的企ての形態は、まさにそこから由来する。・・・空間における語の連鎖と配置によって、世界の秩序そのものを再構成しようとするのである。・・・いずれにせよ、言語(ランガージュ)と物とが両者に共通と見なされた空間でこのようにからみあうという事実は、書かれたものの絶対的特権を前提としているのだ。
この特権はルネッサンス全般を支配したものであり、疑いもなく西欧文化の大きな出来事のひとつだったと言えよ[う。]印刷術の出現、東方の写本のヨーロッパへの到来、音読や上演を目的とせず、それらに掣肘されることのない文学の登場、伝統や教会の権威よりも宗教上の原典解釈が重視されたという事実---、これらすべては、どれが原因でありどれが結果だとはいえぬにせよ、西欧において<書かれたもの>が占めるにいたった基本的な地位というものを証してくれる。これ以後言語は、書かれたものであることを第一義的性格とするようになる。・・・
(第二章 世界という散文、四 物で書かれたもの、63-64ページ)
「言葉と物」第二章「世界の散文」の第一節「四種の相似」は「十六世紀末までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を演じてきた。・・・」として始められる。僕等が習った文芸復興、ルネッサンスは何時の頃からか「古代復興」と訳されるようになったのだそうだが、ギリシヤ、ローマの古代の文化が復興されるという意味においてである。千年もの中世は何の意味を持っていたのか・・・古代とルネッサンスの間に違いがないわけはないとも思う。「十六世紀末までの西欧文化」がのっぺらぼうであったというわけではまったくない。しかし、人間はギリシヤ・ローマ時代とルネッサンス時代で解剖学的には差異はないのだろうから、考えることにも本質的には差異はないかもしれない。はてさて、具体的に比較をしなければ・・・
「やちまた」は本居春庭の伝記のようなものだが、足立巻一氏の「あとがき」には、『その結果は、「春庭考証のきわめて私的な記録」とでもいう文章になってしまった。しかし、その時分のわたしにはこういう形式、方法でしか書けなかった。一つには、春庭を模索していくうちに、春庭のことばを多岐にわかれてはつながっていく「やちまた」にたとえたけれど、人生もまたそれにひとしいという実感が深まったからである。』とある。今の僕もやはりこの日記という形式でしか書けないのだが、どこに続くとも予想のつかない「ちまた」を行きつ戻りつ手探りで辿る混沌とした文章だけが行く先を知っている。塩野七生氏の「ルネサンスは何であったのか」を足掛かりに次の展開を探っているが、フーコーを読み込むことのほうが先であるべきかもしれない。そして、三つ目。
ストア学派以来、西欧世界における記号(シーニュ)の体系は、能記と所記、そして外示(記号外部の指示対象)が認められていたがゆえに三元的であった。それに反して十七世紀以後、記号(シーニュ)の配置は二元的となる。なぜなら、ポール=ロワイヤルの人々とともに、記号は能記と所記の結びつきとして規定されるからだ。ルネッサンスにおいては、組織はちがっており、しかもはるかに複雑である。それは、標識の形式的な領域、標識によってしるしづけられる内容、そして標識を指示される物とつなげる相似関係という、三者に訴えるがゆえに三元的であるのだが、類似が記号の形式であれば内容でもあるために、この配分における別個の三要素は、唯一の形象のうちに解消してしまう。
(第二章 世界という散文、五 言語の存在、67-68ページ)