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日記: Text World | 脳髄の日記 | 第四の日記 | jscripter's Twitter | Facebook | Myspace(記事抄録や関連メモ: コメントはこちらにどうぞ)

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1/31/2009 (Sat.)

雨はとっくに止んで、夜になると気温は4-6℃に下がった来た。ImageMagickを少しいじっている。PerlMagickが複雑なPerl環境でうまく動かなくなっていた。ActivePerlに同梱して欲しいものだ。最新のものは5.10.0のBuild1004にインストールする必要がある。気力がなくて使い方を詳細に調べる気にならないが、画像の加工の仕方はだいたいわかった。今日のところはこれぐらいにしよう。もちろん、サムネイルの作成を自動化するのが目的だ。機能が豊富なのでマニュアルを作るのも大変だろうなあ。

jpg/hiroshima_night_2009-01.jpg広島の夕方

平野橋より御幸橋方面を望む



jpg/hiroshima_night_2009-01_crop.jpg広島の夕方(加工1)

オリジナルを横幅一杯で真四角に切り取っている。



jpg/hiroshima_night_2009-01_resize_crop.jpg広島の夕方(加工2)

60%に縮小して、一部を真四角に切り取っている。



PerlMagickのリファレンスは上記の日本語のものを参考にするとよさそうだ。

話は変るが、Make:Japanの Microprinter - Google カレンダー、iCal、天気予報、Dopplr...の記事を興味深く思った。関連リンクをリストしておこう。

Arudinoを使って、レシート用サーマルプリンタをWebのメモ的出力に使うというアイデア。RubyのSinatraというWebフレームワークを使っている。紙に出力する必然性がある内容であれば大変おもしろい。スケジュール的なものとかを毎朝出力してくれるとかね。テレビやFMの番組とか・・・あっ、名曲のたのしみを聞き逃した^^;)

Googleカレンダーを使えば土曜日毎の予定をセットできるね。とりあえずこれを使おう。Googleツールバーにカレンダーを追加。

Waxy.orgのミニブログを探っていくと、Webのおもしろさは尽きない感じがする。多様な世界が拡がっている。Telescopic Text (c) Joe Davis 2008とかbluefulが見つかった。なに、これは・・・ほーっ・・・へーっと見入ってしまう。新しい世界発見^^)

更新: 2009-02-01T00:13:00+09:00

昨日の朝の外気温は10℃、帰宅時は12℃。ラジオの天気予報では暖かいと表現する雨の中を帰ってきた。今朝はGoogleガジェットの天気情報ドームは青い雨を降らせている。ドームの表示気温は広島、7℃だが、WeatherBugは広島西飛行場が10℃を指示している。北の風、18km/hrと風は強い。jarp,に昨日から繋がらないなあ。

jarp,はつながったりつながらなかったり。いろいろテストされてるみたい。一安心。

TSNETWikiのamazon.inc.phpがうまく動かないという機械伯爵さんの指摘があったので調べた。閑舎さんの自作プラグイン/amazon.inc.php - PukiWiki-officialのAWS 4.0への対応が必要だったみたいで、BugTrack2/303 - PukiWiki-devの最後にあるamazon22b rev1.tgzを使って、AWS ACCESS KEY IDを取得してセットすると、表示されるようになった。Net::Amazonのスクリプトも動かなくなったな^^;)いや、TeraPadでは動く^^;;;Zedの標準入出力対応の前でZedでは動かしたこと自体がなかったのか^^;)なぜだろう・・・

更新: 2009-02-01T11:03:06+09:00
1/30/2009 (Fri.)

Journal of chromatic (983): Thursday January 29, 2009 06:01 PM Perl 6 Design Minutes for 28 January 2009ネタ。

いよいよですかね・・・

1/28/2009 (Wed.)

こんなのありかな。でも、とにかくおもしろい。


1/26/2009 (Mon.)

『近代読者の成立』前田愛 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇ネタ。前田愛って誰だろうとWikipediaで引くと男性だった。本名では「よしみ」と読ませる。ペンネームは「あい」で女性名のようだ。もうなくなられているんだね。

それよりも『都市空間のなかの文学』で盲点を衝かれたのは、現代の都市民たちが『ぴあ』などの情報ガイド誌によって都市の空間イベントのジャンルと日付を通してしか、都市の祝祭にかかわれなくなったことをとりあげたことだった。

前田はそこで、『ぴあ』のようなものは情報ガイドとしてはいかに便利でも、カット(場面)とヴィスタ(通景)とシークエンス(局面)が決定的に欠けているのではないかと指摘した。それにくらべて、近世近代の文芸には、そのカットとヴィスタとシークエンスこそがある。それが今日の情報誌からは喪失しつつあると指摘した。うーん、なるほど。これには唸った。

これは今日のウェブ状況やグーグル状況にもぴったりあてはまる。ウェブにも、いまだカットとヴィスタとシークエンスの連結がないじゃないですか。ウェブに貼り付けられたコメントや画像はその数だけは猛烈なものであるけれど、どうにも相互の文脈と物語の深みを欠いたものたちのなのだ。

cut、vista、sequenceの概念の並びがおもしろい。勝手に読み替えてしまうかもしれないが。cutは時間・空間の一瞬を切り取った感じ。vistaは眺めるというか、cutから少し身を引いて展望し、時間・空間的な拡がりを見る。sequenceにおいては、cutがvistaの中に時間・空間的に並べられ、眺望が変化する。

Webにおけるcut、vista、sequenceとは何かを考えてみるのは有意義だろう。Webにおけるコメントのような刹那的な断片的言説に脈絡がないとか言っても仕方がないとは思う。それは他人のコミュニケーションの過程を横から垣間見ているにすぎない。そういうものは表現として十分にコントロールされたものではないし、当人にとってしか意味を持たないようなものだ。cutとも言えないものだろう。cutは言わばページであり、vistaはページリスト、sequenceは他のサイトへのリンクかな。いや、それでは空間・時間を感じることができないかもしれない。今のところWebでは空間や時間を感じることができたという感覚はあまりない。それが問題だ。しかしながら、時間や空間を超越しているからハイパーリンクなのかもね・・・

言葉の遊びをしても仕方がない。具体的に、「近世近代の文芸には、そのカットとヴィスタとシークエンスこそがある」ということはどういうことなのかを看取する必要がある。

更新: 2009-01-28T20:57:39+09:00
1/25/2009 (Sun.)

脳髄の日記: 日本語が亡びるとき 英語の世紀の中でネタ。

全体を通して本を読むことが少なくなっている。この本はせっかく読んだので感想文を載せた。ここでもいろいろ書いたので、思うところも多く、ずいぶん長くなってしまった。

論旨が曖昧なので、少し書き直した。日本語を考える場合に文学だけを考えるのも少し足りない感じがするのと、Webがマルチリンガルという特性を持っていることも考慮すべきだということが言いたかった。日本語を簡単に亡ぼさせるつもりもないし・・・^^;)、他の言語を排除するつもりもない^^)v

更新: 2009-01-28T23:46:25+09:00

アキバ系!電脳空間カウボーイズ: 第二百六十五回 景気後退懐疑論 前編ネタ。新潮45、2009年2月号「榊原英資vs岩井克人 金を使うなら頭を使え!」の榊原英資氏によれば、財政出動の効果は疑わしいらしい。金融政策はほとんど出尽くしているので残るは財政出動しかないわけだが・・・

年が明けて、ゲームづくりやケータイコンテンツ関連は景気がいいらしい。不景気でゲームやケータイコンテンツを消費する時間ができたのじゃないかという話。旅行に出掛けて消費するよりは家に閉じ篭って本を読む時間ができるかもしれない。広く薄く課金するコンテンツ系はむしろチャンスの時代というわけだ。贅沢系、広告モデル系は大変ということになる。

インターネットの発達が広告モデルに影響を与えている。新聞・雑誌・テレビ・ラジオの広告はある程度インターネットに移行していくだろう。紙メディアに放送メディアが加わり、そしてケータイを含むWeb(通信)メディアが大きく発展した。Webメディアは真の意味でマルチメディアである。表現力はもっとも高いし、データベース機能も持つ究極のメディアなのである。長期的にはテレビ・ラジオはWebに吸収される可能性は高い。新聞や雑誌はまだ本とともに物メディアとして残るかもしれない。いずれにせよ、物メディアもWebを活用したメディアとして生まれ変わってより有効なメディアとなる必要がある。

