1672夜『心の先史時代』スティーヴン・ミズン|松岡正剛の千夜千冊ネタ。今、読みたい本の一冊だが・・・
著者名の「Steven Mithen」でいろいろ調べてみると、音楽的プロト言語(musical protolanguage)仮説というものがある。元々、ダーウィンが考えていたものを発展させてきたらしい。言語の発生に関わっているとされる。
現代まで継承されている音楽との関係はどう考えるんだろうとか、素人衆としては興味津々ではある。
これまで本日記で取り上げてきたTattersall先生や岡ノ谷先生との関係なども気になる。そのうち何かつながってくるかも。「musical protolanguage」に関連した部分では岡ノ谷先生と同業なのだろう。
ポストモダンのルーツはどうもマッハにありそうだというのが結論になりそうな気配なのだが、まだマッハの著作そのものを読んでみたわけでもないので、著書に当ろうと思っている。松岡正剛先生が、157夜『マッハ力学』エルンスト・マッハ|松岡正剛の千夜千冊で「マッハはあきらかに力学に関するニュートン以来の革命家であって、アインシュタインの先駆者であり、またゲシュタルト心理学の最大の冒険者であって、科学と思想と経済を初めて結びつけた最初の計画者であった」とされているのが決め手かもしれない。ここでは、ポストモダンはともかく、ポストモダンを生んだ、もっと根源的なもの、「意識」とは何かを追い掛けよう。いずれ、人工知能を考える場合に必要になる。
「意識する心」(1996)と「マインド・クエスト」(2004)
意識する心 - 精神物理理論 (2006/01/26)。「マインド・クエスト 意識のミステリー」は西区民図書館で見掛けておもしろいと購入したもの。Dan Lloyd先生は芸術家タイプ。Dan Lloyd。
脳科学の進展に伴って、デカルトの心身二元論は否定されつつあるように思われる(心身問題 - Wikipedia)が、あらゆる理論を批判的に検討した結果、デイヴィッド・チャーマーズは自然主義的二元論を唱えている。物理理論は物理過程の理論を与え、精神物理理論はわれわれに、そうした過程がいかに経験を生じさせるかを教えてくれるというわけだ。「意識を説明するには物理理論の特色と法則では間に合わない。意識の理論には、新たな根本特性と法則が必要である」(168ページ)。具体的な精神物理理論があるわけではないが、唯物論的な一元論では意識の理論は作れないという立場である。
それから20年以上が経過したが、精神物理理論はまだ見つかっていない。唯物論的機械はその知能を増すばかりで、2045年ぐらいにはSingulality、技術的特異点を超えると言われている。技術的特異点 - Wikipediaを参照。機械自らが進化を始める点である。
「マインド・クエスト」(Radiant cool: A Novel Theory of Consciousness)の著者、Dan Lloyd先生は才人で、本書の第一部は小説仕立てになっている。こちらのほうは別の機会に回すとして、Outsourcing the Mind by Dan Lloyd | American Scientist(July-August 2009, Volume: 97 Number: 4)を取り上げる。書評なのだが、最初の部分が見事にデカルトを現代に蘇らせている。最初のパラグラフを翻訳すると。
Sum res cogitans. 「我は思惟する物質なり(I am thinking substance.)」 1640年ぐらいに書かれた、これらの言葉で、ルネ・デカルトは同時に近代の心を創造し、それに巨大な哲学的頭痛を与えた。デカルト二元論は心と物質の間に深淵を開いたのだ。これは機械論的物理学には良いニュースだった。しかし、「思惟する物質」はそれによって自然から追放された。そうして、それ以来、心理学は働いて、「心」を科学的な折りたたみ構造に蘇らそうとした。認知神経科学の興隆でその努力は頂点に達した。現代のデカルトはおそらく「私はシナプス性の物質である」というだろう、さもなければ、より正確に言うならば、「私はニューラル・ネットワークを経て伝えられる情報である」と。 Sum cerebrum.(我は大脳なり)
