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| 2008年08月 | Monthly Index(2008年09月) | Timeline
9/29/2008 (Mon.)

後藤弘茂のWeekly海外ニュース - PLAYSTATION 4は拡張版Cell搭載へ向かうネタ。

PS3もまだはじまったばかりなのにもうPS4の話かねえ。僕はPS3が汎用コンピュータ化する可能性にこそ期待していたのだが。それだけの能力を持っているのにゲームマシンとして終わるのだろうか。Life-XはPS3でもサービスされる予定だが、ゲームOS上でコンピューティングできる環境を提供してほしいものである。

我爆熱CPUマシン上のGoogle Desktopからとうとうメールをはずした。ファイルが100万、メールも100万、Webの履歴が40万ほどインデックス化されている。おそらく、我マシンで取り扱える限界を超えている。とにかく最近起動は遅いし、ブラウザの動きが悪い。ブラウザのアドインも重そうなものはすべて無効にした。クアッドマシン+メインメモリ2GB程度のマシンに更新してから、再度試してみようと思っている。いつのことになるやらだが。そうなる前に、PS3 Linuxが実用になるのを期待していたのだが・・・PS3 Linux拡張BOXとかが発売されて、メインメモリも潤沢に使えるとかね。デュアルPS3マシンにして動かすとか・・・

更新: 2008-09-30T22:29:13+09:00
9/28/2008 (Sun.)

外気温は16.0℃、室温25℃。秋の最低気温を記録したのではと思う。「モオツァルト」読解の補遺として、疑問に思っていたところを少し記録しておこう。

[7-6]〜[7-8]の三段落のヴァレリーについて。

[7-7]に「ヴァレリイが便覧を巧みに使う」という記載がある。なぜ詩人のヴァレリーが便覧を使うのか。わざわざ「巧みに使って確かに有効ならば、便覧もこの世の生きた真実と何処かで繋がっているに相違ない。」としている。

[7-8]には、「批評の方法が進歩したからと言って、批評と言う仕事が容易になったわけではない。批評の世界に自然科学の方法が導入された事は、見掛けほどの大事件ではない。それは批評能力が或る新しい形式を得たに止まり、批評もまた一種の文学である限り、その点では、他の諸芸術と同様に、表現様式の変化を経験しただけの事である。批評の方法も本質上異るところはあるまい。」とある。これはどうも後のテエヌだけでなく、ヴァレリーのことも指して言っているように思われる。便覧とはどのような形式を指しているのだろうか。一種の辞典のようなものだと思われるが・・・

ヴァレリーのことが出ている記事をリストアップしておこう。「モオツァルト」読解 第7節の記事には、[7-6]の中味を少し引用している。

「モオツァルト」は批評だが、何を批評しているのか。モーツァルトの音楽の鑑賞の仕方を述べているのか。どう感じるべきかを述べているのか。モーツァルトの人と天才について語っているのか。それを主軸としてゲーテについて語ったり、ワグナーとニーチェについて語る。様々なモーツァルト論も紹介される。そして、批評自体についてもヴァレリイなどを通じて語られる。様々な知識が渾然一体となって示されるのである。自然科学の方法が導入された批評とはどのようなものか知りたいものではあるが、・・・

更新: 2008-09-30T22:47:22+09:00

クリックジャッキング:研究者が複数のブラウザに対する新たな脅威について警告 Firefox + NoScript vs クリックジャッキングネタ。悪意のあるサイトで、意図しないクリックが生ずるというもの。簡単には回避できないので、深刻な問題だと言うのだが・・・

言葉と物 CXXXIII - もう一度魔法をかけるとは別に「言葉と物 CXXXII - 意味が壊れる」のページも同時に開くようなページが作れる。

次のように書いている。

<p><a onMouseUp=window.open("renewal_2008_05.html#senya_1211895791")
 href="renewal_2008_06.html#book_1212759689">言葉と物 CXXXIII - もう一度魔法をかける</a>
とは別に「言葉と物 CXXXII - 意味が壊れる」のページも同時に開くようなページが作れる。</p>

確かに意図したページとは別のページが開かれたように感じられる。Not Clickjacking (Almost Certainly) ― BreakingPointにある概念的サンプルから取ったもので、onMouseUpJackingと呼んでいる。しかし、これはJavascriptの単純な機能そのままだ。これが危険だと言ってもね。Real Clickjacking?サンプルはこちら・・・

元々、悪意のあるサイトなんかに行ってはならぬのである。知らないサイトでクリックするのは要注意である。

更新: 2008-09-28T22:18:52+09:00
9/27/2008 (Sat.)

セカイカメラの世界観--Air Tagging The RealWorld:ニュース - page2 - CNET Japanネタ。09/13/2008: [Web Development] iPhoneを「世界カメラ」にする件の続き。

技術的にはおもしろいことはおもしろいのだが・・・僕のケータイ経験から考えると、ケータイ画面を見ながら操作して歩くのは難しい。誰かと一緒に歩いていて、GPSやtwitterなどでも立ち止まって操作していると置いていかれる。「何してるのよ、また」ってなことになる。操作にはそれなりの時間を要するからだ。

時間を要する操作には音声指示を使い、操作しながら歩けるようにする。視界はそのまま利用する仕組みを使って、情報を視界に重ね合わせて見せる。後者の方は、ITmedia +D LifeStyle:“完全ワイヤレス”で、HMDはファッションになる ...のような感じ(06/05/2008: [サイバースペースカウボーイズ] Eye-Trek)。

更新: 2008-09-28T09:40:02+09:00

西欧の知の体系を知ろうとすればするほど深みにはまっていく。やはり、僕もフーコーの後を追って、ギリシャ時代に向かうのだろうか。それもまだだいぶ先になりそうだ。既に僕の過去の経験はほぼすべて越えた・・・日本は残っているけど、そこに踏み込んでいくのはさらに先のことになるだろう。

予想通り、こういうものはすべてを知り尽くさないと終わらない。始めたからには仕方がない。さらに個別にはいろいろと当たる必要はあるが、復習も兼ねて全体像を少し描きたい。参考になるものはないか探した。

貫成人著「哲学マップ (ちくま新書)」(筑摩書房, 2004年)は、以前一度手にとってみたものの少し軽い感じがして置いたのだが、再度取り上げてみた。よく調べてみるとわかりやすいよい本である。ギリシャ時代からフーコーを含む現代哲学まですべてを取り上げている。東洋思想も一つの章が設けられていてサービス精神が旺盛だ。マップ自体は、一つの章で取り上げたなかでのマップなので、他との関係も表示されてはいるが、全体を見通した一覧できるマップがないのが残念だ。書かれていることとマップとの対応関係が少し希薄な感じもする。マップの矢印が何を意味しているのかがよくわからない。しかし、哲学ガイドとしては明快で、大変気に入った。

モリス・バーマン著「デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化」(国文社, 1989年)は、言葉と物 CXXXII - 意味が壊れる (2008/05/27)と言葉と物 CXXXIII - もう一度魔法をかける (2008/06/06)で取り上げた。著者のモリス・バーマンは科学史の専門家で、「自分の科学史の知識をもとに、現代の混迷する状況が何に由来するのか」を書いているのだが、『社会変革と科学的組織』という前著は「現代我々が抱える諸問題の根が、社会的・経済的因子にある」という考えのうちに書き進められたもので、「その過程で、私の議論に認識論の次元がゴッソリ抜け落ちていることを意識させられることになったのである。誤りの根源は世界観全体なのではないか。そんな想いが書き進むうちに次第に明らかな輪郭を結んできたのだ。・・・」としている。

哲学や世界観は、プラトンからデカルトに至る一元論的な考え方とアリストテレスからベイトソンになどに至る二元論・全体論・経験論的なものの考え方との間を揺れ動いているのである。それは、いわば客観と主観の間、人間の意識的な部分のみで客観、合理性を確立するか、意識-無意識の全体を捉えて主観、主体を確立するかの違いかもしれない。少し簡略化しすぎかもしれないし、理解の仕方もおかしいかもしれないが・・・