更新: 2009-01-25T17:29:25+09:00

24日付の日経にオバマ新米国大統領就任演説が日英対訳・キーワード解説・注釈付きで政権の紹介とともに見開き2面に収録されていた。就任演説としては破格の扱いだ。20日に行われた演説を24日付けの新聞に収録するのだから、それだけ価値の高い演説だと評価されたのだろう。今朝もテレビで様々な観点からよく練られ演出された演説であったという解析がなされていた。テレビは解析が好きだね。

大統領就任演説を読んで (内田樹の研究室)(2009-01-22)には、日本と米国の違いについて次のような解析があった。

「それに引き換え」、本邦の政治家には「こういう言説」を語る人間がいない。それを日本の政治家は「見識がない」とか「器が小さい」とか端的に「バカだから」とかいって済ませてもあまり生産的ではない。

私はいま「日本辺境論」という本を書いているのだが、タイトルからわかるように、日本人というのは「それに引き換え」というかたちでしか自己を定義できない国民である。水平的なのである。「アメリカではこうだが、日本はこうである」「フィンランドはこうだが、日本はこうである」というようなワーディングでしか現状分析も戦略も語ることができないという「空間的表象形式の呪い」にかかっている。

オバマ大統領のスピーチには、「アメリカはこうだが、ロシア(中国、EU、イスラム諸国などなど)はこうである」という水平方向の比較から「アメリカの進むべき道」を導くという論理操作が見られない。アメリカ人のナショナル・アイデンティティを基礎づけ、賦活させるためには「他国との比較」は必要ないのである。「われわれ」が何ものであるかを「他者の他者」というかたちで迂回的に導き出す必要がないのである。

『日本人というのは「それに引き換え」というかたちでしか自己を定義できない国民である』というわけだが、そういう傾向があることは確かかもしれない。これは「みんなといっしょ」であることを安心的価値とする一億総中流意識の発現の一形態とも見えないことはない。さらに遡れば農耕民族の村意識のようなものに行き着くのかもしれないが。日本人はなぜそのように考えてしまうのか、これも謎の一つかもしれないね。

それはともかく、良いスピーチだったが、具体的なことは何もなかった。それにマーケットは反応して株価は下がったというCBSの記者の解説がテレビに流れている。具体的なことを入れると就任演説の良さは失われてしまうから当然の判断ではあったわけで、オバマ大統領としては具体的なことは既に始めていたと言いたかったところだろう。とにかくまずは財政出動、それを将来必ずやるべきことに使う。将来に向かってやるべきこと、それがグリーンニューディールなのであればハッピーなのだが・・・

更新: 2009-01-25T09:50:37+09:00

21世紀仮想図書館構想を実現するべく、読書に勤しまねばならぬ。1万冊ぐらいはチェックしたいなあとは思うわけだが、しかし、それは半端な数字ではない。10年計画で考えても1000冊/年、3冊/日程度のペースが必要となる。無理だよね。まずそれだけの本を入手することが難しいかもしれない。いや、原理的には市立図書館から1日5冊、県立図書館から1日5冊借りることができるから、毎日10冊入手可能^^;)週5冊でまずどこまでいけるかを試してみるか・・・今は1冊/2週間がこなせないのに^^;)

「言語表現は、事物あるいは事物であると考える物について考えを巡らし、語り、指示する際に基づく複雑なパースペクティヴを与えている」というチョムスキー先生の言葉を噛みしめる。表やデータベース的な認識にそれほどの大きな意味もないと最近考え始めた。やはり言語表現に戻ってくるのだ。


更新: 2009-01-25T12:41:54+09:00
1/24/2009 (Sat.)

The Evolution of Python 3ネタ。chromatic氏によるGuido van Rossum氏へのインタビュー。Python 3については機械伯爵氏のPython 3.0の何が新しいかを参照。

PythonではCGIモジュールは使わない。Web Server Gateway Interface - WikipediaがWebサーバーとWebアプリケーションのインターフェースを定義する。WSGIはJavaのJava Servelet APIのような役目を果すらしい。

機械伯爵氏のWhat'sNewInPython3.0 - TSNETWiki on TextWorldが、PyJUGのWhat's New In Python 3.0 日本語訳の記事で取り上げられた。1月23日にTSNETWikiのセッション数が438まで跳ね上がった。さすがメジャーなPyJUGの公報威力は凄い。

更新: 2009-01-25T18:43:28+09:00

寒さは来週も続く予想が出ている。今朝から広島西飛行場の気温は-2℃から0℃まで上昇。風速も11km/hrから7km/hrまで低下し、風もおさまってきた。今年最初の「言葉と物」シリーズ。ノーム・チョムスキー著「言語と思考」(松柏社、1999年、訳: 大石正幸、原著: 1994年)ネタ。

さて、ミシェル・フーコーは何を「言葉と物」で書いたのかを廻る、彷徨の読書の旅はいつ果てるとも知れないが、チョムスキー先生の言葉は明瞭に響いてくる。

"London"のような名辞は現実世界について話をする目的で用いられはしますが、一つの都市名に包み込まれた入り組んだ指示様式の全特性をもち合わせている、世界の事物などは実際には存在しませんし、また存在するとは考えられないのです。また、そういう事物の存在を想定すると途端に極端なパラドックスにあうことになるのです。さらに、さまざまな語彙特性を調べるとほぼ同様のことが必ず見られます。かりに、「あの本だけど、ジョンが想像で書いたやつだけどね、5ポンドあるよ」、と言うとしましょう。指示している本は抽象的であると同時に具体的で、世界に存在する事物ではありません。一般に、言語表現は、事物あるいは事物であると考える物について考えを巡らし、語り、指示する際に基づく複雑なパースペクティヴを与えているのです。この結論をもっとはっきりさせるには、最も簡単な例(固有名と普通名詞)から離れ、内在的関係構造をもった語彙やより複雑な構造体を見てみるだけでよいのです。最も精緻な辞書でさえ語彙の意味(あるいは音声)についての素描的なヒントを与えているだけなのです。これはちょうど、最も精緻な伝統文法でさえも、複雑な構文の形式と意味についてのヒントを与えているだけなのと同じなのです。このようなヒントは人間の知能には妥当かもしれません。そしてその知能には必須の知性と構造があり、しかも経験からはおおいに独立しているのです。私の内的に蓄えられた言語、これは一つの個体特性ですが、それがわたしが自分の考えを表す際に使うためのそのようなさまざまなパースペクティヴと方法を与えているのです。そして、皆さんの内的に蓄えられた言語もそうなのです。さらに、その言語が類似しているかぎり、実際わたしたちはほかの点でも類似しているのですが、その場合にわたしたちはそこそこ適切にコミュニケーションできるのです。

(16-17ページ)

言葉に意味が生ずるのはそれを読んだ人間の心においてである。フーコーが人間が消滅しようとしていると書いたのは、いわば人間同士の適切なコミュニケーションが成立しにくくなったことを言いたかったのかもしれない。そのような危機感はフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」のような言説に端を発しているようにも思える。この本もルネサンスからガリレイ、デカルト、ロック、バークリー、ヒューム、カントを廻っている。

新年も1月も残り1週間を残すのみとなった。世界の経済的凋落を見ていると機能不全を来たした貨幣経済に奇妙さを覚えざるを得ないわけだが、仮想的な経済活動によって人為的に生じたリアルな結果は各国の財政出動という仮想的・人為的な作用で解決すべきものなのだろうと思う。もともと貨幣は仮想に過ぎないのだから。金本位制であったときもそれは広い意味では仮想に過ぎなかったはずだ。しかし、結局、誰が損をして、誰が得をするのやら。

昨年購入していて本棚に眠っていた一冊の本、デイヴィッド・バーリンスキ著「史上最大の発明 アルゴリズム ◆現代社会を造りあげた根本原理◆」(早川書房、2001年、原著: 2000年)を読み始めた。このまえがきの最初に次のようにある。

六〇年以上前、数理論理学者は、アルゴリズムの概念を精密に定義して、効率的な計算という古来の概念に実質のある内容を与えた。その定義がデジタルコンピューターの創造につながった。思考が自らの目的に物質をしたがわせた興味深い例である。


更新: 2009-01-24T17:19:16+09:00
1/23/2009 (Fri.)

