忙しい週末と批評家の責任について (内田樹の研究室)ネタ。毎日新聞夕刊の「1Q84」の文芸批評を取り上げられていたのだが、つられてついつい読んでしまった^^;)
主人まだ、銜えてこないよね。
無名犬まだ、手持ちの本を読むって言っていたじゃない。
主人「君子豹変す」だ。主人の気持ちを察してこそ、名犬だ。
無名犬君子かねえ...くんくん.....
主人失礼な犬だ。においでわかってたまるか。
無名犬まあ、本ってものはだね。吾輩は思うんだが、むずかしいことに、ファンタジーってことが前提になると説得力が低下してしまうことだね。嘘でもだねえ、リアルを前提に組み立てる。それがScience FictionとSpeculation & Fantasyを分ける。科学の時代だから...そんなところが、村上春樹の本を読んでて少し気になるところ。サイエンス・フィクションを書いてくれないかな。
主人えらそうな犬だな。創造というものはそんなに簡単なものではない。もう少し作者の身になって考えろ・・・
無名犬犬、犬と犬の身になって考えてくれないかな。吾輩は犬である。名前はまだない。わんわん。
今日も陰鬱な空のもとを走って帰った。水の恵みの梅雨だから、文句も言えない。文書から知識を抽出する「Machine Reading Program」を開発--米BBNがDARPAと契約:ニュース - CNET Japanネタ。
それで、読む量が減るのかな。減るんだろうね。しかし、このような仕事がビジネスになる時代に入ったということだ。
暗くなった低い雲から強い雨が車のフロントガラスを打ち始める。会話よりも運転に注意を向け始めて、自然に口数が少なくなった。高須台から下りて、西広島バイパスに合流する地点で、窓を開けてサイドミラーの水滴を指で拭く。車の流れがわずかに途切れたところでなんとか無事に入ることができた。帰宅してRSSをチェックすると、「Zed 0.41 リリース」の報。リリース内容は、Zed - TSNETWiki on TextWorldに転載した。
早速、解凍してインストール。Zed 0.40のmacro\menu\editに格納しているスクリプトとzed.ini、zed.cty、diary.typをコピー。
Luaデバッガウインドウの改良が2点記載されている。このデバッガはZedの機能として大きな特徴なのだろう。Zedのお陰でLuaにも少し興味が出てきた。しかし、ライブラリのこととかがよくわからない。質問してみようか。
夕食のあと、御幸ジャスコのフタバ書店に久し振りに寄る。「1Q84」が4組ほど置かれていた。供給不足は過ぎ去ったようだ。少し前で立ち止まっただけで、手にも取らずに通り過ぎた。焦ることもないから。何も買わずに急いで帰宅。南区区民文化センターまで用事で車を走らせる。
村上春樹の「TVピープル」、「東京奇譚集」、「やがて哀しき外国語」を読み終えたところ。「やがて哀しき外国語」を読んで親しみを覚えた。村上春樹はいいなあと思い始めた。ようやく調子が出てきた感じ。ファンになれるかな^^;)先ず手持ちの本を読もう。
あと、瀬山士郎著「はじめての現代数学」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2009年;原著: 講談社現代新書、1988年)をほぼ読み終え、中沢新一著「緑の資本論」(ちくま学芸文庫、2009年;原著: 集英社、2002年)と(監)訳のクロード・レヴィ=ストロース著「パロール・ドネ」(講談社選書メチエ、2009年)を齧ろうとしている。
PythonのMVCフレームワークDjangoに触ってみる。ついでにGoogle App EngineのPython版を試してみる。my first appのようにスタート ガイド: Python - Google App Engine - Google Codeそのままを試してみた。
昨日、マイケル・ジャクソンが亡くなったことが報じられた。また、時代が去っていく。
ThrillerのLPを取り出して聴いてみた。まったく古くない。単なるポップでもない。もっとも、僕にとっては当時の話題に惹かれて購入してみた1枚に過ぎなかったのだが。
Michael Jackson Thriller 1982プロデューサーがクインシー・ジョーンズ。当時はクインシー全盛の時代でもあった。コプロデューサーとしてマイケルも名を連ねている。Girl is mine.はポール・マッカートニーとデュエット。
60年代から70年代を経て現在に至るまでの時代のヒーローは、確かにビートルズであり、ポール・マッカートニーであったかも知れません。けれど、70年代を経て、やがて80年代に入り、その80年代も終わろうとする頃、つまりマイケルがキャリア20年目を迎える頃には、ひょっとしたらギネス・ブックの記録は、マイケルの手によって塗り替えられているかも知れないのです。
1990年・・・・・。それでもマイケルはまだ32才か。若いなあ。
1982年11月16日 湯川れい子
アルバム「スリラー」のライナーノーツの最後の部分。ギネスが何時認定したかは知らないけど記録は最早伝説的なものだろう。2009年、50才、もったいない。
Wanna be startin' somethin'
レイ・ブラッドベリは大のインターネット嫌い。愛するのは「図書館」 - スラッシュドット・ジャパンネタ。
既に図書館には十分過ぎるほどの本がある。個人の興味の範囲によるが、単に書物にしか興味がないなら、「インターネットなんかくそくらえ」(失礼^^;)と言ってもそれほど問題はないかもしれない。
僕が最初にすごい小説家だなと思ったのは、フレドリック・ブラウンで、次にレイ・ブラッドベリだった。何と比較してすごいと思ったのか。E.E.スミスやE.R.バローズは小学生の時に既に読んでいた記憶があるがそれよりも早かったかどうかはもう定かではない。アシモフを知ったのはその後だろう。日本人の小説を本格的に読み始めたのはさらに後のことだったと思う。
ブラッドベリの作品で手元に残っているのは、古いものは「太陽の黄金の林檎」(ハヤカワ・SF・シリーズ 3032、1973年5版)だけ。最近、熱心には読んでいないが、「瞬きよりも速く」(ハヤカワ文庫、2007年)と「社交ダンスが終わった夜に」(新潮社、2008年)は手に入れている。「何かが道をやってくる」、「十月はたそがれの国」、「ウは宇宙船のウ」、「スは宇宙(スペース)のス」などのタイトルが懐かしい。
「インターネットなんかくそくらえ」(To hell with the Internet.)という言葉は、A Literary Legend Fights for a Ventura County Library - NYTimes.comの記事の中に出てきて、話題になっている。最早文学的伝説であるブラッドベリは地方図書館を助けるための募金活動に協力しているようだ。その文脈の中で、ヤフーからのブラッドベリの本を置きたいとの申し出に、「インターネットは大きな気をそらすものであり、無意味であり、リアルでなく、空虚なものだ。...インターネットなんてくそくらえ。」と答えたことが記載されている。ヤフーのスポークスウーマンは認めていないけどね。
しかし、Amazonでブラッドベリの本は売られているし、おかしな話だと思って、少し調べたら、Ray Bradbury hates e-books and turned down Yahoo publication offer | TeleRead: Bring the E-Books Homeの記事を見つけた。問題は、電子ブックらしい。それなら図書館の文脈で語られる意味もある程度理解できる。それでも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という感じも否めず、ニューヨーク・タイムズの記事のブラッドベリは一緒に映っている恐竜の模型に似ているようにも思える。NYTがそのように見せているとも見える。図書館や本を大切に思うが故の咆哮と思わぬでもない。しかし、ヤフーの話の記事への位置づけが実際上どこまで適切なのかどうかも疑問ではある。図書館にインターネットを無理やり結び付けているような、唐突な話にも感じられたのだ。