あまりここで哲学全般について素朴な議論を組み立てても仕方がないが、これまで様々な角度から考えてきた知識表現について掘り下げていこう。その道筋に問題が見えてくるはずだ。前の記事で、「知識(書かれたもの)」と書いたのだが、これは少し安易な見方であり、これまでの検討からは「知識>書かれたもの」と書くべきだろう。「知識」とは「書かれたもの」以上のものである。知識とは「知って、識る」、認識のプロセスなのである。プロセスの背後にはシステムがある。書かれたものと記憶との相互作用ということもできるだろう。知識とは、書かれたものが受容され、認識されたものについて記憶・経験(比較すべき記憶に関する体験)に基づいて総合的に検討され、なるほどと認識者が納得したものである。と、一応考えてみた。これは経験論的な物の見方であるのは確かだが、さて、誰の考え方に似ているのだろう。

更新: 2008-10-12T22:20:07+09:00

知識についての知識についてネタ。書かれていることとは何か、「モオツァルトを読む」から展開していこう。

一昔以前には、すなわち、インターネット以前には情報あるいは知識を入手することは困難だった。学術文献などは象牙の塔(今や死語かもしれない)の図書館や有料データベースに閉じ込められ、一般人には無縁のものだった。科学技術の進展については、時々現われる、新聞、科学雑誌などの解説記事や解説本などの情報から垣間見ることしかできなかった。必要な知識を得るためには、例えば、化学の分野であれば、自分の研究分野をChemical Abstractなどで定期的に調べて、必要と考えられるものは実際の文献にあたり、研究動向を把握するというのが、30-40年ぐらい前までは常識だったろう。その後、オンラインの科学技術文献データベースが登場し、検索結果をもとに文献複写サービスを利用するようになった。こんなことができるのは、学者・学生か企業の研究者に限られていた。

インターネット時代の知識のありかについての知識は、ハイパーリンクと検索によって動的に実現される。その背景にあるのは、Googleを代表とする検索サービスとそれを支えるWWWである。Web上に存在する情報の質と量が向上すればするほど利用度が上がり、サービスを提供するインターネットの接続サービスやポータルサイト、Googleなどが栄えるといううまい仕組みになっている。利用者もその果実を充分に味わうことができるのである。

内田先生は、得られた知識の価値評価が重要で、それは検索によっては得られないと言われている。書かれているものの信頼性を確証するためには、関連するものを大量に読んで判断する必要がある。大変な手間を掛けて得られるのが知識と言えるものだというわけだ。**知識を理解するということは経験なのである。

Googleは価値評価の代用品をPage Rankの仕組みで提供していて、利用者は上位のページの記載内容をいくつか比較検討し、自分の持っている記憶と対比し、目的に合致した妥当な情報かどうかを判断している。もともと、得られる情報に大きくは期待していなくて、むしろ、期待していないような情報にぶつかって喜んだりすることが多い。直接的にはWikipediaで充分だし、Googleを引くのもWikipediaのページに到達することと同義だったりすることが多い。

知識(書いてあること)の信頼性を保証するものは何だろう。それは知識である。知識の連鎖である。その連鎖は相似なのか、類似なのか、あるいは連想なのか、推論なのか・・・知識の連鎖の仕方の分類について考えるとよいかもしれない。ハイパーリンクのさせ方にもいろいろあるように。

更新: 2008-09-27T14:37:57+09:00
9/26/2008 (Fri.)

秋の夜と言うにふさわしく、気温が下がり始めた。ただいまWeatherBugは18.0℃を示している。室温はエアコンなしで26℃。快適だ。モオツァルトを読むを読み直しながらぐるぐると考える。

XMLはWebでの意味論の必要性から1994年頃生み出された(こんな話も「実践実用Perl」に書いてあるんだが・・・)。XMLとは知識表現のフレームワークであるとも言える。XMLについて考えるうちに、SOWAの意味の三角形あたりから、哲学的プログラミングということを考え始めた。それは僕の過去の記憶と溶け合い、ポストモダンとか意味と無意味とか、ソシュールとかの知識を呼び覚まし、「言葉と物」や「知の考古学」などとともに哲学への志向を強めていった。

テキスト処理の対象はすなわちテキストであり、マークアップ言語はともかく、自然言語そのものである。自然言語の状態を示している実際の文を調べなくてはテキスト処理において新しいアイデアも浮かばないだろうという気持ちが、「モオツァルト」読解に向かわせたのだ。

しかし、テキスト処理という観点からはほとんど具体的な成果は得られていない。読解は、なんらかの意味的な構造を読み取っただろうか。楽譜の持つ形式のようなものを読み取っただろうか。「モオツァルト」は批評だが、何を批評しているのか、何を書いているのか、あるいはそれらを通じて何を書きたかったのかということを記述するためには、知識の集合として表示してみるとわかりやすいかもしれない。と、今日ふと思った。以前、Web上で参加者の知識を集めて、人工知能を作ろうという試みがあったことを思い出した。うまくいけば、一種のエキスパートシステムのようなものになったかもしれない。

更新: 2008-09-27T08:29:21+09:00
9/25/2008 (Thu.)

ライフログサービス「Life-X」始動--最速レビュー:ニュース - CNET Japanネタ。

PS3にはLife with PlayStationが導入されたが、Life-XがWebに登場した。ネタ記事の最後のページの最後に、PSPでアクセスしている画面が出ている。PSPに表示をカスタマイズしているのだそうだ。Wemo for PSPと同じコンセプトである。これで俄然やる気が出てきたね^^)

9/23/2008 (Tue.)

電脳空間カウボーイズの 第二百四十八回 二足歩行ロボットかくあるべし 後編経由、「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」ネタ。シンさんが、鈴木敏夫のポッドキャストの話を出してくれたので、アクセス。いやカウボーイズのカサハラテツロー氏(カサハラテツローHP)の画も凄い。

シン氏の話に出たのは、8月12日放送の「崖の上のポニョ VS スカイ・クロラ!」。結局、9月に入ってスカイ・クロラ(08/02/2008: [アニメ] 空を這う)の映画を見に行こうとしたら、もう広島では終わっていた。ポッドキャストでは、押井守氏が「宮崎駿の妄想だ。あの世を描いている。映画としては見ていない。」なんて言うもんだから、鈴木氏から出た言葉が「構造がない」。もっともスカイ・クロラが描くのも現実世界ではない。構造があるのかないのかは別問題だが。「ポニョ」は画としてはダイナミックで非常におもしろかったが、物語としての構造は神話世界と現実世界の対立軸が弱くて平板な感じがしたことは否めないだろう。もっとも構造が平板でもおもしろいかどうかとは別のことだろう。


jpg/itunes_ghibli_2008-09-23s.jpgiTunes 8と「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」

iTunesは凄い。ポッドキャストを再生しながら、40本以上の番組のダウンロードを自動的になんなくやってのけた。




更新: 2008-09-25T20:15:31+09:00

スラッシュドット・ジャパン | テキストエディタ用に最速で起動するOSは何?ネタ。

Wemo for PSP®なら、PSPのスイッチを入れてから15秒で起動可能だ。インターネット接続環境が必要だけどね。

実際のところ、胸ポケットにメモ帳とペンを忍ばせておくのが最速だろう。

午前中に比治山の多聞院へお墓参り。広い駐車場もほとんど埋まっている。時は密かに過ぎ去り、人も気がついたとしてもなにごともないかのように振舞う。

寺町ではパトカーがお参りの違法駐車を追い払うべく拡声器で注意を促している。初めて見るけど、みんな困るだろうに・・・皆を降ろして、川側に抜けて、もう一度脇道から戻ってくる。昼食時の桂蘭には、いい日旅立ちのメロディーが何気なく流れている。

jpg/higanbana_2008-09-23.JPG彼岸花

多聞院にて。




更新: 2008-09-23T16:32:47+09:00
9/22/2008 (Mon.)