家内がベートーヴェンのピアノ協奏曲を持っていないのを集めたいという。持っているのはポリーニとウィーン・フィルの2番と4番だけ。アマゾンで調べると安価な全集が見つかった。ポリドールのズービン・メータ指揮ウィーン・フィルとアシュケナージ。3枚組み、3,577円(定価3,900円)。1981-1984年のウィーンとロンドンでの録音。アシュケナージなら悪いはずがない。

届いたのは紙のパッケージに入った3枚の不織布袋入りCDと11ページの解説パンフレット。

jpg/P1230187s.JPGLONDON POCL-4001/3

耐久性はともかく、プラスチック製のパッケージより取り扱いやすいので、悪くないねと評価。コストダウンなのだろうけど、もう一工夫あるといいねえ。CDのパンフレットは字が小さ過ぎる。読ませようという気持ちが感じられない。せめて文庫本並の文字サイズにして、もう少し読み物を増やして内容を充実させるぐらいでもかなりインパクトがあるかも。


jpg/P1250188s.JPGCDサイズは文庫本サイズ

比較してみると面積的にはほぼ一緒なんだよね。文庫本とCDをセットにした企画を考えて本屋で販売するとかね。



更新: 2009-01-25T11:08:15+09:00
1/21/2009 (Wed.)

感動した。誰が書いたスピーチかということは気にならないぐらいよかったね。その中で僕が注目した点。

For we know that our patchwork heritage is a strength, not a weakness. We are a nation of Christians and Muslims, Jews and Hindus - and non-believers. We are shaped by every language and culture, drawn from every end of this Earth; and because we have tasted the bitter swill of civil war and segregation, and emerged from that dark chapter stronger and more united, we cannot help but believe that the old hatreds shall someday pass; that the lines of tribe shall soon dissolve; that as the world grows smaller, our common humanity shall reveal itself; and that America must play its role in ushering in a new era of peace.

(ニテンイチリュウ : オバマ大統領就任演説 transcriptより)

なぜなら、私たちの多様性という遺産は、強みであり、弱点ではないからだ。私たちの国はキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、そして無宗教者からなる国家だ。世界のあらゆる所から集められたすべての言語と文化に形作られたのが私たちだ。私たちは、南北戦争と人種隔離という苦い経験をし、その暗い歴史の一章から、より強く、より結束した形で抜け出した。それがゆえに、我々は信じる。古い憎悪はいつか過ぎ去ることを。種族的な境界は間もなく消え去ることを。世界がより小さくなるにつれて、共通の人間性が姿を現すことを。そして、アメリカは、新たな平和の時代を導く役割を果たさなければならないことを。

(asahi.com(朝日新聞社):オバマ大統領就任演説全文〈3〉 - 国際より)

人種の坩堝、多民族国家である「米国」をオバマ大統領が強く意識していることを、なるほどと感じた。米国はバイリンガルの国なのかもしれない。米国の第二国語はスペイン語だと聞いたこともある。もっとも宗教の中に仏教が含まれていないのがちょっと残念だったが・・・

最近聞いた消費税に関する議論のなかの「中福祉、中負担」という説明の説得力のなさにあきれたのだが。日本では理念を述べない。あるのは姑息な方法論だけだ。なぜなんだろうと思う。それも最初から大したことはできないとエクスキューズしているように聞こえてしまう。言わない方がましだ。

更新: 2009-01-21T22:22:58+09:00
1/19/2009 (Mon.)

グーグル、検索で特定サイトを優先的に表示させる機能を追加:マーケティング - CNET Japanネタ。

いろいろとやってくるね。確かにやるべきことかもね・・・

更新: 2009-01-20T21:58:40+09:00

生活圏情報生態系をリデザインせよ:コラム - CNET Japanネタ。

これまで、森祐治氏の話はいくつかピックアップしてきた。

いつも考えさせてくれる話がある。2ページ目にある二つのグラフを見てなるほどと思った。マーケットは地方に人口に応じて存在する。「コンテンツや情報産業の地産地消」、これを実現すべきなのではと思うね。

更新: 2009-01-19T22:30:48+09:00
1/18/2009 (Sun.)

21世紀図書館 (2008/11/19)、2009年、初心に帰れ (2009/01/03)ネタ。

仮想図書館という言葉で検索してみると、電子図書館、あるいはデジタル図書館のような意味で使われている場合が多い。しかしながら仮想図書はリアルな図書に付加される読書経験記録のようなものであるべきかもしれない。具体的には引用、しおり、感想や他の文献へのリンクなどである。21世紀仮想図書館はリアルな図書に関する情報を集積した図書館となるだろう。

少し、図書館についての研究をしよう。


時間城年代記:What' New In Python 3.0の日本語訳What'sNewInPython3.0 - TSNETWiki on TextWorldネタ。

機械伯爵氏と関係者の尽力で翻訳がまとまった。What's New In Python 3.0 ― Python v3.0 documentationの全訳である。

更新: 2009-01-19T22:36:24+09:00

胸焼けがするので、昼から少し運動しようと今にも雨の降りそうな雲行きの中、広島市立南区図書館に向かった。埴谷雄高の本を借りてこようというのが目的だったが、案の定一冊もなかった。小さな図書館だから仕方ないけどね。仕方がないので、アエラ2009.1.19号(AERA-net.jp)と中央公論2009年2月号(中央公論新社)を読んだ。中央公論の特集は「〈昭和文学の巨星とその時代〉生誕100年の作家たちを読み直す 二十世紀の落とし子たちの文学」、1909年生まれの作家には他に大岡昇平と中島敦がいた。帰宅時にはポツポツと雨が落ち始めた。その他、earlybird氏の「800年に一度」の「大激変の時代」を生きる覚悟:Heaven's Net is Wide-meshed - CNET Japanネタ。

洒落た名前のCNETブロガー、earlybird氏。他の記事もおもしろい。ただ、ブッシュ政権をメフィストフェレスになぞらえるのは少しピントはずれのような気がしないでもない。メフィストフェレスの言っていることはもっと哲学的で本質的なことだ。しかし、ガザで行われていることの原因がどこにあるのかは、日本人には大変わかりにくい。もし単純なことなら情けないことだと思わざるを得ない。最後にあげられた三冊、ゲーテの「ファウスト」、道元の「正法眼蔵」、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」は僕も読んでみたい。

「インテリジェンスとは、世界をありのままに理解する行為。・・・超大国の地位を保ちたいなら、優秀な若者をCIAに採り、外国の言葉、歴史、文化を学ばせなさい。」

(ティム・ワイナー「CIAを敵に回した男」、AERA 2009.1.19、53ページ)

CIA秘録(Tim Weiner、Legacy of Ashes、Doubleday、2007年)の著者、ティム・ワイナーへのインタビュー。オバマ次期大統領にこう注文したのだそうだ。


更新: 2009-01-18T20:04:43+09:00

last.fmは最新のFMなのか。既に何度か取り上げて書いているものをリストアップしてまず読む。


jpg/lastfm_2009-01-18.jpg現在のlast.fm

Webブラウザで見るのが最も情報が多く、インターフェース的にも優れている。

外国のアーティストについてはカタログが拡大している。Jazz関係では、Herbie Hancockも収録された。確認してみると、Chick CoreaやKeith Jarrettも聴くことができる。


Home -- Last.fmのページの最後にはJASRACのライセンスが表示されているし、演奏できない曲目はHMV DIGITAL - パソコン向けのWMA/ATRAC3配信サイト。150万曲配信から曲をダウンロードしたり、Mint Jams【CD】-Casiopea/音楽/HMVのようにCDを購入できるようにリンクが張られ、各アーティストの情報を広告のように表示している。

特定のアーティストについては日本の音楽でも流れるようになったのが大きな変化であるが、一般的とは言い難い。例えば、井上陽水の場合には井上陽水 -- Last.fm の世界最大級オンライン音楽カタログで音楽をもっともっと発見!のようなページができているが、まだ曲は聴けない。SNS+Wikiが成功するかどうかは興味深いものである。

ただ、トータルで音楽メディアのパイが拡大しているのかどうかは定かでない。CDメディアはやはり縮小方向なのだろう。HMVの店舗情報を調べると、HMV広島は閉店のアナウンスが出ている。

CDメディアの縮小の問題は、CDメディアが音楽を伝えることだけで価値を持っていた時代はよかったが、iPod/iTunesによる音楽再生の便利さ、オシャレさに対抗する手段が未だに出てこないことによるものだ。音楽CDを企画・編集・制作する現場において、iPod/iTunesが提供できない付加価値を見出さねばならないのだろう。プレーヤは遍在しているのだから、メディアとしての環境は完全に整っている。

リアルなFMは常に新しい付加価値を付けて音楽を放送しているわけだから、そう簡単にはなくならないだろう。もっともNHKは公共放送だから、「名曲のたのしみ」のような番組は別格なのだろう。ラジオの広告収入とWebの広告収入はほぼ一緒になっているそうだが、民放FMは大変な状況かもしれない。ゼロサムゲームになるのでは難しい。

更新: 2009-01-18T17:07:42+09:00
1/17/2009 (Sat.)

