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日記: Text World | 脳髄の日記 | 第四の日記 | jscripter's Twitter | Facebook | Myspace(記事抄録や関連メモ: コメントはこちらにどうぞ)

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3/30/2017 (Thu.)

マフラーはもういらないかな。N氏を乗せて帰った。花見の話になった。週末はまた寒くなるとか。しかし、もうすぐ満開だろう。明日、プロ野球も開幕。帰宅して、Facebookを見て、少し焦った。人工知能は「機械同士で会話する」独自の言語を覚え始めている|WIRED.jpが見えたからだ。グーグルの翻訳AIが「独自の言語」を生み出したといえる根拠|WIRED.jpFacebook、45言語の自動翻訳に対応(と、その先に描かれている世界)|WIRED.jpが芋ずる式に引き出された。この次につながっているのが、『WIRED』VOL.19 「ことばの未来」|WIRED.jp

images/2017/03/CIMG5844m.JPG「WIRED Vol.19」、「考える人 2017年冬号」、「日経サイエンス 2017-05」

チョムスキーを超えようとして争っている場合ではない。機械が人間を超えるかもしれないのに。まあ、それは半分ぐらい冗談だけど。

チョムスキーを超えて 普遍文法は存在しない | 日経サイエンスの「用法基盤モデル」(usage-based model)を調べた。用法基盤モデル - Wikipediaには、「生成文法というシンタクスを自律的と考える言語観とのアンチテーゼと考えることもできるが、むしろ伝統的な言語研究の上に立つモデルとして捉えることも可能である」とある。「言語学の新風」と言えるほどのものでもないのでは。

それはともかく、著者名で調べると、日経サイエンス、2017年5月号の「チョムスキーを超えて 普遍文法は存在しない」(Paul Ibbotson & Michael Tomasello, Language in a New Key, Scientific American 315, 70 - 75, 2016)の記事の大元は、The roots of language | Paul Ibbotson and Michael Tomasello | Science | The Guardianにあるらしいことがわかった。「the gardian」2015年11月5日の記事だ。この記事からは参照文献も辿れる。

参照文献を見ながら、よく考えると、「the gardian」の記事は、時期的に見て、How Could Language Have Evolved?(2014)への反論として書かれたように見える。なるほど。[言語] 十夜一冊 第千百八十.二夜 エッセイ: How Could Language Has Evolved?も参照。その後、Why Only Us | The MIT Pressが出版され、On the Evolution of Language: A Biolinguistic Perspective(September 24, 2016)のインタビューが公開される。今回の記事はさらなる続きなのかもしれない。

簡単にいえば、学習だけで言語が獲得されるという考え方で、至極当たり前とも言える話だが、結局、人間の学習自体、脳という生得的構造が前提となるわけで、生得的構造をあまり否定しても意味がないんじゃないかと思うけど。

考える人5月号の特集「ことばの危機、ことばの未来」に池澤夏樹氏の「ことばは変わるからおもしろい」というスペシャルインタビューが置かれている。

言葉というのは生きて動いてきたから、それをひとまず定着させようとして、いつも標準的な使い方や、その時々の辞書の定義で固めるのだけど、すぐそこからするっと逃げ出す。言葉の歴史はその積み重ねだと思います。そういうダイナミックなつかまえ方ができたらおもしろい。

たとえば、漢文が中国からやってきたときに、漢字に訓をつけて無理やり日本語にしてしまう。この発想はすごいですよね。今後はそこに返り点を打って読む順番を変えてしまう。そうすると、この訓読みプラス返り点というのは、実は自動翻訳装置です。語彙を知っていれば誰がやっても読めるようになる。この自動翻訳装置ができたために大量の漢文の典籍をみんなが読めるようになった。それが明治以降の西洋語との一番大きな違いでした。

(21-22ページ)

チョムスキー先生に言わせれば、こういう話は言語の外在化の問題だと言うことになるのだろう。「思考の言語」の普遍的文法の部分と外在化の表現としての文法があるような気がする。十夜一冊 第千百八十.一夜 思考の言語 (01/05/2017)も参照。

更新: 2017-03-31T21:27:44+09:00
3/27/2017 (Mon.)

日経サイエンス5月号が届いた。ちょっと読んだだけでは、論旨がわからない。「子供たちは多目的に使える汎用認知ツールを用いて耳にした言葉から文法カテゴリーと規則を作り上げる」という「用法基盤モデル」が「新しい別の見方」らしいのだが、確かに見方が違うので、単純に比較できないと思うからだ。

images/2017/03/CIMG5843m.JPG日経サイエンス 2017-05「チョムスキーを超えて 普遍文法は存在しない」と「言語のレシピ」

ちょっとゆっくりと記事を味読、読解したい。ベイカー先生は様々な言語を研究して、多様な言語の中に普遍性を見出している。もっともっと研究が必要なことはチョムスキー先生もわかっている。「用法基盤モデル」がどんな理論なのかを正確に知りたい。

3/26/2017 (Sun.)

昨日、平和公園から元安橋を通るブックカフェの帰りに本通りの電車通りの交差点で、W氏と別れ、本通りを久しぶりに通り抜けて、中央通りの丸善・ジュンク堂書店に向かった。

images/2017/03/CIMG5830m.JPG元安橋から原爆ドームを望む

なぜって、いつもなら、広電に乗って帰宅するのだが、日経サイエンスを手に入れたかった。日経土曜版の1面下の日経サイエンス5月号の広告に「特集 言語学の新風 チョムスキーを超えてほか」とあったので、見逃せない、できるだけ早く読みたいと思ったのだ。3/25発売なので、おそらく広島で入手は無理と思ったが、確認すべく向かった。日経サイエンスのサイトが落ちていてつながらなかったから、情報がなかった。今日もつながらない。チョムスキーを超えて 普遍文法は存在しない | 日経サイエンスの検索結果だけはあったから、チョムスキー先生、一大事と。

今日、日本ではどうも話題になっていないようなので、英語(Scientific American)を調べた。Evidence Rebuts Chomsky's Theory of Language Learning - Scientific Americanの本文は全部読めないので、Is Chomsky's Theory of Language Wrong? Pinker Weighs in on Debate - Scientific American Blog Networkをざっくり調べた。昨年の11月の記事。Pinker先生はChomsky先生を一応守っているようだ。まあ、明日には日経サイエンスが届くはずだ。議論の詳細がわかるだろう。

4ヵ月経過して、chomsky.info : The Noam Chomsky Websiteに反応はないね。大したことない可能性大かな。

結局、日経サイエンスは手に入らなかったので、コンピュータ書籍売り場に向かう。JavaScript関係の書籍をチェック、今年出たEthan Brown著、武舎広幸・武舎るみ訳「初めてのJavaScript」(オライリー・ジャパン、2017年)を見つけた。他のものは2013年出版のものがほとんどだ。「第3版、ES2015(ES6)対応、ES2015以降の最新ウェブ開発」とある。英名は「Learning JavaScript」。中味を見るかぎり、初心者向けとは言えない。対象読者にも初心者は含めていない。

とにもかくにも新しい。しばらくJavaScript本を買っていなかったので、最新の情報が欲しかったのと、気になっているNode.jsのインストールが前提という部分、正規表現が大きく取り上げられていることも動機になった。「JavaScript 第6版」(2012年)では正規表現に13ページしか使っていない。こちらは25ページも割いている。全体のページ数が倍半分も違うのに。「JavaScript 第6版」はNodeについてはまだ触りだけしかなかった。

images/2017/03/CIMG5834m.JPG「初めてのJavaScript 第3版」と「JavaScript 第6版」

近年、購入していたJavaScript本は、次の二冊、2013年、2014年に出版されている。「JavaScript: The Good Parts」が2008年刊行。

images/2017/03/CIMG5836m.JPG「JavaScript Ninjaの極意」と「シングルページWebアプリケーション」
更新: 2017-03-26T22:57:24+09:00

昨日、Uluruで13:00-15:30で開催。今回は新たにN氏とA氏が参加され、残念ながらY氏が急遽出張で欠席。後はいつものメンバー、S+W+J、合わせて5名の参加。前日のLINEで伝えられたY氏の感想も途中でW氏から読み上げられ、浮世のことはすっかり忘れて盛り上がった。