モオツァルトを読むネタ。言葉と物シリーズで「モオツァルト」読解を一旦終了してから、だいぶ経つ。さらに展開するには、読み返してみてからということになる。ただ、リンクを辿って読むだけでは、紙媒体のような各所への素早いアクセスは困難だ。やはり、印刷して読みたいという気持ちが強くなっていた。

jpg/mozart.jpgモオツァルトを読む

「モオツァルト」読解開始一周年を自分勝手に記念して、「モオツァルトを読む」というプライベート小冊子をPDFで昨日刊行した。このようなことができるのもTSNETスクリプト通信の出版技術のあるお陰だ^^)v


何か新しく付け加えるべき事柄があるかどうかだが、構造主義的、あるいはポスト構造主義的に読解すると宣言しているわりには、具体性がない。言説も言表もどこに消えてしまったか。まだ、そういう読み方ができるほどには分かってないということかもしれない。確かに何が何なんだか・・・

ポスト構造主義は体系ではない。それどころか、詳細に見てみれば、まとまりのある理論群でさえもない。いったいどうしたわけか。鍵になる言葉は差異である。

(キャサリン・ベルジー著「一冊でわかる ポスト構造主義」、岩波書店、2003年、86ページ)

途中で、言葉と物 ]U - 分類学からの出発 (2007/05/03)に戻ってみるとしているが、その後に直接対応する記述が出ていない。「モオツァルト」は何を述べているのか。モオツァルトの音楽に対する讃美なのか。そのような音楽を生み出すことのできる「モオツァルト」という人物の謎についてなのか。その記述を構成している膨大な要素を逐一経験しなければ理解できないのかもしれない。*理解とは経験なのである。

シニフィアンとは他者ではない。単なる記号表現である。シニフィエはシニフィアンとともに経験がもたらすものだ。経験には他者が関与する余地はあるが・・・次第にドゥルーズ=ガタリ、あるいはスピノザ風になっているのかもしれない。突然、他者が登場しても何のことと言われそうだ。

だがこれらすべてを可能にする言語は、取りもどすすべもない大文字の《他者》(Other)である。ラカンはここで大文字のOをもちいる。言語と文化の《他者》性を他の人たちの他者性から区別するためだ。ただしもちろん、わたしたちは、《他者》であるシニフィアンを他の人たちから学習し、内面化する。ところが、この他の人たちもまた、《他者》であるシニフィアンの産物なのである。

(前掲書、89ページ)

しかし、言語とは不思議なものだ。今や、チョムスキーの変形生成文法を真剣に学ぶべき時が訪れたかも知れぬ。記号表現が形式を生み出すことには留意しておくべきかもしれない。

更新: 2008-09-27T12:43:17+09:00
9/21/2008 (Sun.)

洋書データを取得しようと思うと、localeの設定を変更する必要があるので、バージョンアップ。

ISBN13桁の英語圏の地域を表す数字(4桁目)が、0あるいは1ということなのだが、Net::Amazonモジュールが対応している英語圏の国は、米国(us)と英国(uk)しかない。サンプルはひとつしかないが、英国の本が「1」を使っているようなので、1の場合はukとし、0の場合はusとlocaleを設定する仕様とした。

もう一点、著者が複数の場合、「/」で著者を区切って出力するように変更した。

use Net::Amazon;
use utf8;
binmode STDOUT, ':encoding(cp932)';

my $isbn = "";
while(<>){
	chomp;
	 ($isbn = $_) =~ s/^i*s*bn: (.+)$/$1/i;
}
my($isbn13, $localenum) = &isbn10to13($isbn);
if($localenum == 0){
	$locale = 'us';
}elsif($localenum == 1){
	$locale = 'uk';
}elsif($localenum == 2){
	$locale = 'fr';
}elsif($localenum == 3){
	$locale = 'de';
}elsif($localenum == 4){
	$locale = 'jp';
}

my $ua = Net::Amazon->new(token => '--- your subscription ID ---', locale => $locale);

# Get a request object
my $response = $ua->search(isbn => $isbn13);

if($response->is_success()) {
	for ($response->properties){
		print "<img src=\"", $_->ImageUrlMedium(),"\" align=LEFT hspace=20>",
				join("/", $_->authors), "著「", $_->title(), "」(",
				$_->publisher(), ", ", $_->year(), "年)<br clear=ALL>";
	}
} else {
    print "Error: ", $response->message(), "\n";
}

sub isbn10to13{
	my($isbn10) = @_;
	my $isbn13 = "";
	my $localenum = 0;
	$isbn10 =~ s/-//g;
	if($isbn10 =~ /^(\d{9})\d$/){
		$isbn13 = "978" . $1;
		$isbn13 =~ /^(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)$/;
		$localenum = $4;
		$e = $2 + $4 + $6 + $8 + $10 + $12;
		$o = $1 + $3 + $5 + $7 + $9 + $11;
		($f = $e * 3 + $o) =~ s/^\d+(\d)$/$1/;
		$isbn13  .= 10 - $f;
	}else{
		$isbn13 = $isbn10;
		$localenum = (split(//, $isbn13))[3];
	}
	return $isbn13, $localenum;
}

更新: 2008-09-21T18:27:53+09:00

1262夜 第千二百六十二夜 2008年9月18日『1985年』吉崎達彦 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇ネタ。

1985年に変局点があったという40年周期説。お遊びならともかく、歴史に周期があると言われても困るんだが。1980年代はバブルが形成された時期で、松岡先生も良い時代だったと言われても逆と感じていたと書かれている。僕は、星野芳郎著「もはや技術なし」(光文社、1978年)が書かれたように、閉塞感に囚われていた時代の延長のような気もしていた。無論、新しい技術の萌芽はいろいろとあったのだが、それが育って意味を持つまでには21世紀を待つ必要があったのである。カタストロフの理論に続いてフラクタルなどの複雑性の理論などもその頃に発する。既存技術の改良でも充分にビジネスとしては成長した時代であった。

コンピュータがインターネットともに科学技術や社会に影響するほど普及したのは、とにかく1990年代の後半なのである。21世紀に入った今、最近のニュースはSFを読むような気分になるからね。

更新: 2008-09-21T18:58:14+09:00

宇宙人ジョーンズのコマーシャルがテレビもラジオでも毎日流れている。ほのぼのとしてなかなか感じが良い。最近のテレビの「地上の星篇」は宇宙人ジョーンズの地球調査シリーズ第16弾だった。ラジオでも手を変え、品を変え、さまざまな物語が生み出される。コマーシャルはSUNTORY BOSSで、バックナンバーを見ることができる。コーヒーをほっとして飲みたくなるかもしれない。

コーヒーに付随してCMが生ずるのか、逆にコマーシャルに付随して、コーヒー商品が思い浮かべられるのか。商品名「BOSS」という記号の読みがシニフィアンで、商品自体がシニフィエということになるだろうか。商品そのものからCMという新しい表現と意味が派生していく。正に、メタランガージュ(高次言語)、神話の世界を形作る。

ジル・ドゥルーズ著「記号と事件―1972-1990年の対話 (河出文庫 ト 6-5)」(河出書房新社, 2007年)について、09/06/2008: [メモ] シニフィアンには、シニフィアンは重要でないというガタリの言葉をメモとして収録している。


ところが、シニフィアンとシニフィエを記号から引き剥がして議論してもあまり意味がない。記号には常に感覚に訴えるものとしての表現があり、すなわちシニフィアンがあり、それが実際に記憶に作用してシニフィエを生み出すのである。単にシニフィアンといっても思考の全体のどの部分について語っているのかを言わなければほとんど意味がない。

・・・世界への直接の言及からシニフィアンをひき剥がし、言語にそれ自身の運動契機、独自の決定則を与えるソシュールの動きに発した一群のしごとを指して、わたしは「ポスト構造主義」の語を使ってきた。・・・

(キャサリン・ベルジー著「ポスト構造主義」、岩波書店、2003年、146ページ)

ベルジーがドゥルーズ=ガタリを「ポスト構造主義」としない理由がここらへんにあるのかもしれない。

更新: 2008-09-21T16:29:02+09:00

プライベートメールも新着メールは外でも見れるし、特にそういう観点からWebメールを使う理由はない。今や購読するメーリングリストが多くなりすぎているし、デスクトップのメールのインデックス化等の負担を下げるために、Gmailを導入して、メーリングリスト中心で運用を始めていた。7GB以上の容量が確保できるのもありがたい。

Gmailのフィルターリングやアーカイブ、ラベル付けの関係がわかっていなくて、受信箱に全部のメールが一括で入っている状態だった。それにしても429MBにもなっているので、検索して読むのだけではまずいかな、肝心のメールを見逃す恐れもあるしと整理をはじめた。フィルターを設定する画面でアーカイブとラベルの作成・選択ができる。メールを表示して、「その他の操作」から「メールの自動振り分け設定」を選ぶと、大体適切に自動的に振り分け条件を設定してくれるので、そのまま次ページでアーカイブをチェックし、ラベルを付けて、フィルターを作成すればよい。

雨が天窓を打つ音で目が覚めた。窓を開けて外の空気を入れようとすると、外が暗くなり、雷鳴が激しく轟いた。しかし、それも短い時間で遠ざかり、何事もなかったかのように静寂が訪れた。時折、遠くの雷鳴がかすかに聞こえている。

広島県南部で大雨洪水警報が出ている。外気温は、22℃と少し涼しいらしい。26℃設定のエアコンを止めて、また窓を開ける。テレビでは、安芸区の道路の低いところには水が溜まって、車が浮いてしまうトラブルが報じられている。バスも立ち往生している。

更新: 2008-09-21T14:44:31+09:00
9/20/2008 (Sat.)