スラッシュドット・ジャパン | Wikipedian人口、急激に減少中名曲のたのしみ - アンサイクロペディアの関係とはまったく関係ない「名曲のたのしみ」ネタ。

吉田秀和をいろいろと調べていて、「名曲のたのしみ」にぶつかった。1971年に始まった長寿番組だし、僕も昔は10素子ぐらいの八木アンテナを立ててFMをオーディオで聴いていたので知らないはずはなかったのだが、その記憶は意識下に沈んでいた。八木アンテナホームページを見てもFMアンテナの記載がない時代だから当然ともいえるかもしれない。僕のオーディオ装置はスピーカ(ロジャースLS3/5Aモニター)とAM/FMステレオチューナー(ヤマハT-4)だけが、古いまま残っている。

最近、USB対応FM/AMチューナー「PCラヂオ」がMacをサポート | パソコン | マイコミジャーナル経由で、プレスリリース - > 2009年1月下旬、 PCラヂオ「LRT-FMAM100U」がMac OS X 10.4以降 に対応します!- ロジテックの記事を読んで惹かれた。古いメディアがPCで蘇ろうとしていると思った。オーディオ・ビデオを中核として統合的なメディア・サーバーを作るというのが、昔のオーディオ・マニアの夢であろうと思うのだが、まだまだそこには行き着かない。

それはともかく、「名曲のたのしみ」を聴こう^^)v 名曲のたのしみ −プーランクその音楽と生涯−(17)へ。

アンサイクロペディアの「名曲のたのしみ」の記事は本格的なもので、Wikipediaにあってもそれほどおかしいものではない。Wikipediaには吉田秀和 - Wikipediaがあるが、アンサイクロペディアにはまだない。アンサイクロペディアはWikipediaのパロディのようで、英語版もある。

「名曲のたのしみ」の番組は、FMの音質も良く、オーディオ的にはなかなかよかった。曲間の話を増やしてもらえるともっと楽しめるかもしれない。まあ、これは曲の内容にもよるだろうから、次回を楽しみにしよう。土曜日の午後9時から10時、水曜日に朝10時から11時に再放送。普通は土曜日に聴くことになる。

更新: 2009-01-18T16:52:28+09:00

最近気づいたのだが、Gisle Aas / libwww-perl-5.812 - search.cpan.orgが、5.005をベースとするjperlをサポートできる最後のバージョンとなった。最新は、Gisle Aas / libwww-perl-5.822 - search.cpan.orgだが、バージョン5.6以上のPerlが必要である。

時代は変って、様々なものも時代につれて徐々に変化していく。マルチリンガルの時代、Perl 6/Parrotが出るのに合わせて、テキスト処理はUTF-8ベースに転向すべき時を迎えたのかもしれない。もっともjperlがWindows環境で有用であることは依然として変らない。

更新: 2009-01-17T16:31:39+09:00

昨晩ぐらいから寒さが和らいできた。正午の今、WeatherBugは8℃を示しているし、風速も5km/hと穏やかな天候である。小塩節著「モーツァルトへの旅 音楽と人生に出会う」(知恵の森文庫、2006年)ネタ。家内の本をふと手にとってみた。女学院高校時代に小塩先生のキリスト教についての講演を何度も聴いたことがあるのとモーツァルトへの興味が重なって購入したらしい。1978年に主婦の友社から出ていたものを構成・内容・文体とも大幅に改訂した本。

自らの演奏会を聴いた体験談や新しいモーツァルト像、ヨーロッパでの研究の現状など、モーツァルトについての多面的な話から構成されていて、楽しい本である。日本におけるモーツァルトの受容は戦後は小林秀雄に始まり吉田秀和においてヨーロッパ・レヴェルの理解に到達したように評価されている。小林秀雄の「モオツァルト」については、青山二郎の挿絵のある雑誌「創元」の第一号(創元社、昭和21(1946)年)の洒落たページが紹介されている(191ページ)。吉田秀和のモーツァルトに関する著作としては、吉田秀和著「モーツァルト」(講談社学術文庫、1990年)に収録されている「モーツァルト - 出現・成就・創造 -」が昭和22(1947)年に音楽芸術に発表されていて、最も古いと考えられる。もっとも文庫に収録する際に多少とも手が加えられているわけだけど。吉田秀和のモーツァルト本としては、「吉田秀和コレクション モーツァルトをきく」(ちくま文庫、2008年)も持っているが、これだけ聴いて書いてきたのも大したものだと思う。楽譜が多く引用されるのも当然とはいえねえ・・・小塩先生の本には、楽譜に「テキスト」とルビが振ってある(192ページ)。音楽の本を理解するためには膨大な音楽体験と知識を必要とする。これも当然とは言え。

僕も「モオツァルトを読む」の表紙などに引用したヨゼフ・ランゲのモーツァルトの未完成の肖像画のどの部分が未完成であるのかは、本書の最初のほうにある図版に見ることができる。

更新: 2009-01-17T13:32:58+09:00
1/14/2009 (Wed.)

足元を見よ (内田樹の研究室)ネタ。

これは本質的な話に通じている。僕が思うのは、ペンローズの言うように、本質的な問題は言語表現ではなくて、観念あるいは概念そのものが問題だということ。本質的なものを生み出せば翻訳してでも持っていこうということになるわけだ。普遍に到達するためには、目の前の具体的な問題を解決するところから出発すれば十分である。逆に言えばそれしかない。問題に取り組めるかどうかについては経済的な問題もあるのだろうけど。

そうして、観念とか概念とかを表すのはメタ言語ということになるのだが、それがやはりなんらかの言語を使わなくてはならないということになる。しかし、言語が普遍に到達するのではない。人間なのである。

更新: 2009-01-14T23:58:25+09:00

Gambatte - jarp,経由、freshmeat.net: Project details for Gambatteネタ。

わたなべさんから、日本語名のついているソフトウェア^^)v

1/13/2009 (Tue.)

今日は寒かった。明け方カーテンを開けると、月は太陽が逆から昇るように西の空から明るい月光を部屋に投射したが、車を走らせる頃には、実感のない白い抜け殻を青い空に溶け込ませていた。今朝の外気温は0℃、帰宅時は4℃。トップランナー -TOP RUNNER-2009年1月12日 映画監督 マイケル・アリアスネタ。

メモとして残しておく。日本語がうまいのが特に印象に残った。もうひとつおもしろかったのは、「日本に住むと生活空間からの刺激が故郷に生活するよりもほんの僅かだが強い。記憶にある空間では記憶が視覚を補完してしまうから。」という話。


更新: 2009-01-13T21:16:08+09:00
1/12/2009 (Mon.)