88歳のブラッドベリの最近の執筆は、電話でアリゾナにいる娘さんに口述し、娘さんが録音から書き起こして編集したものをファックスしてもらうことによって進められると、伊藤典夫氏が「社交ダンスが終わった夜に」の解説に書いている。これは調べると、インターネット経由でニューヨーク・タイムスの書評欄で読むことができる(Ray Bradbury - Now and Forever - Books - NYTimes.com: Vintage Bradbury, Packaged Anew )。解説の一部はインターネットを使って情報収集した内容に基づいて書いてある。今や、インターネットは情報収集源として欠くべからざるものとなっていることをブラッドベリに伝えたいものだ。けして、気を散らすだけのものではないし、無意味なものではない。有用になるかどうかは、何でも使い方次第である。良い面もあれば悪い面もある。
紙新聞はまだまだ死なず - スラッシュドット・ジャパンネタ。
Webのメリットはハイパーテキスト、検索、メモの集積・整理、プログラミングによる処理の自動化。ただ、単に読むだけなら紙媒体に勝てない。むしろ、紙媒体をWebにつなぐ手段をサービスしたほうが良い。あるいはその逆。今後は価値ある情報は紙媒体と電子媒体の両方に存在するようになるだろう。
爆笑問題のニッポンの教養、2009年6月23日 放送 FILE076:「『時間』という名の怪物」ネタ経由、実験心理学、一川誠ネタ。
世界一受けたい授業もあるね。
先生のホームページから引用。
個人的お薦め大学にいる間にこのくらいは読んでおこう.これらの本を通して,いろんな人と話ができるだろうから
- 『これはパイプではない』M.フーコー著 豊崎光一・清水正訳 (1986) 哲学書房
ポップ(?)な近代絵画論.マグリット,クレーからウオーホルまで
- 『混沌からの秩序』I.プリゴジン・I.スタンジェール著 伏見康治・伏見譲・松枝秀明訳(1987)みすず書房
現代の科学の到達点,問題点を手際良く整理している.原題の意味するところは,自然科学と人文科学の融合
- 『存在と時間』M.ハイデガー著 細谷貞雄訳 (1994) ちくま学芸文庫
今世紀最も影響力のあった哲学書の一つ.分厚いけど,読み易い(と思う)
- 『手すりなき思考』R.バーンスタイン著 谷徹・谷優訳(1997)産業図書
いわゆるハイデガ−問題の哲学的解説もあり.プラグマティズムの立場からの20世紀哲学の総括
「存在と時間」は持っているが、他は持っていないなあ^^;)「フーコー・コレクション 3 言説・表象」に「これはパイプではない」という論文はあるのだが、アマゾンで目次を調べると別のバージョンみたいだ。
哲学書房、1986年、135ページ。ちなみに、「これはパイプではない」という論文は30ページぐらい。
それはともかく、6月も終わりだ。年の半分が過ぎ去っていこうとしている。まだ始まったばかりだと思っていたのだが・・・
昨日たまたま夢タウンの奇異国屋書店から無名犬が銜えてきたのが、木下是雄「日本語の思考法」(中公文庫、2009年;原著: 「日本人の言語環境を考える」、晶文社、1996年)。ふと、中公文庫の棚の前で見かけない本が目に入り、著者名の木下是雄に「うーっ」と唸ったらしい。
もちろん、「理科系の作文技術」(中公新書、1981年)の著者だ。最初に結論を書け、そして断定的に書け。そういうことを学んだかもしれない。と曖昧に書くのが日本人は好きなのである。
サイフォン構造の毛細管の濡れ勾配もいわば一種のサイフォンそのままのように機能する。液面の圧力差が毛細管を伝わっていることは間違いない。ティッシュが浸かっている液面の高さともう片方のティッシュの下端の高さの位置は極めて敏感な水の流れのスイッチとなる。管に水を満たす手段に毛細管現象を使うところと液面の圧力差の伝わり方が濡れを介しているところが違う。同じことを単に言い換えているだけだが。
無名犬何か難しいことを言っているが、毛細管に濡れ勾配があることには実証があるのかい。
主人なかなか、鋭い質問だな。犬にしては・・・仮説だって言っているだろ。実証されていないから仮説なのさ。
無名犬うーっ。吾輩には、毛細管に水を満たすのに毛細管現象が使われるのはわかるが、ティッシュ全体が濡れてしまった後は、サイフォンの原理が働いているだけのように思えるのだが。吾輩の単純な頭にはね。
主人実際、それも正しい答えの可能性は高い。ポストモダンの世界ではわかりにくいように考えるのが称揚されるのだよ。まあ、現実の現象は複雑だ。サイフォンそのものでないのも確かだからね。君の説明はマクロには正しそうにも思えるのだが、ミクロに見ると濡れの勾配と言う概念もなかなか捨てがたいのだよ。濡れの勾配がなぜ生ずるのかというのも問題ではあるわけだ。基本的には重力の効果なわけだけど。元々表面張力という考え方自体がマクロ的で、実際の濡れの現象や状態をミクロなレベルで説明するには力不足だと思う。しかし、濡れている部分を除いた毛細管内に水の層からなる微小管が通じているとすれば、サイフォンそのものとして機能する可能性は十分ある。しかし、そう言い切ってしまうのも少し乱暴な気がしているのさ。
無名犬なるほどね。少しはいろいろと考えているんじゃない。わん。
『セレンディピティの探求』澤泉重一・片井修 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇ネタ。
セレンディピティという言葉を聞いたのは遠い昔だ。最近、思うのはできるだけ偶然の幸運を引き寄せておくためには、前も少し書いたけど、関心のあることを集めておくことだ。自らの関心に意識的であることだ。そうすると偶然の出会いを見逃さない。すれ違ってしまうことがない。認知空間が自分の周囲に近づいてくるのである。
「Zune HD」はNVIDIA製「Tegra」を搭載--マイクロソフト認める:ニュース - CNET Japanネタ。
昨年の今頃だが、後藤弘茂のWeekly海外ニュース: NVIDIAの携帯機器向けメディアプロセッサ「Tegra」の狙いの記事あり。
毛細管現象は、毛細管が液体に濡れる現象で、ものの濡れには液体の表面張力が関わる。濡れていない新しいティッシュは表面張力によって濡れていく。毛細管を立てた場合には液体の表面張力の垂直成分と重力のバランスで液体が毛細管を上昇する高さが決まる。以下、仮説。
ティッシュの両端が液面についている場合、濡れたティッシュの液面からコップの上端までの距離によって重力の効果の違いが現われ、コップの上端に近い部分の濡れ方のようなもの(簡単に言えば、含む水の量)が変ってくる。言わば濡れ方の不足に違いが出てくる。ミクロに見ればティッシュには濡れ方の勾配みたいなものがある。濡れたティッシュの濡れ方の勾配を作り出すのが重力である。それが毛細管の流れる方向を決める。水の供給源に近い(水面に付いた)よく濡れたほうから十分に濡れていないほうに水は流れる。液面からコップの上端までの距離が長い方が上端付近の濡れ方が少ない。コップの上端でも濡れの勾配に沿って水が移動する。そしてコップ上方から水が供給されれば、当然だが重力に逆らわない方向に流れる。これがポンプ効果の正体だと考えられる。
濡れていないティッシュの場合には単純に濡れる方向に水は流れる。これも濡れ方の勾配に沿って流れるという意味では同じだ。水の供給源のある濡れた方から濡れていない方向に流れる。ティッシュが濡れていない場合には極端な勾配を生じるのでスピードは速い。コップの上端までの距離が短くても、水の供給源がなければ水は流れない。当たり前のこと。そして、逆に濡れるものがなくなれば毛細管現象による水の流れはなくなる。