アメリカの夢経由、 リーマンの破産、擬制の終焉。 ネタ。

平河克美氏は、 反戦略的ビジネスのすすめのような本を書いていて、内田先生とのビジネスをめぐる特別対談が収録されている。その他、 東京ファイティングキッズのような共著がある。二人とも武道に通じている。

確かに勝ち負けだけのビジネスは大変だし難しい。勝ちも負けもないみたいな生態系が生み出されるのが良いのかもね。しかし、それが反戦略かどうかはわからないが・・・

【堀江 貴文氏(元ライブドア社長)】沈黙を破ったホリエモン,ITを語る経由で、 リーマン破綻でメール取材受けるもボツになったのでが見つかった。

証券業に興味もわかないけど、それほどお金が必要なアイデアをまず思いつけないからかもしれないね。

次第に言語やプログラミングによる世界認識の問題は、経済とか、政治のような具体的な現実に関わっていかざるを得ない。それはゲーム理論を通してかもしれないし、言語的創造力を介してかもしれない。現実から帰還し、そして発進していくのかもしれない。ゲーム理論関係の読書も起源に到達する必要があるのではないかと・・・

John von Neumann/Oskar Morgenstern著「Theory of Games and Economic Behavior (Commemorative Edition) (Princeton Classic Editions)」(Princeton University Press, 2007年)から、さらに起源を遡ることもできるのかもしれない。この本には、SIXTIETH-ANNIVERSARY EDITIONとある。初版が出た1944年から60年後の2004年に出ているからである。本文だけでなく、Foreword、Afterwordは当然で、レビューなども含めた関連文献も収録されていて資料としての価値も高い。

更新: 2008-10-12T22:15:47+09:00

次のSafariはJavaScriptエンジンが劇速!?「SquirrelFish Extreme」登場ネタ。Google Chromeが登場して、JavaScriptエンジンの高速性の競い合いが話題になっているが、日本語表示の観点から見るとどうだろう。

まず、ルビ表示がもっとも優れているのはInternet Explorer(以下、IE)である。ルビらしく、小さく明瞭に表示される。ルビのある行とない行の間隔のずれもそれほど気にならない。Firefox3.0.1(以下、FF)は行がずれてしまって見られない状態だ。Google Chrome(以下、GC)とSafari(以下、SF)のWebkitエンジンは最初から手抜きというか、ルビを付けた文字列の後の()のなかに表示することに割り切っている。下手に表示するよりは賢い。

IEの場合はフレームを使っていると和文用文字と欧文用文字の設定が思うように制御できない。和文と欧文をゴシック系フォントで統一できない。それで、IEは使わない。FFとGCはゴシック系でバランスよく表示できる。表現としては可もなく不可もなくというレベルではあるのだが、それでFFを使っている。SFは独自のフォントを使うためか、ゴシックより明朝体で表示する方がバランスが良く、フォントが洗練されていて美しい。ゴシックは文字がごつくなりすぎ。しかし、SFはさすがにAppleのブラウザだけあって、HTMLの表現要素か欧文か和文かによってフォントを選択しているようであり、表現にこだわりと美学を感じるね。もっと全体としての表現力、洗練度が高まれば将来性は高い。

今のところ、機能的には、Firefoxのアドオンの独壇場なので、ルビ表示だけは何とかしてくれと思うばかりである。GCやSFを使わない理由はFFのアドオンがないからである。

FF3.0で困った点をもう一つ。ブックマークがbookmarks.htmlで直接管理されなくなったところ。デスクトップCGIのフィード管理は、bookmarks.htmlを利用しているので、新たにブックマークに登録したフィードをリストに反映するためには、「ブックマークの管理」から「HTMLとしてエクスポート」する必要がある。

コンピュータ運用上、WebブラウザのJavaScriptの動作スピードよりは、バックグラウンドで常に動いているセキュリティプログラムやGoogle Desktop、メーラーの動作が問題かもしれない。

更新: 2008-09-21T13:34:57+09:00

Amazon Webサービスを使って、ISBNから書籍データを取得して、HTMLに埋め込むスクリプトをエディタに組み込んだ。標準入出力をエディタ側で取り扱える必要があり、エディタ上の選択範囲を標準入力としてPerlなどのフィルタプログラムに渡し、処理結果の標準出力を受け取って、選択範囲と置換する機能が必要である。このような機能は、今のところDanaやTeraPadで実装されている。

前のスクリプト(Net::Amazonモジュールを使う II)で、Amazonへリクエストを要求して結果を受け取る前に、標準入力でISBNを受け取るコードを次のように追加する。エディタ上の入力画面の行頭に「bn: 1234567890」のように入力し、範囲指定して、perlスクリプトを起動すると、Amazon Webサービスを利用して、書籍データを取得して、HTMLに埋め込んで返してくれる。先の記事はこの機能を使って書いたものである。もっとも画像のない書籍データもある^^;)から、手作業で画像を追加する必要がある場合もある。

while(<>){
	chomp;
	 ($isbn = $_) =~ s/^i*s*bn: (.+)$/$1/i;
}

# Get a request object
my $response = $ua->search(isbn => &isbn10to13($isbn));
更新: 2008-09-20T15:52:54+09:00

誰かがキチンと整理してくれているだろうと探し続けているのだが、どうもなるほどという回答にさっぱりぶつからない。問題とは、構造主義、ポストモダン、ポスト構造主義、それぞれの定義である。定義とまで言わないけれども区別である。関連している本を読むたびに登場人物はほぼ同じなのである。少なくともポストかポストでないか説明をしてほしいのだが。次の本を読んで、ほとんどあきらめの気持ちになった。

キャサリン・ベルジー著「ポスト構造主義 (〈1冊でわかる〉シリーズ)」(岩波書店, 2003年)は原著が2002年だし、タイトルが正に「POSTSTRUCTUALISM」だ。これは発行された時期的に見ても決定版だろうと思った。ソシュールがポスト構造主義にもっとも大きな影響を与えた人として最初に紹介されている。しかし、ドゥルーズ=ガタリに本書では一言も言及していない。ポスト構造主義 - Wikipediaを参照するまでもなく、ドゥルーズをポスト構造主義に加えるのはほとんど常識に近い。ポスト構造主義は構造主義を乗り越えようとしたものではなかったのか。それが可能かどうかは別にしてだが・・・最近、ドゥルーズを読み始めた。{09/13/2008: [ジル・ドゥルーズ] 語用論 II; 09/06/2008: [メモ] シニフィアン}

登場人物を列挙しておこう。フェルディナンド・ド・ソシュール、ジュリア・クリステヴァ、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセール、クロード・レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、ジャック・デリダ、スラヴォイ・ジジェク、ジャン=フランソワ・リオタールである。

橋爪 大三郎著「はじめての構造主義 (講談社現代新書)」(講談社, 1988年)にはもっぱら、クロード・レヴィ=ストロースが構造主義の発生源のように書いてある。申し訳程度に構造主義に関わる人々として、ミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセール、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・デリダがスケッチされる。ポスト構造主義については、浅田彰氏の「構造と力」や竹田青嗣氏の「現代思想の冒険」などを参照となっていて、ドゥルーズのリゾームの話が少し紹介されているが、まだ構造主義に対置するものとしてまで認めていない。