つらつらぐさ: 埴生の宿ネタ。

ムムリクさんのつらつらぐさを読んでいると大体同じような時代を生きてきたような感じ。僕も埴谷雄高は昔から知っているけど読んでいない。著者の方針で生前は文庫が存在しなかったことも大きな原因だろう。「死霊」の文庫化も知っていたけど、まだ手が届かない。死霊は文庫といっても三巻で4500円弱^^;)まずは千夜千冊の「不合理ゆえに吾信ず」でもいいかとも思うが、もうひとつ強い切っ掛け、あるいは単に買う機会を待っている。ただ、タイトルが買いにくいね。「死霊」っていうタイトルは^^;)

池田晶子氏の「最後からひとりめの読者による埴谷雄高論」(オン!―埴谷雄高との形而上対話)あたりから入るのもよいかもと思ったり。池田晶子氏は井筒俊彦著「意識の形而上学」に解説として「情熱の形而上学」を書いている。

更新: 2009-01-12T22:22:54+09:00

新潮とニューズウィークの新年号にどのような記事が出ているか調べに寒い中を昼から南区図書館へ向かった。Webで調べればわかることだが、本屋で買うつもりが買えなかったので、読むためでもある。ニューズウィークは1.14号の最新号のみで新年号はなぜかなかった。誰か借りたのかも。

jpg/P1120178s.JPG寒気を孕む雲

新潮新年号には、「■ 特別対談 ■ 日本語の危機とウェブ進化/水村美苗+梅田望夫 議論沸騰『日本語が亡びるとき』をめぐって。」があった。梅田氏も情報発信に日本語を選択した人であり、水村氏の論考に同意というのが結論であった。米国ではpublicという概念が発達しているのに対して、日本にはそれがない。publicのために情報を提供するという思想が日本にはない。まったくないわけじゃないけど、商売のためにということになるのだそうだ。本当にそうかなあと思うんだけどね。日本のオタクが最もpublicと言えるという話は出ていたので、一体どっちなのみたいな気はした。組織化、システム化がうまいのは米国というのは間違いないけどね。むしろビジネスに結びつけるのは米国の方がうまいのではと思う。

米国人の日本語への興味も半端じゃないと思うんだけど。最近はソフトウェアに日本語の名前を付けるのが流行っている。ご存知、Rakudoは「楽土」だしね。PerlのマスコットCamelの日本語の駱駝(Rakuda)から駱駝道(Rakudado)の駄洒落も含んでいる。もう忘れちゃったけど他にもいろいろあったような。

僕が思うに、世界は徐々にではあるがマルチリンガル化していくのではと思う。というのが、UTF-8の表現力は、もちろんPCにフォントがインストールされなくてはならないが、世界中の文字をPC上に表示することを可能にするからである。アラビア語であろうと中国語であろうとロシア語であろうとハングルであろうとなんであろうと表示できるのである。そこが素晴らしいところだ。文字コードのデフォルトはASCIIからUTF-8に移るのだ。これは画期的なことである。ここ20年ぐらいで徐々に押し寄せてきた底流の一つなのである。これもPCとWebがもたらしたものである。

もっともマルチリンガル足らんと欲しない人が自然にマルチリンガルになるとは言えないのだけど、マルチリンガルなリソースは徐々に増えていくだろう。次のリンクはハーバード大学のBerkman Center for Internet and SocietyがホストしているGlobal Voices Onlineで、水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」が話題になっている。


更新: 2009-01-14T20:13:36+09:00

スラッシュドット・ジャパン | 日本のロボットの人口密度は世界最大経由、IEEE Spectrum: The Rise of the Machinesネタ。

新年テレビを見ていると、襷に刺繍を入れる仕事をミシンをプログラミングして実行している場面が映しだされて、ここにも高度に自動化された機械があると感心しつつ、知らないあいだに様々な場所に機械が進出しているであろうことに気づかされた。

今や、ロボットが歩いたり、でんぐり返ったりするのを見ることは当たり前になった。こういった現象は底流で革新が起きているということの証拠の一つなのだと思う。大きな変化となって現われてくるはずだ。それはどんな形でなのだろうか・・・


更新: 2009-01-12T23:50:46+09:00

久世さんのエディタ、Zed最新版0.38αが出ました^^)

修正点のリストをサポート掲示板から転載しておく。

アウトラインの表示の状態はあまり変らないが、いろいろいじっていると正常な状態になるので、それほど問題ではなくなってきている。ファイル管理は日記ファイルの管理に重宝する。今後の予定のリストもREADMEから転載しておこう。


更新: 2009-01-12T11:55:59+09:00

木田元著「なにもかも小林秀雄に教わった」(文春新書、2008年)ネタ。僕は木田元先生を岩波新書の「現象学」の著者として、フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の訳者の一人として知っている。最近では爆笑問題のニッポンの教養に出演された。

白川静の本を探していて、ふと目に留まったタイトルの中の「小林秀雄」。うむ、現象学の木田元か。「はじめに」のたいせつな本に小林秀雄の「モオツァルト」、第11章に「モオツァルト」が取り上げられている。これも一種の履歴書みたいなものだなと戦前世代の著者を知るために購入した。

モオツァルトを読む」を読み返しながら、スウィトナー指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の39番と40番シンフォニー(ETERNA ET-3042、録音年: 1974-1975年、録音場所: ドレスデン・ルカ教会)を掛けてみる。次から次へと紡ぎだされる自然な音の流れ、変転、つながりに感動する。モオツァルトの作曲がどのようして行われるかというハイデガーの講義の引用をさらにソレルスが引用している「アイデアが滝のように湧いてくる」というモーツァルトの談話(162-163ページ)もなるほどと思わせるのである。まったく躊躇の跡もない。驚くべきは心の中で音楽の全体を一瞥で一幅の絵を見渡すように同時に聴くことができることだ。これをハイデガーは思索の本質と述べている。しかしながら、これは音楽の天才でなくしてできることであろうかと思うしかない。

この本は「なにもかも小林秀雄に教わったのではなかった」というのがあとがきに書かれた結論なので、タイトルとは話が違うじゃないと思ってしまうのだが、一時期はそうであったということなのである。記憶や印象、思い込みとはいい加減なものなのであるというか、意識される記憶は記憶の小片からその時々に再構成されているのではとも思われ、思い出そうと考え、意識する度々に異なった形で浮び上がるのである。

更新: 2009-01-12T11:18:57+09:00
1/11/2009 (Sun.)

あれから40年 (内田樹の研究室)ネタ。

確かに、40年前のことを話しても20歳台の人が理解することは難しいかもしれない。しかし、メディアの発達した現代においては、当時の記録は多いのではないかと思う。新聞も参照できるだろうし、かなり詳しく調べることは可能なはずだ。昔のように戦前戦後という断絶的境界もない。

僕自身にとっても通過した時代なのだが、内田先生の言われるような観点は完全に抜け落ちている。全学連の生い立ちなど学習も理解もしていないのだ。その時代を生きてもすべてを理解しているとは限らない。

もっと他の事を考えて辿ったリンクから、シェ・タチバナ 立花隆公式サイトを見つけて(昔の記事にあるリンクはもうつながらない)、'08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』につながった。ここには、'08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』: 山本義隆のアクチュアリティがある。養老先生の山本義隆批判についても微妙に触れている。

戦後64年、その中にある意識の転換点のようなものの一つに東大安田講堂攻防戦があったに違いない。三島由紀夫の切腹、ベトナム戦争の終焉、石油ショック、ファミコン、日米貿易摩擦、ベルリンの壁崩壊、PCの普及、バブル崩壊、ケータイの普及、インターネットの普及、9.11、イラク戦争、パレスチナ紛争、思い起こすと様々なことが思い浮かんでくる。

更新: 2009-01-12T09:03:08+09:00

昼から夢タウンに出掛けた。昨日よりも大分気温が低い。元々積雪の予報が出ていたぐらいだから、冬らしい寒さだ。白川静の本を紀伊国屋書店で探した。白川静/中村元/梅棹忠夫/梅原猛著「私の履歴書 - 知の越境者」(日経ビジネス文庫、2007年)を見つけて購入。

履歴書を立ち読みして、73歳から10年計画で過去の研究成果を編纂したという字書の「字統」、「字訓」、「字通」を少し覗いてみたいと、辞書のコーナーに行くとすべてあった。さすが紀伊国屋。このような成果を日本語表現にどこまで活かせるのかはいささか心もとない感じはするが、心意気は持たねばならないだろう。しばらく白川静の辿った道を逍遥してみよう。

どうも広島の大雪警報・注意報は肩透かしだったようだ。月明かりが天窓から漏れていたし。でも外の様子を聞くと少し粉雪が舞っているらしい。Journal of chromatic (983): Saturday January 10, 2009 05:27 PM Perl 6 Design Minutes for 31 December 2008ネタ。

UTF-8をデフォルトにしてRakudoは実装されるということなのだが、テキストの存在する環境は複雑だ。この複雑性を吸収するのが、メタデータということになるらしい。取り扱うテキストやスクリプトそのものの文字コードだけでなく、ファイルシステム、コマンドラインにおける問題をメタデータとしてどのように持たせるのだろうか。

Jerry氏の突然のコマンドラインの話は、use Perl | TPF awards Hague Grant to Jerry Gay, core 'Rakudo' Perl 6 team member, regardingに関連している。

更新: 2009-01-11T14:23:50+09:00
1/10/2009 (Sat.)