マインド・クエストについて少し書いておくと、日本語版の序文が最初にあって、村上春樹の「スプートニクの恋人」を枕においた見事な自著の紹介文となっている。これを読んだだけで、面白いに違いないと購入を決めたのだった。第1部は「現象学のスリル」という小説である。なぜ小説かというとそれにはそれで合理的な理屈がある。第2部は「本物の蛍 - 意識の科学についての考察」となっている。「本物の蛍」のタイトルを見て、茂木健一郎著「脳と仮想」にも出てくる小林秀雄「感想」の最初にあるおっかさんの蛍の話を連想してしまう。「Radiant cool」の原題は、蛍の放つ冷光を意味しているのではと思った。「A Novel Theory of Consiousness」という副題は、「意識の新規な理論」と読めるし「小説 意識の理論」とも読める。遊び心満載。取りあえず、そんなところで・・・
帰宅時、外気温16℃。山々では黄緑が緑に遷移しようとしている。少し気温が低い。人工知能でグーグルが挑む「3つの課題」──AI部門トップに就任した天才エンジニアが語ったこと|WIRED.jpを見ていて、グーグルの天才AI研究者、ニューラルネットワークを超える「カプセルネットワーク」を発表|WIRED.jpを思い出したりしていた。二人の天才、ジェフ・ディーン(Jeff Dean)とジェフ・ヒントン(Jeoff Hinton)は当然、要注目だけど、GoogleにはDemis Hassabis氏のDeepMindもある。
かなりのレベルまで来ているのも事実なのだろうねえ。チェス、碁や将棋などのゲームでは人間は勝てなくなった。原理的には少なくともゲームの閉じられた世界では人間は勝てないだろう。そこで止まっていては、人工知能も現実的に役に立たないわけだが。
さて・・・・・、世界をどう捉えるのかという話になるわけだが、トダヤマ哲学入門も「意味」で行き止まりという感がないわけでもない。その先を読んでもそんなに議論が深まらないからだ。意味を科学で捉えるのは難しい。ましてや、哲学で意味を捉えるのもむずかしい。
ニーチェの元は自然科学なんですよと言われても、哲学茶会の帰りにY氏と「そうは言ってもニーチェのどこがサイエンスなんだろうねえ」と丸善に上がるエスカレータで話した。そんなことに答えてくれる人工知能があるかな・・・
それはともかく、ニーチェの哲学を要約せよという問いに答えるとすると、何をしなくてはならないか。著作を調べて、そこから要約を抽出する。これは難易度が高いかな。厳密に言えば、全著作を引用する以外に方法はないかもしれない。何字以内に要約せよと言われれば、内容的な類似部分を一つにすることはできるかもしれない。しかし、それがニーチェの哲学の特徴かどうかを判断するにはどのような操作が必要だろう。こうして考えていくとニーチェだけの著作を調べるだけでは足りなくなる。そうして全世界を調べる必要があるかもしれない。Wikipediaを参照して答えるというのは笑い話としてあり得るが・・・人間だっていつもそうしてるかも。
そこで、知識を持つ人工知能というのを考える。知識を持っていれば適切にこたえられるかもしれない。想定問答集があって、それに基づいて答えられれば簡単だ。人間でもそういったことをやっている。しかし、そういう方法では限定的な領域にしか適用できない。あらゆるケースを想定することは不可能だ。
そういうことで、知能の特徴の一つは臨機応変(resourcefulness)であることというのがマービン・ミンスキー先生の教えるところ。さて、人工知能はどこまで進むだろう。
Publications | DeepMindの最新論文「[1803.08884] Inequity aversion resolves intertemporal social dilemmas」を参照すれば、現実的社会現象さえ、一種のゲームとして捉えることができる可能性があることがわかるかもしれない。もっとも、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの「ゲーム理論と経済的行動」は、1944年に出版されている。しかし、Inequity aversion - Wikipediaの日本語版どころか、情報がないのは少し寂しい。既に世界は進んでいる。最近、そう思うことが多すぎる気がする。日本人は体系的思考に弱い。モデルベースの思考は、馴染みにくい方向性かもしれない。