ポストモダンをどう捉えるかという問題、それはすなわち、ジャック・デリダとドゥルーズ=ガタリ、そしておそらくジャック・ラカンを含めて、どう位置づけるかとということで、繰り返し、関連事項の近傍をウロウロしていると言える。その道筋は、おそらく当人たちに当たってみるしかないという結論になるのだろう。読まずに済ませようということは難しい^^;)

浅田 彰著「構造と力―記号論を超えて」(勁草書房, 1983年)にもう一度戻ってみる。確かに構造主義とポスト構造主義を一つのパースペクティヴのなかで整理しようと意図している。結局、ラカンを構造主義のリミットとし、ドゥルーズ=ガタリをラカンを乗り越えようとするポスト構造主義とする。問題意識があれば、もう一度立ち戻る価値のある本であることに気付く^^;){ 浅田彰 (2003/04/28) }

竹田 青嗣著「現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)」(筑摩書房, 1992年)

この本も良い本だね。言葉と物 ]]]]]V - 現代思想の冒険 (2007/09/08)も参照。


本上 まもる著「〈ポストモダン〉とは何だったのか―1983-2007 (PHP新書 462)」(PHP研究所, 2007年)の著者も東浩紀と並んで、日本の状況を概観するためには重要だろう。{<ポストモダン>とは何だったのか 1983-2007 (2007/05/22)}

更新: 2008-10-12T22:17:50+09:00

ISBN規格改定のお知らせに従って、古い10桁のISBNコードを13桁に変換するツールをサブルーチンとして組み込んでみた。10桁のISBNで入力すれば、13桁に変換して使う。10桁でなければ13桁として取り扱う。ISBN番号中のハイフンは取り除いて処理するので、あってもなくてもよい。

use Net::Amazon;
use utf8;
binmode STDOUT, ':encoding(cp932)';

my $ua = Net::Amazon->new(token => '--- your subscription ID ---', locale => 'jp');

# Get a request object
my $response = $ua->search(isbn => &isbn10to13('4-06-256674-5'));

if($response->is_success()) {
	for ($response->properties){
		print "<img src=\"", $_->ImageUrlMedium(),"\" align=LEFT hspace=20>",
				$_->authors, "著「", $_->title(), "」(",
				$_->publisher(), ", ", $_->year(), "年)<br clear=ALL>";
	}
} else {
    print "Error: ", $response->message(), "\n";
}
sub isbn10to13{
	my($isbn10) = @_;
	$isbn10 =~ s/-//g;
	if($isbn10 =~ /^(\d{9})\d$/){
		$isbn13 = "978" . $1;
		$isbn13 =~ /^(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)(\d)$/;
		$e = $2 + $4 + $6 + $8 + $10 + $12;
		$o = $1 + $3 + $5 + $7 + $9 + $11;
		($f = $e * 3 + $o) =~ s/^\d+(\d)$/$1/;
		$isbn13  .= 10 - $f;
	}else{
		$isbn13 = $isbn10;
	}
	return $isbn13;
}

AmazonのWebサービスを使うためには、Subscription IDを取得する必要があります。Amazonのトップページの左下側の「Amazon各種サービス」のコラムにある「Webサービス」のリンクを調べてください。僕はAmazon Webサービスが開始された頃(メールを見てみると2004年だね)に取得したIDを今頃使っている。

更新: 2008-09-20T10:21:51+09:00

久しぶりのスクリプト。リハビリと実用を兼ねて、Amazon APIを使ってみる。13桁のISBNから、著者名、タイトル、出版社、発行年、表紙画像URL(中サイズ)を取得して、HTMLに埋め込む。PPMでNet::AmazonモジュールをPerl5.8.8にインストールして、スクリプトをUTF-8で書く。出力はSJISになっている。

use Net::Amazon;
use utf8;
binmode STDOUT, ':encoding(cp932)';

my $ua = Net::Amazon->new(token => '--- your subscription ID ---', locale => 'jp');

# Get a request object
my $response = $ua->search(isbn => '9784062566742');

if($response->is_success()) {
	for ($response->properties){
		print "<img src=\"", $_->ImageUrlMedium(),"\" align=LEFT hspace=20>",
				$_->authors, "著「", $_->title(), "」(",
				$_->publisher(), ", ", $_->year(), "年)<br clear=ALL>";
	}
} else {
    print "Error: ", $response->message(), "\n";
}

出力は、

C:\Scripts\Perl\Amazon>perl amazon1.pl
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51D7884AZXL._SL160_.jpg" align=LE
FT hspace=20>小阪 修平著「そうだったのか現代思想―ニーチェからフーコーまで (講談
社プラスアルファ文庫)」(講談社, 2002年)<br clear=ALL>

この本のISBNは10桁で古いのだが、ISBNが記載されている裏表紙の二つあるバーコードの上の方のバーコードの下に記載されている数字が13桁のISBN番号と同一であるようだ。10桁データのISBNから13桁データへ変換できるが・・・

更新: 2008-10-12T22:18:55+09:00
9/18/2008 (Thu.)

哲学についての古い記憶を探ると、デカルトの「我思う故に我あり」とか、パスカルの「人間は考える葦である」が先ず浮かぶ。それって当然だよね。哲学ってなるほどそんなものかと思っていたかもしれない。そして、キルケゴールが「人生とは死に至る病である」と言ったと聞いて、なるほど、人間は結局死ぬのだから、確かに生きることは病かもしれないね、うまいこと言うじゃないと昔は思わなかったかもしれないけど、ある程度納得。ニーチェなる哲学者が昔いて、虚無主義(ニヒリズム)というのを考えたんだよって、聞かされた。それは時代を反映してそんな考えになったんだみたいなところで、ふーんと納得するレベルの理解だったろう。それは小学生の頃の話だ。したがって、それ以上先生も突っ込むことはなかった。僕はいつも物足りないという気がしていた。

次に我々の前に登場した哲学者は、ジャン-ポール・サルトルであり、いわゆるアンガージュマンを主張して、行動する哲学者として街頭に立った姿が、モノクロームのテレビ画面の今や判然としないぼやけた映像として記憶に蘇る。もしかしたら、フーコーも一緒に映っていたかもしれないのだが・・・実存主義という言葉と一緒にサルトルは現実に生きている良き哲学者として記憶され、高校生か大学生ともなると「嘔吐」を、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」やル・クレジオの「調書」などと一緒に読み始めていたかもしれない。その後、アンチ・ロマンやヌーボー・ロマン、フーコーの「知の考古学」に出会った。フッサールの現象学、ソシュールの言語理論、構造主義、ポストモダンなどともその頃出会ったはずである。そして、次第に現実に埋没していく。

サルトルは思い入れが深い哲学者であり、贔屓目に見る。最近、「存在と無」がちくま学芸文庫に出たので、新訳かと思ったが、松浪信三郎訳のままだね。僕が持っている「存在と無 現象学的存在論の試み」第1分冊(人文書院)は1971年の重版(翻訳初版は1956年)である。しかし、読んだとは言えなかった^^;)人文書院のサルトル全集シリーズを何冊か持っているけど、まともに読んだのは「嘔吐」だけだったと思う。

それで何が言いたかったかだけど、松浪信三郎氏のあとがきに「パスカル的な響きを持っていてアンチ・デカルト的な思想的内容を持つ「存在と無」の実存主義の論述は本質的にデカルト的な精神で貫かれている」というようなロベール・キャンベルの言葉が引用されているのを読んで、パスカルとデカルトは対立軸に置かれるものなのかとようやく了解したということなのである。全然サルトルと関係ない^^;)

もう一つ言いたかったことを思い出した。こちらのほうが肝心なことだ。ハイエク(08/26/2008: [日記] ハイエク - 不確実な世界)の思想は実存主義そのものだということ。「自由の意味は、無知な人々が最大の選択肢をもち、いろいろな可能性を試すことができることにある。・・・」「・・・われわれの社会が最適だという保証もなければ、それに近づいているという保証もない。必要なのは、人々に間違える自由とそれを修正する自由を与えることによって、少しでもましな状態に保つことだけだ。それが自由な社会の最大の特長である。」{池田信夫著「ハイエク 知識社会の自由主義」(PHP新書、2008年)、89-90ページ}

更新: 2008-09-23T22:10:20+09:00
9/15/2008 (Mon.)