2016年、角川ソフィア文庫。2000年に阪急コミュニケーションズ(現CCCメディアハウス)から「まなざしの記憶 - だれかの傍らで」として、単行本が出ている。

著者の鷲田先生は、専門の「臨床哲学」という言葉が語っているのかもしれないが、わかりやすく、含蓄の深い話を次々と紡ぎ出している。植田先生の写真を直接説明するような話ではない。写真は写真で独立しているとも感じられる。どちらも人間の関係性や存在性を捉えている。人間の関係性や存在性を解きほぐす(「身をほぐすということ」)。写真のほうは広い空間の中に被写体を演出して捉える。そこには「間」があり、ユーモアがある(「間ぬけの正ちゃん」)。演出の度合については、ほとんど偶然に捉えたと思える写真もあるが、瞬間の空間の切り取り方は演出を感じさせる。植田正治写真美術館がある。

S氏がおもしろいことを言ったような気がした。他者存在、他者あっての自分、他者との関係から、自分の輪郭を取り出すような表現があるというようなことだったか・・・うーん、今見直すと、これは100ページ(「身をくるむものを失って」)にある話だったかな。71-73ページ(「心のたなびき」)の村上龍「ラブ&ポップ」には、話し合うことによって、お互いが必ずしもすべてを理解できるわけではない、話し合っても理解できないと、むしろ関係が悪くなる場合がある話に同感されていた。

W氏は、25ページ(「顔の渇き」)の、顔の露出は都市の巨大化と関係があるという話に着目された。そして、顔の表情という話に展開された時、A氏は顔色を読みとって、コミュニケーションを円滑にしようというNVC(Nonviolent communication)というマーシャル・B・ローゼンバーグのメソッドを紹介された。The Center for Nonviolent Communication | Center for Nonviolent Communicationを参照。その他、W氏からよそ行きの表情、東浩紀の「弱いつながり」についても言及もあった。

また、W氏から、「ネット時代になり、情報を調べることは意志さえあればだれもができるようになった。新しいフェーズに入っているのに、世の中の仕組みが追いついていない」との指摘があった。世界の知識レベルの平準化が進んでいるのは間違いなく、それが大きく世界を変えつつある。無論、ネットを使って問題を解決するためには、すくなくとも言葉が読めて理解できることが必要だが、そういった基礎的な知識の基盤を作り出すことが、教育の主たる目的になっていくのかもしれないと思った。

情報がネットやSNSによってふんだんに得られるようになり、しかも常につながるような時代になっている。それも一種のビジネス・社交場のようなものになっているので、私的なつながりで癒されるということにはなりにくい。A氏からネットにつなげない日を何日かに一回は設けているという話があった。W氏によれば、「digital detox」というものがあるらしい。デジタル環境から解毒するという意味らしいが、固有名詞は商標として使われているようだ。Digital Detox(R) LLC. - Disconnect to Reconnectを参照。

N氏は人間の関係性やつながりの一体性に関連して、舞踏に興味を持たれているそうで、太極拳も1年間学ばれたそうだ。社会のフィールドワークの専門家でコミュニティづくりを研究されている。調査事例など興味深い話を教えていただいた。

僕は、202ページ(「ホスピタブルな夏」)にある「歓待=ホスピタリティ(hospitality)」と「敵意=ホスティリティ(hostility)」という言葉がラテン語の「客・異邦人(敵)=hospes」から来ているということに注目した。敵・味方に関係なく、歓待して和ませるという感じもするし、余り気持ちを込め過ぎても、応答がなければ、恨めしい気持ちになって逆効果になる場合もあり得る。歓待が敵意に裏返されることもあるわけだ。S氏から介護の場におけるホスピタリティという観点から、羽田圭介氏の芥川賞受賞作「スクラップ・アンド・ビルド」に言及があった。経験があるわけではないけど、介護も敵意に転換されるということがあるのかもしれないという指摘。

写真という芸術の関係から、前回、話題になったゲルハルト・リヒターの写真から作品を制作するという話が浮上。前回のブックカフェで購入した「ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論」を紹介。写真から制作する絵も、写真の被写体に意味を求めているのではなく、あくまでも絵を描く行為の一部。抽象画に近い。S氏からの解説もあり。W氏はバスキアやアンリ・マルタンの絵への興味を語った。S氏からは、アート プロジェクト - Cultural Instituteを教えてもらった。もう凄いことが世の中では進行していた。Google Arts & Culture

さて、次は、4/29(土)、12:00から。課題図書は、W氏からオーストリアの作家、トーマス・ベルンハルトの「ある子供」。その他、お勧めとして、富松保文著「アリストテレスはじめての形而上学」。

更新: 2017-03-26T15:53:48+09:00
3/25/2017 (Sat.)

少し音量を絞って、昨晩から流している。成熟した大人のロックが心地よいBGMとなる。ギターも何もかもがかっこいい。もちろん、Apple Music。

Apple Musicでは2015年のアルバム、すべての曲が聴けないのが不満。聴けないのは、52曲中2曲だけに過ぎないけど。AllMusicのDiscographyのAlbumsには含まれていない。コンピレーションだから。

AmazonのPrime Musicから、抽選でギフト券プレゼントのメールに気づいて、応募するためにPrime Musicを同じアルバムで聴き直し始めた。PC上のChromeからPrime Musicを再生できる。Apple Musicでは再生できない2曲もPrime Musicでは再生できるが、Japan Delux Editionではないので、トータル33曲しかない。「言葉と物」を読みながら、全部、聴いた。お風呂で一休み。

続けて、Claptonの「461 Ocean Boulevard(Remastered)」(1973年)を聴きはじめた。日を跨いでいる。最近は目も見えるし、夜遅くまで起きれるようになった。まあ、いいことだ。さて、明日はNHK杯棋戦は決勝戦だろう。そろそろ寝ようか。でもいい雰囲気だね。アルバムのジャケットに海は見えないけど、南国の青い海と空をゆったりと眺めている感じ。余裕が肝心^^)/

ちょっと調べると、アルバムのジャケットは、Claptonのマイアミの自宅。461オーシャン・ブールヴァード: ろくろくロック夜話を参照。Claptonの歴史や曲目の解説も読むことができる。ヤードバーズやクリームの名前は聴いたことはあるけど、1960年代の伝説だろう。

クリームは2005年に再結成されているし、ヤードバーズもライブ録音などで聴くことができるようだ。

更新: 2017-03-26T07:50:34+09:00
3/24/2017 (Fri.)

言葉と物」シリーズを見直すと、2010年、174回で一旦中断し、1年後ぐらいに「言葉と物」再読プロジェクトを開始したが、「言葉と物 2.0」は2回、1ヶ月程度で再中断、何度か言及しながらも現在に至っている。しかしながら、本格的に再開する価値がありそうだと思い始めた。

木田元先生の、19世紀から20世紀への世紀転換思想史である「マッハとニーチェ」のお蔭か、18世紀末から19世紀初頭の古典主義時代から近代への転換を描いた第二部を読み始めると頭に入り始めた。登場する人名のうち、ソシュール、ニーチェ、ラッセル、フロイト、フッサールは19世紀後半から20世紀に掛けて活躍した人々であり、ニーチェ、フロイト、フッサールは「マッハとニーチェ」にも登場する。

いつのまにか、とっつきにくいと思っていた内容をスムースに読みとれるようになっていた。憑りついていた付箋も、どの部分を指し示そうとしたのか、付けた当時のことが思い出され、意味が読み取れる。一概に無駄と思う必要はない。さらに読み進めよう。最後は第一部に戻ろう。

古典主義の時代から近代へと、言語と物の関係がどのように変化したのか、しうるのか。フーコーの言うことを深いレベルで捉えなおすこと。言葉と物の関係だけでなく、言葉も変化したのか。何がどのように変化したのか。具体的に。

・・・そして、古典主義時代の知の実定性が解体し、われわれがたぶんまだそれを完全には脱けだしていない新たな実定性が成立するためには、まさしくひとつの基本的な出来事---西欧文化に起こったおそらくもっとも根源的な出来事---が必要だったのである。