(追記) 不平等嫌悪 - 脳科学辞典が見つかった。「不公平嫌悪」で検索して見つけた。英語では、inequality aversionとしている。inequityとinequalityには、Inequality vs. inequity - Grammaristにあるような違いがある。ちなみに「互恵(相互依存)」はreciprocity。
昨日、13:00から、茶論記憶にて。戸田山和久著「哲学入門」を紹介いただいたE先生も続けて参加いただき、N先生は哲学茶会は初めてかも。Sさん、主催W氏、常連のYSJで、計7名の盛況。
最初に、E先生から「自由意志とは何か」、「ロックがどういう状況に置かれているか」がポイントとの指摘。ネタバレは書かないけれど、ジョン・ロックの「人間知性論」、岩波文庫第二巻にあるお話がネタになっている。眠る男はジョン・ロックその人である。E先生は原書を持ってこられて元ネタの説明をされた。元ネタと問題52は状況も結果もまったく違っているといってもよい。元ネタでは男が眠るというわけでもなさそうだという意味で。
意志の反対が必然という話をE先生が少しされたのだが、今日考えていて、ようやく意味が分かった。必然的に生起することについては人間の意志が必要ないという意味らしい。その時の話にあったが、例えば、反射的行動には自由意志は必要ないということ。
ショーペンハウアーは意志の力で目の前に世界が立ち現れる?と考えたらしい。ニーチェの「力への意志」の意志もそういう意味に近い。意志の力が自由につながる。世界は力と力のぶつかり合いから生まれる。このような考え方をもたらしたのは自然科学(進化論らしい)という話だった。この話は前回も話題になったのだが、もう一度、よく調べてみる必要があるだろう。
前回は、木田元先生の「マッハとニーチェ」を引っ張り出して、ニーチェとは何かという点について見直したが、まだまだピンと来ていない・・・少しずつ前に進もう。
「マッハとニーチェ」には、第十二回 <力への意志> - ニーチェの哲学I、第十三回 <力への意志> - ニーチェの哲学IIの章がある。
ここまでの議論は、そんなことはわかったうえでの順序だてた話の展開なんだと、トダヤマ先生に言われそうだが、そこで妥協していては議論にならないので、思いつくままに続けよう。次は、まず表象を「本来の機能」という概念に注目して表象間違いを分析するという段階を経る(80ページ)。
この方法はルース・ミリカンという哲学者によるものだが、三段階で進める。トダヤマ先生は賛同されている。
次の段階は、「本来の機能」を因果関係に還元(自然化)する(83ページ)。最後に「本来の機能の自然化」を「意味の自然化」にあてはめる(88ページ)。先に言っておくと、上記のWikipediaに書いてあることだが、ミリカン先生は生物学的意味論(Biosemantics)という論文を1989年に書いたことで有名である。ミリカンの考え方から得られる「本来の機能」の定義は次のようになる。
Sが持つアイテムAがBという本来の機能をもつ ⇔ SにAが存在しているのは、Sの先祖においてAがBという効果を果たしたことが、生存上の有利さを先祖たちにもたらしてきたことの結果である(86ページ)
これは起源論的定義と呼ばれる。進化論の自然選択説を「本来の機能」の定義に持ってきた。ここで、後半の議論が、『生存の目的をもつロボットだけが「意味」を理解する』(64ページ)という第1章「意味」の前半の結論と響き合う。
ただ、常識的に考えて、生物学的意味論だけですべての意味論を包括することには無理があるように感じる。生物学的意味論(目的論的意味論)は、機械学習においては強化学習として取り込まれていると考えられる。ミリカン先生の日本のウィキペディアの「主要な見解」の項を読むと「生物(学)的意味論」という言葉は誤解を招いているのかもしれない。生物学的意味論は、志向性についての理論であり、意味の対象について本質が何に存するのか、根拠を与えようとするわけだが、さらに志向性を構成する根拠を探求する。
さて、そんなところで第1章「意味」は終わっておこう。第2章「機能」、第3章「情報」、第4章「表象」、第5章「目的」、第6章「自由」、第7章「道徳」、「人生の意味 - むすびにかえて」と、まだ先は長い。先走っても後で議論されている可能性が高い。そして、言葉で書かれたものは曖昧だ。多面的に繰り返し学習しないと意味が定まらない。読者が用語から連想する意味と著者が意図している意味はかなり異なる場合がある。
これは「意味を自然化する」(75ページ)方法としての因果意味論の困難性の最初の問題、「選言問題」とも呼ばれる。しかし、該当箇所を読みながら問題の立て方が恣意的と感じてしまう。