テレビは昨日からリーマン・ブラザーズの破綻を告げている。さっき木村太郎氏が、住専問題、山一證券の破綻など、日本を10年遅れで追う現象であることを説明していた。時代は変わっていく。極東の小さな列島から異常の波動が10年を掛けて廻り廻って米大陸に到達したのだろうか。因果応報なのか、なんなのか・・・日本の過去のパターンを米国の現在に読み取っているに過ぎないのか・・・今日は昼から、いつ雨が降ってもおかしくない空の下、小さな折り畳み傘を持って夢タウンに向かう。特に当てがあるわけではないが、運動不足は解消する必要がある。ともかく太陽は厚い雲に隠されている。わたなべさんちで知ったFirefoxのWeatherBugは西広島飛行場の気温が24℃であることを告げていた。

jpg/weatherbug_2008-09-15.jpgWeatherBug

通常はガイドバーにてんとう虫として留まって気温や天気の様子を示しているのだが、クリックすると、別のウインドウで表示される。Hiroshimaは北海道にもあるので、観測点の選択に北海道の地名が出る場合にはもう一つの広島を選ぶこと。


何かスケッチ用のペンとか、色鉛筆とかを見てみようとしたのだが、3階には見当たらず、結局、紀伊国屋へ。ドゥルーズの本を何か探してみるかと思ったりしたが、Amazonからの請求額を追求され、現実に直面した今、財布の紐は緩めるわけにもいかず、ロラン・バルト著「表徴の帝国」(ちくま学芸文庫、1996年;原訳書: 新潮社、1974年;原著: 1970年)のみで我慢する^^;)

この本は、ル・クレジオの「悪魔祓い」(08/09/2008: [言語] 身体と思想と言語)もシリーズの一冊であった新潮社の叢書「創造の小径」版から知っているのだが、これまで買うに至らなかった。分量に比して、高価すぎたためだろう。「悪魔祓い」も157ページで装丁が布張り、箱入りとはいえ、当時では破格の4,300円だった。ちくま学芸文庫版も232ページ(本文は176ページしかない)で1,000円也。図版が多いから仕方がないけどね。

・・・この書物の著者は、どんな意味においても、決して日本を写真には撮らなかった。むしろ、その正反対である。日本がこの書物の作者を数千のフラッシュで突き刺して異形の割れ目を与えた。つまり、日本が著者を表現体(エクリチュール)そのものの場のなかに置いた。この場においては、個々人の認識が揺らぎ、かつての読書体験は覆り、意味は引き裂かれ、弱められて、何ものをも表しえない空虚と化する。・・・

(14ページ)

ロラン・バルトが日本をどう読んだのか、大変興味がある。この本の表紙には、バルトとは関係ないのだろうが、鈴木守氏がカバーデザインしており、宝誌和尚像の写真が載せられている。法師の顔が割れて仏が顔を覗かせている様子が直接表現されている。このようにバルトも異形の割れ目から新しいものに変貌を遂げたのだろうか。

jpg/barthes_signes_2008-09-15-2.JPG表徴の帝国

いやいや、77ページに表紙に使われた宝誌和尚像の写真がある。「表徴とは裂け目である。そのあいだから覗いているものは、ほかならぬもう一つの表徴の顔である。」


しかし、バルトが日本語をどの程度知っていて書いているのか見当がつかないので、ちょっと読んでいてあやふやな感じが付き纏う。フランス人に読ませるならこれでもよいのだろうが。

さて、「言葉と物」シリーズもどんなものになるのかも知らずに139回を迎えたが、ようやく、入り口に立ったという感じもしている。それはドゥルーズを読み始めたからだが、新しい著者を迎えるたびにそう思うかもしれない。浅田彰著「逃走論 スキゾ・キッズの冒険」(筑摩書房、1984年)の最初のほうに「ドゥルーズ=ガタリを読む」という対話が置かれている。スキゾという言葉もドゥルーズ=ガタリから来ているわけだ。そういうことも思い返しつつ、少しずつ進んでいく。

最近、思っているのは、なぜレヴィ=ストロースの文化人類学の仕事が構造主義なのかということ。単に親族構造のような社会構造が数学的に表現できただけで、それほど驚くようなことなのだろうか。それは本当に人間の社会にある無意識的な構造なのだろうかということだ。少し前の「構造主義とは何か」(08/30/2008: [日記] 言葉と物 CXXXVIII - 構造主義とは何か)の帯には、「実存主義に死を宣告」とあるのもなんだかねえ、納得いかないねえと思ったり・・・実存主義的に生きれるほうがよいのではと思うのだが。そうできるようにするのが、政治だろう。ちょっと話がずれてきたが、構造主義は自然科学の一種あるいは一部であって、哲学ではないのではないか。並列に論じることは無意味に感じられるのだが・・・

数学では現実の一部しか表現できないというようなことを言ったのはチョムスキーだと思うが、言語を数学で厳密にモデル化しようとしているチョムスキーが言うのだから重く受け止めるべきだろう。{数学: パターンの科学―宇宙・生命・心の秩序の探求 (2005/12/08)}言語的創造力と数学を区別し、言語的創造力の価値を認めているチョムスキーはやはりすごい人だ。{言葉と物 ]]]X - 言語的創造力 (2007/07/08)}

更新: 2008-09-17T21:18:24+09:00

ロードマップに沿って、開発を進めている。もっとも、開発といっても大したことをするわけではない。気が付いた不具合をまともに動くように修正するだけだ。そろそろ、今後の開発の方向性をどうするか、考えてみようとしている。まずは復習。Wemo for PSP®には、いろいろと不具合が残っていたが、ようやく機能としてはまとまったかな。

最近の変更点。

今のスクリプトでは、機能を拡張しようとすると修正が大変になる。共通部分を一つのスクリプトにまとめるなり、外部のデータに追い出すなりを工夫する必要がある。環境変数は外部のサーバーでは使えないので、ローカルとリモートのテストでさえ、スクリプトを書き換える必要が出てくる。それで、Mooseの使用を考えたのだが、LaCoocanでは現在のところ使えない。他の方法を使うのもおもしろくないので、ニフティに重要なモジュールとして使えるように要望として出してみた。

まあ、そんなところからスタートだ。Wemoへの要望などのページも作ったので、興味があれば書き込んで欲しい。私はこんなのを作ってみたよっていうようなのも歓迎である。僕のスクリプトのライセンスは、Perlと同じライセンスで出すつもりだ。

更新: 2008-09-15T15:46:00+09:00

Zedというエディタに出会った。α版ということなのだが、デザインの良さに惹かれた。晴れときどき更新中: 自作ツール にある。

スクリプト言語のluaが編集に使えるということと正規表現エンジンとして鬼車を使っていることが、スクリプタを惹き付ける大きな要因でもある。

jpg/zed_2008-09-15.jpgZed

矩形選択ができること、アウトライン表示の実装、luaなどのスクリプト言語を編集用に実装しているのを見るとDanaを思い出すが、テキストのタイプ別の設定、編集中文書の切替えの「文換え」や編集用のシェルの実装などの新機軸を持ち込み、魅力的である。




更新: 2008-09-15T10:37:14+09:00
9/14/2008 (Sun.)