今日のわれわれは、この出来事の大きな部分を把握することができずにいるが、それはおそらく、われわれがまだこの出来事の拡がりのなかにあるからなのだ。この出来事の規模の大きさ、その影響のおよんだ深い地層、それが転覆させ再構成しえたあらゆる実定的諸領域、それがわずか数年でわれれの文化の全空間を踏破することを可能にした至上の力、これらすべてを評価し測定するためには、まさにわれわれの近代性の存在(エートル)そのものにかかわる、ほとんど際限のない調査にまたなければなるまい。・・・

(「言葉と物 第七章 表象の限界 一 歴史の時代」240-241ページ)

「実定性」という用語は馴染みがないが、事項索引にあって、訳者がどう訳しているかが示されている。次のサイトの記述も参考になるだろう。事項索引にあることをこのサイトで知った。灯台下暗し。

「ほとんど際限のない調査」を待たなくとも、一つの解釈はフーコー自身が示している。それで意味があるかどうかは別にして、何が言いたいのかはわかるだろう。

・・・そこはただ、秩序の空間から逃れでたゆえにある種の形而上学から解放されたものの、いまや<歴史>の存在様態のなかにとらえられたがゆえに、<時間>、その流れ、その曲折に身を委ねることとなった、ひとつの哲学を認めればこと足りるのだ。

(同上、240ページ)

第一部からのストーリーも再再出発にあたって、示しておこう。第二部の冒頭部分。

十八世紀の末葉は十七世紀初頭にルネッサンスの思考を破壊したそれと対称的な、ひとつの不連続によって断ち切られている。十七世紀はじめには、相似を包みこんでいた大きな円環状の諸形象が分解して破れ、同一性の表(タブロー)が展開するのを可能にしたのだが、いまやこの表も解体し、知はさらに新たな空間に宿ろうとしているのだ。・・・

(同上、237ページ)

さて、今日も日を跨いだ。第七章の「表象の限界」、第八章の「労働、生命、言語」を読み直して、手書きのメモを、小さなノートに4ページ取った。この三日間ぐらいの話だ。

一昨日(昨日?)の帰宅時外気温は14-12℃。昨日(今日?)の朝の外気温は8℃、帰宅時は13℃。今晩、iTunesのプレイリストを調べていると、「今週のWIRED: Art of Listening Weekly」を見つけた。

更新: 2017-03-25T17:16:06+09:00
3/21/2017 (Tue.)

サイエンスを現代に欠かすことはできないのは事実だが、サイエンスを現代社会がどのように受容して、社会の問題解決に役立てるか、あるいは使いこなせるかどうかは別問題である。今、19世紀の科学の進展をマッハ哲学を通し、振り返って見ようとしているが、現代に立ち返ってみると、サイエンスの進展をむしろ忌避する心情・見方が存在することも事実である。

前田英樹先生のように、大工仕事や稲作農業を尊び、それこそ人間の生きる道である、回帰しようという考え方も出てきている。現在や未来の地球社会において、それが実際、成り立つような現実的な解かどうかはまず置いておくとしても、ある意味、本質をついているのかもしれない。

少し考えてみたい。が、今日は日を跨いだ。おやすみなさい。to be continued...

images/2017/03/CIMG5816r1m.JPGWIRED Ideas + Innovations Spring 2017 Vol.27

WIREDは美しい雑誌という表現が似合っている。年6回刊が4回刊に変るとはいえ、こんなに丁寧にデザイン・編集すれば、確かに時間が掛かるだろうと思う。そして、「Wired Library of Science」には「科学が苦手な『WIRED』編集部がこの号を作るために一生懸命読んだ13冊の本が飾られている。僕が持っているのはそのうち一冊だけ、ファイヤーベントの「知についての三つの対話」(村上陽一郎訳、ちくま学芸文庫、2007年)。他の本も欲しいのだけど。

images/2017/03/CIMG5817m.JPGWIRED Vol.27、94-95ページ

左側の94ページには、縦書きで「フンボルトとゲーテ 科学と詩の蜜月」、『フンボルトの冒険 自然という<生命の網>の発明』<第2章 想像力と自然>より抜粋、アンドレア・ウルフ著、鍛原多惠子訳が配置されている。

実を言うと、75ページから『「フンボルトの冒険」の著者、アンドレア・ウルフに訊く』、「Web of Life」、「わたしたちはフンボルトの眼から世界を新しく見つめなおすことができる」という記事が展開されている。

右側の95ページ、「Wired Library of Science」の最初のページに一冊目、山本義隆著「磁力と重力の発見」(みすず書房)の全三巻が美しく並んでいる。

おそらく、この雑誌から物語がいくらでも溢れ出てくるだろう。今、「フンボルトの冒険」を注文してしまったし・・・

更新: 2017-03-21T21:02:23+09:00
3/19/2017 (Sun.)

風のない散歩日和、今晩から本格的に散歩を再開しようということになった。30分掛けて、速歩でいつものルートを一周してきた。今日はP氏のツイッターで、日経土曜版44面の文化欄にあった、鈴木理策という写真家の交遊抄、「一目ぼれ」のフランス文学者、前田英樹が話題になった。

images/2017/03/CIMG5809m.JPG日本経済新聞、2017年3月18日、土曜版、44面の文化欄

写真左下のほうに「交遊抄 一目ぼれ」が見える。右の文化欄には「熊楠 万物融合の知」、「生誕150年、シンポ・関連本相次ぐ」、「神秘性と実証性 世の現象に迫る」の見出し、『シンポジウム「宇宙大の熊楠」でパネル討論する中沢氏(右)ら』の写真がある。本文には、ブックカフェ4で取り上げた中沢新一著「熊楠の星の時間」も関連本として記載がある。


月に一回、一緒に酒を飲む。『「有名になると堕落する」などという。「じゃあどうすれば?」と聞けば「孤独でいることだ」。相変わらずかっこよくてほれ直してしまう。』鈴木理策氏は、15年ほど前に雑誌の取材で、この12歳年上のフランス文学者に一目ぼれしたのだそうだ。

前田英樹氏が有名ではないかというと、そうでもない。前田英樹 - Wikipediaもあるし、これを見ていると、「沈黙するソシュール」(講談社学術文庫、2010年;原著: 書肆山田、1989年)も前田英樹の著作だったことを思い出した。

images/2017/03/CIMG5813m.JPG「独学の精神」、「ソシュール講義録注解」、「沈黙するソシュール」

「独学の精神」(ちくま新書、2009年)は次のWEBの記事に通じている。

一箇所だけ、引用しよう。

――人間は選択肢を作り出したことで、自由の幅が広がったといえないでしょうか?

前田:たしかに人間は行動の選択肢を多くもっています。しかし、選択は身体を出発点にしています。身体を抜きにした、単なる情報だけでは、そもそも選択することができない。

実際、経験するのは、情報に基づいて選択できるはずの選択肢が見えたとしても、現実問題としては、物理的、時間的、経済的に自分自身だけでは選択できない選択肢がほとんどであるということだ。ほとんど何もできない。そういう無力感に捉われることも多い。それが「単なる情報だけでは、そもそも選択することができない」ということになるかもしれない。情報を収集するのは、それ以前の問題だが、こちらのほうは現代においてはかなり容易になってきている。ある意味、全能感に近いものが存在し得る。もちろん、存在しない情報は得られない。前に進むためには、そのような情報は何らかの方法で作り出す・生み出す必要がある。

ただ、これまでも何度か同じことを書いたが、情報は集めすぎると無意味になる。読み切れないからだし、情報を整理することが目的ではない。単に整理することは必ずしも意味に通じない。ここが難しいところだ。

上のオンライン記事の身体論は、どういった範囲について拡張して考えることができるかも含めると大変おもしろいと思う。身体を出発点とするということをどう捉えるかという問題がある。小林秀雄に通じるところもある。小林秀雄の対話集「直感を磨くもの」(新潮文庫、2014年、底本は小林秀雄全作品)の最初、三木清との「実験的精神」がある。三木清の次の言葉がある。

近代人の弱さというのは、新聞を読むね。新聞に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。それだのに、ひとの事が出ていると誰でもそれを信ずる。そういうところに近代人の欠陥がある。ものにぶつかって究めるということが少ないわけなんだね。

(「直感を磨くもの」、17ページ)

今日のところは、ここらへんで、to be continued...