厳密に言えば、ティッシュの毛細管径・水の接触角はどれぐらいと見積もられるかも重要、ティッシュの銘柄によって違う可能性もないとはいえない。毛細管径と接触角によってどれくらい水が上方に持ち上がるかが決まってくる。深さが1mもある巨大なコップを想定すれば、水自体が上端まで持ち上がらないということもあるわけだ。0.1mm径のガラス管と水を用いた毛細管現象では28cmしか、水面は上昇しない(毛細管現象 - Wikipedia)。しかし、28cmは大抵のコップの高さより十分に高いし、実際のところ、ティッシュはコップの上端で濡れている^^;)
夜7時10分からのワーナー・マイカル・シネマズに車で出かけた。カップルが2/3と家族が1/3という比率。手に汗を握る展開で最後まで突っ走る。終わってもみんなすぐには立ち上がらない。料金が1,200円というのにはびっくり。この不景気、料金はだいぶ頑張っている感じ。
原題は、Terminator Salvation、「ターミネーターの魂の救済」とでもいう意味だろう。これぐらいでネタばらしは止めておこう。おもしろいことは間違いない。表現は過激だから子どもに向いているかは保証できない。特殊効果はILM(Industrial Light & Magic)が中心のクレジット。美術・デザインもどこかで見たことがあるようなものだが、悪くない。これまでのシリーズのようなコミカルな表現はなく、まったく異なるリアリティだ。
機械が非情な悪の存在で、人間の存在を脅かすというという世界は、マトリックスの世界に近いのだが、表現もそれに近くなってきた感じで過激なアクションと描写の中にも哲学的な趣を深めている。続編が期待できそうなので次の展開が楽しみだ。いつまでも機械と決定的に対立していくのか・・・マトリックスも続編を出して欲しいけど。
下記のリンクは映画を見てから、読んだほうが良い。
新作「1Q84」オウム裁判が出発点…村上春樹さん語る : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)ネタ。
新潮社のサイトの「1Q84」の広告では、1984年の意味は、1949年に書かれたジョージ・オーウェルの「1984」が近未来小説であったのとは逆さまに、2009年に書かれた近過去小説であるというのが謳い文句だった。これはおそらくマーケティング上の目眩ましであった。1984年はオウム真理教の創設の年でもあるからだ。
このように考えてみると、1980年代は様々なことが起きたということだ。どの時代だって様々なことが起きているわけだが、ソビエト連邦の崩壊が1987年、ここをモダンの終わりとしようとする考え方もあるぐらいだ。それに比べればオウム真理教事件は日本ローカルな問題かもしれないが、1980年代末からは特にマスコミ的に大きな問題だったかもしれない。「アンダーグラウンド」(1997)、「約束された場所で―underground 2」(1998)のノンフィクションを書いた作家がその時代に遡って考えてみようとするのも不思議ではない。
著作リストを見ていると村上春樹は非常に多作であるとも思えるが、翻訳の多いのにも驚かされる。よく仕事をしているなあという印象だ。
あまりに話題になるし、同時代に生きている作家は大切にしないといけないと思って、2006年ぐらいから村上春樹を調べ始めた。最近はいろいろ購入して齧っている。荒川先生が村上文学の頂点という「神の子供たちはみな踊る」(新潮文庫、2002年;新潮社、2000年)、そして、同じく読みやすい短篇からと「パン屋再襲撃」(文春文庫、1989年; 文藝春秋、1986年)、出発点を知ろうと「風の歌を聴け」(講談社文庫、2004年;1979年)を読んだ。「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫、1997年;新潮社、1995年)はまだ最初の方から進捗なし。「TVピープル」(文春文庫、1993年;文藝春秋、1990;その他雑誌、1989年)は少し読んだ。その他、齧りかけているものには「レキシントンの幽霊」(文春文庫、1999年;文藝春秋、1996年)、「東京奇譚集」(新潮文庫、2007年;新潮社、2005年)、「意味がなければスイングはない」(文春文庫、2008年;文藝春秋、2005年)、「やがて哀しき外国語」(講談社文庫、1997年;「本」連載)、「村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた」(新潮文庫、1999年;新潮社、1996年)がある。
年代順に並べてみよう。
書名 | 発行 | 原著+α |
---|---|---|
風の歌を聴け | 講談社文庫、2004年 | 1979年 |
パン屋再襲撃 | 文春文庫、1989年 | 文藝春秋、1986年 |
TVピープル | 文春文庫、1993年 | 文藝春秋、1990;その他雑誌、1989年 |
ねじまき鳥クロニクル | 新潮文庫、1997年 | 新潮社、1995年 |
レキシントンの幽霊 | 文春文庫、1999年 | 文藝春秋、1996年 |
村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた | 新潮文庫、1999年 | 新潮社、1996年 |
やがて哀しき外国語 | 講談社文庫、1997年 | 「本」連載+後日附記+文庫本附記 |
神の子供たちはみな踊る | 新潮文庫、2002年 | 新潮社、2000年 |
東京奇譚集 | 新潮文庫、2007年 | 新潮社、2005年 |
意味がなければスイングはない | 文春文庫、2008年 | 文藝春秋、2005年 |
「うずまき猫のみつけかた」にジャック・ライアンの名前を見つけて(157ページ)、親しみを覚えた。同時代を生きている作家ならではだ。「・・・作家というのは多かれ少なかれみんなそういうものかもしれないけれども、僕はどちらかというと、字を書きながらものを考えていく人間である。・・・」と自己評価している(「やがて哀しき外国語」、20ページ)。芥川龍之介や太宰治、曽野綾子のようなタイプではないということだ。つまり普通のように見える。
今日は堪らずエアコンのリモコンを探し出して、起動すると、冷房に切替える。東高西低の天気図は変らない。梅雨前線は四国南部に止まったままだ。週刊朝日6/26号に東浩紀氏の連載「ポストモダン化する日記 批評するココロ 7」があるのに気付く。
「『1Q84』を読んでがっかり 変らぬ作風にあえて異議あり」と見出しがついている。さすがネタばらしはまったくなく(内容の具体性にまったく言及せずに書評ができるのは東浩紀ぐらいのものであろう)、安心して読める批評であった。荒川先生の以前の批評も「海辺のカフカ」は従来の作品のつぎはぎに過ぎないというものであった(「文芸時評という感想」、307ページ、四月社、2005年)。「海辺のカフカ」は「ノルウェイの森」、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の構成によく似ているという話は、斎藤美奈子氏の「本の本」(169ページ、筑摩書房、2008年)にもある。東浩紀氏の評に寄れば、どうも「1Q84」も同様の本らしい。
それはともかく、僕はいずれも読んでいないので構成や内容の類似性について語る資格はない。そしてともかく、何を書こうと作家の自由である。こう書くと批評したくてもできなくなってしまうか(^^;)
僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い溝が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。教訓なら少しはあるかもしれない。
(村上春樹「風の歌を聴け」、12-13ページ、講談社文庫、2004年、原著: 1979年?)