ネコがネズミを見て、ネズミの表象を得るが、そのネコはモグラを見ても、ネズミの表象を得る。
表象XがAを意味している ⇔ Aが、そしてAだけがXを生み出す要因である
因果意味論は、このネコがモグラを見て、ネズミの表象を得るのが間違いということにならない。意味論として不完全だという議論だ。
問題が恣意的というのは、なぜ、そのネコはモグラを見ても、ネズミの表象を得るのかということが説明されていないからだ。単にそうだと言っているに過ぎない。これは科学的でない。
モグラを見れば、モグラの表象を得るはずなのに、そうではないことを前提として因果意味論は困難であるということを議論している。
そのネコが見間違えたモグラはよほどネズミに似ているのだろう。だから見間違えた。見間違えるのは正しい。従って、因果意味論は次のように定式化される。
表象XがAを意味している ⇔ A及びAに似たものが、そしてA及びAに似たものだけがXを生み出す要因である
こういう風に考えてくると、おそらく、こういった議論も不正確で、表象Xとは具体的にどういうものかにまで踏み込んで考える必要があることがわかる。したがって、どう説明するかは別にして、因果意味論が困難性を持っているという結論そのものは正しいだろう。
厳密には表象間違いをしているわけではなくて、ある揺らぎを持って認知しているだけなのだと思う。意味には揺らぎがあるという説明の方が理解しやすい。これについては、77ページに『「意味する」という概念は、正解と間違いの区別をしている。これを指して、哲学者は「意味する」は規範的だと言う』と説明されている。「意味には揺らぎがある」という概念は哲学者には受け入れられないのかもしれない。
これは表象には揺らぎがあるということでもあるわけだ。モグラをそのネコがじっくり観察すれば、ネズミでないと気づく可能性はあるだろう。ネズミを意味する表象としての要件にはどんなものがあるのかという話になる。実際にはそんなものをいちいち認知システムは明確に定義していない。経験的な記憶の蓄積に基づいて、類似しているかどうかを判断しているだけだろう。
この問題は、因果意味論のもう一つの困難、「ターゲット固定問題」(78ページ)に通じている。ここでは因果の連鎖を問題にしており、表象はネズミやモグラを知覚するという原因から生まれるのは当然で、因果の連鎖をビッグバンにまで拡張して議論するのは無意味だし、少しおかしい感じがする。表象は言わば一種の心像であり、記憶に蓄積されている像と比較されるはずだ。ここまでくると、因果意味論自体の定義が問題になってくる。ターゲットは記憶に固定される。しかも記憶は変化していく。昔、ビジネスの目標が状況によって変化することをムービング・ターゲットという言葉で表現する人がいた。経験によって表象は変化していくのだ。表象とは物の見方である。
先走っているが、これが結局、目的論的意味論につながってくるのかもしれない。つづく・・・
本日帰宅時気温20℃。真っ暗な中を帰宅。Abema TVの音声を聴きながら。羽生竜王、佐藤名人に敗戦。1勝1敗。
BOSCH シーズン4、エピソード10を視聴。終わった。期待通り、よかった。次は何かと・・・一つ目の候補。五つ星、「TRUE DETECTIVE」(HBO、2014-2015)。殺伐系、暗い。次の候補、五つ星、「THE NEWSROOM」(HBO、2012-2014)。激論、激論、激論・・・・・。見続けている・・・見てみるか・・・
いや、「TRUE DETECTIVE」のシーズン1は、プライムタイム・エミー賞やゴールデングローブ賞の多数の部門で受賞して評価が高い。暗いけど、人間や物語に深みがある。真に哲学的。シーズンごとに場所も主人公も変わっていくようだが、シーズン3も予定されている。見ることにしょう。
最近、Rebuild.fm(Rebuild: 205: Going Postal (N))で紹介されたTuring Complete FMをずっと聴いている。OSやコンパイラを作る話でプログラミングの話のなかでもかなりマニアック。だが、おもしろい。浮世の憂さを忘れて聞き惚れる。自然と癒される。