追記: 2017-03-20、春分

「世界は分けてもわからない」(講談社現代新書、2009年)という福岡伸一先生の著書があるが、「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書、2007年)の最後の第15章のタイトルは「時間という名の解けない折り紙」である。その中に「生物は機械ではない」という一節もある。そして、「解くことができない折り紙」という節には次のように書かれている。

生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。・・・

(「生物と無生物のあいだ」、271ページ)

生物そのものではないが、人間の知能について、マービン・ミンスキーの考え方にもある種の極限的なものを感じる。人間の知能は蜘蛛の巣の中の関係に例えられるが、蜘蛛の糸の絡みを解きほぐすと意味がなくなる。そういうことを前提に、心が心でなくなる要素(エージェント)にまで還元して説明することを提案している。チョムスキー先生の言語理論も人間の生得的な生物学的構造を前提として、それが生みだすものを追求している。いずれの考え方においても知能の構造や言語を生み出す生得的な構造がわかっているわけではない。

「ものにぶつかって究めるということ」はどういう方法になるのか。それが問題である。

「独学の精神」の中から一箇所だけ引用しておこう。第四章「農を讃える」の「日本文化の原理」という節から。

・・・自然の循環に生命を浸して生きる農の感覚は、日本の文学や工芸を貫く原理であり、それはそのまま、物を恵みとして大切にする道徳にも、米を育てる季節の巡りに神の「事依さし」を聞く信仰にもなっている。こうした事情は、めったに口にされない。理屈を言い募る者同士の争いは、祭の生活には何の益ももたらさず、根本的に無意味なことでしかない。

このことを、最初に思想の言葉で徹底して述べたのは、もちろん本居宣長である。宣長が、これを述べるために一人で払った思索の努力は想像を絶する。が、述べてみなければ、仰々しく観念的な大陸文化への従属、依存、あるいは感情的な反発、逃避から、みずからの学問を厳密に断ち切ることはできなかっただろう。宣長の場合、学問の独立は生命の最も深い独立を意味した。また、その独立は、植物的生命の自足した永遠の循環と一致していた。彼は、この循環を「神(かむ)ながらの道」と呼んだのである。

(「独学の精神」、191-192ページ)

最後に、目次も残しておく。何が書いてあるのか、少しは予想が付くだろう。人間が平和に生きるための方法も書かれている。

更新: 2017-03-20T21:48:19+09:00

十二 「うまい店」はどううまいのか | 随筆 小林秀雄 | Webでも考える人 | 新潮社ネタ。WEBは豊かになった。有用な情報がふんだんに手に入る。それをすべていちいち取り上げると一日中日記を書くようになる。適当にしないと・・・池田雅延著「随筆 小林秀雄」、「本居宣長補記II」に関連した話なので取り上げた。

「本居宣長」読解を忘れたわけではない。見直す、ちょうどよい機会だ。

過去の記事を辿りなおしてみると、いろいろと宿題が残っている。それは回りまわっていずれ取り上げることになると予感している。

ネタ記事の次の部分を読んで、取り上げる気になった。

小林秀雄は、この宣長の説くところを精しく読んでいき、――私達は、生き物として、色欲食欲の強い力から誰も逃れられはしない、歌もその発するところを尋ねて行けば、この生活の根柢にある欲望に達せざるを得ない、あたかも万人に肉体があるが如く、誰も持っているこの尋常な欲望を離れて歌もなければ道もない……、と書き、そこから再び人間の知の領域の所産と思われている歌(和歌)と言葉の問題へと向かうのである。

19世紀の初頭にフーコーは現代の人間が現れたという。それは西欧の話だろう。日本はどうだったのかも考えてみる必要はあるだろうと思っているわけだ。元々、本居宣長を取り上げたのも「言葉と物」シリーズにおいてである。日本の言葉の問題を考える場合、本居宣長を欠かせない。

更新: 2017-03-19T21:34:36+09:00

シリコンバレー101 (699) スマイルカーブ化するカメラ市場で笑うSnapchat、苦戦するカメラメーカー | マイナビニュースネタ。Snapのメガネ・カメラ (02/25/2017)の続き。

製品を組み立てる部分には付加価値が少ない。川上のR&D、デザイン、素材や部品、川下のサービスやアプリ、マーケティング、ブランドなどに価値がある。川上から川下への付加価値のカーブがスマイルカーブなのである。

ビジネスが成功するかどうかは、どれが欠けても成り立たないが、少なくとも出口に近い川下がキーを握ることは間違いない。素材や部品も成熟化すれば価値が低下するが、それは川下の価値も押し下げる。結局、最後の付加価値のキーになるのはR&Dやデザイン、そしてサービスやアプリなのだ。

Snapchatはカメラメーカーではないだろうとも思う。それぐらいでないと斬新なアイデア・デザインはできない。鳶に油揚げを攫われたと思っているメガネ・カメラメーカーやベンチャーは多いのでは。しかし、この成功がどこまで拡がるかが問題だと思う。

なぜカメラメーカーはカメラ機能のプログラマブル化(API化)、あるいはモバイルPC化を思い切って進めないのだろうと僕は思っている。カメラをロボットとして捉えることができるようにする必要がある。カメラの使い方を多様化するためには、もっとも有効な方法である。

と思って、「Camera Robot」で検索すると、World's Smallest Portable Camera Robot, 2017 CES Winner by Amaryllo International - Kickstarterが出てきた。これそのものがよいかどうかは知らないが、手軽に使えるプログラマブル・カメラを出してもらえるとありがたい(^^)言っておくけど、高価なカメラは止めといてよ^^;)

更新: 2017-03-19T14:43:39+09:00

昨日(3/18、土)、日経の第6面の右隅に「アマゾンの音声API iPhone向け提供」という見出しの短い記事が出ているのに気付いて驚いた。「オースティン(米テキサス州)=兼松雄一郎」とある。最近は、新聞の速報性が高いことを裏付けている。

images/2017/03/CIMG5808s.JPG日本経済新聞 2017年3月18日 第6面 「アマゾンの音声API iPhone向け提供」

もっとも、僕も最近はフィードをあまりチェックしていないから、Facebookのフォロー記事に頼ることが多い。重要だと感じた記事はTwitter経由で記録も兼て、少しコメントを付けてFacebookにも送り込む。今朝は、Amazon invades smartphones in war over voice-controlled computing - Business Insider(Rob Price署名, Mar. 17, 2017, 8:42 AM)の記事を、Gmailに配信される「Business Insider」(日本のサイトはBUSINESS INSIDER JAPAN|ビジネス インサイダー ジャパン)のメールから見つけた。

メールのタイトルだけで、すぐに昨日の日経の記事だとわかった。一般的なWEBのニュース、Cubeから見える記事には出てこない。

iOS/AppleのSiri、Android/GoogleのGoogle Assistantを搭載したデバイスに、Alexa/Amazonのアプリを送り込み、すべてを支配しようという戦略だ。こういった戦略が原理的に可能になるのは、ハードウェアやネットワーク、クラウドの高性能化によるものだろう。

Amazonは自社のハードウェアにあまりこだわらない。Alexa/Echoは成功しているそうだが、当然それがすべてではない。KindleとFireタブレットも少しずつ進化させている。こういったハードウェアにもいずれAlexaが搭載されていくだろう。Voice-controlled computingが簡単にコンピューティングの主流になるとは考えにくいが、これも徐々に進化し、浸透していくのだろう。

本当にAmazonスマホ「Fire Phone」は失敗作なのか1週間ほど試してみて分かったこと - GIGAZINEの次があるはずだと思っている。最近、AndroidのChromeからAmazonで書籍を初めて購入した。ブックカフェで話題に出た本をその場で購入を決めたからだ。なんのことはない、最早、どのデバイス環境にいてもAmazonを使えるのだ。

3/18/2017 (Sat.)