今日、6月19日は、太宰治の生誕百年。テレビでも墓参りするファンの姿を映し出し、東浩紀用語を駆使する若い女性研究者?をインタビューしている。若い女性に人気なのだそうだ。現代的な文章で、まったく古くない。フランクな普通の人のようで、親しみが持てるということらしい。火曜日の荒川先生も太宰治を取り上げていたが、何の話だったかもう忘れてしまった。いや、思い出した。年代別に編集した全集物があるらしかった。太宰治は39歳で入水自殺してしまったのだが。50-60歳台向けという編集もあるらしい。
僕は、例によって、中央公論社の「日本の文学 65 太宰治」(1964年)で大昔に読んだことがあるだけだ。これには、ドナルド・キーン先生の好意的で丁寧な、2段組21ページに及ぶ詳細な解説が付いていて、『・・・「日本を舞台にして現代人が書いた小説」という文学的感覚を外国人に与えるものであり、現代という歴史的時期全体の遺産として後世に残るだろうと断言してもさしつかえないと思う』とある。当時、英国などでもドストエフスキーと対比させて評価されていたらしい。現代において読み直す価値がどのようにあるのか、誰か解説してくれるとうれしいかもしれない。
もっとも、松岡先生に聞いても、松岡正剛の千夜千冊『女生徒』太宰治のような具合だから、あまり難しいことは考えられないかもしれない。これを読めばなぜ女性に人気があるのかわかるような気がするのだ。先の「日本の文学」にはこの系統のものは1作品も取り上げられていない。「日本の文学」の作品をリストしておこう。
ついでに、千夜千冊に取り上げられている作品名もリストしよう。
太宰の作品は青空文庫(作家別作品リスト:太宰 治)でも読めるから覗いてみるとよいだろう。「女生徒」の書誌事項のページに、Wikipediaへのリンク(女生徒 - Wikipedia)があるので見ると、松岡先生の書かれているように「女生徒」は代表作の一つらしい。なぜ、「日本の文学」に収録されなかったのか。「日本の文学」の編集委員は、谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、D・キーンの面々。Wikipediaに「女生徒」の発表当時、激賞したとある川端康成の意向が反映される場はなく、解説を書いたキーン先生の方針で構成されたのであろう。
作品に対する好悪や評価などは、個々人の経験や趣味、世界観などによって大きく変化するものだろう。作家がそれほど大きく作風や内容を変えることができるとは考えにくい。なぜなら、読者と同様に作家の世界観の変化や経験の蓄積、関心の変化は簡単には起らないからだ。関心のあることを様々な観点から書き直しているという場合が多い。最近では水村美苗の「日本語が亡びるとき」、「本格小説」、「私小説」などを読みながら思ったこと。太宰の作品は世界を語らせる主体を変えることによって作品を変化させている。徹底した豊富な取材など、作品を量産するためには様々な手法があるだろう。しかし、背景にあるのは作家の経験と知識、それによってもたらされた世界観、一種のパースペクティヴしかないのである。それと書きながら自動的に紡ぎだされる言葉の世界と、・・・言語的創造力と言い直してもよいかもしれないが・・・
『法華経』梵漢和対照・現代語訳 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇(2009年5月27日: 植木雅俊訳 岩波書店 2008)ネタというか、関連のセイゴオちゃんねる: 2009年06月03日 Report 連塾 JAPAN DEEP 3 異能にたずね、異界をさぐるネタ。
次の言葉に打たれた。
いま日本は差異ばかりを問題にしすぎています。でも本来のオリジナリティは“似たもの”を選定するところから生まれます。未知なる菩薩は差異を超えて何かをもたらしているはずなんです。
ちょっと復習してみよう。ちょっと遅きに失したかもしれないが・・・
予想: 中段と下段のコップの液面の高さが同じになるまで水は流れる。
上段のコップの水はほとんど中段のコップに移り、中段のコップに移った水はさらに下段のコップに移りつつある。最下段のコップに移った水の表面に中段から渡したティッシュの下端が触れた状態になっている。中段のコップからの水と下段の水の両方が毛細管現象で上昇しようとする。上昇距離は異なるが、さて、どうなるのか。
ほとんどすべての水は下段のコップに移った。たまたま中段のコップの底の位置と下段に移った水の液面の高さがほぼ一致してしまった。水分の蒸発も考慮しないといけない。
結論: 予想は的中。ムムリクさんの実験の結果(標準モデル結果: つらつらぐさ)と合わせると、すべての水を下段のコップに移すためには、少なくとも中段のコップの底面よりも下段に移った水の液面が同じか低くなるような条件を設定する必要がある。そして、上方のコップのティッシュの下端は底に付いている必要があり、下方のティッシュの下端は上方のコップの底面と同じか低い位置にある必要がある。
実験条件
この実験で上段のコップの水のほとんどを下段のコップに移動させるためには、折り曲げたティッシュの両端が上方のコップの底につくか、底よりも下に位置するような長さにしなくてはならない。そして、コップの段差は十分に大きく取ること。特に中段のコップと下段のコップとの差は上段のコップに入れる水量に依存するが、7分目まで入れるなら、下段のコップの7分目より上に中段のコップの底面が来るようにする必要がある。
おもしろかったのは、折り曲げたティッシュの両端の水面からコップの上端までの距離によって毛細管の流れの方向が決まるということ。距離が短い側から長い側に流れる。長い側の方が重力の影響を大きく受けるからだ。そうだろうなあと思いながら試していたのだが。ティッシュの両端の液面からコップの上端の距離が等しくなると水は流れなくなる。
その特殊な場合が、下方のコップに垂らしたティッシュが短くて水面に付かない場合で、上方のコップの液面が下がり、下方のコップに垂らしたティッシュの下端の位置と同じになったところで水は流れなくなる。
モジラ、「Firefox 3.5」のRC版と正式版の公開予定を発表:ニュース - CNET Japanネタ。
Google ChromeのNative Clientを標準実装したみたいな感じなのかも。ローカルストレージはどのようにして使うのか。Javascriptで書くのかな。
今のところ、Firefoxが便利。いつも使っているアドインが使えないとどうしようもないし^^)
今日は30℃以上に気温は上がったらしい。気圧配置は東高西低で猛暑の気配なのだそうだ。しかし、帰宅時の空には高層の筋っぽい雲が増えていた。サンデー毎日6.21号には「『1Q84』バカ売れ 読まずに済ます村上春樹」なんていう見開き2ページの記事が出ている。読むに読めなくて困るんだけど^^;)
隈研吾の4冊目、『自然な建築』(岩波新書、2008年)。
「流れゆく水」と「亀老山展望台」は「反オブジェクト」に詳しいので、少し簡略化された紹介になっている。建築素材に着目した考察。哲学的な気分も最初の方にはかなり残っているが・・・
自然な建築二〇世紀には存在と表象とが分裂し、表象をめぐるテクノロジーが肥大した結果、存在(生産)は極端に軽視された。どうあるか、どう作られているかではなく、どう見えるかのみが注目された。・・・