Goの言語仕様は流行を追い掛けないというような話があった。Goという言語はCに近いシンタックスをもっているらしいが、Cの欠点をさりげなく消しているらしい。分散OSのPlan 9の影響もうけているのだそうだ。AT&Tベル研究所の有名な人たちやOSの名前が懐かしい。デニス・リッチー - Wikipediaは故人だが、ケン・トンプソン - Wikipediaと共にUNIXとCプログラミング言語の創始者として知られている。
ロブ・パイクとブライアン・カーニハンの著書二冊
Plan 9はロブ・パイク - Wikipediaとケン・トンプソン。ブライアン・カーニハン - Wikipediaによれば、カーニハンは「プログラミング言語Go」の著者でもある。
いろいろ話を聴いていると、自分も何か作りたいと思い始める。最近、書いているのはデータの整形処理ぐらい。ディスプレイに表示された文字列をテキストデータとしてエディタにコピペ、Perlスクリプトのデータとして組み込み、エディタのコマンドラインで実行、ツールに入力するデータに変換して取り出す。エディタでいちいちデータを整形するよりは速くスクリプトが書けるというお話。リアルタイム・コーディングの世界。
さて、そろそろ、Perl 6のパターンマッチで何か新しい感覚でテキスト処理ができないか調べるかな。意欲が湧いてきた。
山の緑が少しずつ深くなってくる。まだまだ白っぽい緑から黄緑に変わりつつあるだけだが、季節の移り変わりを感じさせるには十分だ。今日は予想通り晴れた。帰宅すると丁寧に包装した本が届いていた。
ジル・ドゥルーズ/アンドレ・クレソン著、合田正人訳・解説「ヒューム」(ちくま学芸文庫、2000年)
この本は古本だが、定価900円+税よりは、送料込みで少し安く手に入った。なぜかよくわからないが、稀覯本らしく、文庫本であるにも関わらず、高いものは18,900円の値が付いている。新品も1万円台の価格で1冊上がっている。読者はヒュームよりはドゥルーズに関心があるのかもしれない。
ヒュームが生きた18世紀は古過ぎるという感覚でいたのだが、ルネサンスやデカルトの時代を考えるとむしろ新しいとも言える。ヒュームで思い出すのは、「ミシェル・フーコーが言うようなことは既にヒュームが言っていた」というチョムスキー先生の言である。正確には、On "theory" and "post-modern cults"を参照。これも気になっているということもある。どうヒュームを読むべきかということはあるのだが、ヒュームそのものが、どの程度おもしろいものなのかをまずは確認しようというつもりで、この書を選んだ。この書にはヒューム抜粋集も含まれている。
もう10年以上前にヒュームと出会いかけたのに、深める機会がなかった。さて、ドゥルーズと一緒に一石二鳥とうまくいくかな。人工知能も引っ掛けて、一石三鳥としたいところだが・・・
今朝は雲が低く垂れ込めて、今にも雨が降りそうだった。帰宅時にはぽつりぽつりと雨が降り始めたが、広島の旧市内に入るとほぼ止んでしまった。明日は晴れるらしい。もっと雨が降れば、黄砂で汚れた車がきれいになるはずだったのに・・・哲学者がベイジアンネットワークに関心を持つのは、ヒュームへの関心があるからかもしれない。
そのお蔭で、Bayesian Deep Learningなるものの存在を知ることになった。Bayesian Deep Learning Workshop | NIPS 2017が2016年、昨年と開かれている。知覚力を持つNeural Network(Deep Learning)と因果的・論理的推論力を持つ確率的グラフィカルモデル(PGM)を結びつけることは現実世界を把握する方法として自然な選択になるということらしい。
トダヤマ哲学入門も65ページの後半の課題以降は安易に駒を進めるのが難しくなっている。その中で、思考の言語仮説などの前提条件はともかく、まず因果意味論が出てくる。さらにそれでは不十分で、そのこと自体もよく理解する必要があるので止まっているのだが、次は目的論的意味論が登場する。ここらは肝になるのでもう少し滞留していろいろと思いに耽ろう。
さて、トダヤマ哲学入門を読む (3) (03/20/2018)の続きをと思うけど、頭のなかが別の状態に置き換えられている。カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」、「充たされざる者」と「遠い山なみの光」が通り過ぎて、「日の名残り」も読み掛け、プロローグの最後のほうに到達している。もっとも他の多様で大量の情報も通り過ぎているわけだが・・・記憶を蘇らせるための日記というよりは、思考を蘇らせるための日記。様々な分岐を辿って展開してはいるが、底流ではつながっている。科学哲学とポストモダン。自然と芸術。二つの底流が輻輳しつつ流れている。