「考える人」HTMLメールマガジン、711号のタイトルが「23年の偉業」だったので、誰の話だろうと開いてみると「考える本棚」が「クローズアップ現代」の国谷裕子氏の「キャスターという仕事」(岩波新書)を取り上げていた。これは読んでみたいと思いながら、Webでも考える人 | 新潮社を訪れて、雑誌「考える人」休刊のお知らせ | Webでも考える人 | 新潮社を見つけた。

images/2017/03/CIMG5804m.JPG「考える人」創刊号(2002年夏号)から2015年春号『特集「数学の言葉」』

季刊誌15年のうち、全部で12冊購入している。


「Plain living, high thinking」というワーズワースの詩の言葉は心を打った。しかし、19世紀の始め、産業革命の最中、そういう生活がなくなったことを嘆いているのだが。日記を書き始めた2002年当時、WEBでワーズワースの詩を調べることができたことに驚いた記憶がある。現在の更新日記記事のスタイルの走りだった。調べて書く。書いて、また調べる。繰り返し。

先のWIREDの年6回刊が年4回刊への縮小につづいて、「考える人」の休刊。「雑誌市場が加速度的に縮小する中、季刊雑誌として維持することが困難となり、創刊から15年の実績をもって一定の役割を終えた、ということにより休刊が決まりました」とのこと。読者がWEBなど、他のメディアへ転換していることが理由だけであれば仕方のないことだけど。「フォーサイト」はだいぶ前にWEBに移転したが、新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイトとして継続されている。

新聞もかなり急激に落ちているみたいだが・・・1年間で97万部減、1世帯当たり部数は0.78部まで減少…新聞の発行部数動向(2017年)(最新) - ガベージニュースを見ると2007年以降加速度的に新聞購読も減少している。iPhoneが登場して、スマホが普及して以降のことになる。

産経わずかにプラス、読売900万部割れ、朝日は2.6%の最大下げ率…新聞の販売部数などをグラフ化してみる(2016年後半期・半期分版) - ガベージニュースの後の方に、日経電子版の有料会員数が2017年1月時点で50万人を突破したことが示されている。

紙からWEB(ディスプレイ)への流れはどこで止まるのだろう。

更新: 2017-03-18T15:13:26+09:00
3/16/2017 (Thu.)

昨日、白くなっていた山頂は普通の色に戻っていた。雪に違いなかった。今朝も県北は零下のようだ。-2〜-3℃。ずーっと付箋について考えている。いろいろな付箋を使ったが、コンパクトな3MのPost-it、スリム見出し(ミニ) 715RP-Kを最近では愛用している。

ただ、既に述べたように、その機能は関心のあるページの箇所をマークするだけだ。無論、色や貼り方でその箇所の分類は可能だが、すぐ忘れてしまうし、一貫性のあるマーキングは経験上、よほど意識しないと難しいと思う。そして、色はすぐ足りなくなって、方法は破綻する。本を読みながらではマーキング全体の計画は立てられないのだ。読む前にどれだけのマーキングが必要かは予測できない。

images/2017/03/CIMG5801m.JPGカワイイふせん活用BOOK

images/2017/03/CIMG5800m.JPGカンミ堂のピコットフセン

先日、フジグランナタリーのTSUTAYAで見たのは、SUTTO(スット)とPENtONE(ペントネ)だった。カンミ堂の製品で、SUTTOは文房具屋さん大賞2017の機能賞を受賞していた。

上記の写真の右ページにあるピコットフセンはスマホの写真をQRコードでリンクできる付箋。もう販売終了している。

同様の方法で本の引用ページ箇所から日記の関係記事などのURLにリンクさせることはできる。一つのアイデアではあるけど、静的であまり創造的な価値はない。

見たページの箇所を自動的に引用するとか、うーん、やはりモバイル・ハンディ・スキャナみたいなのがおもしろそうか。

もっと良いアイデア・・・

3/15/2017 (Wed.)

今朝、五日市高架上から山の頂上付近が白く覆われているのを見た。極楽寺山、窓ケ山山頂付近。雪だろうね。日本全国八時ですは天気予報の森田さん。伊勢正三の「なごり雪」が話題になった。その年の最後の雪のことを「名残の雪」と言うらしい。「なごり雪」は辞書に載っていないのだそうだ。東京も今朝は雪になる可能性があったらしい。

今年はまだ寒い。巨大な雲の層が北から風に押し流されて、スローモーションのように広島市上空に入ってきた。今は晴れているようだが、外気温6℃。明日は最高気温13℃、最低気温3℃。まだ寒そうだ。

更新: 2017-03-16T19:53:54+09:00
3/14/2017 (Tue.)

さて、マッハの話の展開上、上げておく必要がある。僕がミシェル・フーコーの著作で最初に購入したのが、中村雄二郎訳「知の考古学」、1978年の六版(初版は1970年、原著は1969年)。2012年の慎改康之訳を新訳としておそらく34年後に購入して、さらに5年後に真剣に読み直し始めたところ。

images/2017/03/CIMG5799m.JPG新旧訳「知の考古学」

まあ、to be continued...にしておこう。後は小数点の夜で・・・

そうだ。思い出した。545夜『知の考古学』ミシェル・フーコー|松岡正剛の千夜千冊へリンクを張っておこう。

そして、一応、引用したかった部分を残しておく。

・・・すなわち、これらの相異なった系(セリー)の間で、いかなる連関の形態が正当に記述されうるか? それらの系は、いかなる垂直的なシステムを編制しうるか? それらの系相互の間の相関関係と支配の働きは、いかなるものか? なにゆえにさまざまなずれ(デカラージュ)[転移]や、相異なった時間性、さまざまな残存(レマナンス)がありうるのか? いかなる明確な総体(アンサンブル)[集合]のうちに、いくつかの要素は、同時的に姿を現しうるのか? 要するに。ただ単にいかなる系ではなく、いかなる「系の系」を、換言すれば、いかなる「図表(タブロー)」を構成しうるか、ということである。包括的記述(デスクリプシオン・グローバル)は、あらゆる現象を、唯一の中心---原理、意味作用(シニフィカシオン)、精神、世界像、総体的形態といったもの---のまわりにまとめ上げていく。が、一般史のほうは、逆に、分散の空間を展開していくであろう。

(旧訳、I 序論、20ページ)

マッハの著作を見ずして、何かを語れないかもしれないが・・・さて、、、もっとも、フーコーがマッハについて言及したことはなさそうだが・・・

ここで、木田先生の「マッハとニーチェ」に戻って、マッハの思想についてさらに感性から次のステップに進めると、次のようになる。1894年の「物理学における比較の原理について」の講演。

・・・この<記述>ということについてさまざまな誤解の生ずることを懸念して、その意味を正確に定義しようとしている。

それによれば、われわれは直接的な感性的経験から出発しながらも、言語による伝達を通してそれを他者の経験と比較して抽象的概念を形成し、それによって事実の「直接的記述」をおこなう。直接的記述とは、「ある事実についての純粋に概念的手段だけを用いる言語的伝達」のことを言うのである。だが、無限に豊かな事実をすべて直接記述するのは大変な労苦である。その労苦は、ふたたび比較によっては未知の事実に結びつける「間接的記述」(たとえば「月は、地球に向かって惹かれている物体と同じような動き方をする」といった記述)によって軽減される。理論や理論的諸概念はすべてこの間接的記述に属する。

(「マッハとニーチェ」154-155ページ)

なるほど、次第にマッハの凄さが見えてくる。感性的要素一元論に止まらない。フーコーと比較するまでもなかったか・・・

更新: 2017-03-15T21:43:42+09:00

今日は少し寒い。今、室温は20℃あるけど。松岡先生の言を見ても、マッハは重要な気がするので、少し細かく見ていこう。

たしかにマッハも、<感性的諸要素>を世界の究極の構成要素だと主張する。だが、これは、世界をこうした要素の単なるモザイクに解体しようということではない。感性的諸要素はけっしてバラバラに孤立して現れてくるのではなく、つねになんらかの<函数的相互依存関係>の項として捉えられる。マッハの視線は、つねに要素を包み込む<全体>へ向けられているのである。

(「マッハとニーチェ」125ページ)

構成要素間に相互作用がないと考える方が、変な感じもするけど。オブジェクトに変数だけが並ぶことは稀だろう。必ずメソッドが存在するように。変数の相互作用を規定するのがメソッドである。ただ、そういう言い方も足りない。現実はもっと複雑だからだ。そういったことをどこまで、哲学が記述しているのか、マッハを通して、もう少し見ていきたい。

更新: 2017-03-15T20:53:46+09:00
3/13/2017 (Mon.)