(14ページ)
昨晩は、Out Of nOiseを聴きながら、快調なペースで読み進んだ。非西洋と自然な建築は良く似合う。
昨日は雷鳴とともに一時的な豪雨。今日は東京の方がゲリラ豪雨に見舞われているらしい。広島は一転、夏空、筋雲がなくなって雲がもくもくと上に成長している。雲は小さくて迫力はないのだが。メモ書き。
火曜日は日本全国8時ですの荒川先生。今日は太宰治ネタ。生誕100年でいろいろと全集がでているそうだ。そういえば、文庫も太宰のがずらっと並んでいたなあ。
文藝春秋7月号に呉智英(くれ・ともふさ)『復活「朝日ジャーナル」の奇怪』が出ていた。知的虚栄心の雑誌という観点はおもしろかったが、いずれにせよ、どちらもそれほど刺激的ではない。同様に、最近、Webがおもしろくない。刺激がないというか、もうわかっちゃっているというか・・・新しいサイトでも開拓するかな・・・
最近、地図を表示させるのにYahoo地図を使ってみた。地図や航空写真の更新頻度はGoogle Mapより速いから。マツダ・スタジアムがGoogle Mapでは位置さえ表示されない。ユメタウンは地図は表示されるようになったが航空写真はまだない。
本のほうは隈研吾の4冊目を読んでいる。こちらは刺激的かな。後、3冊ぐらいを一緒に捲っている。
機密扱いの『iPhone 3G S』仕様、T-Mobile社がなぜか公開 | WIRED VISION(T-Mobile Accidentally Posts Secret iPhone 3G S Specs | Gadget Lab | Wired.com)のような記事も出ているが、少なくともCPUやメインメモリについての情報は既にIPhone - Wikipediaに載っている。僕の記事(Qualcommの興隆)もWikipediaに拠っている。
出所を探ってみた。AnandTech: The iPhone 3GS Hardware Exposed & AnalyzedやiPhone 3G Sは、Cortex A8プロセッサとPowerVR SGXGPUを搭載か | iPhone 3G Wiki blogあたりだ。しかし、ARM Cortex-A8だとすると、消費電力が低すぎるらしい。
W3C、日本語組版の要件文書を公開 - スラッシュドット・ジャパンネタ。忘れないようにメモっておこう。
グーグル、「Chrome」への「Native Client」実装を目指す方針を発表:ニュース - CNET Japanネタ。
究極の高速化なのだろうが、標準化はどうなるのだろう。
スタジアムが昨日今日と無料開放。昼食を兼ねて出かけた。
ファンタジアでパスタでも食べようと思って出かけたのだが、なんとパセーラへ移転との案内を出して閉店していた。仕方がないので、サティ側に戻ろうとして目に入ったのが「キートン」。カレーもいいねと入ってみた。亀屯と書く、つぼやきカレーの店。皿にドーナツ型のライスが置かれ、小さな鍋からカレーをかけて食べる。うまい。サラダは遅れて出てきたが、なかなかおいしい。飲み物はヨーグルト系のドリンクを選択。呉市の広に本店があるらしい。広島市内にもいくつかチェーン店がある。
平和大通りから鶴見橋を渡って比治山トンネルを抜け、広島サティの北側を通る道を段原通りを越えて進んで左折すると平和橋方面につながる。平和橋の北側にスタジアムが見えてくる。
南詰めから東側、猿猴川下流を望む。今日は満潮だった。
平和橋を渡って進むと正面ゲート付近につながる。
寝そべって見れる「寝ソベリア」付近から
食べながら見る「ウッドデッキ席」付近から
広島駅方面からなだらかなスロープが上部フロアのメインゲートに向けてつながっている。むろん、エレベータや階段もある。
Aardmanネタ。今日、GHIBLI 熱風が届いた。2009年6月号、特集「ベーカリー街の悪夢」公開記念、ウォレスとグルミット。
何も言うことはない。見るべし。まずは、Aardmanのサイトを。
安藤日記: iPhone x ADs @ Puzzle Houseネタ。iPhoneがコンピュータとして使えることを素直に納得できるネタ。
iPhone 3G Sのスペックを見て、とうとうモバイルデバイスにPCが載ったねと思った。Appleは常に最先端を走っている。iPod touchの進化版の発表はいつになるのだろうか。Jobsの快気祝いに取ってあるとか^^)v
ガラパゴス化しないようにしたいものだが、環境の影響は受けざるを得ない。しかし、どのようなことが可能になっているのかについてはアンテナを張って受信しておくことが必要だ。最近、1TBのHDDが8000円と聞いてそれは一桁違うんじゃないですかと言ったものの、帰宅して調べるとぎょえーとなってしまった^^;)
『フィギュール』ジェラール・ジュネット 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇ネタ。今回から旧仮名遣(歴史的仮名遣)になったようだが・・・
曾野綾子が「新潮45」2009-06号の「作家の日常、私の仕事」第9回「自然風の樹形」に書いている。
私の場合、短篇は、ほとんど一瞬で、書くことが見える。ほんとうに一瞬なのだ。机の前に坐っている時に見える、とか、本を読んでいる時に見える、とかいう因果関係もない。或る時見えるから、それでもう書けたも同然になる。後は頭の中にある創作された世界を書き写すという作業が残っているだけだ。
モーツァルトが曲の全体(構造)を一瞬のうちに聞き取ることができたという話に良く似ている。後は楽譜に書き写すだけだ。
そういった小説にしても楽曲にしても、一種の構造を持つ作品の生み出される関係性のようなモノというか、コトというか、そういうものが生成する空間の作り方のようなものが大切なのかなと思う。それは努力して得られるのではなくて、天才にだけあるものかもしれない。しかし、方法論的に近づくことはできるだろう。
テクストの恣意的多様性といっても、物語を生み出すためにはその素材が配置され、関連付けられる必要がある。素材を集めて関連付けていくと次第に意味のある集合が形成されていく。集合同士の相互作用が生じ始める。そういう様々な素材、集合が配置され、さらに関連付けられ、一瞬のうちに全体を見通せるような集まりを生み出せるような空間が必要である。
フィギュールはfigureのフランス語読みだが、全体を見通した姿の現われのようなことをいっているのかもしれない。
【後藤弘茂のWeekly海外ニュース】 次世代PSP2までの長期戦略が見えるSCEの「PSP go」ネタ。補足ネタが出たので、さらに考えた。
モバイル・コンピューティングの現実はどうかを調べていくと、Snapdragon(TM), Qualcomm Snapdragon(TM), QCT Snapdragon(TM) - QCTConnect.comにぶつかった。SnapdragonはARMをベースにして設計された低消費電力の高速(GHz)CPU。この上で、Windows MobileやAndroidなどLinuxベースのOSを走らせることができる。