Ipod とサイクルコンピューター経由、iPod touch でサイクルコンピュータを作るネタ。

iPod touchは低価格Unixコンピュータと見ることもできるからPSPと比べるとつなぎやすいかも。ただ、USBはないので、Serialでつなぐ。PSPにはUSB接続はできるが、USBホスト機能はないらしい。PSPの公式プログラミング環境は公開されているのかな。見たことないけどねえ。CodeWarrior開発ツールの販売条件によれば、うーむ、SCEと契約しないと開発できないようだ。考えてみると、これは以前も同じ場所で確認したことだっけ^^;)・・・

しかしだ。よく調べると、iPhoneとiPod touchは別物だ。iPod touchには電話機能だけでなく、GPSやデジカメ、マイクが搭載されていないのだ。なーんだ、安いだけあるということ・・・うーん、今後のプラットフォーム選択の結論としては、やはり拡張性に期待してPSPかな。いずれにしても、一般ユーザーにPSPプログラミングを開放してほしいものである(^^)

更新: 2008-09-15T11:10:07+09:00

コンピュータを使った表現も広い意味では一種の身体的表現だろうが、間接的なデジタル表現であるところが他の表現とは違うところだ。もっと身体に近いところでの表現が脳にも身体にも必要なのかもしれない。最近は、簡単にデジカメが空間を切り取ってくれるので頼りがちだが、下手ななりに手書きで切り取ってみることを始めた。

jpg/sketch_plant_2008-09-13-3.jpgポトス

水遣りを二三日忘れてぐたっとしていたポトスが甦った。

輪郭には、たまたま5本セットで購入した安物のドイツ製の水性黒色ボールペンを、色付けには、PentelのAQUASHという水溶性の色鉛筆(10色)を使っている。


だいぶまえに、山田雅夫著「スケッチは3分」(光文社新書、2006年)、山田雅夫著「カラースケッチも3分」(光文社新書、2007年)を購入していた。複雑なものは、さすがに3分で書くのはむずかしいが、下書きをせずに水性の黒ペンで輪郭や影を手早く描くというのは重要だなと思う。「スケッチは3分」の帯に「速ければ速いほど、絵はうまく描ける」とある。細部にこだわらずにうまく省略して描けるところを描くというのがこつらしい。

更新: 2008-10-11T17:11:55+09:00
9/13/2008 (Sat.)

08/30/2008: [Computing] フィジカルコンピューティングの続き。Nabble - Squeak - Japan - [Squeak-ja: 3989] GainerとSerialとわたしネタ。

GoogleデスクトップのサイドバーのメールガジェットにGainerの文字が。フィジカルコンピューティングもいろいろと話題が拡がりつつある。

更新: 2008-09-14T09:32:04+09:00

新サービスが集まる米国TechCrunch50カンファレンス、日本からの出展者も注目を浴びる経由、CloseBox and OpenPod >iPhoneを電脳メガネにする「Sekai Camera」がすごい件ネタ。

GPSを使えば、カメラビューにリンクを張れないこともないかもしれない。カメラの向きとか傾きのような情報が必要かもしれないが、加速度センサーからそのような情報を取得できるだろうか。GPSの経時データから移動方向は割り出せるだろうね。それがカメラの方向と一致するかどうかはわからないが。ケータイWatch ケータイ用語の基礎知識 第186回:加速度センサー とはによれば、加速度センサーで地面に対する傾きを知ることはできるそうだ。

3軸加速度・方位・圧力センサーとLSIを1.2mm厚に封止,携帯電話機向け ...を見ると、方位も3軸地磁気センサーを使えば知ることはできる。

話は変わるが、是非、カメラにGPSと方位・傾きセンサーを組み込んで、写真を何時どこでどの方向にカメラを向けて撮影したのかを自動的に記録したいものである。そうすると4次元の風景地図を構築できるだろう。散歩世界プロジェクト(Walking World Project)では、そんなことができないかと考えていた。最早、夢ではなくなったらしいね。

08/30/2008: [Computing] フィジカルコンピューティングの記事のスイッチサイエンスのサイトではデジタルコンパスモジュールや加速度センサーモジュールを販売している。うまくいけば何か作れるかもしれない。少し調べよう。

更新: 2008-09-15T17:26:43+09:00

05/11/2008: [芸術] 池田満寿夫の続き。曇りなので、運動不足解消に昼から歩いて比治山に向かった。雲行きが怪しそうだったのだが、案の定、帰りは二号線出汐交差点あたりから雨が強くなりずぶ濡れ。帰りは必死に歩いたので久しぶりに運動をした感じ。

jpg/ikeda_masuo_2008-09-13.JPG広島市現代美術館の前の垂れ幕

版画の作業か何かで汚れた手を拡げて見せている


展示はめずらしい初期の油絵作品からはじまっていた。1950年代初期のピカソの影響の強い油絵を見て、なるほどねえ、当時なら影響を受けて当然だよなあと思ったりしながら見始めた。1960年代の僕等がよく知っているソフィスティケートされたデザイン的な版画作品も時代を経て徐々に変化していくのがよくわかる。五月の新日曜美術館で紹介された陶器や般若心経なども展示されていて、知られざる全貌の名に違わぬ納得の展覧会だった。

比治山下のサティ1階のサービスコーナーで前売り券を買って上がれば、1030円のところが820円也。スカイウォークには、サティ3階から接続している。

jpg/ikeda_masuo_1958MILES.JPG1958MILES(CBS SONY 20AP 1401)の池田満寿夫デザインジャケット

展覧会でもアルバムジャケットに使われたことが紹介されていた。



コレクション展に回る前に、販売コーナーで、池田満寿夫著「私のピカソ 私のゴッホ」(中公文庫、1987年;原著: 1983年)と絵葉書を4枚購入。この本には、自分にもっとも影響を与えた画家はピカソだと書いている(64ページ)。ピカソはこんなことを言ったそうだ。

「絵は、生物と同様に生活している。そして我々が日々の生活から受ける変化につれて絵も変化する。これは当然のことである。何となれば絵はこれを眺める人を通してのみ生きているからである。」

(前掲書、私のピカソ、58ページ)

文章も同じだろう。認知は読んだり見たりする人の中に生ずるのだ。池田満寿夫の若いころは、ヨーロッパの絵についての情報は少なく、例えば、ピカソの青の時代の絵の色は想像して見ていたらしい。今は望めばありとあらゆる情報に接することができる時代だ。それをないがしろにしてはもったいないだろうと思う。欲せよ、さらば与えられん。

更新: 2008-09-13T20:55:51+09:00

08/17/2008: [言語学] 語用論から続く。現在、ジル・ドゥルーズ著、宮林寛訳「記号と事件 1972-1990年の対話」(河出書房新社、2007年;原訳書: 1992年;原著: 1990年)を読み続けているのだが、プラグマティクス(語用論)という言葉が響きあい始めた。フーコー、ドゥルーズ関係の読むべき本のリストは増大する一方である。

・・・言語学は初期段階では音韻論が支配的で、それが統辞論と意味論に移行していったわけですが、やがてプラグマティクス(語用論)の性格を強めていった。状況や出来事や行為をあつかうプラグマティクスは、長いあいだ言語学の「はきだめ」と考えられてきました。ところが現在ではこのプラグマティクスが日増しに重要になってきた。・・・

(前掲書、I. 「アンチ・オイディプス」から「千のプラトー」へ、62ページ)

上記引用の後に実例として、次の人たちについて言及される。

そして、フーコー。

・・・彼がつくりあげた言表の概念は、私にとってもきわめて印象深いものでした。この概念には言語学を刷新する力を秘めた言語のプラグマティクスがあったからです。それに、バルトとフーコーが、前者はエピクロス的な方向で、後者はストア派的な方向で、それぞれプラグマティクスを拡大し、重視するようになったのは、やはりとても興味深いことだと思います。・・・

(前掲書、III. ミシェル・フーコー、182ページ)
更新: 2008-09-13T17:10:15+09:00
9/12/2008 (Fri.)

アップル「iPod」イベントの意味--旋風が不要となった市場の巨人ネタ。9/10の夜、帰宅して、iTunesを起動すると自動的に「Apple Special Event, September 2008」をダウンロードし始めた。Apple KeynotesのPodcastを購読しているためだ。「私の死のレポートは大きく誇張されている」というプレゼンからはじめて笑いを取り、2007年のMacworld当時よりは確かに痩せていて少し弱々しい感じがするが、プレゼンを問題なくやり遂げた。ジョブズにはさらに新しい世界を生み出して欲しいと思う。元ネタのSteve Jobs's Obituary, As Run By Bloombergには、このプレゼンを受けたのだろう、「GREATLY EXAGGERATED REPORTS」というタグが付いている。

iPodに関して言えば、旋風は最早必要ないのかもしれない。これはiPodそのものよりもiTunesの魅力だろうと思う。

jpg/itunes_8.jpgiTunes 8 cover flow

iTunes 8へのアップデートに四苦八苦した。iTunes 7もインストールがなかなか進まなかったことを思い出した。iTunes 8のインストールは結局バックグラウンドで動いているソフトをすべて止めてようやくできた。やれやれ。ちょっと以前までは、アプリをインストールする前は他に起動しているものを止めてからというメッセージが出ていたと思うが、最近は出なくなっていた。バックグラウンドで動くものが多くなって、逆戻りである。

iPodに太刀打ちできるのは、ソニーのウォークマンかPSPぐらいだろうけど、iTunesの吸引力を除いても、iPod touchの安さにはインパクトがあった(09/14/2008: [フィジカルコンピューティング] iPod touchでフィジカルコンピューティング)。8GBで、27,800円。これは、ウォークマン Aシリーズの2.4インチ液晶+8GBモデル(NW-A828)と同価格の設定である。対抗馬はやはりPSP-3000かもしれないね。19,800円(本体)+7,500円(8GBメモリースティックPRO Duo)也。PSPにはPCとの連動ソフトウェアとしてMedia Manager for PSPがあるのだが、iTunesと同格とはいえない。PSP-3000への要望に加えて、PCとの連動、ここがポイントだろう。

更新: 2008-09-15T11:16:45+09:00
9/9/2008 (Tue.)