さて、今日の帰宅時の外気温13℃。暖かくなった。夜の買い物ついでに散歩。

images/2017/03/CIMG5796m.JPGセブンイレブン・広島県立大学前交差点

images/2017/03/oboro_1440x1200mc.png思いきり朧月

暗い球状星団の写真みたい・・・



3/12/2017 (Sun.)

ようやく、Timelineを改造して、過去に遡れるようにした。2015年12月までeventデータも作っておいた。もちろん、過去と現在を行き来できる。

これもストーリー・ボード・プロジェクトの肩慣らし、あるいは実験ということもできる。インターフェースは、タイムラインに表示された記事のタイトルをクリックすると、記事へのリンクと要約(記事の最初の段落)を表示したウインドウがポップアップする。

おそらく、ストーリーボードで動作するAtomを拡張したデータを作るか、XMLよりももっと簡単に切り出せる拡張データを生成するかなどが選択肢になるだろう。

REIMSをランスと発音する。フランス北部の県。というところまでは、Wikipediaで調べていた。ランス (マルヌ県) - Wikipedia参照。ランス美術館 - Wikipediaには、藤田嗣治 - Wikipediaの作品が多く所蔵されている。

images/2017/03/CIMG5793m.JPGひろしま美術館、「ランス美術館展」、快晴

images/2017/03/CIMG5795m.JPGひろしま美術館、「ランス美術館展」、チケット・パンフ・展示リスト

17〜18世紀、そして、近代の幕開けを告げる19世紀初期から20世紀まで近代の作品が展示されている。ミシェル・フーコーの「言葉と物 - 人文科学の考古学」(1966年)は、この期間の変化を捉えている。「序」から引用しよう。

ところで、この考古学的調査は、西欧の文化の<エピステーメー>のなかに、二つの大きな不連続を示してくれた。ひとつは、古典主義時代の端緒となるもの(十七世紀中ごろ)、もうひとつは、十九世紀初頭のわれわれの近代性の発端をしめすものである。

(「言葉と物」、「序」、21ページ)

美術においては、第一章「侍女たち」で、ベラスケスの「侍女たち」(1656年)をながながと論じていて、要約することもむずかしい。が、人物群であり、様々なものが描きこまれた複雑な絵であるが、個々の人物を見れば、簡単に言うと、写実的な絵であるということだと思う。これは17-18世紀のランス美術館所蔵の肖像画と類似している。ディエゴ・ベラスケス - Wikipediaを参照。

18世紀の終わり、「近代の幕開けを告げる革命の中から」という副題のもとに、最初に示されたのは、ダヴィッドの「マラーの死」(1793年7月13日以降)である。マラーの死 - Wikipediaを参照。これ以降、19世紀から20世紀初頭まで、新古典主義から印象派に至る絵が示される。レオナール・フジタの絵は、それらの流れとは別の20世紀の絵である。

十九世紀初頭の近代性の発端を見せてくれる展覧会なのかもしれない。確かに絵は現実をそのまま写し取るものではなくなっていく。肖像画の人物の顔には表情が出てくる。これがなぜ近代なのか、現実から形象や色彩などを抜き出して再構成して新しい意味をもたらしていく。現実の持つ要素を分解して取り出すという意味では科学的な操作ということはできるかもしれないが、絵としては写真的ではなくなる。ある意味、形態的、色彩的には曖昧なものになって、現実は変形されていく。

さて、今日は「言葉と物」の上記の引用部分が頭に入っていて、絵を見ながら面白い感じがした。これからも、問題意識を持って見ることができるだろう。

更新: 2017-03-13T19:33:27+09:00

昨日、阿品台に走っている時、ラジオを聴きながら、そうだ、今日は3月・・・11日だ、3.11だということに気付いた。東北大震災から6年経った今でも、12万人以上の方が避難生活を送られている。日ごろ、そのことを忘れがちだ。

復興の努力が様々なレベルで続いている。グランドデザインがないという話も出ていたが、日本全体にグランドデザインがあるのかという問題もありそうだけど。それは世界全体についても言えることかもしれない。

それはともかく、日経日曜版は、『復興「切れ目なく支援」』と首相が追悼式典に出席したことを報じている。

images/2017/03/CIMG5786r1m.JPG日本経済新聞、3/11土曜版(下)、3/12日曜版(上)

他には、土曜版、韓国は朴大統領罷免、南スーダンPKO撤収など。日曜版、ビッグデータを知財として保護、「極右政党、欧州に烈風」など。残念ながら夢がない。

「NIKKEI The STYLE」は19面、「The STYLE/Life」の『「これは禅だ」ボウイは京都でつぶやいた』がよかった。1980年に写真家の鋤田正義さんが京都で撮った写真が何枚か掲載されている。なにが、「禅」かについては記事を参照のこと。大回顧展「DAVID BOWIE is」が東京で開催されている。東京は文化的には恵まれている。鋤田さんの作品は1977年の「ヒーローズ」のジャケットに使われているそうだ。

現在、やはり日経が読みたい新聞であることは間違いない。一般紙と較べても存在感が高い。最早、単なる経済新聞ではなくなった。

更新: 2017-03-12T13:11:56+09:00
3/11/2017 (Sat.)

昨日の帰り、風が吹くと少し寒いが、春の空気に変ったと感じた。春の気配。帰宅時外気温は11℃。数日前は一度だけだが、朝、外気温低下注意のメッセージが出る3℃まで下がったが、しばらくすると6℃まで上がっていた。「Story Board Project」、いつもながら完成しないプロジェクトを考えている。

「哲学の関心が存在論にあるか認識論にあるかで、その時代の趨勢を語ることができる」という高山宏先生の言を思い出していたのだが、何処に書いてあったのだっけと本を探し始めるという始末、いやー大変だ、冷静になって日記に書きつけていないはずはないと探して見つけた。「近代文化史入門 超英文学講義」は電子書籍だから、感覚刺激による物理的実体記憶が極めて希薄だ。02/17/2017: [本] 十夜一冊 第千二百十一夜 高山宏著「見て読んで書いて、死ぬ」の記事に記録していた。

物理的実体のある紙の書籍も、しおりやポストイットのマーキングだけでは、どこに何が書いてあるのかを迅速に探すのはむずかしい。ポストイットが増えるとほとんどマーキングは無意味になる。

存在自体がすぐ忘れ去られる電子書籍は検索できるところは特に素晴らしい。

images/2017/03/CIMG5781m.JPG「言葉と物」に憑りついたポストイットらとKindleの検索結果画面

これからお出掛け、to be continued...

追記: 出掛ける時は外気温17℃。コートは一応持って出かけたが。阿品台まで一走り。例によって待ち時間、フジグランナタリーに降りて、TSUTAYAで本と文房具を物色。ポストイットなどの付箋を眺めながら、何かいい方法がないか、いろいろと考える。物理的実体と人間の記憶、コンピュータを結びつける方法。

Amazonの付箋ストアは400ページもある。これを探せば面白いものがあるかもしれない。IdeaGridのようなタブレット上の付箋という考え方もあるが、それでは物理的実体とコミュニケーションができない。

物事には多様な要素が混在している。絡みあっている。コンピュータで取り扱う場合には、オブジェクトとその属性やメソッドの組み合わせで考えればよい。コンピュータ上ですべてを完結させるだけなら、ある程度容易だろう。コンピュータ外界の物理的実体をコンピュータと自動的に相互作用させようとするとむずかしくなる。人間が介在すればそれほど難しいことではない。人間が介在するとしても、物理的実体のある、なんらかのマーキングを媒介する方法を考え出してみたいと思っているが、おそらく簡単ではないだろう。人を介在させるのであれば、本の内容の一部を引用したり、外界を写真などで捉え、メモや感想などと一緒に記録すれば基本的には済む話だ。本日記でやっているような方法になる。ストーリー・ボードはなんらかの方法で作ったオブジェクトを自在に関連付けて渡り歩く仕組みだ。

もう少し自動化を進めたい。それも知恵を使って合理的に機能的に・・・合理的とは何か、機能的とは何か、それが問題だ・・・それを探り出すのが本日記の役目だ。

更新: 2017-03-11T22:09:56+09:00
3/10/2017 (Fri.)