PSPのCPU(1-333MHz)と64MBのメモリのままでは戦えないだろうというのがPSP2へ向けての予測である。さて、どうするのか興味津々であるが・・・当然、Android WalkmanはSnapdragon搭載になるのだろうなあと思う。まさか、PSPをSnapdragonに移植中とか^^;)そうすればPSP-Walkmanの統合は完結する。
このようにして、通信から出発したQualcommがCPUメーカーとして存在感を示し始めた。iPhone 3G SのCPUもARM系だが、600 MHz ARM Cortex-A8である。メモリは256MB。東芝から今年後半に発売されるSnapdragon搭載のマシンも256MBとされている。Appleの次の動きも興味津々かも知れない。Steve Jobsの復帰も楽しみだ。低消費電力が今後のキーとなるに違いない。デスクトップでさえも。爆熱PCのファンの騒音を聞きながらそう思う。
【後藤弘茂のWeekly海外ニュース】 「PSP go」は「PSP2」までの中間ステップかネタ。
いつもと違って切れ味が悪い^^;) PSP Goのスペックと価格でiPhoneに対抗できるわけがないというか、iPhoneとPSP Goではまったく用途が異なる。PSP Goはあくまでゲーム機だ。その用途でのみiPhoneに対して優位性がある。iPhoneは電話機であり、各種センサー付きコンピュータだ。ゲームは付け足し。比較にならない。
僕の読みは、Android搭載ウォークマンケータイがiPhone対抗製品として登場するということである。ケータイ抜きのAndroidウォークマンも有り得る。
PSP2が出るとすれば、PS3のモバイル版ということだろうというのが、冗談の先走った予測だったわけで、Webブラウザがまともに動かないPSPの現在のスペックがベースならコンピュータにはならないだろうと思ったからだった。しかし、そんなものが、2-3万でできるわけがないから、Android搭載ウォークマンが現実的な解だろうと思う。
デジタルコンシューマーにとってダウンロードに価値があるとすれば、UMDを省いたPSPやゲームの低価格化にあるので、PSP Goが買い替えの対象となる可能性は低いのではないかと思われる。手持ちの現行機種でもダウンロードできるし、ディスプレイが小さくなるのはグレードダウンだからだ。新規ユーザーの購入を期待しているにしても、ゲーム機として比較するのは、19,800円のPSP-3000か18,900円のDSiになるから、少し苦しい感じだ。コンパクト性を重視するか、Bluetooth用ヘッドセットを使いたいユーザーが対象だろう。
今日は梅雨らしくよく降ったが、夕方にはほとんど止みかけ。明日は晴れるらしい。書き始めないと始まらない。「反オブジェクト」よりも「負ける建築」のほうが出版は遅いが、書かれた時期は重なっている。「負ける建築」は「新・建築入門」(1994年)の後の1995年以降の文章を集めて、2004年に出版されている。「反オブジェクト」は1998年から書き始められ、2000年に出版された書き下ろしである。「反オブジェクト」のほうが統一感があるが、「負ける建築」のほうが衝撃は強いかもしれない。千夜千冊に取り上げられているのもそのせいだろう。三冊ともそれぞれ時代が色濃く反映されている。
それぞれの目次を並べてみよう。
新・建築入門
建築は物質から逃れることができない。それが問題だ。物質から逃れる方法はテクノロジーしかないのか。物質との格闘、構造化が建築なのである。
反オブジェクト
ここに、反オブジェクト、反建築の概念が生まれてくる。
負ける建築
抽象的ではなく、現実との関わり合いの中で建築を見つめた書。
【PC Watch】 【WWDC 2009】【速報】Snow Leopardが2009年9月発売に 〜Macbook Proのアップデートも、【PC Watch】 【WWDC 2009】【基調講演続報】iPhone 3G Sの詳細ネタ。
残念ながら、Jobsの顔が拝めなくて、株価は少し下がったようだが、悪くないねという感じの結果だったように思う。予想通り、iPhone新機種にはコンパスが搭載されたが、iPadは出なかった。
Snow Leopardへのアップグレードが29ドルというのがよい。Macに乗り換えるかと考えさせられる。Vistaが売れなかったのは高すぎるからだ。もちろん、重いことや、グラフィックスボードが必要だったりすることもあるが。
PowerPCを捨てたということで、もうCellの芽もなくなったということかな^^;)もうCPUで差別化することができなくなった。むしろIntelの生態系を利用するほうが効率が良いということだろう。
さて、爆熱マシンも5年目だからなあ。経済環境が好転すればねえ・・・
今朝の日本全国8時ですの荒川洋治氏の話題は「1Q84」ネタで、漱石と村上春樹が似ていることを語ろうとした。その意図は完全に失敗だったが、村上春樹は夏目漱石に対比すべき位置づけなのである。もっとも、荒川氏は「海辺のカフカ」以降の作品については批判的だったはず。「1Q84」の上巻は既に読まれたらしいが、考え直されたのだろうか。
もちろん夢タウンの奇異国屋書店でもとっくに売り切れで、未だに無名犬も銜えて出てくることはできない。「1Q84」は1984年を意味し、QはQuestionを意味するであろうことまでは誰でも想像する。バブルの時期であり、ポストモダンが流行した時期である。さて、どのような物語なのだろうか。想像をさらにたくましくしてじっくり待つかな^^;)みなが忘れた頃に読もう。村上春樹贔屓の内田先生は読むのがもったいないぐらいおもしろいと、1Q84読書中 (内田樹の研究室)を参照。
日経6月7日号、文化部、舘野真治署名記事「活字の海で」、『雑誌休刊が物語る虚無 「大航海」「国文学」も・・・』ネタ。いずれも読んだことはない雑誌だが、終刊となる。「大航海」は「現代思想」や「ユリイカ」の編集長であった三浦雅士氏が編集長なのだそうだが、15年で終わりを迎えた。いろいろ仕掛けても反応が薄いというのが最近の実感だそうだ。「国文学」も1956年創刊の古株。大昔は「現代思想」と「ユリイカ」はセットで毎月買っていた。シリン・ネザマフィの「白い紙」を読もうと「文学界」の6月号を探しに出掛けた時に「大航海」を見掛けて何か面白そうな雑誌だねとまでは思ったが、買わなかった。昔は知識に対する飢えのようなものがあったと思うが、今は飽食状態であるからかも知れぬ。昔は同じ本を繰り返し読んだ。
吾輩は猫である(中央公論社「日本の文学 12 夏目漱石(一)」、1964年)だとすれば、深層には何があるのか。三浦は端的に「世界の変容」と語る。「経済が文化の下部構造という位置づけを超えて全面化し、文化は顧みられなくなった。この地殻変動の衝撃はあまりにも大きく、あまりにも深刻」
三浦の見方によれば、人が生き方の規範や価値、知的な楽しみを活字メディアに求める時代は過ぎ去った。・・・
そうかな。そうでもないかもしれない。うーむ・・・
いろいろな意味で興味深い坂本龍一の新しいCD。
日経の5月2日、文化欄にインタビュー記事が出ていて、「ルールから自由、公式のない音楽、非西洋にたどり着く」と紹介されていた。確かに最初のhibariは循環しているようで終わりがない。