突如復活したネタ。体調を崩されていたようだが、ご無事のようでよかった。

低価格化、高性能化が進んだ今の時期、PCの買い替えは選り取り見取りのようにも思えるが、考え始めると結論を出しにくい。僕は爆熱CPUを抱えたまま、1年が経過した。CPUの冷却フィンを掃除して以降、冷却ファンの騒音が抑えられ{Dell Dimension 4700C 異常事態 II (2007/12/16)}、騒音が酷くなるのではと心配だった夏も過ぎ去っていった。

今のPCの問題は、ウィルスチェックソフトウェアやGoogle Desktop(Becky!プラグインなど)など、HDDに連続して読み書きするアプリが動くと他のアプリの起動が遅くなったり、動作速度が極端に低下することだろう。GIMP、PicasaやiTunesなども起動が遅すぎる。

ということで、買い替えを狙ってチャンスを窺っているのだが、さて、PCが高性能化したとは言え、HDDの読み書きが問題では現在の不具合が解決されるという保証もない感じがする。

重い原因となるバックグラウンドアプリは動かさないという選択肢もあるのだけど。便利なものは動かしたいし、セキュリティも無視するわけにもいかない。それさえなければ、OOo + デスクトップCGI(Webブラウザ+スクリプティング言語) + GIMPぐらいでまとめるとか^^;)

更新: 2008-09-09T22:17:03+09:00
9/7/2008 (Sun.)

「ルノワール、セザンヌ、ユトリロの生きた街 1830-1930年」という副題が付いている。最終日なので、混まないうちにと午前中に出掛けた。ひろしま美術館内の駐車は懲り懲りなので、クレドに入ろうとすると、Lifeが車高規制ではじかれ、離れているが、結局シャレオに留める。

副題にあるような有名な画家の絵よりは、知らない画家の作品が多い。パリという都市の生活の歴史の写真展示にもなっている。

順路の最初の方ではポール・シニャックの装飾的な暖色系の点描が目立つ。次にデュフィの「家と庭」(1915年)の鮮やかな緑と造形に目を奪われる。彫塑関連の展示もある。ロダンのバルザックの頭部の習作はダイナミックだ。その他、「ああ無情(レ・ミゼラブル)」を書いた小説家として知っているヴィクトル・ユーゴーの暗い樹木の小さな画の解説に、生涯3,500点の淡彩画を描いたとあったのが眼を惹き、知らない画家だが、犬を連れた女性を描いた写実主義の究極のような絵にも感心した。

jpg/hiroshima_baseball_stadium.JPG広島市民球場

昼過ぎ、市民球場の広島-阪神戦に集まる人々と一緒に美術館からシャレオの駐車場に向かう。広島市民球場も今年で移転する。



jpg/bombay_curry.JPGボンベイのカレー

昼は、比治山の近くのファンタジアでパスタでも食べようと言っていたが、駐車場待ちの状態なので、広島県立大学近くのボンベイというインドカレー料理店を試してみようと訪れた。ナンでカレーを食べるのは初めてだが、なかなかおいしかった。娘は辛さのホットを選択、我々はレギュラー。レギュラーはまったく辛いというレベルではない。ホットでも充分だろう。その上にベリーホットのランクがある。



更新: 2008-09-07T22:59:41+09:00
9/6/2008 (Sat.)

「ガタリ---それは、シニフィアンなんて何の役にも立たないからさ。そう思っているのはぼくたちだけではないし、ぼくたちがそう言い出したわけでもない。フーコーをみればわかるはずだ。・・・」{ジル・ドゥルーズ著、宮林寛訳「記号と事件 1972-1990年の対話」(河出書房新社、2007年;原訳書: 1992年;原著: 1990年)、48ページ}

・・・ぼくたちは、シニフィアンが言語を考えるうえで有効かどうか、それすら疑わしいと思っている。だからこそ、ぼくたちはイェルムスレウのほうに傾斜していったんだ。イェルムスレウは、もうずいぶん前に、内容と表現からなる流れがあって、シニフィアンなしですませることのできる、いわばスピノザ流の言語理論を構築していたわけだからね。つまり内容と表現からなる連続的な流れのシステムとして言語をとらえ、このシステムが、離散的で非連続な形象を組み合わせた機械状アレンジメントと合致していると考えたわけだ。・・・

ジル・ドゥルーズ著、宮林寛訳「記号と事件 1972-1990年の対話」(河出書房新社、2007年;原訳書: 1992年;原著: 1990年)、49ページ

更新: 2008-09-12T19:32:16+09:00

パターンマッチから繰り返しネタ。最近、本を買い過ぎ。むやみやたらと買っている。しかし、そうだからといって何か新しい認識に到達できるわけではない。思念はインキが滲みた紙面を浮薄になぞり、パターンにマッチしては再び滑っていくだけだ。

jpg/mydesktop.jpg最近のディスプレイ前風景

なんらかの連環をパターンマッチングで見出したとしても、それがそれほどの意味を持つということでもない。同じようなことが書いてあるというだけのことだ。そうして、誰が最初にそのようなことを思考したのかという文献学的な結論に到達するだけかもしれない。

自分の体験、あるいは経験、思うこと、考えることを語らねばならない。そこに意味があるのであって、どこに何が書いてあるかは、さして重要ではないのかもしれない。

と言いながらも、本日記はメモであり、記録である。新たに読書のラインナップに加わったもの。

今の僕の頭のスコープは次の範囲にある。

書籍購入記録として調べていると、抜けがある。宮崎駿とゲーム理論のスコープに次の本がリストされる。無論、これらのスコープから抜け出したわけではない。様々な領域は重なり合っていて、違った角度から見れば、同じスコープにあるようにも見えるものである。


更新: 2008-11-03T08:54:48+09:00

海鳥さんのTSNETスクリプト通信第2号についての4コママンガ(「2008年 8月のよしおさん」2008/08/18 ロボOS)に今日気が付いた。何か、目次の海鳥さんのところに何か張りたいなと思って、うろうろしていたら見つけた。会話の掛け合いがいいねえ。うれしい^^)

今のところTSNETには直接的には関係ないかもしれないけど、いずれロボットはスクリプティングの対象となるだろうし、世界に存在するものはすべてスクリプティングに関係すると思う^^;)v

9/1/2008 (Mon.)

Google世代の整理術「デジタル情報整理ハックス」 第16回 文字情報をとにかく貯めておくネタ。このシリーズは様々なヒントがリストアップされていておもしろい。しかし、それぞれそれなりに魅力的なツールはたくさんあるのだが、結局、トータルなフレームワーク、システムがない。ツールは孤立しがちなのである。ツールの作者は他のツールとの連動を是非考えて欲しい。これはHTMLやXMLのようなデータの標準化によって達成されるのだろうと考えている。

WemoというWeb上のメモツールを考え始めた。デスクトップCGIの「メモる(memol)」システムをWebと融合するシステムにしたいと考えている。「Wemoは記憶を支持するための基本的な情報単位である。これを記憶(KIOK)プロジェクトの出発点とする。」と小さな声で宣言する^^;)

次に情報を記憶としてあるいは知識として組織化していくツールとして有望なのは、日記である。情報が意味を持ち、組織化されるのは我々人間の思考においてである。そのために情報をいかに収集し、いかに蓄積し、いかに配置するのか・・・そのようなことを飽きもせず繰り返し考え続けている。

更新: 2008-09-01T23:14:19+09:00
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