157夜『マッハ力学』エルンスト・マッハ|松岡正剛の千夜千冊(2000年10月25日)には次のように書かれている。

ここではヒューム、カント、ショーペンハウアーを批判的に摂取して、時代を変える思想を準備しつつあるマッハの狙いが、言葉は少ないのだが、よく見える。それが頂点に達するのが、フッサールの『論理学研究』と一戦を交えるところであろう。

このマッハとフッサールの“知の戦争”を、その後に誰かが本格的に研究したという例をぼくは寡聞にして知らないのだが(広松渉を除いて)、ここには恐るべき暗示が含まれていた。それは「科学がつくった“意味”はどこからあらわれるのか」という問題をめぐる。フッサールの本をとりあげるときに、このことについては一言ふれるつもりである。

フッサール site:1000ya.isis.ne.jp - Google 検索で千夜千冊を検索すると24夜がヒットするが、まだ、フッサールの著作の夜は見当たらない。ただ、これらの夜を渉猟すれば、フッサールが20世紀の哲学の出発点になっているようにも思える。モーリス・メルロ=ポンティ、マルティン・ハイデガー、ヘルマン・ワイル、ジャン・ポール・サルトル、九鬼周造、ハンナ・アレント・・・。フッサールの著作としては、「デカルト的省察」と遺稿の「後期フッサール」が、モーリス・メルロ=ポンティの「知覚の現象学」の夜に言及されているぐらいだ。後期フッサールは、木田先生が「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の翻訳(中央公論社、1974年)を細谷恒夫先生の後を継いで完成されている。中公文庫版は1995年に刊行されている。

images/2017/03/CIMG5802m.JPG「デカルト的省察」と「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」

ちなみに、上記「フッサール」の検索結果の二番目に157夜『マッハ力学』エルンスト・マッハ|松岡正剛の千夜千冊がヒットしている。松岡正剛先生がどれほどマッハを評価していたかは、次の箇所でよくわかる。

けれども、マッハはあきらかに力学に関するニュートン以来の革命家であって、アインシュタインの先駆者であり、またゲシュタルト心理学の最大の冒険者であって、科学と思想と経済を初めて結びつけた最初の計画者であった。

このようなマッハに惹かれてやまなかったぼくは、一念発起、なんとかマッハを蘇らせたくて、「遊」に「マッハ復活」の特集を組んだ。1972年のこと、「遊」2号、執筆者には広松渉さんを選んだ。

一方、木田先生の「マッハとニーチェ」は「大航海」に1998〜2001年にかけて連載され、新書館から2002年に刊行されている。

images/2017/03/CIMG5776r1m.JPGマッハとニーチェ

フッサールとマッハの関係については第八回「マッハの現象学の系譜」に詳しい。フッサールの各著作におけるマッハからの影響と「思考経済説批判」に言及され、批判は「純粋性への志向」の帰結であろうが、最後にフッサールは<純粋論理学>から、後期においては<生活世界>への還帰を企てるとされている。これとウィトゲンシュタインの前期・後期の変化や<純粋経済学>の<厚生経済学>へのシフトなどとの近似性について指摘するにとどめるとされている。

ドイッチュ先生の「Constructor Theory」のリファレンスの最初にある二つの本の著者、Julian Barbourは「THE DEFINITION OF MACH'S PRINCIPLE」という論文を2010年に書いている。その要旨を訳すと次のようになる。

要旨. マッハの原理の2つの定義が提案される。両方は、ゲージ理論に関連し、位置、時間、および大きさの関係の性質を考慮する因果関係の明確な表現の範囲と量において普遍的である。それらのうちの1つは一般相対性を直接導き、重力量子理論を構築する問題への関連性を持つことができる。

The definition of Mach's Principle, Found. Phys., 40, 1263-1284 (2010). (arXiv:1007.3368)

マッハの影響は現在にまで及んでいる。

更新: 2017-03-17T21:32:19+09:00

シリコンバレー101 (697) クロネコも耐えられないネット通販、米国ではどのように対処しているか | マイナビニュースネタ。

Amazonの宅配が問題になった。顧客から見れば最高だが、顧客から見ても、そこまでしなくてもと思う、無駄と感じられることがある配達のシステムだった。問題は二つあった。

一つ目は、注文を分けてすると、同日の注文でもそれぞれが別の配達になってしまう。二つ目、それが大きな箱に小さな文庫本が一冊と言う場合があること。

それが先日は、同日の別の三冊の書籍注文が、一つの配達にまとめられ、しかも簡易の小さな包装で届けられた。既に改善が進められているようだ。もっとも二冊の同時の注文が別々に届けられる場合も経験した。それは出荷の速さの合理性が優先されたのだろう。結局は何を優先するのが合理的なのか、ということだと思う。

さて、プライムが米国では99ドルとか。日本はだいぶ安く3,900円。それは配達距離が短いからだろう。最近、アンケートがあったが、値上げは困る。無駄に速く届かなくてもよいと思う。一日の注文分はまとめて配達でもいいのじゃないか。物が滞留すると、倉庫を大きくする必要があるかもしれないが。

3/6/2017 (Mon.)

2億8000万円のブガッティ・シロン、500台限定生産のうち既に250台のオーダーを獲得 - 海外ニュース | AUTOCAR JAPANネタ。

1500馬力、8.0リットル、W型16気筒、クワッド・ターボ、420km/時。詳しくは、28分の動画がある1500馬力 最高420km/h 価格3億円!ブガッティ 新型 シロン 試乗動画 - 車好きの勝手な妄想/新型車最新情報&動画を参照。

P氏のTwitterの影響でついつい本を買い過ぎてしまうのだが、そんなの雀の涙の話だと思わせる。富の偏在もここに極まれりという感じの車だね。年に何台生産するのだか知らないけど・・・

S氏によれば、現存する画家で最も高価な絵を描いているのは、例のゲルハルト・リヒター。参照しているのは、ゲルハルト・リヒター氏の抽象画が約26億9千万円で落札!生存する画家の作品としては史上最高額! | ADBの記事だろう。2012年の記事なので、今はどうか知らないが・・・

S氏が最も好きな画家は、ジャクソン・ポロックだそうで、早く亡くなったが、現存しない画家も含めて考えれば、もっと高額な価格が付けられる。Jackson Pollock - Wikipediaを参照。

モノの金銭的価値なんていい加減なものだ。シロンは限定500台だが、絵は基本的に一枚しかない。さて、複製技術時代にどう考えるかという問題はある。3Dプリンティングなどを使う美術印刷を用いれば寸分たがわぬ模写ができあがる可能性はある。車の方に価値があるかもしれない。

IT技術で巨匠のスタイルを分析し、レンブラントの偽物を3Dプリントする | TechCrunch Japanが3D美術プリンティングの元ネタだったと思う。

更新: 2017-03-09T19:06:06+09:00

木田先生の「マッハとニーチェ」にはマッハがウィトゲンシュタインに与えた影響について書かれている。「ウィトゲンシュタインの火かき棒」には、マッハという名前は一度だけ出てくる。

ホーフブルク宮をいただく都市の壁のうちがわで、帝国の支配的な形式主義や過去の遺産の精神からとおくはなれて、ウイーンは変貌をとげていった。そのときここは、不確実で変動する自己という理論をとなえたエルンスト・マッハの都市であった。・・・

(「ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎」152ページ)

ここで、マッハを読んだとき、木田先生の「マッハとニーチェ」を読まなくっちゃと思ったわけ。そうすると、ウィトゲンシュタインもきちんとあった。

ウィトゲンシュタインがマッハを思い出すのも、この復帰(一九二九年、十五年ぶりにケンブリッジに戻り、哲学に復帰する)の直後である。一九二九年から三十年に書かれた手稿「哲学的考察」の冒頭部で、彼はこう書いている。

「現象学とは、物理学がみずからの理論を構築するための土台としている諸事実を記述する文法である。」(1・1節)

「和声学は少なくともその一部は現象学であり、したがって文法である。」(1・4節)

これを見て、N・F・ギール(「ウィトゲンシュタインと現象学」一九八一年)のようにそそっかしく、過渡期・後期ウィトゲンシュタインとフッサールの超越論的現象学の関係を論じはじめる研究者もいたが、ウィトゲンシュタインがここで考えているのはマッハの<現象学>らしい。それは、1・1節の最後で次のように言っていることからも裏付けられる。

「マッハが思考実験と呼ぶものはもとよりなんら実験ではない。それは結局は文法的考察である。」

ウィトゲンシュタインの後期思想において中心的役割を果たす<文法的考察>や、結局はその具体的遂行である<言語ゲーム理論>がマッハの<現象学>につながるものであることは明らかであろう。

(「マッハとニーチェ」219-220ページ)
更新: 2017-03-08T22:01:49+09:00
3/5/2017 (Sun.)