Out Of nOiseの簡易パッケージパッケージレスCDという名前が付いているが、プラスチックのトレイにCDが固定され、紙の表紙と小さな裏表紙で挟んでPPの薄い袋に収納されていた。1,980円也。フルアートワークのものは限定生産で、4,500円。
日経産業新聞で見掛けたので、調べた。The Printed Blog | Homeネタ。これは凄いね。そのまんま、ブログを載せた新聞。PDFはダウンロードできるので、どのようなものかよくわかる。Jacek Utko: newsdesignに継ぐ、驚き。まったく別種の驚きだが・・・
The Printed Blogアイデアだねえ。大判の雑誌に近い感じ。今年1月27日創刊でVol1, No.16だから、実際のところ週刊誌である。目標は朝刊と夕刊を出すことだそうだ。地域に密着した記事を掲載する方針が基本的にあるらしい。各地域版がある。ニューヨーク、ロサンジェルス、サンフランシスコとシカゴ。シカゴで創刊しただけあって、シカゴには4種もある。
ロケーションを任された人が自分で印刷して自分で配る。なるほど、おもしろい。誰もが出版社・印刷所になれる時代だからこそ実現したことだろう。潜在的なものが表出し始めた。インターネットというメディアを媒介にして。
坪内祐三著「雑誌ジャーナリズムは死なない 歴史を体感し振り返ることができるのが雑誌---だから今こそ雑誌が必要なのだ。」(新潮45、2009年6月号、68-74ページ)ネタ。
大谷山荘に向かう前に新潮45を広島駅で購入。養老先生の「百年に一度を愉しむ」に惹かれたのだが、まだおもしろい記事が残っていた。
つまり、文書資料だからこそ、歴史を、その同時代性と共に把握することができるのだ。
そのために雑誌はまだまだ、いや今こそ、必要なのである。
バブル時代に雑誌は広告主導型になった。バブル崩壊後もその構造に変化はなかった。今回の大不況によって遂にその構造が壊れようとしている。それはとても健康的なことだ。
パソコンのおかげで、レイアウトを含め雑誌は安く作れるようになった。ネットによって独自の宣伝販売も行える。となると二万部雑誌であってもその売上げ実績だけで採算がとれるだろう。
いよいよ雑誌の時代がやって来た。
(74ページ)
細かな話は別にしてある意味正しい。文書というポータブルな物としての実体は必要だ。思考のすべてをPCの画面で完結させることは困難だからだ。雑誌出版事業の広告モデルが壊れようとしている。情報はデジタル化され、検索できる。すべてはインターネットに集まる。広告も同じだ。それがGoogleのモデルだ。新聞・雑誌の紙媒体やテレビ・ラジオの放送からデジタル化できる部分はインターネットに移動する。
既にその兆候は見られるが、コンテンツは印刷物という物とデジタル化した情報媒体との二重性を獲得するようになる。放送はマスメディアとしての生放送機能と受動的な媒体としての便利さを理由として生き残る。放送は過去の記憶と再放送あるいはビデオ媒体としての二重性を時間経過と共に獲得する。
雑誌の時代はやってきたか。我田引水。確かにTSNETスクリプト通信は創刊一周年(第5号)を迎えた。二万部も出れば大儲けかもしれない^^;)v まあ、今のところ無料だけど・・・電子媒体だから実現できたことだ。出版費用は限りなく0に近い。編集ソフトウェアにはOpenOffice.orgとGimpを使わせてもらっている。自分の記事の編集作業を含めて、一晩、徹夜という労力は必要であるにしても好きでやっていること。1台のWindows PCとインターネット接続環境さえあれば、配布サイトの維持費用は年間5,000円に過ぎない。でも赤字か^^;)
しかし、インターネット時代こそは、雑誌・新聞の時代かもしれない。Webパブリッシングは始まったばかりだ。まだ、何が出てくるかわからない。もっとも印刷物販売ビジネスとしての雑誌の時代かどうかは定かではない。
WWDC会場にバナーが出現--iPhoneおよびApp Storeの新発表を示唆か:ニュース - CNET Japanネタ。
「1年後、光年の先の先を行く。」という意味だろうが、光よりも速く進めるか。楽しみだね。
Steve Jobs氏の復帰は間近か - 米WSJが関係者の話伝える | パソコン | マイコミジャーナルも楽しみの一つだが・・・Steve Jobsのプレゼンが見たい^^)
帰宅時の外気温は18℃。雨が降ったり止んだり。PSP go、日本では11月1日発売 2万6800円:ニュース - CNET Japanネタ。
うーむ。過激な予測ネタ(PSP-4000, or PSP Goとa media pad = iPad!?)は完全に空振りになったのでなんとも言い難い^^;)うーむ・・・
無名犬PlayStation Store on Media Goうーん、わん、わん。
主人かすりもしなかったね^^)
無名犬まあ、あのスペックはね。実はこれから出てくる、AppleやGoogleのAndroid搭載のNetBookなどの新機種のスペックを想定したものなんだね。これまでのPSPの枠組みの中では難しい。PSP Goはゲーム機に止まることを決断したということだろう。ちょっと肩透かしかなと思った。ソニーのモバイル機器に関して次の注目点を言えば、Android搭載のウォークマンがどのような新機軸を打ち出せるかだろう。
主人Media Goのほうはどうなんだい。
無名犬そうだねえ。既にダウンロードしてPSP-1000を含めた現行機種で使えるが、かなり良くなっているとは言えても、iTunes対比で見れば画期的とは言えないだろう。動作が軽くなったので、快適に使えるようになった。デザインはiTunesに似ている。
PSPは無線LAN経由でPodcastを定期的に自動ダウンロードする機能を持っているが、このような機能は潤沢な保存用のメモリを持っていることが前提となる。1GBのメモリスティックなどではまったく足りない。同様にMedia Goと連動させるにしてもメモリは必須なのだ。16GBのフラッシュメモリを内蔵するPSP GoはいわばiPod化なのだが、ゲーム機としてはUMDをはずし、しかも7,000円高額な価格設定となっている。UMDの記憶容量は1.8GB。原理的にはUMDを取り替えれば無限のゲームを使えるわけだが、16GBの容量でゲームのダウンロードには限界がある。もちろん、メモリスティックマイクロに保存できるかもしれないが、コスト的な問題が出るだろう。
音楽、ソフトウェア、ゲームの流通がiPod(iPhone)/iTunes/iTunes Store(App Store)の成功によって様変わりしそうな雰囲気だね。新聞やテレビなどのマスメディアが変革を迫れているように、デジタル情報にできるものは、すべてインターネットで流通するようになる。形のある秤で重さを計れる物のみが、従来の流通経路に載ることになる。それも宅配で済むものも多くなるだろう。
GPSやデジタルカメラ、ワンセグチューナーなどは接続できそうにもない。PSP Goは軽量携帯プレーヤー、PSP-3000が併売というのは頷ける話だ。ただ、PSPのハードウェア拡張が内蔵レベルでできる範囲に止まっているうちはあまり魅力的とはいえないのだが・・・