白川静 (2008/04/28)で話題にした「NHK 知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 2月 白川静 漢字に遊んだ巨人 松岡正剛」が元になった本、松岡正剛著「白川静 漢字の世界観」(平凡社新書、2008年)を遅まきながら購入ネタ。

さらにその元になっている白川静著「漢字 - 生い立ちとその背景 -」(岩波新書、1970年)も持っているが、まだ読んでいなかった。この本を読みはじめると、ことばと文字の生い立ちは異質なものであったことがわかる。なるほどと、特に漢字は・・・最初の2ページを読むだけで凄い本であることがわかる。

なぜ原初、まずことばがあり、ことばが神であったか、なぜ文字が作られたか、そのようなことから解き明かされている。文字によって時間や事物にことばが定着され、神話から歴史へと移行が生ずるのである。


更新: 2009-01-11T14:56:22+09:00

テレビで警報が出た。WeatherBugには雪のマークは出ていないんだけど・・・テレビでは明日は広島南部の平野部でも積雪があるということだった。南部は注意報。

20時台に芸北は警報解除。

更新: 2009-01-10T20:49:28+09:00

そろそろ正月も終わりと「松の内」の定義を正月 - Wikipediaで確認すると、松の内は江戸幕府の通達で15日までが7日までに変ったということらしい。正月は元々1月の別名、正月の話題を1月中続けてもそれほどおかしくはないのだが、やはり庶民の知恵で月半ばぐらいまでのことにするのが感覚的にも合う。江戸幕府の通達が届かなかったのか、西日本では15日までを松の内とする地域が多いらしい。まだ、テレビも新年の番組をやっている。週刊朝日1/16,2009、「連載 親子のカタチ 130 養老暁花、養老孟司」、「1909年生まれの肖像 生誕100年」など、サンデー毎日1.18号、「岩見隆夫のサンデー時評 第544回 今年は思いきりアホになるか」などネタ。1階から上がってきた週刊誌、いまさらながらおもしろいものだと見直した。今年はもっとよく読もう^^)v

家内が養老先生の記事が出ていると持ってきたのが週刊朝日を読むきっかけになった。新潮45の新年1月号冒頭の『日本の「重大問題」はほんとうに重大か』で養老先生のひさしぶりに力の入った論考を読んでいた(新年の言葉)。「恐慌と聞いてあたふたとすることはない。いつも問題はある。知恵を出して適応すればよい。」簡単にいえばそういうこと。参勤交代論のような発想はあるわけで、地方を如何に役に立てることができるかがキーなのかもね。地方の非効率を改善する方法は・・・。非効率のままでは何も変らない。無理をしても無駄にコストが掛かるだけ。次に週刊朝日の子ども放し飼い論の部分を引用しておく。

「ああすればこうなる」方式で子どもを型にはめる親が増えているけど、それは非常にまずい状況だと思う。生き物はそういうふうには育てられないという確信が僕にはある。その人の持って生まれた個性が、だんだんと収まっていく過程を見るのが楽しいわけで。仮に木に例えると、どんなに曲がりくねっても育ってくれたら嬉しいのと同じでね(笑)。

まったくの放し飼いもどうかな、できればそれにこしたことはない。場合によっては意見をするということも必要かなと思う。適切に意見を言うタイミングや言い方はむずかしい。実際にはやむにやまれずということになるからだ。基本的には親の思う通りにはならないもの、勝手に育ってくれれば運が良いと思わなくてはね^^;)

日本全国8時です!、火曜日、荒川先生のネタが「生誕100年の作家」だったが、元ネタは週刊朝日だったかもしれない。今年は松本清張、埴谷雄高、太宰治。近代日本を見直すためにも再チェックは必要かも。

新潮45新年1月号には、内田先生の『呪いを解く「祝福」の言葉』という論考があり、これも力作である。ニヒリズム(反証提出がある種の倫理的告発の様態を帯びてきていること)が社会を覆うようになった理由が、「記号の過剰」あるいは「過記号化」という枠組みで説明できるのではないかという話なんだが、最後の結論が「人間的現実に記述しきったということは起らない。生は汲み尽くすことができない。それゆえ、私たちは記述すること、写生すること、列挙することを終わりなく続けるしかない。それが祝福することの本義だろうと思います。」という逆説的なものとなっている。最近、家内が昔の人は威厳があったが最近の人には威厳がないという話をした。政治家しかり。昔は「バカヤロー」の一言で解散した。今は言葉を山ほど費やして解散しない。確かに威厳には記号の過剰はない。吉本先生流に言えば、「バカヤロー」は自己表出で、最近必要と言われる説明責任においては指示表出が過剰だということになろう。

新潮45には野口悠紀雄先生の『1ドル70円もありうる、「百年に一度」の経済危機』もあるのだが、さて今年はどうなるのか気になった。ただ処方箋は示されていない。テレビもかしこも今は我慢して将来に備えよというのが通り相場になっている・・・。これはどうしようもないということだね。それで養老先生の話に戻っていくわけだ。まあ、何らかの形で適応せざるを得ないわけで、そこに上手い具合に知恵が出ればよいけれども・・・

岩見隆夫のサンデー時評、第544回は村上和雄先生の講演の話からはじまり、「アホは神の望み」(サンマーク出版、2008年)の著書が紹介される。帯には「素直で正直、器が大きなアホであれ!バイオテクノロジーの世界的権威がたどり着いた究極の知恵」とあるのだそうだ。この記事だけからは、なぜアホである必要があるのかよくわからないのだが、アホであることが勧められている。something greatの深淵に触れ、謙虚に祈れということなのである。


更新: 2009-01-11T09:35:36+09:00
1/7/2009 (Wed.)

[対談]ロジャー・ペンローズ+佐藤文隆3/8ネタ。NTT InterCommunication Centerにある季刊InterCommunication No.25 1998 Summer Contents (J)にて一部公開されている記事のひとつ、「われわれはフィジカルな世界をもっともっと知る必要がある」。

ペンローズ――重要なのは観念であって,それを表現する手段,形ではないということですね.数学ではもちろんそれは真です.よく,数学は一つの言語であるというふうに言われますが,私自身はそうは思わない.確かにいくつかの記号は使うし,特定のかたちでの操作も行なう.でも,それは本質的なことではない.厳密にそれをどう書くかということは,まったく重要なことではない.重要なのは,基底にある概念です.要するにあなたは,あらゆるものの基盤に存在するものを抽出されたわけだ.この中国古典の言葉と数学は近いところがあるように思えます.

おもしろいなあ・・・中国古典の言葉とは、荘子の「捨筌」という言葉。僕が思ったのは方法を捨てよみたいなこと。同じ方法に捉われるな。これはメソッドやフレームワークなどを繰り返して使うなみたいな意味にも聞こえる。まあ、そうかもしれないね。常にゼロから考えるみたいな・・・決まりきった方法を使いすぎると考えなくなるから。

更新: 2009-01-09T23:48:22+09:00

浮遊する思考・浮遊する言葉を拾い集めて記録しておくページ。時折覗くFe2+氏のページ。TS Networkではもっとも読書家かもしれない。ムムリクさんもいるけど。Floating Log 3.1.2009: 2008年読んだ本ベスト3ネタ。

ベスト3のトップには、セス・ロイド著「宇宙をプログラムする宇宙」(早川書房、2007年)が置かれている。僕もこの本については簡単な記事を書いている。宇宙をプログラムする (2008/05/18)。

この本のことはほとんど忘れていたのだが、Floating Logを見て、この本読んだよねと思い出すと、なぜか「ペンローズの量子脳理論」{これも久しぶりかな (2001/10/14)}のことが気になってきた。量子力学と情報理論とが結びついていることを思い出した。著者のSeth Lloyd - Wikipediaを調べると、see alsoの項にQuantum Aspects of Life - Wikipediaがあるのを見つけた。誰か翻訳しているのだろうか。Roger Penrose - Wikipediaも今頃どうしているのだろうか。The Road to Reality: A Complete Guide to the Laws of the Universe - Wikipediaの翻訳もあったっけ・・・

意識が量子力学的現象というペンローズ-ハメロフの理論は興味深いものだなという気持ちになってきた。松岡正剛の千夜千冊『皇帝の新しい心』ロジャー・ペンローズもあるなあ。「意識は非アルゴリズム的で、無意識はアルゴリズム的である。」押井守が立花隆との対談で、「機械がどこまで人間に近づけるかより、人間がどこまで機械的なものなのかのほうに興味がある」というようなことを言っていた(立花隆×押井守 NHK「プレミアム10」内対談 : INNOCENCEに見る近未来科学 : SCI(サイ))。無意識的な動物的な部分は機械的と考えてよいかもしれない。機械的でないところに人間の人間たる所以がある。自らを観察して見よ。

更新: 2009-01-12T00:16:18+09:00
1/6/2009 (Tue.)