今では、それが具体的な表現形態としては人工知能とか、そう言う話題につながっている。時代が変るとはこういうことだったのか・・・
今日は、萬屋先生のヒューム 因果と自然 - 株式会社 勁草書房に端を発して、Donald A. Gillies - WikipediaからGillies, Donaldへ、ジューディア・パール - WikipediaからJUDEA PEARL - HOMEへと、廻っていた。
帰りの車の外気温表示、21℃。昨日は真っ暗な中を走って帰ったが、今日は家の灯りが点く前に帰着。仕事が一段落。日曜日に阿品台のレッスンの待ち時間にフジグランナタリーのTSUTAYAで「遠い山なみの光」と「日の名残り」を購入。本日、小野寺健訳「遠い山なみの光」(ハヤカワepi文庫、2001年; 原著: A PALE VIEW OF HILLS、1982年)を完読。261ページ、今日帰宅して、ほとんど苦も無く読み切った。
小野寺健氏の翻訳は、この小説が元々日本語で書かれたもののような切れ味というか、翻訳の持つ曖昧さのない鋭さを感じさせた。舞台のほとんどが日本であるということもあるが・・・
もう一度、物語を辿りなおしてみても、悦子がイギリスに渡った事情はほとんど書かれていない。この物語で作者が何を語りたかったのかは明白ではない。物語の主旋律の一つ、佐知子と万里子親子の運命も予感があるだけで終わる。悦子と義父の緒方さんと夫の二郎の物語も主旋律の一つだが、それが途切れて悦子はイギリスに渡ったらしい。そこでニキが生まれている。悦子とニキのやり取りももう一つの主旋律で、その三つが絡まり、物語が時空を超えて展開する仕組みだ。救いのユーモアは義父の緒方さんと悦子のやり取りにある。なかなか楽しい。
小説は説明するものではなく、感情を運ぶ乗り物なのだ。この小説もそれを感じさせる。これまで読んだ「忘れられた巨人」、「充たされざる者」、いずれも同じだと思う。終わり方も、カズオ・イシグロ美学だ。小野寺健氏の訳者あとがきのタイトルには、「カズオ・イシグロの薄明の世界」とあるが、ふさわしい表現だろう。真っ暗ではないが、暗い。明かりは射しているが、それほど助けにはならない。そんな感じ。
「遠い山なみの光」の翻訳は最初は筑摩書房から1984年に出版されている。1994年にちくま文庫に入り、2001年にハヤカワepi文庫に入った。この段階での訳者あとがきなので、既に「わたしたちが孤児だったころ」(原著、2000年)を訳者は読んでいる。
カズオ・イシグロの世界の本質は、第五作「わたしたちが孤児だったころ」(二〇〇〇)に到ってようやくはっきりしたように見える。一言でいえば、一見リアリズムの小説と思える第二作「浮世の画家」や、その前後のいくつかの短編をふくめ、けっきょく根底にあるのは世界を不条理と見る見方だということである。・・・
「わたしたちが孤児だったころ」は記憶と過去をめぐる冒険譚で、「充たされざる者」の次の作品だ。探偵小説らしいのだが、おもしろそうだね。後は「わたしを離さないで」と短編集の「夜想曲集」がある。結局、すべて読むことになりそうだ。
19ページの読書メモを残して、939ページを一気に読了。終わり頃は少し力尽きて、メモの密度が低くなった。終わりに行くほど新たな登場人物は少なくなるのは理の当然でもあるが。小説は終わり方・終わらせ方が難しい。本書も第III部が最高の出来栄えかと思う。
読んでいて、カフカを思い出す。「城」あたり。もう記憶は定かでないが。村上春樹も近い感じがするが、どちらかと言えばカフカの方が近い。事態は都合よく進行するかと思えば、うまくいかない。理解できたか、了解し合えたかと思えば、突き放される。それの繰り返し。その中にユーモアもあるし、ほっとするところもあるが・・・
人間は理解し合えるのかという本質的な問いを投げかけているとも言えるのだろう。
小説は「感情を運ぶ乗り物だ」とカズオ・イシグロ氏はどこかで言われたという記憶があるが、マービン・ミンスキー先生が書いたのが、「Emotion Machine」。人工知能も感情を取り扱えてこそ本物なのかもしれない。しかし、わかり合えるかどうかは定かでない。