PlayStation StoreからのダウンロードはPSPのUSB接続を要求し、直接PSPにダウンロードする。無線LAN環境さえあれば、PSP単体でStoreにアクセスできるのだから、最終的にはMedia Goとの間でゲームの出し入れをすることを想定しているのかもしれない。しかし、データの出し入れは、iPod Shuffleのような記憶容量の小さなプレーヤーでは必ず起ることだが、操作としては煩雑なことになる。原理的には購入したものを繰り返しダウンロードできてもよいのだが。SCEアメリカ発表会速報のビデオがPS3のものを最初はダウンロードして再生できずあれあれと思ったら、二度目の接続ではPSP用のものが出てきた。PSP-1000をつないでダウンロード・再生してみたが、なかなか鮮やかなものだった。
PS3 Linuxをインストールして以来(遅れてきたPS3 Linux)、game-osには戻っていなかったPS3もkboot:ps3-boot-game-osとしてPS3として再起動。最新バージョン2.76にアップデートして、PlayStation Storeに接続する。PSPで見たビデオやゲームのコマーシャルを眺める。ファイナルファンタジーXIVの高精細映像には驚く。ゲームも映像としては映画と変らないようなものになったのだなあと実感させる。触ってみてもいいかなあ。
PSPで「RESISTANCE 報復の刻」のデモ版をインストールして試す。なるほどねえ。なかなかおもしろいかも。
ジャチェック・ウツコは問う「デザインは新聞を救えるか?」 | Video on TED.comネタ。
ポーランドの建築家が新聞のアートディレクターとなった。最近は建築家によく出会う。
紙媒体には紙媒体の存在の仕方が必ずあるはず。
PCの横にぶら下げている寒暖計の温度が28℃を示している。爆熱PCが唸りを上げ始めた。6月は夏だから気温が高いのは当たり前。しかし、蒸し暑さはそれほどない。梅雨前線が離れているせいか・・・まだ、エアコンを点けるほどでもない。
5/30-31は、ほぼ徹夜明けの状態で美祢線を一両の電車で走り、無人の長門湯本駅を降りて、大谷山荘にいた。
美祢線沿線初日は雨。飛び散った土で汚れた窓からでもズームで撮ればなんとかおもしろい写真が撮れた。美祢(みね)線は厚狭駅から長門駅までの単線。読み方が変った名前の駅が多い。厚狭(あさ)、湯ノ峠(ゆのとう)、厚保(あつ)など。しかし、地名は仮名漢字変換で簡単に出てくる^^;)
隈研吾の「新・建築入門」を湯の中で読んでいた。
この指摘は構築というものの、ある本質をついている。構築はひとつのまとまりを作ろうとする行為ではあるが、逆にまとまりすぎてしまってもまた、いけないのである。安定しすぎてはいけないのである。構築とは不安定なものと、安定したものの中間に存在する。そして混乱したものと秩序のあるものの中間に存在する。むしろ構築とは時間的な概念であるといったほうがいいかもしれない。極端な言い方をすれば、不安定なものから安定したものが生成される、その一瞬にだけ構築というものは存在する。混乱したものの中に秩序が打ち立てられる、その一瞬だけ構築と呼ぶことが許されるのである。
(隈研吾著「新・建築入門 - 思想と歴史」、ちくま新書、1994年、65-66ページ)
「新・建築入門」は隈研吾の「反オブジェクト」(筑摩書房、2000年;ちくま学芸文庫、2009年)の前の主要な著作である。出発点なのかなと思う。このあと、千夜千冊に取り上げられた「負ける建築」(岩波書店、2004年)、「自然な建築」(岩波新書、2008年)が出ている。
完全無欠のものはおもしろくない。すこし、つながりがギクシャクした感じ、足りない感じ、逆に過剰な感じ、そういったものがある、動的な不均衡な部分が世界に向かって開く。これは、一種のフラジャイルにつながるのではと思う。
TSNETスクリプト通信第5号でました: つらつらぐさネタ。はやくもアナウンスをいただいた。毎度ありがとうございます。
Ruby consoleはRubyのPathを設定して、コンソールが起動される。おそらく、そうかなと思っていましたが、基本を学ぶにはコマンドプロンプトと思って、試さなかった^^;)確かに1.9.1を併用するような場合には便利ですね。ただ、PowerToysでOpen Command Window Hereなどを使う(僕は大体そこから起動する)場合には、そういうわけにもいかないし、コマンドプロンプトでの使い方は学んでおく必要がある。主で使うほうにはパスを通しておき、もう片方はフルパスで起動する。その他、コメントをいただいたので参照のこと。
第5号は、創刊一周年記念号でもある。80ページの大部になった。しかし、こういうことでもないと勉強しない。人間、楽に流される。まとまったことを書くことがドライビング・フォースになる。日記だけでは足りない。日記は生活と一緒だから、楽すぎる。何でもありだから。
結局、Webさわり会議でRailsについて話したことだけではつまらなくなって(実際、つまらない^^;)、後の雑談会で出たCatalystはどうなんですかという問いも後から気になってしまって答えようと思ったし(その時はもう忘れていたのだが、実は昨年の8月に一度インストールしたのだ)、同時にプレゼンのあったCakePHPも試した(これは正真正銘の初めて)。ということでインストールネタ+αにはなったかな。さて、次稿はどうしようかなと思う。次回はPythonについて書くよと言ったし、フレームワークの続編をModelを含めて書くとも言ったし、まあ、そんなところでまた何かハイブリッドな話を書くだろうと思う。Googleはもう遠くに飛び去っていて、MVCフレームワークの話も古臭く感じさえする。プログラミング手法よりは、何を作るのかのほうが、まず最初にくるべきかもしれない。
既に機械さんは次回作に取り掛かっているようだ。時間城年代記:TSNETスクリプト通信第5号を参照。
Yささんの「TDD(テスト駆動開発)のすすめ」を読み直して、テストとは一種のモデルなのかなと思った。モデル駆動開発という言葉もあるわけだけど、MVCフレームワークとの関連もでてきそうかな。
海鳥さんは忙しくて、「よしおさんとロボ太」の新作が間に合わなかったそうだ。在庫は十分なので^^)v ごゆっくりと・・・
TSC編集委員会にて「進化する第6号」の原稿募集中。8月刊行予定。
【詳報】Google Waveとは何なのか? − @ITネタ。
最近、Picasaについているフォトビューアを組み合わて使いながら、新聞や雑誌などのページを撮影したものをメモとして蓄積・閲覧するために大変便利だと悦に入っている。iTunesと同じくらい素晴らしい。こうなると次第に個人でプログラミングする意味を問われてくるなあと思う。便利すぎる。PicasaのAPIを使えば、自分流のカスタマイズさえできるのかもしれない。調べてみないとね・・・
Google Waveもまた興味深い。しかし、関連記事には、Webは開発プラットフォームとして機が熟した、グーグルCEOが講演 − @ITとグーグルが賭けるHTML 5の未来 − @ITがある。いずれの記事もここまで来たんだよねと思わせるリアリティがある。Google Chromeのパフォーマンスと未来の記事の延長線上にある話。
やはり、Javaを勉強すべきか^^;)