昨日は、来ないので心配していた人からの年賀状が届いたので少し安心し、出していなかった人へ返信を書いた。年賀状もこれで終わりだろう。正月明けの初日、二日目とひどく疲れている。肩に鈍い重さを感じながらも、今は「爆笑問題の教育テレビの逆襲」を見ている。

何かメモろうと思ったんだが、止めた。けど・・・最後に本質的な発言が出たね。

爆笑問題の太田氏に「いまさらドストエフスキーなんて古典といったけど、新聞がもうぽしゃってしまった。あなたは中にいるからわかるだろうけど、テレビが今ぽしゃろうとしている。今後、共通体験を担うメディアはインターネット!? いや、みんながブログなどで一斉に勝手な発言を始めていて、共通体験のない社会になるのではないか。その先はどうなるのか。おもしろいけど、どうなるのかわからない。」と立花隆の言葉。うーむ。さすが・・・

風呂に浸かって出てくると、最初メモろうと思っていたことを思い出した。岡本太郎の言葉。「人間は打ちひしがれている。機械の奴隷になっている。科学は進歩しているが、人間は進歩していない。」このあと有名な「芸術は爆発だ」という言葉が出るのだが、「人間の進歩と調和」という大阪万博のキャッチフレーズだったかテーマだったか、調和というのはぶつかりあいだという説明だった。太陽の塔はそうだと。ぶつかりあって初めて調和するんだ。爆発して宇宙にはじけるんだと・・・まあ、確かに科学が進歩するだけで、The Matrixの世界にならないように気をつけないといけない^^;)

更新: 2009-01-06T23:43:57+09:00
1/5/2009 (Mon.)

昨晩、ETV特集で「吉本隆明 語る 〜沈黙から芸術まで〜」の放送があった。偶々、最初から見ることができた。僕は天の邪鬼だから有名人は横目で睨んでパスすることにしているので、それも大概いい加減な基準で、しかも行き当たりばったりなので常にそうなるとは限らないのだが、偶然も手伝って吉本隆明をそれほど読もうとしてこなかった。

以前持っていた本といえば、1983年の栗本慎一郎との対談「相対幻論」しかなかった。しかし、同時代人としての吉本隆明、戦前派としての吉本隆明にまったく関らないわけにもいかないだろうと、これも偶々新大阪駅のキオスクかどこかで「読書の方法 なにを、どう読むか」(知恵の森文庫、2006年;原著: 光文社、2001年)と「初期ノート」(光文社文庫、2006年;底本: 川上春雄編「初期ノート増補版」、試行出版部、1970年)を一昨年ぐらいに購入したのではと思う。

言語の幹と根は「沈黙」、「自己表出」である。言語のコミュニケーション機能は枝葉末節であり、「指示表出」である。これが芸術言語論なんだが、当たり前のようでもあり、そのように分けて考えることがそれほどの意味を持つのか、実際分けることができるのか、話を聞いていてそれほど、なるほどと思うほどはよくわからなかった。

吉本先生も最後は天を仰ぐようにして、こんなに短い時間ではねえ、何十年も考えてきたことを説明しきれないよなあというような言葉が漏れ、ちょっとした絶望感に捉われておられたような気がした。言語の抽象的な話を講演で話すようなことは大変難しいだろうと思う。

それでもスタンディングオベーションだった。糸井重里氏のアレンジの講演会で2000人の聴衆が集まった。若い人もずいぶん多いように見えたが・・・


更新: 2009-01-10T20:19:30+09:00
1/4/2009 (Sun.)

新年に何か雑誌を読んでみようと御幸ジャスコを覗いたついでにフタバ図書で中央公論と新潮45の2009年1月号を購入。

養老先生や内田先生などの記事がたっぷりあって楽しかったし、ためになったのだが、もちろんそれを期待して購入したわけだが、今日のところは福岡伸一氏の中央公論「時評2009」の記事「ノーベル賞はプラグマティズムの産物」から引用しよう。

現在、科学者は、科学の役割として役立つことの呪縛に捉えられている。それはなんの役に立つのですか。私たちはこう問われ続け、作り話を答えることが習い性となっている。科学的発見のうちほんの僅かなものが、いつか役に立つことがあるかもしれない。しかし、最初から役立つことを負荷された科学はチープなものにならざるをえない。ノーベル賞が与えられることのなかった無数の下村さんによる記載が、世界の美しさを語ってくれている。どうしてそれだけでは十分ではないのだろうか。

「下村さん」はお気づきの通り、緑色蛍光タンパク質をオワンクラゲから見つけてノーベル賞を取った人だ。発見から30年後に有用性が見出された。それがなければノーベル賞はなかった。「その意味で、ノーベル賞はプラグマティズムの賞でもある」というわけ。僕は35年ぐらい前からプラグマティズムに身を投じていたと思う。それはなぜだったろうと思う。それも人生の謎の一つだ。それはともかく、これを新年の言葉として記しておくのは価値があることだろう。

福岡伸一氏は生物と無生物のあいだ (2007/07/31)と「できそこないの男たち」の著者である。自然のなかに科学だけでなく哲学も見出すことができる類まれな才能の持ち主である。

今朝は寒いね。WeatherBugは広島西飛行場の気温を1℃と告げている。北東の風、風速11km/hr。新年早々厳しい経済の話ばかり、中東は戦争状態。そして明日から出勤というのは置いといて、もう少し正月気分で過ごしたい^^;)

昨年は、TSNETスクリプト通信を創刊して、第3号まで出した。これが昨年最大のニュースかな。個人的には日記記事をまとめて、「モオツァルトを読む」と「ベルグソンと小林秀雄」を作ってみた。時折、自分が何を考えていたのか、呼び覚ますために使っている。

TSNETスクリプト通信では、「オブジェクトを廻る日記」、「Wemoをつくる」、「Zed入門」をまとめた。今年もこれらの話題の近辺をさらに掘り下げたり、盛り上げたりすることになるだろう。

昨日、The evolution of Perl frameworks - Perlbuzzを見つけてリンクを辿って眺めていたのたが、さてどれを使ったらよいのか。しかし、そういうフレームワークに囚われたくないという思いもある。楽になるかもしれないが中味がわからないと自由が失われる。自分流でいけば自由はあるけど、大変。という二つの状態を想像して揺れ動いている。結局、とりあえず自分のできる範囲でやりたいことをやるみたいな話に行き着いてしまう。今年もこういった場所をウロウロすることになるかな。

フレームワークに引っ掛けて、オブジェクトを廻る日記の続編のようなことができればおもしろいんだけど、そこまで思索を深めることができるかどうかだね。昨年はMooseを調べていて、Perl 6のオブジェクトモデルには最新の研究の成果が盛り込まれていることがわかったのだが、オブジェクト指向が知識表現に通じるものであることも再認識したのだった。使いこなせるかどうかは問題なのだが、今年はPerl 6/Parrotを試せるのではと期待している。

フレームワークという観点から少し調べていこう。下記のリンクのまとめが充実している。


更新: 2009-01-04T15:56:23+09:00
1/3/2009 (Sat.)