ポストモダンを追いかけてきたが、20世紀後半に起きたことだけではとても説明ができない。その根源はどこにあるのだろうか。ポパーとウィトゲンシュタイン、ウィーン学団・論理実証主義と言うキーワードが登場してきた。もちろん、それをまずは紐解いていく必要もあるのだが、前から気になっていた著作も土俵に上げておこう。木田元先生の著作で、先生が亡くなられてから入手した、僕としては最も新しい著作である。新書館から2002年に刊行されていたものが、2014年に講談社学術文庫に収録されたのだ。

最近の認識では、最早、20世紀後半のポストモダン流行を説明するなどということよりも、もっと深い根本的な流れがここにはありそうだ。目次をリストアップしておこう。


土日と旅行に出かけた道中、日経の土曜版と日曜版、「NIKKEI The STYLE」をチェックした。

images/2017/03/CIMG5775r1m.JPG日経、3月4日新土曜版(44面、下)、3月5日新日曜版(32面、上)

残念ながら、まだ、良さがわからない。土曜版を2月25日と比較しても、あまり変わらないようにも思える。実際、記事の体裁や量の多寡だけで新聞の価値が決まるわけではない。内容が重要だ。

今週は継続して、各曜日を含めてウオッチしてみようか・・・平日の紙面も変わるはずだし、各曜日に分散していくものもある。

平日はグローバルな視点から今を読み解く「オピニオン」面を毎日掲載します。本紙の中核記者が書き下ろす大型コラム「Deep Insight」がスタート。英フィナンシャル・タイムズ紙や英エコノミスト誌の翻訳記事も読めます。

火〜金曜には「金融経済」面を新設します。激動する国内外の金融に関するニュースをいち早くお伝えします。

「NIKKEIプラス1」も全面刷新します。人気特集の「何でもランキング」を2ページに増やすとともに、楽しく賢い生活に役立つ実用情報や新製品情報も拡充します。

(日経からのお知らせ:日本経済新聞 - 3月4日 日経が変わる 2017年2月17日)
更新: 2017-03-08T20:14:37+09:00
3/2/2017 (Thu.)

今朝は7℃、雲が低く垂れ込め、山の重なりを霧が切れ切れに渡っていた。世界は微細な水滴に満ちていた。昼ぐらいからポツポツと雨が落ちはじめ、帰る頃まで雨が強く降っていた。外気温はやはり7℃。帰宅するまでに6℃まで下がった。「ウィトゲンシュタインの火かき棒」を読み終えた。第七章から第十七章まではポパーとウィトゲンシュタインの並行する伝記のようなものだ。ここは大変良く書けていて、大変な時代を二人が生きていたことが実によくにわかる。時代の様子が二人を通じて明らかになるのである。その後の「火かき棒事件」は今一つの感じ。第一章から第六章に書いてあったことを忘れるのに伝記部分が十分に長く、感動的だったから、最早、緊迫感が失われている。

何が問題なのか、『あのできごとは「ふりかえると、二十世紀の哲学の分水嶺を予兆する象徴的な事件だった」とある』(24ページ)というピーター・ミュンツ教授の証言が期待させるほどの意味がどこにあるのだろう、それを読みとりたい。

ポパーからみて現実の問題は、わたしたちがどう支配されるか、社会がどう構成されるかである。これは帰納法や無限概念におとらず、哲学者がとりくむにふさわしい問題だろう。じっさい、それがかつてないほどさしせまった問題になっていたのはあきらかである。ポパーがウィトゲンシュタインを嫌った理由のひとつはそこにある。現実世界の焦点課題、すくなくとも哲学者が役にたち、とくべつな貢献ができるはずのテーマにウィトゲンシュタインは関心をもたないようにみえた。そのことに、ポパーは軽蔑の念をいだいたのである。

(353-354ページ)

そして、ポパーは近年(1997年ぐらいから)、ドイッチュ先生に発掘されたが、最近は話題にはならなかった。すくなくとも日本では。ウィトゲンシュタインに関してはいまだに新刊が相次いでいる。ただ、ウィトゲンシュタインの生前に出版されたものはほんのわずかしかない。よく知られているものは「論理哲学論考」のみである。ウィトゲンシュタイン自身の論考として最近新たに出版されているのは講義録だ。哲学探究は原稿が残っていたのかもしれないが。調べてみると、「哲学探究」の原著者による序文は、1945年にケンブリッジで書かれていた。そして、ウィトゲンシュタインの死後、1953年に刊行されている。火かき棒事件は1946年に起こった。

本書の原著は2001年に出版、2003年に翻訳が筑摩書房より刊行、2016年にちくま学芸文庫に入った。実は、この「ポパーとウィトゲンシュタイン」の火かき棒事件については、1981年にドミニック・ルクール(Dominique Lecourt)が「秩序とゲーム - 問われている論理実証主義」(L'ordre et les jeux - Le positivisme logique en question)という本を書いていて、翻訳は1992年に国文社から刊行されている。「ポパーとウィトゲンシュタイン - ウィーン学団・論理実証主義再考」という邦訳が付いている。こちらのほうが哲学についてはかなり詳しい。こちらも読んでみよう。「ウィトゲンシュタインの火かき棒」は文学的に過ぎる。

images/2017/03/CIMG5725r1m.JPGドミニック・ルクール著「ポパーとウィトゲンシュタイン - ウィーン学団・論理実証主義再考」(国文社、1992年)

更新: 2017-03-03T21:40:50+09:00
3/1/2017 (Wed.)

さて、3月に入った。昨日の朝は3℃、帰りは11℃。今日も同じだが、昨日は帰りは快晴だったが、今日は曇り。pokerの意味は「火掻き」のことだった。150ページぐらいまで読んだ。

20世紀前半の歴史が、その重要性が生き生きと見通せてきた。激動の時代だったが、凄い人たちが活躍した時代だった。

章立てを書いておこう。

現在、第九章を読んでいるところ。

ちょっとしたメモを残しておく。第七章の「ウィーンという都市」がとってもおもしろい。ウィトゲンシュタインやポパーが同時に住んでいた時代のウィーンを描き出している。

・・・じっさい、ウィーンをぐるっとかこむリンクシュトラーゼ通りのうちがわで、いつどこにいけばどの有名人にあえるかは、誰でも知っていた。そこはコーヒーハウスの世界、常連たちのつどう、ひとつのテーブルのような世界だったのである。・・・

・・・カフェ・ツェントラルでは詩人のペーター・アルテンベルクにも会えるだろう。友人と連絡するため、れいによってつぎからつぎへと郵便はがきを書いているかもしれない。また、ゲーデルたち数学者は、白いテーブルクロスをかけたコーヒーハウスにいるだろう。このクロスに方程式をかきなぐるのである。

(120-121ページ)

バラ色のウイーンが第九章では深刻なものとなっていく。

1938年にオーストリアはドイツに併合される。1940年にはポパーは既にニュージーランドに亡命していた。第十二章に到達。ウィトゲンシュタインはベルリンにいた。ウィトゲンシュタイン家はニュルンベルク法の下で長い交渉の結果、ドイツ人と認められた。ルキ坊やとはルートヴィヒのことである。

第十三章に到達したが、今日のところはここらへんにしておこう。ビル・エヴァンスの「What Are You Doing the Rest of Your Life?」から「I Hear a Rhapsody」に曲が変った。音楽を聴きながら本を読むのが一番・・・

更新: 2017-03-01T22:22:23+09:00
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