一昨日、昨日(の朝は雨で霧が掛かっていたが、帰りには雨が上がり)、山々の木々がモコモコとその立体的な存在感を主張しはじめ、明るく色付いてきている。第I部を読み終えた。メモを取りながら読むのは読み進めるのに大変効果的だ。既にA4判のノート、6ページのメモが残っている。
登場人物がどのページに登場したかを記録することを基本に置いたメモだが、調べたこと、トピックや多少の思い付き、連想も残している。継続するためには机にまずノート開いておくことが重要。10章の終わり、270ページに到達。小説全体で939ページ、4部、38章の構成だ。ただ、目次があるわけではないから、何がどこで登場するのかはまったくわからない。物語の構造は読み進めながら作られていく。目次があったとしても、小説の場合、物語の構造がわかるとも言えないが。村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や「羊をめぐる冒険」には目次がある。
1章にもあった矛盾した記述。この街に来たばかりのような「わたし=ライダー」は過去この町にいてゾフィーと関係があると思われるのにグスタフに部外者としての立場を表明する。ゾフィーの父であるグスタフはそれを否定しない。
これらを説明することはむずかしい。強いて言えば並行世界の重なりの中に存在している感じ。小説の存在理由は説明することではないので、説明しても仕方がないか・・・
おもしろい仕掛けは一杯ある。それを愉しむのも一興である。ピアニストの話なので、音楽の話題には事欠かないが、現代音楽に通じている必要があるのかもしれない。音楽について知っているとより楽しめる。第I部には、グレベル、カザン、マレリー、ジャン=ルイ・ロシェの作曲家の名前が登場した。
これらの作曲家の名前を知らなくても大丈夫。おそらく、小説の世界の中にだけ存在している作曲家。
もう一つ楽しめたのは、映画を見るところ。映画館で上映されていたのは、例の人工知能「HAL」が出てくる「2001年宇宙の旅」(166ページから)。そして、思い浮かべたのは「ダーティー・ハリー」、「荒野の用心棒」、「荒野の七人」かな。
さて、第II部へ。
カズオ・イシグロ著、古賀林幸訳「充たされざる者」(ハヤカワ文庫、2007年; 単行本: 中央公論社、1997年)のIの1、9-35ページ。特に目次があるわけではない。第I部第1章が始まる前、最初に「ローナとナオミに」という献辞が置かれている。
「忘れられた巨人」でも気がついたのだが、登場人物の視点や出来事の時間が、同じ段落の中で変化する場合があって途惑う。今回も元に戻って何度も確かめた。28-31ページ。わたし(主人公)の視点で書かれていた文が、老ポーターのグスタフ(あるいは作者)の視点に変わっていく。「わたし」が知るはずのない老ポーターのことを知っているかのように記述される。作者なら知っていておかしくはないわけだが・・・
「忘れられた巨人」と「充たされざる者」
「忘れられた巨人」と同様に記憶上の問題が物語の中に浮上する。S氏によれば、これは「浮世の画家」、「わたしを離さないで」でもそうらしい。
さて、ようやく、Iの1は読み終えた。満足、満足・・・
QRコードをラベルに印刷して、ノートページの関連個所にデジタル情報を貼り付けるというアイデアは、デスクトップさえあれば、コスト的には、必要ならいくらでも実行可能だ。が、実際には、その必要性、必然性が問題になる。実行可能になってはじめて、その使い方を考えるということでもよいわけだが。
印刷の操作性については、インクジェットプリンタとラベル用紙の組み合わせは一枚一枚出力する場合は多少かったるいかもしれない。その場合は、スマホで活用! QRコードを印刷できるラベルプリンター - ケータイ Watchのように専用のラベルプリンタがある。一枚一枚出力するなら、大変便利だろう。コストの問題はあるが。利便性との天秤に掛けることになる。
さて、もっと新しい考え方が出てきている。ちょっと古い記事だが、市販のペンで手書きした“点”が認識タグになる技術 NECが開発 - ITmedia エンタープライズがおもしろい。昨年末のWemakeプロジェクト参加の説明会の資料やQ&Aを共有します! - Wemakeの説明会資料がある。ここでも当然のことだが、応用の必然性が問題になる。
やはりカメラと画像認識でタグを作るというアイデアはあり得るよねと思う。QRコードではデジタル情報のコード自体の生成と印刷(ラベルに印刷するなら貼り付け)という過程がどうしても必要だ。