教訓じみたことを言うのではない。単に天秤座の今年の運勢に書かれていたので、パクッてみただけ^^;)

世界恐慌時代を生き抜くベンチャースピリット:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japanの記事もかなり分裂気味だが、日本の新聞記事に現われない内外の世相を伝えている。ジェイソン・カラカニス氏(Jason Calacanis - Wikipedia, the free encyclopedia;Warning: The Jason Calacanis Weblogのサイトにアクセスすると急にコンピュータが爆走し始める。アクセスしない方がよいかも^^;)の「IT関係はゼロコストスタートアップできるので、不況の今こそテクノロジの開発・改良に努めるべき」とのコメントや、「ベンチャースピリットで大切なのは前向きで底抜けの明るさ」というのが結論のようだ。

昨年開始したWemoプロジェクトは方向性を定めるべく、一時中断。もっと大きな枠組みの一環として考えていこうとしている。

結局、知識表現の問題に戻る。「21世紀仮想図書館」を立ち上げる。それがどのようなものになるのかはわからない^^;)最近つくづく思ったのはやはり何を読むべきなのかは大きな問題であるということだ。既にWeb上には本を紹介するサイトとして千夜千冊があるし、立花先生の「ぼくはこんな本を読んできた」などや、吉本隆明先生の「読書の方法 なにを、どう読むか」など、本を紹介する本も多い。養老先生の「本の解剖学」シリーズや柄谷先生の「反文学論」、荒川先生の「文芸時評という感想」など、雑誌の書評欄に書かれたもの、文芸時評をまとめた本も多い。雑誌でも、昨年の文藝春秋12月号の立花隆vs佐藤優「21世紀図書館」必読200冊、「考える人」2006年夏号の『戦後日本の「考える人」100人100冊』などというような特集を組む。手元に見えるものだけをリストアップしただけだが、僕自身そういうものを求めて読んでいる。

最近、読んでいて驚いたのは水村先生の読書傾向で、「日本語が亡びるとき−英語の世紀の中で」には「五章-日本近代文学の奇跡」という章があり、少し古めの本、すなわち明治維新以降、第二次大戦前の文学が日本近代文学の奇跡であり、それ以降は衰退であるとしている。きちんと確認していないのだが、戦後も活躍した作家としては川端康成の名前があるぐらいかな。夏目漱石を中心に話は展開している。

それとは別に、文章日本語の成立について司馬遼太郎が書いているものを最近ずーっと追いかけて読んでいるのだが、夏目漱石、正岡子規、森鴎外を近代日本文学を成立させた作家としている。ドナルド・キーン先生も漱石以前は江戸時代と見ている。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の一人が正岡子規なのだそうで、正岡子規について書いている他の文章も多い。第二次大戦後が自分の時代という先入観があると、戦前は無視してしまいがちで、戦後だけで考えようとしてしまう。水村先生は戦後派であるにもかかわらず、プロの作家とはいえ、日本近代文学を奇跡として認識しているのは非常に興味深いし、そのように位置づけるものなのかと感心したのだ。世界における日本文学の受容というものを身を持って知っているからかもしれない。日本文学は世界の中の主要な文学のひとつなのだそうだ。

何を読むべきかという問いに答えるには、最近の文芸時評だけを読むだけでは足りず、歴史的な背景・経緯など時間軸も考えなくてはならないことは明らかである。古典を含めて、過去の著作を現代にどのように位置づけ、関連付け、価値付けるのかが必要だろう。千夜千冊はそのような試みであり、連環という概念・仕組みを導入している。ただ、一人一冊という制約もあるし、思う存分というわけにもいっていないような気がする。「21世紀仮想図書館」では時間軸、分類的な視点をまず導入して、スタートできればと漠然と思っている。

更新: 2009-01-03T16:48:48+09:00

Languages -- Parrotを参照。

ついでに、Perl 6 "Rakudo Perl"の動作状況は、rakudo feature status / Perl 6を参照。

ベス・チャトー荒地で育む奇跡の庭『世界一の女庭師』の四季。インタビュー。

庭に何を描きたいと思いますか。

言葉で表せるかしら。少し考えさせて。

(間)

言葉では言い表せないわ。・・・

経験するものの中に天国がある。地獄もあるのよ。よくあることだけど。・・・

何か広大なもの、わたしと植物とすべての人にとって意味のあるものを描きたい。

最後の方を少し見ただけなので、最初から見てみたい。NHKオンデマンドで見逃し番組配信があり、明日が配信予定日となっている。再放送日を教えてもらっても問題ないのだが^^;)

更新: 2009-01-03T10:38:01+09:00
1/1/2009 (Thu.)

明けましておめでとうございます。さすがに今年は、年越しの日記の生成は問題なくできたようだ。

昨年末といっても、ついさっきのの大晦日の悲愴の記事の続き。月毎に日記用HTMLファイルを切り替えるので、月の最後の日の記事は書き上げてもすぐに見えなくなってしまう。寂しいから同じ話題を続けよう。

水村美苗著「日本語が亡びるとき−英語の世紀の中で」(筑摩書房、2008年)は最初はどうもこれは日本語あるいは近代日本文学礼賛の書なのかなと思いつつ読んだのだが、最近の日本文学に見るべきものがないという話に展開され、ここは具体性に欠けているのだが、このままでは日本語が亡びるという題名に到達した。最近の日本文学については僕は新しいものはほとんど読まないのでよくわからない。なぜ僕の読まない本がこんなにたくさん書店にあるのだろうと不思議に思うことは多いのだが、マスコミやマンガ・ゲーム・映画・テレビドラマなど他のメディアが発達して、文学が伝えるべきものが少なくなっているというのは本当にそうかなと思う。状況把握のために実験的に時折サンプリングして日本の小説を読もうとすることはあるが、結局読まないままに放置したり、同じ作家を続けて読もうと思うことはほとんどない。小説家で最近読み始めたのは司馬遼太郎だが、読んでいるのは今のところ小説ではない。水村氏も認識されているように昔のような普通の文学は成立しにくい時代になっていることは確かかもしれない。それはなぜかということにも理由はあるのかもしれない。

「大図書館構想など情報過剰の地獄」という意見はその通りだと思う。一人の人間が読めるのは最大数千から数万冊程度、ほんの一部なのだから。ただし、選択の自由はあるのだから、地獄とは言えないし、むしろ天国という意見もあろう。従って、既に人間が一生を費やして読むべきものは十分にあるとは言えるだろう。新たな知識は生み出されているにしてもだ。図書館はある程度整備されているし、読みたい本は求めれば与えられるだろう。そのような世界の中で何が求められているのかだね。自分が生きていくために(そして死んでいくために)必要なものを体系的に修得するためのガイドかな・・・千夜千冊のようなもの・・・そんなところかな・・・そこまで考えていくと、それは哲学か宗教のようなものに行き着くだろう。

昨年、2008年の日記生産量は352編、855KBの結果。2007年は、463編、988.35KB、2006年が、539編、1021.19KBだから、落ちていっているねえ^^;)増えているのは、一つの記事の長さ。1.9KB、2.1KB、2.4KB、・・・さて今年は!?(調べてみると、2001年、206KB、2002年、254KB、2003年、294KB、2004年、382KB、2005年、990KBだから、まあそれほど落ちているわけでもないか^^;)

jpg/diary_production_2001-2008.jpg日記生産量推移

ついでに、データを全部取ってみた。日記HTMLファイルの年間サイズと記事数をOpenOffice.orgのCalcでグラフ化。グラフはPDFでエクスポートして、Adobe Readerのスナップショットツールで切り出し、Gimpでクリップボードから取り込む。やはり、一つの記事の長さが2004年以前の記事の倍以上になっている。元々簡潔さが売り物だったのに長すぎて読む気がしなくなったかも^^;)


お堅い話は中断。今年は一念発起して初日の出を拝む。

jpg/P1010145sl.JPG夜明け前 7:15:51

宇品波止場公園から広島湾を右に金輪島、左に坂の森山を挟んで遠く絵下山を望む。山を越えると焼山地区だ。夜明け前といっても、太陽が見えないだけで明るい。



jpg/P1010147s.JPG夜明け前 7:16:16

広島湾南西方面



jpg/P1010152s.JPG初日の出 7:44:14

jpg/P1010153s.JPG初日の出(ズーム) 7:44:32

左から広島ホームテレビ絵下山放送所、テレビ新広島絵下山発喜山送信所、広島デジタルテレビ送信所のアンテナが並んでいる。この場所は初日の出の穴場らしい。



jpg/P1010156s.JPG初日の出 7:45:12

jpg/P1010161s.JPG初日の出 7:48:22

jpg/P1010163s.JPG夜明け後 7:49:32

北東方面、広島高速3号線。



jpg/P1010164s.JPG夜明け後 7:50:15

日が射し、事物を鮮やかに照らし出す。元宇治の広島プリンスホテルが見える。



更新: 2009-01-02T18:29:33+09:00
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