Wemakeプロジェクトの手書き「点」をタグにする方法は、「点」をカメラで(拡大)撮影して、デジタル情報と関連付ける必要がある。
僕が必要としているのは、認識タグというよりは画像認識そのものかもしれないんだけど・・・ノートに手書きしたものの特徴を抽出して、その画像をデジタル情報と結び付ければよい。ノートページを撮影して、情報管理できれば十分なのかも。いや、ノートページから関連デジタル情報へアクセスするにはどうすればよいかという課題はある。まあ、ノートNo.とページNo.を入力すればアクセスできるという話もあるのだが・・・
実は、ノートの内容をググればOKという笑い話もある。それはともかく、日記記事とノートページを関連付けるには、日記記事に関連ノートページを特定できるような形式で記述しておけばよい。グッドアイデアだね^^)/~
2018.14 A Perl 6 IDEA | Weekly changes in and around Perl 6ネタ。It's the End of the World as We Know It, and I Feel Fine, Larry Wall - Studencki Festiwal Informatycznyを参照。
既存のプログラミング言語を葬り去る勢い。15年も苦労した甲斐があったということかな・・・ちょっと過激な感じがしないわけでもないが、本当にそうなら、素晴らしいことだ。早く、「プログラミングPerl 6」でその思想・哲学を語ってほしい。実感したい。
2018.14 Singularity Released | Weekly changes in and around Perl 6。一瞬、「すごい」と思った。
久しぶりだね。もともと、Perl 6はSimon Cozens氏のParrotのエイプリルフールから始まった。The Story Behind the Parrot Prank - O'Reilly Media。
土曜日、昼から出掛けた。本通りで広電を降りて、まず、平和記念公園に向かう。その後、ミュシャ展を見にひろしま美術館へ。展覧会を見た後、さらに広島城堀端の桜を見るために城北通りの地下道をくぐった。
平和記念公園お花見風景
元安橋から。
桜の木の下から覗いた原爆ドーム
川沿いを北上しつつ。
元安橋から公園に入って、元安川沿いに北上し相生橋、太田川へ、原爆ドーム前停留所の横の横断歩道を渡って、ひろしま美術館に向かう。
相生橋の北側、太田川両岸の桜を遠くに望む
相生橋は西広島、横川と紙屋町を結ぶ電車通り。この橋が爆心地として知られる。この右手に原爆ドーム前停留所がある。
ミュシャ展のチケット・展示作品リスト・記念絵葉書
お堀端南南西側から見た広島城
広島城のお堀周辺が整備されていてびっくり。お堀はこんなに広かったっけと。お堀周遊の船が出ている。30分のお時間をいただきますと。周辺は散歩コースに最適。もちろんお花見にも。みんな知らないのか、平和記念公園優先になるのかだろう。お堀端の桜の木の下は、土曜日にもかかわらず空いていて、贅沢、ゆったりとしたお花見場所になっていた。
お堀を一周して、RCCの前を通って白島通りに抜けて、女学院前のバス停から帰宅。
Microsoft Build 2018 Developer Conference。Rebuldで話が出たので、チェック。MS、開発者カンファレンス「Build 2018」を5月7日からシアトルで開催 - ZDNet Japan。
Google I/O 2018。hakさんのRebuild.fmが始まって、GDCの話題(Game Developers Conference | GDC | Home)が出たので、Google I/Oの日程を調べた。米国時間で、5/8-10。
エイプリル・フールに読み終えた。ブックカフェ 19 - 忘れられた巨人 (03/24/2018)の続き。ちょうど十夜一冊という感じ。
今回読んで思ったのは気を緩めて端折るとストーリーをキチンと捉えきれないということ。丁寧に読む必要がある。視点や時間が、連続したセンテンスの並びの中で変化するというか、予想を裏切る展開になるというか。何度も読み直す場面が多かった。
結局、謎は最後まで残る。エドウィンとは何なのか。ウィスタンとエドウィンは出会えるのか。小説って理屈で説明できてはダメってことかな。アクセルとベアトリスの運命は。